「杏子様、顔を上げて下さい。自信もって堂々とですよ」


 杏子と呼ばれた者は見た目こそは杏子であった。

 華美すぎない着物は一見すると地味に見えて貧相にも見えるが、見る者が見たら一級品と分かる。

 肌ざわりが良く、大変着心地が良い。

 でも、これは彼女の物ではなかった。


 「卯紗子様、わたくし、杏子様に見えてますか?」


 今、飛香舎にいるのは杏子......ではなく、杏子の身代わりとなった雪子だった。


 「卯紗、と呼んでください、杏子様」

 「そ、そうだね」


 (わたくしに上手くできるのかしら......)

 この部屋には先ほどまでいた杏子と玲子は淑景舎に戻ってしまった。

 右近は仕事に行き、柏陽は外で護衛をしていた。

 (言いだしのわたくしがそんなことを思ってどうするんですか......。杏子様のために頑張らなくては)


 「杏子様、その調子ですよ!」

 「ねえ卯紗、この後何するの?」

 「そうですね......。最近は好奇心に耐えきることが出来ず、明け方まで起きていましたが、基本的には直ぐに寝ていますね。寝られない時は、琴を弾いたり、書を読んだりしていますよ」

 「卯紗、琴を持って来て下さる?」

 「かしこまりました」


 卯紗子が持ってきた琴は杏子がよく使っていたのだろう、調弦がしっかりとされている。

 やはり奏者が違うのか同じ曲でも雰囲気が異なる。

 今、雪子が弾いているのは、この間杏子が東宮と共奏した曲。

 (遠くのところにいる姫君にどのような感情を抱いているのかしら)

 会うことが出来ない悲しみ、辛さだけではない。

 会うことが出来ないからこそ愛を感じることができる。

 (全部、音に乗せてしまいましょう)

 感情表現が苦手な雪子の伝え方。

 それは音に気持ちを吹き込むこと。

 音が気持ちを乗せてくれるから、会話ができる。

 思いが伝わる。

 演奏が終わり、顔を上げると、


 「素晴らしい演奏だったよ。杏子の演奏に釣られてきてしまったよ」


 東宮がいた。


 「あ、ありがとうございます」


 東宮直々のお褒めのお言葉。

 お礼を言うことしかできなかった。


 「杏子、これはこの間遊びでも弾いた曲だよね。あの時とは別の雰囲気を感じたよ。一つの曲がこれほど変わることがあるのは、杏子の努力だよ」


 雰囲気が違うのは奏者が違うからで、杏子の努力ではないのだがそれは言えるはずもない。

 これを言った途端、今の杏子が別の人であることを東宮が知ってしまう。


 「ほんの少し気持ちの入れ方を変えてみました」


 別の人間ならば、気持ちも違う。

 (嘘ではないですよね)


 「杏子、もう一曲聞かせてくれないだろうか?」

 「かしこまりました」


 承諾したが、何を弾くのか迷ってしまう。

 (同じような曲では飽きてしまうでしょう。でも、わたくしは華やかな曲が似合わない)

 華やかな曲を弾いてしまうと、自身の貧しさが浮かび上がってしまう。

 それに、雪子の性格上華やかで雅な曲を弾いても、暗くなってしまう。


 「杏子様、明るい曲はどうでしょうか?杏子様にはぴったりだと思いますよ」


 困っているのを感知した卯紗子は雪子に助け船を出す。

 この卯紗子の発言には『今は雪子様ではなく、杏子様ですよ』という意味も含まれていた。

 (そうですよね。今のわたくしは杏子様.....)

 杏子とはまだ付き合って時間は経っていないが、少なくとも雪子のようにおろおろする人物ではない。

 常に好奇心に任して行動をしている者だ。


 「そうね、卯紗。明るい曲を弾くわ」

 
 雪子が選んだのは、とある物語が元の曲。

 雪子と同様後ろ盾を失い、人里離れた屋敷に住んでいながら、時の権力者の寵愛を受けた姫君。

 しかし、姫君の座を内新王に取られたり、時の権力者は別の女性の元へ行ったりと幸せは長くは続かなかった。

 やがて、心労が祟り、最愛の夫となる権力者の胸で息を引き取る。

 権力者は姫君が天に召されてから、姫君の愛に気づくことになった。

 一人の男に翻弄されていく姫君達の物語。
 
 雪子が弾くのは、姫君が男に寵愛を受けている時を題材にした物。

 (きっと幸せなのでしょうね)

 いつまでもこれが続いて欲しいと願ってしまう。

 人の心は変化は常に変化する。

 ずっとこのまま変化しないのは幻想。

 (感情とは儚いものね......)

 明るさの中に叶うことがない寂しさと儚さが篭っている。
 
 最後の一音を弾いて顔を上げると目の前には東宮がいた。


 「杏子、何かあったのか?」

 「ひぇ......」


 (近すぎます......!)

 すぐ近くには雲の上の東宮。

 雪子の夫であるが、最初の面会以降会ったことがない。

 
 「顔が赤いぞ。熱でもあるのか?」

 「!?」


 湊は自分の手を雪子の額に当ててきた。

 体温を測る方法としては一般的だが、ほとんど会ったことがない夫にされるのは、雪子の心臓が持たない。

 (他に方法があるでしょう......!)


 「東宮。杏子様は興奮していらっしゃるのです。曲に心を込めたからでしょう」

 「杏子の気持ちが込められていた素晴らしい演奏だった。幸せな姫君と時の権力者の曲だが、壊れそうな切ない思いも感じた。どんなことを思ったのか?」


 雪子は思ったことをそのまま話した。

 ただ幸せだけではない。

 ずっと続くことがない現実の辛さ。

 それでも願ってしまう感情。

 感情に揺れ動く恋。

 人間の儚さ。

 時々言葉が詰まることもあった。

 説明が稚拙なところもあった。

 それでも、湊は最後まで聞いてくれた。

 卯紗子は何も言わず、耳を傾けてくれた。


 「杏子。そなたは表面的なことではなく、深いところまで見るのだな。これは、俺の虚勢が効かなくなりそうだ。隠している本音が伝わりそうだ」

 「恐縮です......」


 (わたくしが東宮の心を見抜く?そのようなこと、できませんよ)


 「今日はいつもよりも、慎ましやかだな」

 「そ、そうですか?」

 「いつもなら、俺に遠慮なく来るのぞ?」

 「あ、杏子様は女御となったからでしょう。ですよね?」

 「はい。後宮に入内した以上立場がありますから」


 卯紗子のとっさの機転により答えることができた。

 だが、東宮相手に遠慮なく話していたとは驚きである。

 (杏子様と東宮は従兄妹どうし、仲がよろしいのでしょうね)


 「それぐらい俺が何とかするぞ」

 「それは命令になります。わたくしだけのために命令をしても、反感を呼ぶだけですよ?」


 一体何をするつもりなのか。

 東宮が何とかするなど、確実に大事になってしまう。

 杏子も望んでいないと思うので、雪子は必死に阻止する。

 もちろん、優雅に。

 声を荒立てずに。


 「そうか?そなたが言うなら止めとこう。だが、いつでも、頼っていいんだから」

 「ありがとうございます」


 頼ることは一生ないだろうが、お礼は言っておく。

 一応の社交辞令である。

 こちらを優しげに微笑んでいる東宮を見てふと思う。

 今は杏子の代わりに雪子が東宮の相手をしているが、東宮は杏子のことを大切に慈しんでいることが見て分かる。

 目が合うと笑みを浮かべて、声はひどく甘い。

 明らかに杏子のことを愛している。

 後ろ盾がしっかりしているのに加えて、帝の深い寵愛。

 次期中宮はまだ決まっていないが、もう決まったのも当然。

 それなのに、なぜ杏子は後宮を出たいなどと言ったのか?

 それほどまで、外の景色は素晴らしいのか?

 美しいのか?

 生活するだけで精一杯な雪子には分からない。

 でも、雪子にとって杏子は初めて正面から見てくれた人。

 一方的に軽んじられることも無く、蔑むことも無い人。

 (わたくしは杏子様の願いを叶えるまで)

 これが何も返すことができない雪子の返し方だった。

 ここに杏子がいたら、全力で否定するがそれには気づいていなかった。