平安後宮身代わり姫君伝

 月出る夜、飛香舎には、主である杏子と侍女の卯紗子、事情を知る柏陽と右近。

 それに、参加をする雪子と玲子の姿があった。


 「緊張でお腹が痛くなってきました......」


 身分違いな者に囲まれて、まだ帝が来ていないのに雪子の顔は悪く、お腹をさすっていた。


 「大丈夫ですか、淑景舎様?」

 「杏子、淑景舎殿の顔が真っ青だぞ」

 「雪子様、白湯をお持ちしましょうか?」


 杏子、柏陽、右近は兄妹揃って雪子のことを心配して、介護していた。


 「杏子様、大丈夫です。その、まだ、慣れていないんです。これはよくあるので、心配かけてしまって申し訳ございません」

 「それなら、良かったです」

 「......こう見るとそっくりですね」

 「そうだな。まさか、淑景舎様がここまで杏子に似ているとは思っていなかったです」


 微笑みを交わす杏子と雪子に柏陽と右近は見つめていた。

 妹だからどちらが杏子なのかは区別できる。

 世界には自分と同じ見た目の人が三人いると言われているがこれほどだったとは。

 杏子と雪子をただ見つめることしかできない時、襖が開いた。


 「これは、杏子だけではなく雪子もいるのか」

 「わたくしの条件に必要な方なので、同席しています」

 「そうか。それで、杏子。条件とは?」


 ここにいる者の中で知っているのは、杏子と卯紗子、雪子と玲子だけ。

 柏陽と右近は杏子に呼ばれただけで、条件については何も知らない。

 もちろん、帝も。


 「わたくしと雪子様を交換するのです」

 「どういうことだ、杏子?」


 女御である杏子の敬意を忘れて、柏陽は問いた。

 右近と帝は動かない。


 「そのままの意味ですよ。わたくしが雪子様の身代わりとなって生活するのです。この入れ替わりが東宮にばれないこと。これが条件です」

 「淑景舎様。断っても大丈夫です。このような意味不明のことは無視しても大丈夫です。身分とかは気にせずに申し出て下さい」


 右近が大変失礼なことを言っているが、これは雪子がこのような、訳が分からないことをしないようにするためである。

 常に妹である杏子の傍で見ていたからこそ分かる。

 これは、止めることが出来ない。

 だから、まだ実行していないうちに止めようとしていた。

 でも、右近の行動を裏切るような言葉が隣から聞こえた。


 「右近様。わたくしはお断りしません。その、この条件を考えたのはわたくしなので」

 「雪子が考えたのか⁉」


 これには帝も驚く。

 大人しそうで現実をみている雪子がこの条件を考えたのか。

 信じることが出来ないのもしょうがない。


 「帝。この条件の大本は雪子様が考えてくれたのです。わたくしが加えたのは東宮にばれないように、です」

 「なんちゅうものを付け加えているんだ......」

 「やっぱり杏子は杏子だね」


 頭に手を置いて、抱えている柏陽と苦笑している右近の様子が直ぐに浮かぶ。


 「......分かった。この条件を許可する」

 「やりましたね!」

 「おい!せめて、誰もいない時にやってくれ!」


 大興奮して喜びを体で表現していたが、柏陽によって止められた。

 これは一種の感情表現なのに、止める必要はないと思っているのは杏子だけだった。

 杏子の行動は全く先が読めないことに冷や冷やする。


 「柏陽、止めなくても良いぞ。この条件は湊には伝えないでおこう。条件達成できるよう力を尽くせ」

 「分かりました」

 「では失礼」


 そう言ってて帝が出ていくと、どこからともなく溜息が漏れ出た。


 「杏子様は凄いですね。わたくしは帝が目の前にいるだけで緊張してしまい、何もできませんでした」

 「そんなことないですよ。わたくだって緊張してましたから」


 たとえ祖父でも雲よりもはるかに高い帝。

 緊張しないわけない。


 「え⁉何言ってるの?杏子は普通に会話していたよ」

 「何が緊張した、だ。こっちはいつ何かやらかすか体が震えていたぞ!」


 だが、兄二人は信じてくれなかった。

 そして、言葉を発さずとも全力で首を前に振っている侍女二人も信じていない。

 なんでなんだろう?


 「それで、柏陽兄様と右近兄様は協力してくれますよね?」

 「はぁ......。協力するしかないだろう。帝が認めた以上この条件は非公開ながら成立している。杏子はともかく淑景舎様が心配だからな」

 「もちろん私も協力します。女御様のお願いですから。一文官である私は断れませんよ」


 柏陽は呆れながらも協力してくれることとなった。

 右近は真面目そうにしているが、『こんな面白い情報、しがみ付くしかないよね』という副音声が聞こえてくる。


 「では早速今日から始めましょう。兄様方は一旦外に出て下さい」


 男がいなくなった空間で、杏子と雪子は向き合うように座った。


 「では、交換と行きましょうか」
 俺、湊は最近勤務中に抜け出す父上が怪しいと思っている。


 「父上、何しているのですか?昨日も勤務から抜けたでしょう?」

 「ちょっと用事があったからな。それよりも、後宮には行かなくていいのか?」

 「仕事があるんですよ。抜けた分の仕事がこちらへ回ってくるのですよ」


 一体誰のせいでこうなっているんだ。

 勤務中に抜けて滞った仕事は全て俺のところに来る。

 東宮として持っている仕事もあるのに、そこに追加されたせいで後宮に行く暇などないだが。

 ご存じだろうか?


 「それは、すまんな。今日は私が全て行おう。そなたは花々を愛でに行きなさい。これも大事なことだから」


 花は妃の隠喩。

 大事なこととは、子を成すことだろう。

 東宮としていずれ帝に立つ者として、後継ぎは絶対に必要。

 俺の代で潰すわけにはいかない。

 そして、子どもはいつ天に召されるのかは分からない。

 だから、何人でも欲しいところ。

 でも、これは公的な感情。

 東宮としての感情。

 本当は、俺にとっての花は一つしかない。

 そして、この美しい花しか俺は愛でることができない。


 「そうですね。では行って参ります」

 「行ってらっしゃい。......見抜けなければ、逃げてしまうぞ」


 帝の言葉は部屋から出て行った俺には聞こえていなかった。
 「杏子様、顔を上げて下さい。自信もって堂々とですよ」


 杏子と呼ばれた者は見た目こそは杏子であった。

 華美すぎない着物は一見すると地味に見えて貧相にも見えるが、見る者が見たら一級品と分かる。

 肌ざわりが良く、大変着心地が良い。

 でも、これは彼女の物ではなかった。


 「卯紗子様、わたくし、杏子様に見えてますか?」


 今、飛香舎にいるのは杏子......ではなく、杏子の身代わりとなった雪子だった。


 「卯紗、と呼んでください、杏子様」

 「そ、そうだね」


 (わたくしに上手くできるのかしら......)

 この部屋には先ほどまでいた杏子と玲子は淑景舎に戻ってしまった。

 右近は仕事に行き、柏陽は外で護衛をしていた。

 (言いだしのわたくしがそんなことを思ってどうするんですか......。杏子様のために頑張らなくては)


 「杏子様、その調子ですよ!」

 「ねえ卯紗、この後何するの?」

 「そうですね......。最近は好奇心に耐えきることが出来ず、明け方まで起きていましたが、基本的には直ぐに寝ていますね。寝られない時は、琴を弾いたり、書を読んだりしていますよ」

 「卯紗、琴を持って来て下さる?」

 「かしこまりました」


 卯紗子が持ってきた琴は杏子がよく使っていたのだろう、調弦がしっかりとされている。

 やはり奏者が違うのか同じ曲でも雰囲気が異なる。

 今、雪子が弾いているのは、この間杏子が東宮と共奏した曲。

 (遠くのところにいる姫君にどのような感情を抱いているのかしら)

 会うことが出来ない悲しみ、辛さだけではない。

 会うことが出来ないからこそ愛を感じることができる。

 (全部、音に乗せてしまいましょう)

 感情表現が苦手な雪子の伝え方。

 それは音に気持ちを吹き込むこと。

 音が気持ちを乗せてくれるから、会話ができる。

 思いが伝わる。

 演奏が終わり、顔を上げると、


 「素晴らしい演奏だったよ。杏子の演奏に釣られてきてしまったよ」


 東宮がいた。


 「あ、ありがとうございます」


 東宮直々のお褒めのお言葉。

 お礼を言うことしかできなかった。


 「杏子、これはこの間遊びでも弾いた曲だよね。あの時とは別の雰囲気を感じたよ。一つの曲がこれほど変わることがあるのは、杏子の努力だよ」


 雰囲気が違うのは奏者が違うからで、杏子の努力ではないのだがそれは言えるはずもない。

 これを言った途端、今の杏子が別の人であることを東宮が知ってしまう。


 「ほんの少し気持ちの入れ方を変えてみました」


 別の人間ならば、気持ちも違う。

 (嘘ではないですよね)


 「杏子、もう一曲聞かせてくれないだろうか?」

 「かしこまりました」


 承諾したが、何を弾くのか迷ってしまう。

 (同じような曲では飽きてしまうでしょう。でも、わたくしは華やかな曲が似合わない)

 華やかな曲を弾いてしまうと、自身の貧しさが浮かび上がってしまう。

 それに、雪子の性格上華やかで雅な曲を弾いても、暗くなってしまう。


 「杏子様、明るい曲はどうでしょうか?杏子様にはぴったりだと思いますよ」


 困っているのを感知した卯紗子は雪子に助け船を出す。

 この卯紗子の発言には『今は雪子様ではなく、杏子様ですよ』という意味も含まれていた。

 (そうですよね。今のわたくしは杏子様.....)

 杏子とはまだ付き合って時間は経っていないが、少なくとも雪子のようにおろおろする人物ではない。

 常に好奇心に任して行動をしている者だ。


 「そうね、卯紗。明るい曲を弾くわ」

 
 雪子が選んだのは、とある物語が元の曲。

 雪子と同様後ろ盾を失い、人里離れた屋敷に住んでいながら、時の権力者の寵愛を受けた姫君。

 しかし、姫君の座を内新王に取られたり、時の権力者は別の女性の元へ行ったりと幸せは長くは続かなかった。

 やがて、心労が祟り、最愛の夫となる権力者の胸で息を引き取る。

 権力者は姫君が天に召されてから、姫君の愛に気づくことになった。

 一人の男に翻弄されていく姫君達の物語。
 
 雪子が弾くのは、姫君が男に寵愛を受けている時を題材にした物。

 (きっと幸せなのでしょうね)

 いつまでもこれが続いて欲しいと願ってしまう。

 人の心は変化は常に変化する。

 ずっとこのまま変化しないのは幻想。

 (感情とは儚いものね......)

 明るさの中に叶うことがない寂しさと儚さが篭っている。
 
 最後の一音を弾いて顔を上げると目の前には東宮がいた。


 「杏子、何かあったのか?」

 「ひぇ......」


 (近すぎます......!)

 すぐ近くには雲の上の東宮。

 雪子の夫であるが、最初の面会以降会ったことがない。

 
 「顔が赤いぞ。熱でもあるのか?」

 「!?」


 湊は自分の手を雪子の額に当ててきた。

 体温を測る方法としては一般的だが、ほとんど会ったことがない夫にされるのは、雪子の心臓が持たない。

 (他に方法があるでしょう......!)


 「東宮。杏子様は興奮していらっしゃるのです。曲に心を込めたからでしょう」

 「杏子の気持ちが込められていた素晴らしい演奏だった。幸せな姫君と時の権力者の曲だが、壊れそうな切ない思いも感じた。どんなことを思ったのか?」


 雪子は思ったことをそのまま話した。

 ただ幸せだけではない。

 ずっと続くことがない現実の辛さ。

 それでも願ってしまう感情。

 感情に揺れ動く恋。

 人間の儚さ。

 時々言葉が詰まることもあった。

 説明が稚拙なところもあった。

 それでも、湊は最後まで聞いてくれた。

 卯紗子は何も言わず、耳を傾けてくれた。


 「杏子。そなたは表面的なことではなく、深いところまで見るのだな。これは、俺の虚勢が効かなくなりそうだ。隠している本音が伝わりそうだ」

 「恐縮です......」


 (わたくしが東宮の心を見抜く?そのようなこと、できませんよ)


 「今日はいつもよりも、慎ましやかだな」

 「そ、そうですか?」

 「いつもなら、俺に遠慮なく来るのぞ?」

 「あ、杏子様は女御となったからでしょう。ですよね?」

 「はい。後宮に入内した以上立場がありますから」


 卯紗子のとっさの機転により答えることができた。

 だが、東宮相手に遠慮なく話していたとは驚きである。

 (杏子様と東宮は従兄妹どうし、仲がよろしいのでしょうね)


 「それぐらい俺が何とかするぞ」

 「それは命令になります。わたくしだけのために命令をしても、反感を呼ぶだけですよ?」


 一体何をするつもりなのか。

 東宮が何とかするなど、確実に大事になってしまう。

 杏子も望んでいないと思うので、雪子は必死に阻止する。

 もちろん、優雅に。

 声を荒立てずに。


 「そうか?そなたが言うなら止めとこう。だが、いつでも、頼っていいんだから」

 「ありがとうございます」


 頼ることは一生ないだろうが、お礼は言っておく。

 一応の社交辞令である。

 こちらを優しげに微笑んでいる東宮を見てふと思う。

 今は杏子の代わりに雪子が東宮の相手をしているが、東宮は杏子のことを大切に慈しんでいることが見て分かる。

 目が合うと笑みを浮かべて、声はひどく甘い。

 明らかに杏子のことを愛している。

 後ろ盾がしっかりしているのに加えて、帝の深い寵愛。

 次期中宮はまだ決まっていないが、もう決まったのも当然。

 それなのに、なぜ杏子は後宮を出たいなどと言ったのか?

 それほどまで、外の景色は素晴らしいのか?

 美しいのか?

 生活するだけで精一杯な雪子には分からない。

 でも、雪子にとって杏子は初めて正面から見てくれた人。

 一方的に軽んじられることも無く、蔑むことも無い人。

 (わたくしは杏子様の願いを叶えるまで)

 これが何も返すことができない雪子の返し方だった。

 ここに杏子がいたら、全力で否定するがそれには気づいていなかった。
 雪子が東宮の相手をしている頃、雪子の身代わりとなった杏子は玲子と共に、淑景舎に向かっていた。


 「久しぶりの扇ね」


 杏子は顔を隠すように、縁起が良いとされる松や菊に梅が描かれた扇を持っていた。


 「普段は使用していないのですか?」

 「ええ。それこそ、お作法の練習以来よ」


 (懐かしい)

 左手を掲げても、蝋燭の明かりでははっきりと見えない。

 それでも、日焼けを知らない白い手が赤くなっているような気がする。


 「何をしているのですか?」

 「昔のことを思い出しただけ。扇の練習をしている時に母上から叩かれてね」

 「温厚で春風のような紀子内新王が、ですか?」


 玲子の声が驚いたようで少し高かった。

 なお、眉がぴくとしただけで、表情はほとんど動いていない。

 杏子の母は温厚で優しいと世間では言われている。

 杏子が過去を振り返っても怒っているのはその時だけだったと思う。

 誇張でもなくあの時は雷が落ちて頭には角が生えていた。

 あれから、絶対に母を怒らせてはいけない、という家訓が作られたほど。

 家訓が作られたのは置いといて、怒られた時に杏子の左手を畳まれた扇で叩かれた。

 血は出なかったがその後は不気味な青紫に変貌した。

 呪いの刀傷で手を怪我するのは慣れていた。

 しかし、このような色になったのは初めてで表には表さなかったが、内心ではかなり不安だった。

 今ではもう笑い話になっているが。


 「そうよ。母上はお作法に厳しくてね。ちょっと暑いから手に持っていた扇で仰いだんだよね」

 「それは.......確かにいけないことですね」

 「ねえ、玲子。それで、扇って必要なの?」


 いつも手ぶらなので、何か持っていると不思議な感じになる。

 正直扇は必要ないのでは、と思ってしまう。


 「雪子様はいつも顔を隠していますから」


 (まじかよ)

 まじである。

 雪子が顔を隠していたおかげで、杏子と雪子がそっくりであることは、ほとんど知らない。

 だが、雪子に成りきるには、扇が必需品なのか。

 そういえば、いつも持っていた気がする。


 「これからは扇と仲良くしないといけないのね」

 「あの、雪子様。今までどのようにして、お顔を隠していたのですか?」


 女性は親族以外に顔を見せることがない。

 扇は顔を隠すために使われる。

 決して仰ぐためではない。


 「相手から見えないように動いたり、下を向いて袖で隠したりしていたよ」


 (ここでは、だけど)

 実家にいた時は、顔を隠したことはなかった。

 でも、実家では通用しない常識が働く後宮の中ではしている。


 「はあ......。そのようなことよりも扇を使った方が楽なのではないでしょうか?」

 「両手が塞がっていると危ないんだよ。ほら」


 杏子の視界には気が映っていた。

 気は物質では無いので、暗くても見ることができる。

 見え方は明るさではなく、自身の力量。


 「撒菱ですか」


 杏子には暗くてよく分からないがどうやら撒菱らしい。

 撒菱は正確な正四面体になっており、どこから投げても棘が上を向くよう設計されている。

 これは粘土製だが、踏んだら痛いだろう。

 そんな撒菱が床にあった。

 杏子が見えているのは撒菱ではなく、悪意が篭っている気、邪気であるが。


 「弘徽殿様の嫌がらせね。玲子、どこに撒菱があるのか分かる?」


 ここは弘徽殿のすぐ近く。

 十九八九、弘徽殿の仕業だろう。

 (ここは清涼殿の近く.......。他の人が踏んだらどうするつもりなの?)

 自身への嫌がらせよりもそちらの方が気になってしまう。

 やんごとなき方が踏んだらどうなるのか、少し興味がある。

 でも、実際に起こったら、皇族反逆罪で死罪だろうけど。


 「もちろんです」

 「ねえ、玲子。今から女性あるまじき行動をします」


 そう言って、杏子はたまたま持っていた紐でたすき掛けをした。

 そして紅の長袴と衣を持ち上げて、手に持っていた扇を畳んだ。


 「何しようとしているのですか?」


 玲子の問に応えずに動いた。

 気で見えるが、靄のようになっているのではっきりとどこにあるのかは分からない。

 一応濃淡でおおよその位置は把握できるが、いかんせん数が多い。

 床全体が濃くなっている。

 こんな状態で足を踏み入れたくない。

 軽く後ろに下がって、勢いよく飛んだ。

 どこかの時代でいうなら、走り幅跳びである。


 「飛び越えるんだよ」

 「事後報告ですか。私もそちらへ参ります」


 玲子は十二単のまま音をたてずに飛び越えた。

 これにはびっくりある。


 「玲子、あなたって運動神経が良いのね」

 「雪子様を守るために日々精進しています。雪子様、元の格好に戻られた方がよろしいと思います」

 「わたくしもたくさないで飛べるよう練習しようかしら?」


 隣で杏子よりも重い衣を纏った玲子が飛べているのだ。

 杏子の中の対抗心が出てきた。

 練習場所は飛香舎の中庭にしよう。

 中庭なら外から見られないし、広い。

 灯りが倒れることがないので、火事にならなくて済む。


 「しなくて良いです。先を急ぎましょう」

 「しなくて良くはないけど、そうね。弘徽殿様の領域から早く出た方が良いよね。この後何されるか分からないし」

 「位置を特定されないよう、火を消しますね」

 灯りがない空間には、ぼんやりと光る蝋燭だけが目印。

 僅かな蝋燭の灯りだけで人がいるのか分かってしまう。

 玲子が持っている火を消したことで、杏子と玲子は暗闇に染まった。

 真っ暗な渡殿を感覚で歩いていると、また邪気を感じて、足を止めた。

 すぐ横には、弘徽殿様の派閥に入っている大納言家の娘が主の麗景殿があった。


 「どうしましたか?」

 「何か起こりそう」


 胸がざわざわして落ち着かない。


 「渡殿には何もありませんよ?」

 「麗景殿から変な感じがするんだよね。でも、ここから外に行くことは出来ない、よね?」

 「申し訳ございません。私が蝋燭の火を消したばかりに.......」

 「後悔しても仕方ないよ。命に関わるようないやがらせじゃないでしょ」


 (万が一のことが起こっても、特に問題はないんだけどね)

 いつも懐にはお手製のお守りを入れてる。

 どんな攻撃でも一回限りだが、無効化してくれるもの。


 「ほら、玲子、行くよ。ここを通らないと、淑景舎に行けないよ」


 杏子が麗景殿のそばを通った時、水が落ちてきた。

 雨のようなものではい。

 それこそ、桶から放たれた水のような......。


 「え?」


 御簾が巻き上がってできた空間に桶を持った女房がいた。

 躊躇なく水をかけてくる。

 温水だとありがたいのだが、あいにくの井戸水。

 頭から滴った水が衣を濡らしていく。

 冷水を吸い取った着物は重く、酷く冷たい。


 「雪子様、早くここからでましょう!」


 びしょ濡れになった玲子に引かれて、この場から出ようとした。


 「あら、淑景舎様?」


 しかし、そうは問屋が卸さない。

 ところどころに水が溜まっている渡殿に佇んでいたのは、ここの主ではなく


 「弘徽殿様......」

 「あら、そんなに濡れてしまってどうしたんです?随分とはしたない恰好だこと。まあ、没落貴族の淑景舎様にはとてもお似合いですね。そのような様子では帝のお相手をするのは無理でしょうね。そうなってしまったら、形だけの更衣も必要ないでしょうね」

 「っな......!」


 後ろに控えている玲子が言いかえそうとするが、杏子は手で制した。


 「玲子、弘徽殿様に口答えをしてはいけませぬ」

 「しかし......」

 「無能の主には無能の従者がお似合いだこと」

 「お褒めに頂きありがとう存じますわ、弘徽殿様」


 朧気の灯りでさえ分かる、所々ほつれて、色が褪せてしまっている着物を身にまとい、豊かな黒髪は水でびしょびしょ。

 みすぼらしい見た目なのに、どこか気品を感じる。

 扇で隠されていない瞳には恐怖も不安も浮かんでいない。

 ただただ澄んでいた。

 釘付けになるような美しさと感情を感じない不気味さ。

 瞳に映るのは目の前にいる弘徽殿の姿のみ。

 玲子も水をかけてきた女房も視界に入って来ない。

 杏子の視線は弘徽殿を射抜いていた。


 「え?あ、ああ、そんなことはないですよ。そ、それにしても、弘徽殿様は言葉表現が苦手なのですか?」


 弘徽殿のさきほどの発言は、けして良い意味ではない。

 それは、杏子だってわかってる。

 でも、杏子の耳が取ったのは、主と従者はお似合い、の部分だった。


 「そのようなことはありませんよ?そういえば、わたくしは来れませんでしたが、弘徽殿様は遊びで大恥をかいたそうですね。世間では噂でどうとでもできますが、実際に見ていた東宮の意識を変えることはできましたか?」

 「......わたくしの演奏は飛香舎様の演奏をより素晴らしくするためですから。友人である飛香舎様は大変、学があるそうですよ。内大臣の文の返歌が素晴らしいとかで宮中では噂になっているのですよ。他の妃と関りがない淑景舎様はまだご存じなかったと思いますけど」


 普段は言い返すなどせず、じっと下を向いてただ耐えている淑景舎だが今日は違う。

 言葉は丁寧だが、内容は弘徽殿の返答に困るものだった。


 「無知なわたくしに教えて頂きありがとうございます。わたくしは学もなく、教養もないのですけど、弘徽殿様の兄君が飛香舎様に文を送ったという噂をご存じですか?最近、耳にした噂なのですけど、流行に敏感で社交性がある弘徽殿様はこの先をご存じですよね?相手は弘徽殿様の兄君ですし、他の妃と関りがある弘徽殿様はもちろん知っていますよね?無知なわたくしに文の内容と返歌の内容を教えてほしいです」


 突然、性格が変わったかのような淑景舎に弘徽殿は動揺していた。

 杏子はここぞとばかりに叩き込んだ。

 杏子は弘徽殿の兄の文に返歌などしていない。

 あんな求婚しているような文はとっくに燃やした。

 弘徽殿の方も文が返ってきていないことは知っているはず。

 でも、それを知らないと認識している淑景舎が聞くとどうなるのか?

 答えることはできないから答えないという選択肢はない。

 杏子が退路を消した。

 逃げ道を無くした。

 杏子が叩き込むのは、体ではなく精神。

 気付かれないようにゆっくりとじわじわと。

 相手の絡ませていく。

 逃げないように。

 逃がさないように。

 気づいた時のはもう遅い。

 杏子に侵される道しか残っていない。


 「......飛香舎様からの文は届きましたよ。でも、兄上宛で届いたので、わたくしは内容を知らないのですよ。兄上が書いた文は見せてもらったのですが、漢字だらけで難しかったですわ」


 かなり考えたのだろう。

 返答にはおかしいところがない。

 ......知らない者にとっては。

 (弘徽殿様は嘘を付くことにしたのですか)


 「あ、今、思い出したのですけど、飛香舎様の女房が文を出したのは、一つだけだそうで。教養が深い飛香舎様から頂いた文を持っている殿方はきっと宮中で噂になっていましたよね、内大臣とか」


 弘徽殿からも言われたが、杏子は自分のことを無知で教養もなく学もないと言った。

 だから、この忘れてた、発言もおかしくはない。

 周囲には麗景殿の女房だけではなく、他の女房も大勢見に来ていた。

 女房は主に物事を教えるために、主が恥をさらさないように、東宮の興味を引くために、和歌に長けた者、学に長けた者が多い。

 きれいな言葉に隠された事実を知る者は果たして何人いるだろうか。

 女房は情報の伝達が早い。

 そうかからずに、後宮中、宮中に広がるだろう。


 「わたくしはみすぼらしい姿をしているので、席を外しますね」


 目の前には、下を向いて、いつもより小さく見える弘徽殿がいた。


 「あ、そうそう。わたくしとのおしゃべりが足りないのなら、文に送ってくださいませ。返歌いたしますから」


 そう言い残して踵を返した杏子の瞳には弘徽殿は映っていなかった。
 淑景舎に戻ったものの、水をかけられたので、湯あみをしたり、着替えたりして、ようやくひと段落した時、


 「杏子様、ありがとうございます。すっきりしました」


 能面侍女にお礼を言われた。

 よく見たらすこし、目元が下がって、口元が柔らかくなっていた。


 「それは、どうも。でも、わたくしはちょっと仕返しをしただけよ?」


 あれだけ、弘徽殿の評価を落としといて、ちょっと、とはたして言えるだろうか。


 「いつも耐えることしかできなかったものなので。もっと力があれば雪子様をあいつらから守ることが出来るのに、と。いつも思っていました。でも、今日の杏子様のことを見て、身分は関係ないということを知りました」


 身分は関係なくはない。

 この時代、上下関係は意識しないと生きてはいけない。


 「わたくしが弘徽殿様に言えたのは、言葉を取り繕っていたからよ。きれいで美しい言葉に鋭い刃を隠して。意味が分からない者にはただ、喋っているようにしか見えないの」


 杏子の無害でほんわかな雰囲気に騙された者は多いだろう。

 (まさか、ここでこんな風に役立つなんて思っていなかった)

 呪師関連のことは父からだが、教養や作法、弁論術は母から教えてもらった。

 後宮育ちの母から叩き込まれたのは、実家で暮らす分には要らないものだらけだった。

 だが、入内して後宮で過ごすと無駄ではなかった。

 要らない物などない。

 全てが自分と、友人を守るための武器となった。


 「杏子様、わたしに弁論術をご教授お願いします」

 「うーん。玲子は人と話すのは得意?」

 「それほど得意ではありません」

 「人には得意なことと不得意なことがある。わたくしはね、苦手なことを得意にするよりも得意なことを伸ばす方が良いと思うの」

 「得意な方を伸ばす、ですか?」

 「ええ。だって、苦手なことを頑張っても人並みにしかならないもの」

 「それだったら、わたくしは向いていませんね」

 「諦めるのは早いわよ。教え方を工夫すれば、できるようになるかもよ?」


 杏子は興味がないものは頑張っても人並みかそれ以下だった。

 だから、杏子の父と母はどうしたら杏子の興味が出るのか、考えて工夫した結果、教養が高く、琴は国一番の名手、という、今の杏子ができた。


 「わたくしが興味を持たなかった作法に学、琴などができるようになったのは、餌に釣られたからなの」


 全部できるようになったら、外へ行っても良い。

 その餌に釣られて幼い杏子は必死に興味がなかった分野を練習した。

 でも、知れば、知るうちに楽しくなっていき、最終的には、自分で進んでやるようになっていた。


 「工夫された教え方で苦手なことをするか、好きなことを伸ばすか、もう一度、考えてきます」

 「焦らなくていいからね。あ、そうだ。玲子、雪子様に面会状を書いてくれる?今日、何があったのか知りたいから」

 「かしこまりました」


 そう言って、部屋から出て行った玲子を送ると杏子は周囲を見渡した。

 調度品がほとんどない部屋。

 灯りと書物に琴。

 それと木の板しかない。

 畳のすぐ横に積まれてた書物を上から取って、紙を開いてみる。

 昔、後宮に仕えていたとされる女房の随筆だった。

 春はあけぼの

 あまりにも有名な冒頭よりも杏子が気になったのは、書物に挟まれて、綺麗にたたまれた紙だった。


 「これは?」


 粗悪で少しでも力を入れてたら、切れてしまうような紙を開くと、ぎっしりと文字が書かれてあった。

 行間や、紙の上と下にも文字が書かれていた。

 書物の横にある木簡も中心だけ削れてて黒ずんでいた。

 木簡に書いては消して、書いては消して、繰り返していたのだろう。

 ふと気になって着ていた衣を一枚脱いで、よく見ると、至るところで縫われていた。

 杏子は今まで、字の練習をしたいと願えば新しい紙がどんどん出て来て、着物がほつれたり破けたら新しい着物が来る環境だった。

 後宮にいるほとんどの妃は杏子と同じような環境で育ったのだろう。

 だが、そんな環境は特別であったことが今身に染みて分かった。

 雪子は紙を買うお金がないから、木簡に書いたり、一枚の紙にぎっしり書いたんだろう。

 着物を買うお金がないから、一着を何度も直して着ているのだろう。

 そんな中、女性では珍しく漢文の知識があって、しかも世間ではあまり知られていないものまで知っているその教養の高さ。

 何度も針が刺された後が見える着物からも、黒ずんだ木簡からも、大量の字で真っ黒になった紙からでも分かる地道な努力。

 (わたくしも頑張らないと)

 雪子の気づかない努力に触発された杏子は、いつも以上に知識を深めて、芸事の鍛錬に臨んだ。
 「わたくしは雪子様を尊敬します」


 次の日、杏子の姿となった雪子が淑景舎に来たことに対して、杏子が最初に放った言葉だった。


 「えっと、その、どういうことですか、杏子様?」

 「雪子様の努力に感動しました!着物の直し、中心が薄い木簡、書物に挟まっていた紙、全て拝見しました」

 「見たのですか。......それらは全てわたくしの練習で、心が動くような物ではございませんよ?」

 「でも、何度も書いたり、針を刺したのは事実ですよね?」

 「それは......」


 雪子の言葉は続かなかった。

 事実なんだろう。

 きっと杏子が見たこと以外も努力しているのだろう。


 「私の主は大変努力家で忍耐強いのです。前に」

 「玲子、わたくしのことはいいので、昨日何があったか教えてちょうだい」

 「昨日は杏子様のおかげですっきりした日でした」

 「杏子様、何をしたんですか?」


 卯紗子からのジト目が痛い。


 「弘徽殿様とおしゃべりしただけよ?」

 「弘徽殿様とおしゃべりですか......。わたくしはそのようなことはできませんね」

 「淑景舎に行くまでにあいつからのちょっかいを受けたり話しかけられたのですが、杏子様のおかげで今頃、あいつの評価は下落ですね」

 「私がいない半日の間に何をしたんですか⁉ただのおしゃべりではないでしょう。今、この場で全て話してください」

 「ほんとに話していただけなんだけど......」


 杏子の口から出たのは、昨夜に起こった出来事。

 弘徽殿のすぐ横にある渡殿に撒菱が散乱していたこと。

 麗景殿の前を通ったら水をかけられたこと。

 弘徽殿と話したこと。

 全て話終わると、


 「色々やりましたね......」

 「わたくしの方でも色々ありましたが、ここまでではありませんでした」


 卯紗子が呆れ、雪子は驚いたようだった。


 「雪子様、そちらは何があったのですか?」

 「杏子様と柏陽様と右近様、玲子が出て行かれた後、一曲弾いていたのですが、東宮が来られたのです。わたくしが失態をする度に卯紗には助けて頂きました」


 (東宮が来るなんて......)

 入内して一度も来なかったから、油断していた。


 「大丈夫でしたか?」

 「緊張で動けなくなってしまったり、普段とは違うとおっしゃられた時は焦りましたね」

 「東宮は不思議がっていませんでしたし、おそらく大丈夫だと思います」

 「それなら安心だけど、東宮は雪子様のことを何と言ったのですか?」

 「慎ましい、と。わたくしはそんなことないんですけどね」


 普段と違って慎ましい?


 「......東宮はわたくしのことを図々しいとでも思っていらっしゃるのですね」


 いずれ離婚して後宮から出るつもりだが、今は東宮の妻である。

 妻を図々しいと思っているとは。

 杏子の機嫌が悪くなってくる。

 もちろん、そんな雰囲気は微塵にも出さないが。


 「そんなことは思っていないと思いますよ。むしろ、あれは......。わたくしが話しても良いのでしょうか?」

 「雪子様は気づいていらっしゃるのですか?」

 「東宮の顔を見れば分かりますよ」


 (雪子様と卯紗は何を話しているの?)

 頭の中が?で満ちていた。

 (全く話に入らない玲子もわたくしと一緒よね)

 そう思って玲子を見ると、空気になっていた。

 普段も影が薄いが、もっと薄い。

 そして、玲子の瞳を見ると、雪子しか映っていなかった。

 (わたくしの仲間ではなさそう......)

 ちなみに、仲間というのは今目の前で繰り広げられる話の内容が全く分からない者である。


 「二人は何を話しているのですか?」

 「杏子様、これは東宮から聞いて下さい。わたくしからは、話せませんね」

 「杏子様が東宮のことをよく見ると分かるんじゃないでしょうか。あ、そういえば、杏子様宛の文が届いてますよ」


 卯紗子から貰った文を開けると、目が点になった。

 (何を考えているんだろう?)

 杏子と弘徽殿のおしゃべり?の前に書かれた手紙なんだろう。

 差出人は李承、弘徽殿の兄からであった。

 『日 照 香 炉 生 紫 煙』

 意味は太陽は香炉峰を照らし、赤紫の霧が立ち上っている。

 この間の銀台金闕夕沈沈よりはましであるが返答に困る。

 この次の文は遥 看 瀑 布 挂 前 川。

 はるか遠くには滝が前方にある川に罹って流れ落ちているのが見えるとでも書いておけばいいのか?

 昨日、弘徽殿に送られた文には返歌をすると言ってしまった以上何かしなければならない。

 だが、何を書けば良いのか分からない。

 せめて学がある者だったら......。


 「杏子様、そちらの文には一体何が書かれていたのですか?」

 「漢文よ」


 (これ、勉強の題材に使えるかも)

 今は杏子の想像通り女子会になっているが、本当は勉強会である。


 「それでは、卯紗、玲子に問題です。こちらの文の内容を当ててみて」


 杏子は文をみんなが見えるように広げた。


 「全部漢字ですね......」

 「手がかりを下さい......」


 女房二人は答えを出すのが難しそうだ。

 既に、手がかりを欲している。


 「漢字の意味を考えると分かるようになるかな。そうですよね、杏子様?」

 「ええ。ですが、香炉は地名ですので、意味を取るのはそれ以外の五字ですよ」

 「そこはどこにあるのですか?」

 「海を渡った国にあるそうよ。卯紗、手がかりはあるのだから後は頑張るだけよ」


 今の世には空を飛ぶ乗り物など存在しない。

 海を渡るのは船である。

 香炉というのは海の向こうにある町らしい。

 この漢詩以外にも香炉という地名は出てくる。

 こちらで言う歌枕のようなところだろうか。


 「日が照る......香炉に......生まれる...紫煙?」

 「日が照る香炉に紫の煙が生じる......ということでしょうか?」

 「正解!」

 「お疲れ様です、二人とも」

 「漢文って面白いですね!でも、これ、文なんですよね?返答どうしますか?」

 「どうしよう?」

 「あいつの時と同様に言葉で取り繕うのはどうでしょうか?」

 「それ良いかも」


 卯紗子が文と共に持ってきた紙に、杏子は文字を綴っていく。

 横で見ている卯紗子や雪子の顔が引きつっていく。

 周りのことは気にせずにどんどん書いていく。


 「あの、杏子様。これ、本当に送るんですか?」


 杏子が書いた言葉は綺麗な言葉で飾られまくっているが、全て外すと問題しかない言葉で埋め尽くされていた。

 ......具体的には、学がないとか、漢文の知識を増やしてほしいとか、返事をする方も考えて欲しいとか、などなど文句......もといお願いである。

 全て事実であるが、殿上人相手にこれは怒られる。

 ......意味が分かればだけど。


 「送るよ。わたくし、弘徽殿様に約束しちゃったんだよね。手紙は全て返事を書く、と」

 「何をしているんですか......」

 「あいつをずたずたにした後に届く文としては最高ですね」

 「わたくし、元に戻った時できるかしら......?」

 「大丈夫です。雪子様にちょっかいを出さないように言ってきたので、しばらくは静かです」

 「それは嬉しいですね。あの、杏子様、実はもう一つ文がありまして」

 「実家からですか?」


 (文なんて珍しい)

 実家との情報交換は兄二人で可能。

 緊急だったら、鶴を飛ばせば良い。

 文は間に何人もいるので、情報を渡すにはあまり向いていないのだ。


 「いえ......。それが、襲芳舎の者からの文なんです」

 「襲芳舎、ですか?」


 杏子の館である飛香舎から凝花舎を挟んだ奥にあるところ。

 清涼殿とはそれなりに離れているので低い女御や更衣が住んでいる。

 だが、妃との関り会いが少ない杏子は誰がどこの館の主なのか把握できていなかった。


 「杏子様、弘徽殿様だけではなく襲芳舎様まで喧嘩をうったのですか?」

 「まさか。わたくしと関りがあるのは雪子様と不本意ですが、弘徽殿様と......麗景殿様ですね」

 「襲芳舎様と関りがなくて安心しました」

 「雪子様、こちら開けてもよろしいですか?」

 「もちろんです」


 季節外れの鬼灯が描かれた文を開いて読んでみると、


 「読みやすいわー」


 この一言に尽きる。

 貴族特有の遠まわしで敬語が多く使われているが、前によんだのが意味不明の物だったので、大変読みやすい。


 「雪子様、ここの女子会に一人増えても大丈夫ですか?」

 「もしかして、襲芳舎様、ですか?」

 「はい。わたくしの琴に触発されて、琴を教えて頂きたいと」

 「わたくしと一緒ですね。ですが、襲芳舎様は弘徽殿様のような方なのでしょうか......?」

 「では調べましょうか」

 「どのようにして調べるんですか?」

 「卯紗、それはね、こうするの」
 「はじめまして、飛香舎様!私、襲芳舎様に住んでいる芳子と申します~。こちらは私が育てている鬼灯です」

 「とてもきれいですね。卯紗、こちらを飾っといてくれる?」

 「かしこまりました」



 数日経った飛香舎にて、襲芳舎の主、芳子との面会が始まった。

 初対面の人に交換した状態では何かとぼろが出てしまうので、元に戻っていた。


 「飛香舎様。お隣にいらっしゃる方は?」

 「淑景舎の主ですよ」

 「よ、よろしくお願います......」

 「淑景舎様って女御の弘徽殿様をねじ伏せた方ですよね。とても美しく優雅だったと聞きました~!今、噂の的である、淑景舎様とお話できるなんて嬉しいです。私も更衣なので、身分の差を乗り越えた淑景舎様は尊敬してます」

 「そのような噂が流れているのですか......」


 あれはただのおしゃべりで、ねじ伏せてはいないのだが......。

 誰も思ってはくれなかった。

 こちらを見る視線が痛い。


 「聞いたことございません?女房伝えできっと殿方も知っていると思いますよ。私もその現場を見てい見たかったです~。お姉さま方の素晴らしい活躍をこの目で見たかったです。ああ、すみません。お姉さまなどと呼んでしまって......」

 「わたくしは構いませんよ。淑景舎様はどうかしら?」


 良く知らない人物に自分ではなく、友人である雪子の真名を教える必要はない。

 外用のおしとやかな姫君になっていた。


 「わたくしも構いませんよ」

 「わぁ~、ありがとうございます!お姉さま方は琴の名手なのですよね。あの、もし、良かったら、演奏していただきませんか?」


 口元に手を添えて、目をうるうるさせている芳子に杏子と雪子は断ることができなかった。


 「そういえば、一緒に弾いたことはありませんね」

 「この機会に弾いてみましょう」

 「やったー!ありがとうございます」


 (小動物みたい)

 手を上にあげる動作も感情がすぐに出ることも幼い。

 だが、母性くすぐられる小さい体に庇護欲を注ぐ可愛らしい顔にはとても似合っていた。


 「弾きたい曲とかありますか?」

 「そうですね......。まだ先ですが五節の舞の曲はどうでしょうか?」


 五節の舞とは一年の収穫を祝う宮中行事、新嘗祭に合わせて行われる舞踊。

 神楽笛、和琴の他に海を渡って来た管楽器、弦楽器、打楽器が使われている。

 今回は琴だけで行う。

 楽器が少ない分、音の重なりは減ってしまうが琴の音だけを聞くことが出来る。

 伸ばし音が多く、ゆったりとしている。

 そこには厳かで雅な雰囲気が詰まっていた。

 同じ曲を弾いているはずだが、音色は全く異なる。

 しかし、杏子の華やかさと雪子の繊細さが混ざり合って筆舌し難い環境を生み出していた。

 (もっと弾いていたい!雪子様ならこの音にどのような音を合わせるのだろう)

 原曲にはない音を出すと、すぐに反応してきた。

 すると、雪子の方からも音が飛んできた。

 (そのような音をだすのね。なら、こんなのはどう?)

 隣合わせに弾いているので、顔を合わせることもなく、声を交わすこともない。

 だが、音で会話をしていた。

 原曲に独創性を付け加えた結果、二人が弾き終わったのはそれなりに時が進んでいた。


 「杏子様、楽しゅうございました」

 「こちらもですよ。まさか、あそこであのような音を出すとは、驚きです」


 演奏に大満足した二人は隠していた本名でお互いを言っていたことに気づいていなかった。


 「お姉さま方のあまりにもの素晴らしさにこの世のものなのか疑ってしまいました。まさに、別に天地の人間に非ざる有り、です」

 「それって......漢文ですよね?」

 「芳子様は漢文の知識があるのですか!」


 芳子が言った言葉の原文は、別 有 天 地 非 人 間。

 ここは俗世間と隔絶した至福の場所である。

 それほど、杏子と雪子の演奏が良かったのだろう。

 杏子は興奮のあまり外用の演技を取っていつも通りになっていた。


 「たしなむ程度ですけど、お姉さま方も漢文の知識があるのですね!後宮では漢文の知識を持っている方が少なかったので、嬉しいです」

 「ひらがなだけではなく、漢字も学んでほしいですよね。学ぶことまで、男女を分けるのは良くないと思います」

 「漢詩には美しい表現もありますからね。和歌の参考にもなります......」

 「雪子お姉さまの通りです。私、漢文の美しさに惹かれて始めたのです」

 「漢字でしか自然の雄大さは表せませんよね」

 「ひらがなは感情表現に向いてますからね。自然の美は表現しにくいですよね」


 (共感しかない)

 漢文・漢字の良さについて話している三人は、初対面特有の緊張と不安は溶けて、熱く語り合う同志となっていた。
 主達が熱く語り合っている横では


 「お初にお目にかかります。芳子様の女房をやっています。近江と申します」

 「杏子様の女房をしている卯紗子です」

 「雪子様にお仕えしている玲子です」


 女房の自己紹介が始まっていた。

 主の熱について行けない三人は部屋の隅にいた。


 「漢文とは、あのように熱くなるのですね。あいにく、わたくしには漢文の知識が無いもので......。あのような姿の芳子様は久しぶりに見ました」

 「雪子様も普段よりも饒舌です」


 雪子は扇で顔を隠しながらも、楽しそうに談笑しているのが分かる。



 「杏子様は......いつも通りですね」

 「卯紗子様。こちらには他の女房の方がいらっしゃらないのですか?」

 「女房は私一人ですよ」

 「そうだったのですか。てっきり他にもいらっしゃるかと思っていました」


 女御がいる飛香舎に仕える女房が一人しかいないことを驚かれたことに卯紗子が驚く。

 なお近江は驚いている顔をしているが玲子は声だけが驚いて顔は微塵も動いていなかった。


 「え⁉他のところはもっと女房がいらっしゃるのですか?」


 杏子の家にいた時は、紀子に仕えていた女房から女房としての知識や行為を教えてもらってた。

 だが、後宮はどうだ?

 卯紗子の主の友人である雪子に仕えている玲子しか見たことない。

 だから、後宮では一人の妃につき一人しかついて行くことはできないと思ってしまっていた。


 「わたくしのところは二人ですが、弘徽殿様はもっと大勢お仕えしていらっしゃるのではないでしょうか?」

 「この間、大勢の女房が見物していたのであり得ますね」

 「卯紗子様はお一人でされているのですよね?どのような経緯で女房となったのですか?」

 「まず、私は皆さんと違って貴族ではなくて、元々杏子様の実家である九条邸の近くにある村出身という前提で話は進みますからね」

 「分かりました」

 「私の家は農民で、小さい子どもでも稲作や畑を耕して暮らしていたんです。今から、もう9年ほど前の春、一人の見知らぬ女の子がいたんです。こちらをずっと見ていたので、田植えの誘いをすると乗ってくれました」


 今でも覚えている。

 農民にはいない日焼けを知らない真っ白な肌の子がずっとこちらを見てきた。

 声を掛けてみると驚きながらも返事をしてくれて、卯紗子が田植えを一緒にしないか誘ったところ、『もちろん!』の一言で手伝ってくれた。


 「それから、二日に一回、私の村に来て、一緒に田んぼの世話をしたり、畑を耕しているうちに、すっかり仲良くなったんです。そして、女の子は私が知らないことをいっぱい知っていました。短い休憩の時に読み書き計算とちょっとしたお作法と華やかな貴族の生活を教えてもらったんです」


 紙も筆も墨もないから、地面とその辺に落ちている木の棒で代用した。

 女の子の話す話はどれもきらびやかで、幼い卯紗子心をときめかせた。


 「えっと、その女の子って......」


 近江の視線の先にはこちらには気づいていない杏子の姿があった。


 「杏子様です」

 「杏子様は農作業にも精通をしているのですか。博識ですね」

 「私と女の子は稲狩りが終わる秋までずっと一緒にいたんです。雪が降りそうな秋の終わり、女の子がいない日に九条家の方が私のところへやって来て、私には縁がない九条邸に連れて行ったのです。中に入って、出迎えたのは私がいつも一緒に遊んでいた子でした。女の子、杏子様は私をこちら側に誘ったのです」


 縁も所縁もないところへ入ったら、出迎えたのが綺麗な着物で飾られた農作業を一緒にやった女の子がいたら、誰でも驚く。

 驚いている卯紗子に杏子は、かつて卯紗子がしたように誘った。


 『一緒に来ない?』


 差し出された手を取った卯紗子は杏子から『卯紗子』という名前と着物と知識、それからたくさんのことをもらった。

 杏子曰く、前に私ももらったから、そのお返し、だそうだが、そのような大層なことを慕覚えはない。

 だが、杏子にとってはそれだけのそれ以上の価値があるのだろう。


 「卯紗子様はそのようにしてお仕えしたのですか.......。玲子様はどのようにして?」

 「私の家は代々雪子様に仕える家系でしたので、私も幼い頃から屋敷を出入りしていました。ですが、その頃は仕事として仕えるという気持ちの方が多かったです」


 普段はあまり喋らない玲子が饒舌だった。

 そして、能面の顔がほんの少しだけ緩んでいる.......気がした。


 「私の母は弟を生んで力が尽きたのか天に召されました。父がいたので生活には支障が出ませんでしたが、その後に来た後妻が問題でした」

 「はい!質問です。後妻とはなんでしょう?」


 (後妻って何?)



 「後妻とは新しい正室の方です。再婚相手とも言いますね」

 「ありがとうございます。近江さん。あ、話、遮ってすみません」

 「では続けます。私は弟を守るために母の縁を伝って家を出ました。その時、私は弟を世話するために側仕えを辞めたいと伝えたところ、雪子様が十分過ぎるほどの金子を与えて下さったのです。後ほど、こちらの金子が全て雪子様が出したことが分かったのです。雪子様からいただいた金子のおかげで、弟は無事官僚となることができ、平穏な毎日を過ごすことができたのです。その頃、雪子様の父君が天に召されたと風の噂で聞いたのです。私は恩を返そうと向かったのです」



 「玲子様はそうやって、雪子様に仕えることになったのですね」

 「はい。雪子様が最初にかけていただいた言葉は忘れることができません」

 「玲子さん、雪子様はなんと?」

 「『おかえりなさい。元気だった?』です。自身のことで大変なのに私のことを心配して下さったのです。この瞬間、私はこの方に一生ついて行くことを胸に刻みました」


 抑揚のない声が熱を帯びていた。

 (私もこんな感じに説明していたのかな)

 主のことについて熱く語っていたことに恥ずかしく思ってしまった。


 「良い話ですね。最後は近江さんですね」

 「私はお二人のような素晴らしい感動的なことでは無いのですが.......」

 「卯紗子さんと私が話しました。近江さんもお願いします」

 「.......分かりました。わたくしは父の縁で芳子様に仕えることとなったのです。女房名は父が近江の国司だったので、そこからですね」


 女房名と、はお偉い貴族にに出仕する女房が仕える主人や同輩への便宜のために名乗った通称。

 玲子は知らないが、卯紗子の場合、『名前がないと呼びづらいし、本名を言って呪われるみたいな噂があるけど、胡散臭い』と主である杏子から言われたので、女房名はない。

 女房名を考えるのがめんどくさいというのもあるが、卯紗子は杏子につけて貰った名前を気に入っているので、女房名がなくて良かったなどと思っている。


 「近江ですか。確か、琵琶の海があるのですよね。杏子様が行きたい場所ランキング上位に入っていました」

 「近江は良いところですよ。卯紗子様も杏子様とご一緒に行ってきたらどうでしょう」

 「そうですね!今度、相談してみます」

 「卯紗、何を相談するの?」

 「杏子様!?」


 喋るのに夢中で主達の語りが終了したことに気づかなかった。

 それは卯紗子だけではなく、玲子や近江も適応する。

 杏子のそばにいる雪子と芳子の姿を見て驚いていた。


 「近江、お姉さま方に仕えている方と仲良くできた?」

 「はい。面白く興味深いお話を聞けました」

 「玲子が饒舌だなんて珍しい」

 「思い出話を少し」


 主が来たことで女房会は解散となった。

 だが、今日ここに主が主催の知的な?会と女房達の座談会が誕生した。
 芳子と近江が去った後、


 「さあ、雪子様。交換と行きましょう!」


 杏子が立ち上がって、雪子に言った。

 元に戻ったのは芳子がいたからであり、いなくなった今、入れ替わりが可能となった。


 「わたくし、杏子様のように初対面の方と上手に話せません.......」


 この後宮で一番位が高い杏子にはまたいつ来客が来るか分からない。

 男なら、御簾や几帳越しだったり、代理の人が言ってくれるのでなんとかなる。

 だが、屋敷の中に入ることができる妃やその側仕えには誤魔化しがしにくい。


 「大丈夫です!雪子様、初対面の芳子様と仲良くお話していましたよ」

 「それは、わたくしが知っている話題でしたので.......」

 「基本的に会話の内容は今日のようなことですよ」

 「.......それなら、交換しましょう」


 しばらく考えたのか、返答には時間がかかったが了承を貰った。


 「やった!ありがとうございます」

 「杏子様、何か起こさないでくださいね」

 「何も起こさないよ?前回も起こしていないもの」


 心外である。

 (私、何もしていないんだけど)


 「あの報告を聞いて、何も起きていないわけないですよ。玲子さん、杏子様のことよろしくお願いします」


 いつの間にか、様付けだったのがさんになってて、玲子と仲良くなっていることに羨ま.......ではなく微笑えましい。

 (わたくしだって、玲子と仲良くなりたい.......!)

 杏子にはさん付け、または呼び捨てで呼ばれるのは家族と帝、東宮ぐらいである。

 昔は卯紗子も呼び捨てで読んでいたが、いつの間にか様付けとなってしまい、呼び捨てで呼んで、とお願いしても無理の一言で終わる。


 「杏子様、袿と唐衣を交換するので、脱いでください」


 杏子は卯紗子の手によって、袴の姿になった。

 下が紅に上は白練。

 袴は長いが、神社の巫女のように見える。


 「1枚は肌寒いですね」


 同じく袴姿となった雪子は両手を腕に当ててさすっていた。


 「こちらを」


 卯紗子から渡された普段着ている衣よりも少し落ちて、生地が分厚い袿とほとんど模様がない唐衣を着た。



 「雪子様、行ってきますね。卯紗、雪子様をよろしく」

 「任せて下さい!」

 「行ってらっしゃいませ、杏子様。文で報告しますね。頑張って下さい、玲子」

 「はい」


 杏子は雪子の身代わりとして、雪子は杏子の身代わりとして、再び生活が始まった。