雪子が東宮の相手をしている頃、雪子の身代わりとなった杏子は玲子と共に、淑景舎に向かっていた。


 「久しぶりに扇ね」


 杏子は顔を隠すように、縁起が良いとされる松や菊に梅が描かれた扇を持っていた。


 「普段は使用していないのですか?」

 「ええ。それこそ、お作法の練習以来よ」


 (懐かしい)

 左手を掲げても、松明の明かりでははっきりと見えない。

 それでも、日焼けを知らない白い手が赤くなっているような気がする。


 「何をしているのですか?」

 「昔のことを思い出しただけ。扇の練習をしている時に母上から叩かれてね」

 「温厚で春風のような紀子内新王が、ですか?」

 玲子の声が驚いたようで少し高かった。

 なお、眉がぴくとしただけで、表情はほとんど動かなかった。

 杏子の母は温厚で優しいと世間では言われている。

 杏子が過去を振り返っても怒っているのはその時だけだったと思う。

 誇張でもなくあの時は雷が落ちて頭には角が生えていた。

 あれから、絶対に母を怒らせてはいけない、という家訓が作られたほど。

 家訓が作られたのは置いといて、怒られた時に杏子の左手を畳まれた扇で叩かれた。

 血は出なかったがその後は不気味な青紫の変貌した。

 呪いの刀傷で手を怪我するのは慣れていた。

 しかし、このような色になったのは初めてで表には表さなかったが、内心ではかなり不安だった。

 今ではもう笑い話になっているが。


 「そうよ。母上はお作法に厳しくてね。ちょっと暑いから手に持っていた扇で仰いだんだよね」

 「それは.......確かにいけないことですね」

 「ねえ、玲子。それで、扇って必要なの?」


 いつも手ぶらなので、何か持っていると不思議な感じになる。

 正直扇は必要ないのでは、と思ってしまう。


 「雪子様はいつも顔を隠していますから」


 (まじかよ)

 まじである。

 雪子が顔を隠していたおかげで、杏子と雪子がそっくりであることは、ほとんど知らない。

 だが、雪子に成りきるには、扇が必需品なのか。

 そういえば、いつも持っていた気がする。


 「これからは扇と仲良くしないといけないのね」

 「あの、雪子様。今までどのようにして、お顔を隠していたのですか?」


 女性は親族以外に顔を見せることがない。

 扇は顔を隠すために使われる。

 決して仰ぐためではない。


 「相手から見えないように動いたり、下を向いて袂で隠したりしていたよ」


 (ここでは、だけど)

 実家にいた時は、顔を隠したことはなかった。

 でも、実家では通用しない常識が働く後宮の中ではしている。


 「はあ......。そのようなことよりも扇を使った方が楽なのではないでしょうか?」

 「両手が塞がっていると危ないんだよ。ほら」


 杏子の視界には気が映っていた。

 気は物質では無いので、暗くても見ることができる。

 見え方は明るさではなく、自身の力量。


 「撒菱ですか」


 杏子には暗くてよく分からないがどうやら撒菱らしい。

 撒菱は正確な正四面体になっており、どこから投げても棘が上を向くよう設計されている。

 これは粘土製だが、踏んだら痛いだろう。

 そんな撒菱が床にあった。

 杏子が見えているのは撒菱ではなく、悪意が篭っている気、邪気であるが。


 「弘徽殿様の嫌がらせね。玲子、どこに撒菱があるのか分かる?」


 ここは弘徽殿のすぐ近く。

 十九八九、弘徽殿の仕業だろう。

 (ここは清涼殿の近く.......。他の人が踏んだらどうするつもりなの?)

 自身への嫌がらせよりもそちらの方が気になってしまう。

 やんごとなき方が踏んだらどうなるのか、少し興味がある。

 でも、実際に起こったら、皇族反逆罪で死罪だろうけど。


 「もちろんです」

 「ねえ、玲子。今から女性あるまじき行動をします」


 そう言って、杏子はたまたま持っていた紐でたすき掛けをした。

 そして紅の長袴と衣を持ち上げて、手に持っていた扇を畳んだ。


 「何しようとしているのですか?」


 玲子の問に応えずに動いた。

 気で見えるが、靄のようになっているのではっきりとどこにあるのかは分からない。

 一応濃淡でおおよその位置は把握できるが、いかんせん数が多い。

 床全体が濃くなっている。

 こんな状態で足を踏み入れたくない。

 軽く後ろに下がって、勢いよく飛んだ。

 どこかの時代でいうなら、走り幅跳びである。


 「飛び越えるんだよ」

 「事後報告ですか。私もそちらへ参ります」


 玲子は十二単のまま音をたてずに飛び越えた。

 これにはびっくりある。


 「玲子、あなたって運動神経が良いのね」

 「雪子様を守るために日々精進しています。雪子様、元の格好に戻られた方がよろしいと思います」

 「わたくしもたくさないで飛べるよう練習しようかしら?」


 隣で杏子よりも重い衣を纏った玲子が飛べているのだ。

 杏子の中の対抗心が出てきた。

 練習場所は飛香舎の中庭にしよう。

 中庭なら外から見られないし、広い。

 灯りが倒れることがないので、火事にならなくて済む。


 「しなくて良いです。先を急ぎましょう」

 「しなくて良くはないけど、そうね。弘徽殿様の領域から早く出た方が良いよね。この後何されるか分からないし」

 「位置を特定されないよう、松明を消しますね」

 灯りがない空間には、ぼんやり光る松明だけが目印。

 松明の灯りで人がいるのか分かってしまう。

 玲子が持っている火を消したことで、杏子と玲子は暗闇に染まった。

 真っ暗な渡殿を感覚で歩いていると、また邪気を感じて、足を止めた。

 すぐ横には、弘徽殿様の派閥に入っている大納言家の娘が主の麗景殿があった。


 「どうしましたか?」

 「何か起こりそう」


 胸がざわざわして落ち着かない。


 「渡殿には何もありませんよ?」

 「麗景殿から変な感じがするんだよね。でも、ここから外に行くことは出来ない、よね?」

 「申し訳ございません。私が松明の火を消したばかりに.......」

 「後悔しても仕方ないよ。命に関わるようないやがらせじゃないでしょ」


 (万が一のことが起こっても、特に問題はないんだけどね)

 いつも懐にはお手製のお守りを入れてる。

 どんな攻撃でも一回限りだが、無効化してくれるもの。


 「ほら、玲子、行くよ。ここを通らないと、淑景舎に行けないよ」


 杏子が麗景殿のそばを通った時、水が落ちてきた。

 雨のようなものではい。

 それこそ、桶から放たれた水のような......。


 「え?」


 御簾が巻き上がってできた空間に桶を持った女房がいた。

 躊躇なく水をかけてくる。

 温水だとありがたいのだが、あいにくの井戸水。

 頭から滴った水が衣を濡らしていく。

 冷水を吸い取った着物は重く、酷く冷たい。


 「雪子様、早くここからでましょう!」


 びしょ濡れになった玲子に引かれて、この場から出ようとした。


 「あら、淑景舎様?」


 しかし、そうは問屋が卸さない。

 ところどころに水が溜まっている渡殿に佇んでいたのは、ここの主ではなく


 「弘徽殿様......」

 「あら、そんなに濡れてしまってどうしたんです?随分とはしたない恰好だこと。まあ、没落貴族の淑景舎様にはとてもお似合いですね。そのような様子では帝のお相手をするのは無理でしょうね。そうなってしまったら、形だけの更衣も必要ないでしょうね」

 「っな......!」


 後ろに控えている玲子が言いかえそうとするが、杏子は手で制した。


 「玲子、弘徽殿様に口答えをしてはいけませぬ」

 「しかし......」

 「無能の主には無能の従者がお似合いだこと」

 「お褒めに頂きありがとう存じますわ、弘徽殿様」


 朧気の灯りでさえ分かる、所々ほつれて、色が褪せてしまっている着物を身にまとい、豊かな黒髪は水でびしょびしょ。

 みすぼらしい見た目なのに、どこか気品を感じる。

 扇で隠されていない瞳には恐怖も不安も浮かんでいない。

 ただただ澄んでいた。

 釘付けになるような美しさと感情を感じない不気味さ。

 瞳に映るのは目の前にいる弘徽殿の姿のみ。

 玲子も水をかけてきた女房も視界に入って来ない。

 杏子の視線は弘徽殿を射抜いていた。


 「え?あ、ああ、そんなことはないですよ。そ、それにしても、弘徽殿様は言葉表現が苦手なのですか?」


 弘徽殿のさきほどの発言は、けして良い意味ではない。

 それは、杏子だってわかってる。

 でも、杏子の耳が取ったのは、主と従者はお似合い、の部分だった。


 「そのようなことはありませんよ?そういえば、わたくしは来れませんでしたが、弘徽殿様は遊びで大恥をかいたそうですね。世間では噂でどうとでもできますが、実際に見ていた東宮の意識を変えることはできましたか?」

 「......わたくしの演奏は飛香舎様の演奏をより素晴らしくするためですから。友人である飛香舎様は大変、学があるそうですよ。内大臣の文の返歌が素晴らしいとかで宮中では噂になっているのですよ。他の妃と関りがない淑景舎様はまだご存じなかったと思いますけど」


 普段は言い返すなどせず、じっと下を向いてただ耐えている淑景舎だが今日は違う。

 言葉は丁寧だが、内容は弘徽殿の返答に困るものだった。


 「無知なわたくしに教えて頂きありがとうございます。わたくしは学もなく、教養もないのですけど、弘徽殿様の兄君が飛香舎様に文を送ったという噂をご存じですか?最近、耳にした噂なのですけど、流行に敏感で社交性がある弘徽殿様はこの先をご存じですよね?相手は弘徽殿様の兄君ですし、他の妃と関りがある弘徽殿様はもちろん知っていますよね?無知なわたくしに文の内容と返歌の内容を教えてほしいです」


 突然、性格が変わったかのような淑景舎に弘徽殿は動揺していた。

 杏子はここぞとばかりに叩き込んだ。

 杏子は弘徽殿の兄の文に返歌などしていない。

 あんな求婚しているような文はとっくに燃やした。

 弘徽殿の方も文が返ってきていないことは知っているはず。

 でも、それを知らないと認識している淑景舎が聞くとどうなるのか?

 答えることはできないから答えないという選択肢はない。

 杏子が退路を消した。

 逃げ道を無くした。

 杏子が叩き込むのは、体ではなく精神。

 気付かれないようにゆっくりとじわじわと。

 相手の絡ませていく。

 逃げないように。

 逃がさないように。

 気づいた時のはもう遅い。

 杏子に侵される道しか残っていない。


 「......飛香舎様からの文は届きましたよ。でも、兄上宛で届いたので、わたくしは内容を知らないのですよ。兄上が書いた文は見せてもらったのですが、漢字だらけで難しかったですわ」


 かなり考えたのだろう。

 返答にはおかしいところがない。

 ......知らない者にとっては。

 (弘徽殿様は嘘を付くことにしたのですか)


 「あ、今、思い出したのですけど、飛香舎様の女房が文を出したのは、一つだけだそうで。教養が深い飛香舎様から頂いた文を持っている殿方はきっと宮中で噂になっていますよね、内大臣とか」


 弘徽殿からも言われたが、杏子は自分のことを無知で教養もなく学もないと言った。

 だから、この忘れてた、発言もおかしくはない。

 周囲には麗景殿の女房だけではなく、他の女房も大勢見に来ていた。

 女房は主に物事を教えるため、主が恥をさらさないように、東宮の興味を引くために、和歌に長けた者、学に長けた者が多い。

 きれいな言葉に隠された事実を知る者は果たして何人いるだろうか。

 女房は情報の伝達が早い。

 そうかからずに、後宮中、宮中に広がるだろう。


 「わたくしはみすぼらしい姿をしているので、席を外しますね」


 目の前には、下を向いて、いつもより小さく見える弘徽殿がいた。


 「あ、そうそう。わたくしとのおしゃべりが足りないのなら、文に送ってくださいませ。返歌いたしますから」


 そう言い残して踵を返した杏子の瞳には弘徽殿は映っていなかった。