「わたくしは雪子様を尊敬します」
次の日、杏子の姿となった雪子が淑景舎に来たことに対して、杏子が最初に放った言葉だった。
「えっと、その、どういうことですか、杏子様?」
「雪子様の努力に感動しました!着物の直し、中心が薄い木簡、書物に挟まっていた紙、全て拝見しました」
「見たのですか。......それらは全てわたくしの練習で、心が動くような物ではございませんよ?」
「でも、何度も書いたり、針を刺したのは事実ですよね?」
「それは......」
雪子の言葉は続かなかった。
事実なんだろう。
きっと杏子が見たこと以外も努力しているのだろう。
「私の主は大変努力家で忍耐強いのです。前に」
「玲子、わたくしのことはいいので、昨日何があったか教えてちょうだい」
「昨日は杏子様のおかげですっきりした日でした」
「杏子様、何をしたんですか?」
卯紗子からのジト目が痛い。
「弘徽殿様とおしゃべりしただけよ?」
「弘徽殿様とおしゃべりですか......。わたくしはそのようなことはできませんね」
「淑景舎に行くまでにあいつからのちょっかいを受けたり話しかけられたのですが、杏子様のおかげで今頃、あいつの評価は下落ですね」
「私がいない半日の間に何をしたんですか⁉ただのおしゃべりではないでしょう。今、この場で全て話してください」
「ほんとに話していただけなんだけど......」
杏子の口から出たのは、昨夜に起こった出来事。
弘徽殿のすぐ横にある渡殿に撒菱が散乱していたこと。
麗景殿の前を通ったら水をかけられたこと。
弘徽殿と話したこと。
全て話終わると、
「色々やりましたね......」
「わたくしの方でも色々ありましたが、ここまでではありませんでした」
卯紗子が呆れ、雪子は驚いたようだった。
「雪子様、そちらは何があったのですか?」
「杏子様と柏陽様と右近様、玲子が出て行かれた後、一曲弾いていたのですが、東宮が来られたのです。わたくしが失態をする度に卯紗には助けて頂きました」
(東宮が来るなんて......)
入内して一度も来なかったから、油断していた。
「大丈夫でしたか?」
「緊張で動けなくなってしまったり、普段とは違うとおっしゃられた時は焦りましたね」
「東宮は不思議がっていませんでしたし、おそらく大丈夫だと思います」
「それなら安心だけど、東宮は雪子様のことを何と言ったのですか?」
「慎ましい、と。わたくしはそんなことないんですけどね」
普段と違って慎ましい?
「......東宮はわたくしのことを図々しいとでも思っていらっしゃるのですね」
いずれ離婚して後宮から出るつもりだが、今は東宮の妻である。
妻を図々しいと思っているとは。
杏子の機嫌が悪くなってくる。
もちろん、そんな雰囲気は微塵にも出さないが。
「そんなことは思っていないと思いますよ。むしろ、あれは......。わたくしが話しても良いのでしょうか?」
「雪子様は気づいていらっしゃるのですか?」
「東宮の顔を見れば分かりますよ」
(雪子様と卯紗は何を話しているの?)
頭の中が?で満ちていた。
(全く話に入らない玲子もわたくしと一緒よね)
そう思って玲子を見ると、空気になっていた。
普段も影が薄いが、もっと薄い。
そして、玲子の瞳を見ると、雪子しか映っていなかった。
(わたくしの仲間ではなさそう......)
ちなみに、仲間というのは今目の前で繰り広げられる話の内容が全く分からない者である。
「二人は何を話しているのですか?」
「杏子様、これは東宮から聞いて下さい。わたくしからは、話せませんね」
「杏子様が東宮のことをよく見ると分かるんじゃないでしょうか。あ、そういえば、杏子様宛の文が届いてますよ」
卯紗子から貰った文を開けると、目が点になった。
(何を考えているんだろう?)
杏子と弘徽殿のおしゃべり?の前に書かれた手紙なんだろう。
差出人は李承、弘徽殿の兄からであった。
『日 照 香 炉 生 紫 煙』
意味は太陽は香炉峰を照らし、赤紫の霧が立ち上っている。
この間の銀台金闕夕沈沈よりはましであるが返答に困る。
この次の文は遥 看 瀑 布 挂 前 川。
はるか遠くには滝が前方にある川に罹って流れ落ちているのが見えるとでも書いておけばいいのか?
昨日、弘徽殿に送られた文には返歌をすると言ってしまった以上何かしなければならない。
だが、何を書けば良いのか分からない。
せめて学がある者だったら......。
「杏子様、そちらの文には一体何が書かれていたのですか?」
「漢文よ」
(これ、勉強の題材に使えるかも)
今は杏子の想像通り女子会になっているが、本当は勉強会である。
「それでは、卯紗、玲子に問題です。こちらの文の内容を当ててみて」
杏子は文をみんなが見えるように広げた。
「全部漢字ですね......」
「手がかりを下さい......」
女房二人は答えを出すのが難しそうだ。
既に、手がかりを欲している。
「漢字の意味を考えると分かるようになるかな。そうですよね、杏子様?」
「ええ。ですが、香炉は地名ですので、意味を取るのはそれ以外の五字ですよ」
「そこはどこにあるのですか?」
「海を渡った国にあるそうよ。卯紗、手がかりはあるのだから後は頑張るだけよ」
今の世には空を飛ぶ乗り物など存在しない。
海を渡るのは船である。
香炉というのは海の向こうにある町らしい。
この漢詩以外にも香炉という地名は出てくる。
こちらで言う歌枕のようなところだろうか。
「日が照る......香炉に......生まれる...紫煙?」
「日が照る香炉に紫の煙が生じる......ということでしょうか?」
「正解!」
「お疲れ様です、二人とも」
「漢文って面白いですね!でも、これ、文なんですよね?返答どうしますか?」
「どうしよう?」
「あいつの時と同様に言葉で取り繕うのはどうでしょうか?」
「それ良いかも」
卯紗子が文と共に持ってきた紙に、杏子は文字を綴っていく。
横で見ている卯紗子や雪子の顔が引きつっていく。
周りのことは気にせずにどんどん書いていく。
「あの、杏子様。これ、本当に送るんですか?」
杏子が書いた言葉は綺麗な言葉で飾られまくっているが、全て外すと問題しかない言葉で埋め尽くされていた。
......具体的には、学がないとか、漢文の知識を増やしてほしいとか、返事をする方も考えて欲しいとか、などなど文句......もといお願いである。
全て事実であるが、殿上人相手にこれは怒られる。
......意味が分かればだけど。
「送るよ。わたくし、弘徽殿様に約束しちゃったんだよね。手紙は全て返事を書く、と」
「何をしているんですか......」
「あいつをずたずたにした後に届く文としては最高ですね」
「わたくし、元に戻った時できるかしら......?」
「大丈夫です。雪子様にちょっかいを出さないように言ってきたので、しばらくは静かです」
「それは嬉しいですね。あの、杏子様、実はもう一つ文がありまして」
「実家からですか?」
(文なんて珍しい)
実家との情報交換は兄二人で可能。
緊急だったら、鶴を飛ばせば良い。
文は間に何人もいるので、情報を渡すにはあまり向いていないのだ。
「いえ......。それが、襲芳舎の者からの文なんです」
「襲芳舎、ですか?」
杏子の館である飛香舎から凝花舎を挟んだ奥にあるところ。
清涼殿とはそれなりに離れているので低い女御や更衣が住んでいる。
だが、妃との関り会いが少ない杏子は誰がどこの館の主なのか把握できていなかった。
「杏子様、弘徽殿様だけではなく襲芳舎様まで喧嘩をうったのですか?」
「まさか。わたくしと関りがあるのは雪子様と不本意ですが、弘徽殿様と......麗景殿様ですね」
「襲芳舎様と関りがなくて安心しました」
「雪子様、こちら開けてもよろしいですか?」
「もちろんです」
季節外れの鬼灯が描かれた文を開いて読んでみると、
「読みやすいわー」
この一言に尽きる。
貴族特有の遠まわしで敬語が多く使われているが、前によんだのが意味不明の物だったので、大変読みやすい。
「雪子様、ここの女子会に一人増えても大丈夫ですか?」
「もしかして、襲芳舎様、ですか?」
「はい。わたくしの琴に触発されて、琴を教えて頂きたいと」
「わたくしと一緒ですね。ですが、襲芳舎様は弘徽殿様のような方なのでしょうか......?」
「では調べましょうか」
「どのようにして調べるんですか?」
「卯紗、それはね、こうするの」
次の日、杏子の姿となった雪子が淑景舎に来たことに対して、杏子が最初に放った言葉だった。
「えっと、その、どういうことですか、杏子様?」
「雪子様の努力に感動しました!着物の直し、中心が薄い木簡、書物に挟まっていた紙、全て拝見しました」
「見たのですか。......それらは全てわたくしの練習で、心が動くような物ではございませんよ?」
「でも、何度も書いたり、針を刺したのは事実ですよね?」
「それは......」
雪子の言葉は続かなかった。
事実なんだろう。
きっと杏子が見たこと以外も努力しているのだろう。
「私の主は大変努力家で忍耐強いのです。前に」
「玲子、わたくしのことはいいので、昨日何があったか教えてちょうだい」
「昨日は杏子様のおかげですっきりした日でした」
「杏子様、何をしたんですか?」
卯紗子からのジト目が痛い。
「弘徽殿様とおしゃべりしただけよ?」
「弘徽殿様とおしゃべりですか......。わたくしはそのようなことはできませんね」
「淑景舎に行くまでにあいつからのちょっかいを受けたり話しかけられたのですが、杏子様のおかげで今頃、あいつの評価は下落ですね」
「私がいない半日の間に何をしたんですか⁉ただのおしゃべりではないでしょう。今、この場で全て話してください」
「ほんとに話していただけなんだけど......」
杏子の口から出たのは、昨夜に起こった出来事。
弘徽殿のすぐ横にある渡殿に撒菱が散乱していたこと。
麗景殿の前を通ったら水をかけられたこと。
弘徽殿と話したこと。
全て話終わると、
「色々やりましたね......」
「わたくしの方でも色々ありましたが、ここまでではありませんでした」
卯紗子が呆れ、雪子は驚いたようだった。
「雪子様、そちらは何があったのですか?」
「杏子様と柏陽様と右近様、玲子が出て行かれた後、一曲弾いていたのですが、東宮が来られたのです。わたくしが失態をする度に卯紗には助けて頂きました」
(東宮が来るなんて......)
入内して一度も来なかったから、油断していた。
「大丈夫でしたか?」
「緊張で動けなくなってしまったり、普段とは違うとおっしゃられた時は焦りましたね」
「東宮は不思議がっていませんでしたし、おそらく大丈夫だと思います」
「それなら安心だけど、東宮は雪子様のことを何と言ったのですか?」
「慎ましい、と。わたくしはそんなことないんですけどね」
普段と違って慎ましい?
「......東宮はわたくしのことを図々しいとでも思っていらっしゃるのですね」
いずれ離婚して後宮から出るつもりだが、今は東宮の妻である。
妻を図々しいと思っているとは。
杏子の機嫌が悪くなってくる。
もちろん、そんな雰囲気は微塵にも出さないが。
「そんなことは思っていないと思いますよ。むしろ、あれは......。わたくしが話しても良いのでしょうか?」
「雪子様は気づいていらっしゃるのですか?」
「東宮の顔を見れば分かりますよ」
(雪子様と卯紗は何を話しているの?)
頭の中が?で満ちていた。
(全く話に入らない玲子もわたくしと一緒よね)
そう思って玲子を見ると、空気になっていた。
普段も影が薄いが、もっと薄い。
そして、玲子の瞳を見ると、雪子しか映っていなかった。
(わたくしの仲間ではなさそう......)
ちなみに、仲間というのは今目の前で繰り広げられる話の内容が全く分からない者である。
「二人は何を話しているのですか?」
「杏子様、これは東宮から聞いて下さい。わたくしからは、話せませんね」
「杏子様が東宮のことをよく見ると分かるんじゃないでしょうか。あ、そういえば、杏子様宛の文が届いてますよ」
卯紗子から貰った文を開けると、目が点になった。
(何を考えているんだろう?)
杏子と弘徽殿のおしゃべり?の前に書かれた手紙なんだろう。
差出人は李承、弘徽殿の兄からであった。
『日 照 香 炉 生 紫 煙』
意味は太陽は香炉峰を照らし、赤紫の霧が立ち上っている。
この間の銀台金闕夕沈沈よりはましであるが返答に困る。
この次の文は遥 看 瀑 布 挂 前 川。
はるか遠くには滝が前方にある川に罹って流れ落ちているのが見えるとでも書いておけばいいのか?
昨日、弘徽殿に送られた文には返歌をすると言ってしまった以上何かしなければならない。
だが、何を書けば良いのか分からない。
せめて学がある者だったら......。
「杏子様、そちらの文には一体何が書かれていたのですか?」
「漢文よ」
(これ、勉強の題材に使えるかも)
今は杏子の想像通り女子会になっているが、本当は勉強会である。
「それでは、卯紗、玲子に問題です。こちらの文の内容を当ててみて」
杏子は文をみんなが見えるように広げた。
「全部漢字ですね......」
「手がかりを下さい......」
女房二人は答えを出すのが難しそうだ。
既に、手がかりを欲している。
「漢字の意味を考えると分かるようになるかな。そうですよね、杏子様?」
「ええ。ですが、香炉は地名ですので、意味を取るのはそれ以外の五字ですよ」
「そこはどこにあるのですか?」
「海を渡った国にあるそうよ。卯紗、手がかりはあるのだから後は頑張るだけよ」
今の世には空を飛ぶ乗り物など存在しない。
海を渡るのは船である。
香炉というのは海の向こうにある町らしい。
この漢詩以外にも香炉という地名は出てくる。
こちらで言う歌枕のようなところだろうか。
「日が照る......香炉に......生まれる...紫煙?」
「日が照る香炉に紫の煙が生じる......ということでしょうか?」
「正解!」
「お疲れ様です、二人とも」
「漢文って面白いですね!でも、これ、文なんですよね?返答どうしますか?」
「どうしよう?」
「あいつの時と同様に言葉で取り繕うのはどうでしょうか?」
「それ良いかも」
卯紗子が文と共に持ってきた紙に、杏子は文字を綴っていく。
横で見ている卯紗子や雪子の顔が引きつっていく。
周りのことは気にせずにどんどん書いていく。
「あの、杏子様。これ、本当に送るんですか?」
杏子が書いた言葉は綺麗な言葉で飾られまくっているが、全て外すと問題しかない言葉で埋め尽くされていた。
......具体的には、学がないとか、漢文の知識を増やしてほしいとか、返事をする方も考えて欲しいとか、などなど文句......もといお願いである。
全て事実であるが、殿上人相手にこれは怒られる。
......意味が分かればだけど。
「送るよ。わたくし、弘徽殿様に約束しちゃったんだよね。手紙は全て返事を書く、と」
「何をしているんですか......」
「あいつをずたずたにした後に届く文としては最高ですね」
「わたくし、元に戻った時できるかしら......?」
「大丈夫です。雪子様にちょっかいを出さないように言ってきたので、しばらくは静かです」
「それは嬉しいですね。あの、杏子様、実はもう一つ文がありまして」
「実家からですか?」
(文なんて珍しい)
実家との情報交換は兄二人で可能。
緊急だったら、鶴を飛ばせば良い。
文は間に何人もいるので、情報を渡すにはあまり向いていないのだ。
「いえ......。それが、襲芳舎の者からの文なんです」
「襲芳舎、ですか?」
杏子の館である飛香舎から凝花舎を挟んだ奥にあるところ。
清涼殿とはそれなりに離れているので低い女御や更衣が住んでいる。
だが、妃との関り会いが少ない杏子は誰がどこの館の主なのか把握できていなかった。
「杏子様、弘徽殿様だけではなく襲芳舎様まで喧嘩をうったのですか?」
「まさか。わたくしと関りがあるのは雪子様と不本意ですが、弘徽殿様と......麗景殿様ですね」
「襲芳舎様と関りがなくて安心しました」
「雪子様、こちら開けてもよろしいですか?」
「もちろんです」
季節外れの鬼灯が描かれた文を開いて読んでみると、
「読みやすいわー」
この一言に尽きる。
貴族特有の遠まわしで敬語が多く使われているが、前によんだのが意味不明の物だったので、大変読みやすい。
「雪子様、ここの女子会に一人増えても大丈夫ですか?」
「もしかして、襲芳舎様、ですか?」
「はい。わたくしの琴に触発されて、琴を教えて頂きたいと」
「わたくしと一緒ですね。ですが、襲芳舎様は弘徽殿様のような方なのでしょうか......?」
「では調べましょうか」
「どのようにして調べるんですか?」
「卯紗、それはね、こうするの」