淑景舎に戻ったものの、水をかけられたので、湯あみをしたり、着替えたりして、ようやくひと段落した時、


 「杏子様、ありがとうございます。すっきりしました」


 能面侍女にお礼を言われた。

 よく見たらすこし、目元が下がって、口元が柔らかくなっていた。


 「それは、どうも。でも、わたくしはちょっと仕返しをしただけよ?」


 あれだけ、弘徽殿の評価を落としといて、ちょっと、とはたして言えるだろうか。


 「いつも耐えることしかできなかったものなので。もっと力があれば雪子様をあいつらから守ることが出来るのに、と。いつも思っていました。でも、今日の杏子様のことを見て、身分は関係ないということを知りました」


 身分は関係なくはない。

 平安時代、上下関係は意識しないと生きてはいけない。


 「わたくしが弘徽殿様に言えたのは、言葉を取り繕っていたからよ。きれいで美しい言葉に鋭い刃を隠して。意味が分からない者にはただ、喋っているようにしか見えないの」


 杏子の無害でほんわかな雰囲気に騙された者は多いだろう。

 (まさか、ここでこんな風に役立つなんて思っていなかった)

 呪師関連のことは父からだが、教養や作法、弁論術は母から教えてもらった。

 後宮育ちの母から叩き込まれたのは、実家で暮らす分には要らないものだらけだった。

 だが、入内して後宮で過ごすと無駄ではなかった。

 要らない物などない。

 全てが自分と、友人を守るための武器となった。


 「杏子様、わたしに弁論術をご教授お願いします」

 「うーん。玲子は人と話すのは得意?」

 「それほど得意ではありません」

 「人には得意なことと不得意なことがある。わたくしはね、苦手なことを得意にするよりも得意なことを伸ばす方が良いと思うの」

 「得意な方を伸ばす、ですか?」

 「ええ。だって、苦手なことを頑張っても人並みにしかならないもの」


 「それだったら、わたくしは向いていませんね」

 「諦めるのは早いよ。教え方を工夫すれば、できるようになるかもよ?」


 杏子は興味がないものは頑張っても人並みかそれ以下だった。

 だから、杏子の父と母はどうしたら杏子の興味が出るのか、考えて工夫した結果、教養が高く、琴は国一番の名手、という、今の杏子ができた。


 「わたくしが興味を持たなかった作法に学、琴などができるようになったのは、餌に釣られたからなの」


 全部できるようになったら、外へ行っても良い。

 その餌に釣られて幼い杏子は必死に興味がなかった分野を練習した。

 でも、知れば、知るうちに楽しくなっていき、最終的には、自分で進んでやるようになっていた。


 「工夫された教え方で苦手なことをするか、好きなことを伸ばすか、もう一度、考えてきます」

 「焦らなくていいからね。あ、そうだ。玲子、雪子様に面会状を書いてくれる?今日、何があったのか知りたいから」

 「かしこまりました」


 そう言って、部屋から出て行った玲子を送ると杏子は周囲を見渡した。

 調度品がほとんどない部屋。

 灯りと書物に琴。

 それと木の板しかない。

 畳のすぐ横に積まれてた書物を上から取って、紙を開いてみる。

 昔、後宮に仕えていたとされる女房の随筆だった。

 春はあけぼの

 あまりにも有名な冒頭よりも杏子が気になったのは、書物に挟まれて、綺麗にたたまれた紙だった。


 「これは?」


 粗悪で少しでも力を入れてたら、切れてしまうような紙を開くと、ぎっしりと文字が書かれてあった。

 行間や、紙の上と下にも文字が書かれていた。

 書物の横にある木簡も中心だけ削れてて黒ずんでいた。

 木簡に書いては消して、書いては消して、繰り返していたのだろう。

 ふと気になって着ていた衣を一枚脱いで、よく見ると、至るところで縫われていた。

 杏子は今まで、字の練習をしたいと願えば新しい紙がどんどん出て来て、着物がほつれたり破けたら新しい着物が来る環境だった。

 後宮にいるほとんどの妃は杏子と同じような環境で育ったのだろう。

 だが、そんな環境は特別であったことが今身に染みて分かった。

 雪子は紙を買うお金がないから、木簡に書いたり、一枚の紙にぎっしり書いたんだろう。

 着物を買うお金がないから、一着を何度も直して着ているのだろう。

 そんな中、女性では珍しく漢文の知識があって、しかも世間ではあまり知られていないものまで知っているその教養の高さ。

 何度も針が刺された後が見える着物からも、黒ずんだ木簡からも、大量の字で真っ黒になった紙からでも分かる地道な努力。

 (わたくしも頑張らないと)

 雪子の気づかない努力に触発された杏子は、いつも以上に知識を深めて、芸事の鍛錬に臨んだ。