その後、東宮の寵妃を傷つけた罰で弘徽殿は女御返上の上、流刑となった。

 また、連座という形で弘徽殿の父である右大臣と兄李承は位が下がることとなった。

 後処理に翻弄した湊や柏陽、右近はようやく日常を取り戻し、今、杏子の家である飛香舎に来ていた。

 弘徽殿に関することでごたついて約束した日には行けなかったので、湊にとっては待ちに待った訪問だった。


 「今日は何しに来たのですか?お仕事は終わったのですか?」


 さらりと濡羽色の髪を揺らして、こちらを見てくる澄み渡った瞳。

 本人は隠しているつもりだが、漏れ出る警戒心。

 他の女と違って寵愛を欲すぎらぎらとした瞳ではなく、薄っぺらい笑みを貼り付けているわけでもない。

 そんなところも杏子の魅力だと思う。

 (杏子に見とれている場合じゃない......!今日こそ、言わねば)


 「杏子、先日はすまなかった。俺があのようなことを聞いたばかりに手を上げさせてしまって......」


 東宮の姿はそこになく、ただの一人の男の姿だった。


 「東宮⁉その、顔を上げて下さい.........!あ、でも、その......」


 下を見ているせいで杏子がどのような顔になっているのか分からないが、酷く狼狽しているのが声から分かる。

 だが、杏子は湊が謝ったぐらいで動揺する人物だっただろうか?

 軽い疑問を胸に抱きながら顔を上げて周囲を見渡すと、見慣れた者以外がいることに気づいた。

 男ならば武官になっていそうな女房に顔を扇で隠す女房。

 弘徽殿から連れてきた女房か?

 その考えはすぐに消えた。

 (この二人、女房を増やす前からいた。杏子が入内した時に連れてきた女房は卯紗子だけだった。ならこの二人は一体誰だ......?)


 「杏子」

 「は、はい......」


 名前を呼んだだけで目の前に座る杏子はびっくっと体が震えてた。

 軽い疑問が膨れ上がるのを感じる。


 「卯紗子以外の女房は一体誰なんだ?それと、そなたは本当に杏子か?」


 空気が揺れたのを肌で感じる。

 何か事情を知っているのか柏陽と右近は面白そうに見ていた。


 「どこで分かったのですか?」


 好奇心を含んだ杏子の声は扇で顔を隠した女房から聞こえた。


 「目の前にいる杏子の動揺と見知らない女房がいたことからだが......。まて。まさか......!」

 「そのまさかです」


 扇を閉じて現れたのはいたずらが成功したとばかりに満面の笑みを浮かばせる杏子だった。

 (まさか、入れ替わっていたのか......。なら、これまで俺があって来た目の前にいる女は誰なんだ?)

 楽しそうに喋っている杏子が二人。

 卯紗子は見守るように微笑み、武官女房は口元が緩くなっている。

 仲が良く、敵対心など皆無なのは見て明らかだ。


 「東宮、この方は淑景舎様ですよ」

 「兄である俺たちから見ても見分けは困難なのですよ。それにしても東宮が見分けるなんて正直思っていませんでしたよ」

 「兄上失礼ですよ。ですが、わたしも思っていました。東宮は杏子と出会っても気づく拍子が全く見られませんでしたので」

 「東宮、いえ湊様。お望みは何でしょう?」


 望み?

 そんなの決まっている。

 杏子を手に入れること

 だが何もできず、守れなかった今の湊には分不相応な望み。

 それに、一等たいせつなものを見間違えるという失態を犯している。


 「俺の望みは今叶えるものではない。杏子、改めてすまなかった。全ての物から守れるだけの力を手に入れたら、望を自分の手で叶えよう。杏子、今回の詫びに何かしよう。何を望む?」


 ここで素直に望むものを言わず、下がるのが貴族の暗黙の了解。

 だが、湊は杏子が下がるような者ではないことを長年の経験から知っていた。

 案の定


 「わたくしが望むのは二つあります」


 杏子は望みを言った。

 それも二つ。


 「一つはわたくしを外に出してください」

 「分かった。里帰りの許可と他国の滞在の許可をしよう」

 「もう一つは、今わたくし帝と勝負しているのです。内容としては東宮がわたくしと雪子様の交換を見破ったならば、わたくしは妃として後宮に居座ること。見破られなかったら、後宮から出て旅ができるというものだったのです。今、見破られましたが、それはなかったことにして、もう一度勝負しませんか?」

 「......分かった」


 好きな人に勝負を振っ帰られたら断ることなんてできない。


 「やったー!これで、これからも楽しく過ごせそう!」

 「良かったですね、杏子様」

 「......いつか君を手に入れるよ」


 喜んでいる杏子と卯紗子には湊の声は聞こえていなかった。

 杏子が後宮から出るのが先か。

 湊が杏子を手に入れるのが先か。

 秋の終わり、勝負は始まったばかりだった。