弘徽殿前の渡殿にて


 「どのようにして運びましょう?」


 玲子は一応聞いてきているが、運ぼうとしていた。

 なんとなく雰囲気で分かる。

 ようやくこの能面女房と意思疎通ができるようになった。



 「......わ......わた......し......は......」


 自分で歩くと言いたいのだろう。

 だが、杏子がその願いを聞くことはない。


 「だめです。あなたは足を怪我しているのですよ。これ以上悪くしてどうするのです⁉今、人を呼んだので」


 (気づいてくれると良いんだけど)

 杏子が飛ばした物は緊急用連絡手段。

 向かった先にいる人まで飛んでいく。

 そして、伝言した相手が飛ばすとこちらに戻って来る。


 「淑景舎様、どうしたのですか?」

 「......兄上、はあ......はあ...何か......あったの......はあ......ですか?」


 突然、柏陽と右近がこの場にやってきた。

 人手が欲しいと願った時に偶々現れた。

 もちろん、偶然ではない。

 だてに、柏陽の手には杏子が飛ばした飛行機があり、走って来たのか右近は肩で息をしていた。


 「ちょうど良い時に!柏陽様、右近様。こちらの方を淑景舎まで運んで下さいな」

 「は?」


 『おい。まさか、このためだけに呼んだのか?』

 そんな副音声が目から伝わる。

 もちろん、杏子は無視する。


 「早くしていただけると助かるのですか.......」


 杏子ではなく、雪子っぽくお願いする。

 中身は杏子だが、外は雪子。

 身分は低い更衣とはいえ、東宮の妃の一人。

 そんな方からのお願い。

 断ることは出来なかった。


 「.......分かりました」


 にこやかに柏陽は返事をしたが、額に青筋が出ていた。

 お説教確定演出。

 (しょうがないじゃない。頼めるのがお兄様しかいないんだから)

 後宮は異性と繋がることができる社交場。

 男は美しい女房を、女は麗しい殿方を。

 虎視眈々として狙ってる。

 そんな中に妻がいてそれなりに大きい子どもがいる男は入りづらい。

 当然ながら、屋敷にいる奥様方も入ることはできない。


 「ほら、兄上行きますよ。淑景舎はこちらであっているでしょうか?」


 兄と妹の静かな戦いに真ん中は慣れたように話を変えて、休戦させた。

 あたりに張り詰められた冷たい空気は一瞬で払拭された。


 「ええ。玲子、淑景舎に着いたら、すぐに火鉢の準備を。あと、白湯と厚い着物も」

 「かしこまりました。雪子様はどうするのですか?」


 今、この場には秘密を知っている者しかいない。

 足元には女房がいるが、きっと意識は覚束ないだろう。

 だが、陰で誰が聞いているのかは分からない。

 そのため、玲子は杏子のことを雪子と呼んでいた。


 「わたくし?そうね......」

 「あ......雪子様......」


 淑景舎に行ってこの子の様子を見たら弘徽殿の行く予定と答えようとしたが、か細いながらも最近聞きなれた声が聞こえて杏子の意識はそちらにいってしまった。


 「杏子様!なぜ、こちらへ?」

 「雪子様が忘れ物をしたから、ですよ」


 雪子の代わりに卯紗子が応えたが、言い終わると軽く片目を閉じた。

 片目を閉じるのは、本当のことではない時の合図。

 どうやらこの理由は建前らしい。


 「あの、杏子様。こちらの方は?」

 「今から淑景舎に連れて行きます。ご一緒しますか?」

 「雪子様はこれから何をするのですか?」


 さき程は答えられなかった質問。


 「わたくしはこの方を看て、弘徽殿様に何があったのか聞いてきます」

 「そ......んな......わたし......の......ため......に......」


 無理に体を起こして女房は講義をしたが、喉まで傷めたのか声は擦れて軽い咳をこぼした。


 「わたくしが発見した以上最後まで見ますよ。あなたはただゆっくりすればいいのです」


 女房を見る杏子の瞳には慈愛に満ちていた。

 口調は穏やかで優しい。

 だが、ゆるぎない意思を感じさせた。


 「あの雪子様。......わたくしが......弘徽殿様のところへ行ってもいいでしょうか?わたくしもできることをしたいのです。雪子様は彼女をお願いします。卯紗、行きますよ」


 何かを感じたのか。

 雪子は躊躇しながらも、弘徽殿のところへ行くと言い、弘徽殿の方へ歩き出した。

 躊躇するのは当然だろう。

 かつて自身をいじめた者に会いに行くのだから。

 それでも、雪子は足を運んだ。


 「あ、待って下さい、杏子様」


 こちらに向かって一礼すると卯紗子は来たばかりなのに、戻って行った。


 「俺たちも行くぞ。すまない。今だけ恥じらいを捨ててくれ」


 柏陽は女房を軽々上げた。


 「そうですね」


 (雪子様も手伝ってくださる。わたくしも頑張らなくては!)

 強い決意も胸に抱いて、杏子の止まっていた足が動き出した。