夏休みも中盤を越え、八月のお盆期間を過ぎてから、ぼくと『盟友』は一緒に予備校へ通っていた。
今日は金曜日。所謂『華金』だけれど、ぼくら学生にはあまり特別感やありがたみが感じられない。『夏休み』を過ごす小中高生にとっては当たり前の事かもしれないけれどね。
ぼくも『盟友』も、予備校で受けている本日の講義は午前中のみ。と言う事で、ぼくらは講義から解放されてすぐ、予備校を出て次の目的地へ向かっていた。相変わらず残暑が厳しい。今年の夏は全国的な猛暑に見舞われ、最高気温が40℃を記録した地点はかなりの数に上ったみたいだ。
「……いやぁ、暑いね」
『盟友』は汗を拭いながら、げんなりとした声でそう呟いた。……うん、それなら、この暑い中で長袖シャツは無いと思うよ。
そんな『盟友』はスラリとした体型で、肩まで伸ばした髪はサラサラだ。卵みたいな丸い輪郭の顔も、細い眉もとても整っていて、きっと昔からモテたんだろうなあと思わせる。
対するぼくは、顔の造作はそんなに悪くないとは思うけれど、身体の線が細くて相手に頼りなさげな印象を与えてしまう。……人によっては、筋肉質なタイプより好きな人はいるかもしれないけれどね。
「うん。コンビニでお昼ごはんと飲み物を買ったら、すぐに涼しい場所に避難しよう」
心の声は、表に出さず。如何に『盟友』とは言え、相手を傷付ける発言は極力避けたかった。それに、『盟友』の白いシャツは、夏の青空とのコントラストが映えていたし。……ぼくの水色の半袖Tシャツが、『盟友』の白いシャツとの対比にもなっているね――と思ったのは、ここだけの話。
建物の外に出た『盟友』の嘆きを聞いたぼくは提案する事で、相手のモチベーションを維持させようと試みた。予備校での今日の学習は終わったものの、この後もぼくらは勉強しなければならないのだ。そのためにも、モチベを高めておくのは大事なのだ。
暑い中、ぼくらは近所のコンビニに一時避難すべく自転車を走らせる。とは言え、そこで昼食を調達して、図書館辺りに移動して、予習復習をしなければならない。別にファミレスや喫茶店でも良いのだけれど、ぼくらはともにバイトはしておらず、予算は親から貰っているお小遣いの範囲内でやり繰りしなければいけないのだ。本当だったら簡単なバイトでもやってみたいけれど、ぼくも『盟友』も両親が過保護なのに加えて、高校の勉強がとても難しいので、少しでも学業の手を抜いたら即刻、落ち零れてしまう。なので、ぼくらの高校の生徒は夏休みであっても勉強に集中しなければならないのである。
ぼくらの通う『私立松ヶ谷学園高校』はこの街――星出市で断トツのトップを貫くエリート進学校。その反面、校風は極めて自由で、殆どの選択権が生徒達に委ねられている。しかしそれは同時に責任も自ら負わなければならない事でもあるので、何でも真面目に考えて選択・実行しなければならない。後で痛い目を見るのは自分自身なのだから。自由の意味をはき違えてはいけないのだ。
自転車を漕ぐ事、約7分。予備校から三番目に近いコンビニに到着した。どうしてわざわざ三番手をチョイスしたか? というと、それは現在の時刻と予備校の場所に起因する。
まず、時刻。
予備校の午前の講義が全て終了したとはいえ、今はもう13時を優に過ぎてしまっていた。そうなると、コンビニでは飲食物の争奪戦になる事は必至。
次に、場所。
予備校は星出市の中心地・星出駅から徒歩5分の好立地にある。そのためお昼時ともなれば、駅前のオフィス群から昼休みを迎えたサラリーマンやOLがぞろぞろ出て来て昼食を買いに来るのだ。
また、最近の飲食店では原材料費・光熱費に加え、人件費も決して安くは抑えられず、提供されるメニューで利益をあげなければならないため、結果的に値上がりを余儀なくされている。つまるところ、『値段が高くて、気軽に外食できない』と考える大人達が増えて来ているのだ。
結論として、皆コンビニで買ってきて、安く済ませようと言う考えに落ち着く訳で。……賃金は上がっているはずなのに、不景気は改善されないんだなあ。
そんな訳で、予備校から一番目二番目に近いコンビニでは、食料争奪戦に勝てない事を意味する。
そこで三番手の出番だ。ここは立地的にオフィス群から少しだけ離れており、ぼくら学生達――それこそ、松ヶ谷学園高校の生徒達御用達とも言えるコンビニの一つなのだ。松ヶ谷学園高校の生徒で、かつぼくらが通っている予備校の生徒はさほど多くはない(それでも全学年合わせて三〇人はいるだろうけれど)。
ぼくは松ヶ谷学園高校生が良く利用するこのコンビニで、ペットボトルの清涼飲料水とタラコの冷製パスタ、『盟友』はペットボトルのアイスコーヒーと冷やし中華を、それぞれ購入して店外に出た。……太陽の陽射しは厳しい。日焼け止めクリームは毎日塗っているけれど、流れる汗で落ちてしまっているに違いない。……これじゃあお肌が荒れちゃうよ。
「……ホントに、暑い」
『盟友』はアイスコーヒーを口に含みながら、苦々しく呟いた。ぼくも全くもって同感だ。けれど文句を言った所で状況は、気象は、簡単に変わってはくれない。ある程度は受け入れるしかないだろうね。
「……暑いね。さっさと図書館に行って、涼みながら勉強しよう」
「うん」
ぼくの言葉に『盟友』も頷き、改めて自転車に跨って、次の目的地である図書館へと走り出した。……ちょっと買い物するために短時間だけ停めていたのに、自転車のサドルはとても熱くなっていた。灼熱の太陽は、ぼくらに恨みでもあるんだろうか? そんなボヤキは雑踏の中へと消えてゆく――
『臨時休館』
コンビニで買い物を終えて自転車を走らせる事、約15分。ようやく図書館に到着し、やっと涼めると思っていたのに、その漢字四文字が、ぼくらを絶望の淵へと叩き込んだ。
――……えっ、何? 臨時休館って、どういう事?
意味が分からない。ここで一体何があったのさ?
しかし呆けていても始まらない。ぼくは強引に思考を切り換え、図書館の入口に貼られたおしらせに、注意深く目を通す。
つまりは、こういう事らしい。
お昼前、図書館の電気系統で突如トラブルが発生し、館内だけでなく、図書館の敷地全体に電力の供給ができなくなったようなのだ。こうなってしまえばエアコンが利かないから館内で涼める訳も無い。この暑い中、肝心のエアコンだけでなく、照明も館内の電化製品ももちろん使用できないから、この施設は今、図書館としての機能が果たせていない。臨時休館も、やむを得なかった。
「……どうしようか」
「……大丈夫。ぼくに考えがある」
「ホント!? 頼りになるなあ」
不安そうに訊ねる『盟友』にぼくがそっと肩に手を当て一言囁くと、『盟友』は手放しで喜んだ……けれど、ぼくは正直、ヒヤヒヤしていた。……頼りにされるのは誇らしいけれど、何だかこそばゆいし、恥ずかしいよ。それに……
ぼくの考えと言うのは――星出市の河川敷の、橋の下へ行ってみる事。そこは水辺だから多少は涼しいだろうし、車のエンジン音が反響してうるさいかもしれないけれど、橋の下だから穴場と言ったら穴場だし。そこでお昼ごはんを食べて、少しのんびりしてから、青空教室よろしく屋外で勉強しよう――そんなプランだ。
……では、ぼくはその場所の一体何にヒヤヒヤしているのか? というと。
人目に付かない場所だから、不良だったりホームレスだったりという『先客』がいるかもしれない事だった。だってイカつい人に絡まれるのは、やっぱり怖いじゃないか。尤も、ぼくはヒヤヒヤと同時に、『『盟友』の雄姿が見られるかも?』と密かに期待していたのは、ここだけのヒミツだ。
不安や秘密にしている部分を隠した上で、ぼくは考えを『盟友』に伝えた。話を最後まで聞いた上で、『盟友』もぼくのプランに同意してくれたため、早速二人で河川敷を目指す。晩夏の陽射しは痛いくらいに降り注いでいるはずなのに、今のぼくには不思議とそれが悪くないかも? と思えていた。……『盟友』のパワーは凄いよ。こんなにもぼくを勇気付けてくれる。自信を持たせてくれる。ぼくは本当に、『盟友』の事を――
ギラギラと夏の太陽が照り付ける中、ぼくらは汗を拭いつつ、必死で自転車を漕いで星出市でも有名な河川敷にやってきた。午後も13時半を過ぎたら少し風が出て来て、火照った身体にじんわりと心地良い。
……河川敷ではぼくの懸念は杞憂に終わる。不良もホームレスも姿は無く、ただ穏やかな風がキラキラと輝く河面を揺らしているだけだった。何と言うか、平和だった。とても。
自転車を停めたぼくらは橋の下、日陰になっているところに入り、まずはお昼ごはんを食べる事にした。そこまで大食いでは無いけれど、ぼくらは成長期真っ只中の高校二年生。暑いとは言っても食欲はそれなりにあるのだ。
タラコの冷製パスタを食べる前に、ぼくはペットボトルの清涼飲料水を一口。ここに来るまでに何度か飲んだけれど、汗も掻いたし、喉だって乾くんだ。
「そう言えば、祐希ちゃんは何飲んでいるの? 私にも一口頂戴?」
「……何言ってんのさ。碧だってアイスコーヒーがあるじゃんか。そっちを先に飲めば良いじゃん。……それと、何度も言っているけれど、『祐希ちゃん』はやめてよ」
――……それに、これをキミに一口あげたら、間接キスになるじゃないか。
全く、ぼくの気も知らずに、ワガママ言って。『ちゃん』付けして子供扱いするのもやめて欲しい。……でも、ぼくはそんな『盟友』の事が――とは、口が裂けても言えない。いつか胸を張って言える日が来ると良いんだけれど、その前にぼくは、自分の気持ちにハッキリと決着をつけなければならないだろう。中途半端な気持ちを伝えてしまったら、それこそ相手にとって迷惑になってしまうかもしれないから。
「……祐希ちゃんって、意外と頑固でケチだよね。ほら! 私の冷やし中華を一口あげるから! 交換しよ? ね?」
「……頑固でケチな性格で悪かったね。……良いよ、分かった。冷やし中華は要らないから。ぼくの飲み物、一口あげるよ」
「ホント!? ありがとう! やっぱり持つべきものは『盟友』だなあ!」
――……無邪気に笑う『盟友』――仁科碧を見ていると、何だかこちらまで嬉しくなってしまう。
――……あぁ、そうか。これが、『好き』って気持ちなのか。
先月、一緒に映画を観に行った時も、今月、碧の叔父さんが営む民宿で初めてお泊りした時も、ぼく――柴沼祐希は、自分の気持ちにウソを吐き続けていたんだなあ。こんなにも『盟友』の事を好きになるなんて、碧と初めて会った時には想像もしていなかったよ。
「うん、ありがとう。美味しかった。……祐希ちゃん、あんまり甘ったるいものは飲まないんだね。ジュースだと思って飲んだから、天然水系で驚いたよ」
「いいえ、どう致しまして。……そうだね。ジュースを飲み過ぎると太っちゃうから。ぼくの家系は太りやすい体質だし、注意して、節制しているんだよ」
「そうなんだ。今の私は昔ほど身体を動かしていないけど、でも、鈍っちゃわないように、ジョギングや筋トレ程度ならやっているから、幸い太らずに済んでいるよ。良かったら祐希ちゃんも一緒にトレーニングしよう?」
「……いや、ぼくは遠慮しておく。だって碧のトレーニングは完全にガチ勢じゃん。陰キャで筋肉が付きにくい体質のぼくにはトレーニングは向いていないよ。……でも、気持ちだけは、ありがたく受け取っておきます」
「そっか、それは残念だなあ。でも、気が変わったらいつでも言ってね? 私はいつでも、祐希ちゃんのトレーニングに付き合うから!」
「ありがと。……それより、早くごはん食べよう。ぼくはもうお腹ペコペコだよ」
「うん、そうしよ。私もお腹と背中がくっ付きそう」
そう言って、ぼくらはかなり遅めのお昼ごはんを食べ始めた。
……タラコの冷製パスタに冷やし中華。麺類をチョイスしたのは失敗だったかな? と、一瞬思ったけれど、今のコンビニ飯は改良されていて、意外とバカにできない。確かに、麺類は時間経過で伸びてしまうけれど、最近のコンビニが販売している麺料理は様々な試行錯誤の結果、伸びにくくなるよう進化しているのだ。
ずるずる、ずるずる……
ずるずる、ずるずる……
しばらく無言で麺を啜るぼくら。眩しい陽射しと、河沿いの草木を揺らす風が、アンバランスだけれどとても気持ち良い。また、日陰に入っているので頬を撫でる風が丁度良い塩梅なのだ。暑いのは暑いけれど、そこまで暑すぎる訳ではない、という具合で。
「はー、ご馳走様でした!」
「……うん、ぼくも、ご馳走様でした」
殆ど同じタイミングで、ぼくらは食べ終えた。食事を終え、それぞれ飲み物を飲んで喉を潤す。
今日の天気はとても穏やかだ。お腹がいっぱいになったら、何だか眠くなってきた。
「はあ……良い天気だから、眠くなっちゃうね?」
どうやら『盟友』も考えている事・感じている事はぼくと一緒らしい。気が合うのは嬉しい事だ。何と言ったって、ぼくらは――『盟友』だからね!
……はい、済みません、強がりました。『盟友』だから嬉しいんじゃありません。仁科碧がぼくの好きな人だから嬉しいんです。
……碧はぼくの事をどう想っているのだろう? 知りたいような、知りたくないような……
それに……だ。もしも碧がぼくの好意を受け入れてくれなかったら、今後は『盟友』という関係にも戻れないかもしれない。軽々しく『好きだ!』だなんて言ってしまったら、今まで築き上げて来た大切で得難い関係性すら失いかねないのだ。……だったら――
――……告白なんか、しない方が良いに決まってる。
自分の顔が赤くなっている事を自覚しながら、ぼくは心にそう、強く決めるのだった。
「……本当、良い天気だね。でも、外で昼寝したら大変だから……」
思っている事を悟られまいと、ぼくは話を躱すように、トートバッグからノートを取り出した。でもこのノートはただのノートじゃない。ぼくが今まで書き溜めて来た、創作のネタ帳だ。恥ずかしいから本当だったら誰にも見せたくないけれど、他でもない『盟友』の碧になら、見せても良いと思えるようになった。だから、密かに持ち歩いているんだ。
「何々? これは……小説?」
「うん。文章はまだまだ拙いけれど、これはぼくが毎日、書いている小説のネタ帳。碧だけになら、見せても良いかなあ? って……」
「そうなの!? 祐希ちゃん、凄いね! 文才があるんだなあ」
『盟友』は身を乗り出して、興奮気味にぼくのネタ帳を覗き込んだ。
誰かから称賛されるのは、性格が捻くれていない限り、どんな人でも悪い気はしない。ぼくだってそうだ。捻くれている……と言うか、素直じゃ無いぼくは、他人の好意を中々正直に受け取れない。ただ、それは『盟友』の場合に限り、大幅な補正が働いて、非常に好意的に受け取ってしまうのだ。……思春期の恋愛脳に辟易する反面、この想いが無かったらぼくは一体、碧とどんな顔で接していたのだろうか? と、とても怖い疑問が浮かんで来た。
そう。ぼくも『盟友』も思春期を迎えた高校二年生。アオハルを謳歌して何が悪いんだ。……まあぼくらは少々――と言うか、かなり、普通の高校生から外れているのだけれど。
無邪気に目をキラキラ輝かせ、『盟友』はぼくのネタ帳を読み耽る。時折、『うんうん』『なるほど』『この展開は……』と唸りながら、ぼくの小説の世界へと没頭していく。何でも素直に受け取る姿勢は仁科碧の長所だ。碧は陽キャだから、色んな人に意見を窺って、取捨選択して自身の思考へ取り込んでいく。だけれど、周りの意見に流されているだけでは、決して無い。『盟友』は己の意志もしっかり持っていて、最終判断は碧自身がキッチリつけているのだった。
それに引き換え、ぼくは根っからの陰キャだ。教室で独り寂しく過ごすのは慣れているから、ぼくは本を暇潰しの相方にしている。読書に飽きたら調べ物をしたりして勉強する。それらはつまるところ、小説を書く事に繋がっている。創作のためには物語を読んで、知らない言葉や単語、情報などを調べて脳に取り込む。秀逸な文章を紡ぐ基本は、何をおいても本を『読む事』だ。それを踏まえてとにかく書く。語彙や知識を蓄えた上で、文章構成力を上げるためには書くしかないんだ。
と言う訳で、ぼっちでいる事の多いぼくは人付き合いだって基本は苦手だし、言ってしまえば仁科碧以外に親しい友はいないんだ。……碧がぼくの『盟友』で、本当に良かったと、つくづく思うよ。
……その『盟友』の、肩の辺りまで伸ばした髪から制汗剤の匂いが漂って来て、何だかソワソワしてしまう。落ち着かない。でもネタ帳を取り出したのはぼくだ。碧がそれを読みたいと思うのは、至極当然な事である訳で。
『盟友』がノートを読み終わるまでが、とても長く感じる。自業自得とは言え、碧も少しはぼくの意を汲み取ってくれても良いじゃないか。意識……、しちゃうって、分かってくれても良いじゃんか。……これでもぼくらは、異性……なんだし。
「ありがとう、祐希ちゃん。凄いなあ! 『盟友』にこんな才能があったなんて、何だか私まで鼻高々だよ!」
「……う、うん。ありがとう。……でも、あんまり慣れていないから、手放しで褒めるのはヤメテクダサイ……」
恥ずかしくて顔から火が出そうだ。正直、このことわざなんか実際に当て嵌まるシチュエーションが訪れる訳なんて無いだろう……と思っていたけれど、それはぼくの読みが甘いだけだった。
『顔から火が出る』――が、今のぼくにはドンピシャで当て嵌まっていたのだ。
何だか碧と目を合わせるのが怖い。ぼくのこんな、羞恥で真っ赤に染まった顔を見られたくない。この場から逃げ出してしまいたくなる。
「ねえ、祐希ちゃん」
「はイッ!?」
……悶々としているところで突然声を掛けられたため、思わずヘンな声が出てしまった。……ヤバい、変なヤツだと思われていないだろうか。根っからの陰キャだから、ぼくは人から嫌われる事には慣れているけれど、他でもない『盟友』には嫌われたくない。……現金なものだよ、恋ってヤツは。相手が好きだと自覚したら、後はもう、恋愛沼に嵌ってしまうものだ。ぼくもその沼に嵌った一人なのであった。
「……祐希ちゃん、大丈夫?」
「え? あ、う、うん! 大丈夫、大丈夫! それより、何?」
「……うん、実はね。私……」
「う、うん……」
ごくり。
……何だ? 何だ何だ何だ!? 碧は一体、ぼくに何を言う気なんだっ!?
思わず唾と息を呑む。
何だよ、もしかして、愛の告白? 『実は私、祐希ちゃんの事がずっと好きで……』みたいな?
……いやいや、相手の感情を勝手に好意的に受け取るんじゃない。だってぼくと碧は『盟友』だよ? 秘密を共有する仲間なんだよ? 実も蓋も無い言い方をすれば、ただの意見の合う同志に過ぎないんだよ?……その割には、ぼくは碧に惚れてしまいましたけれど。
心臓の鼓動がドキドキとうるさい。外気の暑さとは全く別な熱さで、頭が沸騰しそうだ。顔も熱い。良く見ると、ネタ帳を持つぼくの両手が震えている。……緊張、していた。これでもか! と言うくらい明確に。
……ヤバいヤバいヤバい。碧と目を合わせられない。正面から『盟友』の目を見ようと顔を向けるけれど、意志に反して勝手に目だけを逸らしてしまう。明らかに挙動不審。碧は一体何を――
「実は私、学校の皆には秘密で、イラストを描いているんだ」
「ヤバいヤバいヤバい……って、はい?」
……今、なんて?
「だーかーら! 私は、今は独学だけれど、カラーイラストの勉強をして、普段から描いて、練習しているの! 題材は主に、色んな風景に佇む高校生!」
「……え? あ、あー、うん。はい」
『盟友』のカミングアウトに、ぼくは間抜けな声で反応していた。相手にしてみれば一世一代の『告白』だったかもしれないけれど、正直ぼくは肩透かしを食らってしまった気分だ。……だってここはぼくみたいに恋愛絡みの話題になるべきでしょう?……うん、それは完全にぼくの妄想だ。ぼくが恋愛脳だから考えてしまった、愚かしい発想だ。
「……って、ちょっと待って! と言う事は……!?」
「……うん、そう。だからさ……」
事ここに至って、ぼくはやっと『盟友』の言いたい事に気付いた。
つまり――
――柴沼祐希は小説を書いている。ジャンルは大まかに言って、ラブコメ多めのライトノベル
――仁科碧はイラストを描いている。題材は主に、風景に佇む高校生、そのカラーイラスト
果たしてそこから何が連想されるかと言うと。
ぼくがアオハルもののラブコメラノベを執筆し、『盟友』がその作品のイラストを描く。そうして、二人で力を合わせて、ラノベ界を席巻しよう! という話だ。つまりぼくと碧がタッグを組み、『盟友』としての絆が更に強くなる――そういう事だ。
……前例は幾つかあるけれど、作家×絵師のコンビが恋人同士だったり夫婦だったりと、人生で重要なパートナーだった場合って、やっぱり大変なのかな? 作品のためには本気で意見を交わす必要だってあるだろうし。恋人や夫婦だったら私生活の部分にまで影響が出て来るだろうから、『相手が好きです』という理由だけでタッグを組むのって、本来ならばもしかしたら避けた方が良いのかも……
でもなぁ……ぼくはもう、『仁科碧』が好きになっている。ここまで来てしまったら、もう、以前のように『人には言えない重大な秘密を抱える「盟友」』には戻れない。恋愛って、惚れた方が負けなのかな……
「……でもさ、仮に碧がイラストレーターを志すとして、碧の厳しいご両親が簡単に首を縦に振るとは思えないけれど……」
「……うーん、確かにそうなんだけど。でも、楽観視はしているかな?」
「それは何故?」
「だってそれは……」
にゃー
「……にゃー? 碧はいつからネコになったのさ?」
「違う違う! 私じゃない!」
にゃにゃっ
「ほら、やっぱり! 今もにゃにゃって……」
「ええいっ! 違うっ!……そこだっ!」
バッ!
にゃにゃにゃにゃにゃっ!
会話の途中で『盟友』がいきなりネコになった。突然『にゃーにゃー』言い出したんだ。気を削がれたぼくは思わず半眼を作って碧をねめ付けたが、相手はそんなのガン無視で草むらに手を突っ込んだ。
どうやら何かしらの手応えがあったらしい。そんな『盟友』が嬉々として草むらから引っ張り出したのは――
「うにゃあ……」
「……ネコだ」
「……ネコだね」
まだ小さい黒ネコだった。……と言うか、本当にネコがいたんだ……。ぼく、全く気付かなかったよ。
「まだ子供だね……。ね、祐希ちゃん。この子はオスメスどっちかな?」
「……いやいや、幾ら何でもそれを言わせるのはセクハラでしょ。……それにしても、随分と大人しいネコだなあ。碧の手の中で、完全にリラックスしているし……」
ぼくも動物は嫌いじゃ無い。性別は大事なところを見ればすぐに分かる。それでもオスメスの違いだけで可愛がるか否かを変えるほど、ぼくは非情じゃない。
引っ張り出されたと言うのに、子ネコは碧に抱かれて完全なリラックスモードだ。人懐っこくて可愛いなあ。首輪はしていないし、恐らくノラネコだろう。もしかしたら、生後間もない赤ちゃんの可能性さえある。
「……ほらほら、ぼくの方にも来てごらん? 怖くないよー?」
「きしゃあぁぁぁっ!!」
「!?」
……子ネコに手を伸ばしたら、思いっ切り威嚇された。……何だよぅ。ぼくはネコにまで嫌われるのかよぅ……
「ネコちゃんを怖がらせちゃダメだよ、祐希ちゃん! ほら、よしよし……」
「ふにゃあ、ごろごろごろ……」
「…………」
……こっ……
こんの……、泥棒ネコがあぁぁッ!!
碧に撫でられて喉を鳴らしやがってえぇぇッ!!
……前言撤回。ぼくはこのネコを可愛いとは思わない。このネコは――ぼくの敵だッ……!!
「碧! このネコはメスだっ! ぼくから碧を奪う泥棒ネコは、メスネコに決まってるッ!!」
「ちょっと、祐希ちゃん!? 一体何言ってるの!? 訳分かんないよ!」
「……ふっ(にやり)」
「あーっ!? このクソネコ、今ぼくのこと鼻で笑ったな!? 碧、ちょっとそのバカネコ貸してっ! 世の中の厳しさ、ぼくがたーっぷり教えてやる……ッ!」
「ちょっとちょっと、落ち着いてよ、祐希ちゃん!」
河川敷で昼食後、少し休憩して勉強――のはずが、物凄い勢いで脱線してしまった。けれど、意外とこういうイレギュラーもアリかもしれない。図書館が利用できない不便さはあったけれど、代わりに碧の秘めたる想いや……意志の一端も垣間見る事ができたし。……最後の泥棒ネコのくだりは、今のぼくらには全く必要無かったけれどね。ぐすん……
もう、子ネコと碧はワンセットとして考える事にした。……納得はできないけれど、そうでないと話が進まないし。
本来ならば、ライトノベル作家・柴沼祐希、イラストレーター・仁科碧についての話をするはずだったけれど、突如降って沸いた問題――偶然拾ってしまった子ネコをどうするか? について早急に話し合わなければならなくなったのだ。
何故なら……命を育てるには、責任が必要だから。
小さくて可愛いからー、と言って愛するのは良いけれど、飽きたからー、とか、大きくなって可愛げが無くなったからー、などと言って世話する事を途中で投げ出してはいけないのだ。
育てられないのであれば、最初から飼ってはいけない。
非情な言葉に聞こえるかもしれないけれど、でも、逆にペットの身になって考えてみて欲しい。
ペットが飼い主に懐くのは、飼い主を信頼しているから。大事な家族と認めているから。けれどその飼い主がペットである自分の世話――食事とかを放棄してしまったら、ペットは悲しむ。ごはんが食べられなければ、ペットはどうにかして飼い主に空腹を訴えるだろう。
でもペットに責任を持たない飼い主は、その泣き叫ぶなどの要求だけに苛立ち、更に世話をしなくなってしまう。哀しいかな、ペットは人語を介す事ができないんだ。直接的に窮状を訴える事ができないんだ。
その先に待っているのは――虐待死。
結局は、ペットの命は飼い主の意志に懸かっているのだ。
ぼくは無駄に命を奪ったりしたくない。例えそれが幼い子ネコだったとしても。
本来ならば、子ネコを見つけたぼくか碧が飼うのが一番良いのだろうけれど、生憎ママがネコアレルギーなので、ぼくの家ではこの子を飼う事ができない。……ぼくから碧を奪う泥棒ネコなんか、飼いたくないけどねっ!
じゃあ、碧はどうか? と考えるけれど、碧の住むマンションはペット禁止。……高級マンションなんだから、ペットくらい許して欲しいと思うけれどねぇ……
……ダメだ、初手から詰んでる。どうしよう……
プルルルル……
『あー、もしもし。碧?』
「……あ、志乃?」
「?」
碧のスマホに突然着信が入った。その声の様子から女子だと思われる。そしてフレンドリーに碧に声を掛けている。碧は碧でその女子に気軽に返していた。……誰、この女子?
「あっ、祐希ちゃんに紹介するね。この子は私の小六の時のクラスメートで、竹中志乃さん。今はマラソンに力を入れていて、高校の陸上部でもトップの実力を誇る、期待のホープだよ。私もたまに、彼女と一緒にトレーニングしているんだ」
ぼくの心の声が聞こえたのだろうか。碧がスマホをビデオ通話に切り換えて、唐突に電話して来た女子に笑顔を向けてから、その子をぼくに紹介してくれた。……そうかそうか、碧のガチなトレーニングは、この子と一緒に行なっているんだね。
しかしこの竹中志乃って子、中々可愛らしい女子だ。スマホの画面が通話相手の全身を捉えている。痩せ型の体型で、くせっ毛の髪はショートにしていた。なるほど、全てがマラソンに特化している。無駄な脂肪を削ぎ落した体躯も含めて、走る事に全振りしたスタイルなんだろう。そうだよね。長髪をなびかせて走るのは――悪いとは言わないけれど――、鬱陶しく感じる選手もいる訳だし。竹中さんは走る際に、髪は短くて良いと思ったようだ。右目の泣きぼくろも含めて、顔の作りはとても良いし、充分に可愛らしいから、髪の長さで自身の魅力が変わらないと思っているのだろう。……ううむ、スマホの画面越しとはいえ、全身から自信が漲ってくるなあ。
『初めまして! あたしは竹中志乃って言います。キミは……碧の友達? なら、あたしにとっても友達だよー。良かったら『志乃』って呼んで。えぇと……』
「……あっ、どうも。ぼくは柴沼祐希って言います。碧とは、めいゆ……友達、ですね。はい。ぼくは人見知りなので、失礼なところがあるかもしれないですけれど……宜しくお願いします、志乃……さん」
『あはは! そうなんだ。呼び捨てで良いよ。あたしは畏まったのが嫌いだからー! 代わりにあたしも『祐希』って呼び捨てにするねー』
「……あ、はい……志乃。ありが……とう」
『そんなに緊張しなくても大丈夫だよー! 別に取って食う訳じゃ無いし!』
……人見知りのぼくとしては、竹中さんのように相手との距離感が近い人は苦手だ。何だかぼくのテリトリーに無断で踏み込まれるようで、落ち着かないからね。
でも彼女はカラっとした、スッキリ晴れた日の天気のような性格で、清々しい。少なくとも、陰でぼくの事を悪く言ったりするようなタイプには見えなかったし。何よりぼくの『盟友』の仁科碧が心を許せる相手だ。『盟友』のぼくらだけが知る、否、秘密にしている事まで知っているかもしれないし、碧が信用している女子だから、ぼくも信用して良いのかもしれない。
「そうだ、碧。志乃……に、なら……」
ぼくは碧を見ながら思いついた事を口にする。……うん、志乃からしたらぼくらはかなり無責任かもしれないけれど、今は彼女に望みを懸けるしか無いのだ。
「うん、私もたぶん、祐希ちゃんと同じ事を考えていた」
碧がぼくの台詞に頷く。状況が状況だけに、この場で志乃から着信が入ったのは、ぼくらにとってまさに渡りに船と言えるだろう。……一人だけ、話に付いていけていない志乃がスマホの画面の向こうで頭上に『?』を浮かべて首を傾げていた。
「ごめんね、志乃。電話を受けた側からお願いして申し訳無いんだけど……」
『えっ、何々? 急に改まって……いつもの碧らしくないよー』
一言、断って、碧は子ネコをスマホの画面の向こうにいる志乃に見せた。そして土下座も辞さないとばかりの勢いで話し始める。
「……実は、河沿いの草むらでこの子を拾っちゃって……。私の家はペット禁止だし、祐希ちゃんの家はお母さんがネコアレルギーで飼えなくて……。だから、お願い! 志乃、この子ネコ、飼ってあげて下さい!」
「……ぼ、ぼくからも、お願いしますっ!」
「にゃあ」
碧に倣って、ぼくも志乃に頭を下げる。自分の事を話していると分かっているのか、子ネコも可愛らしい鳴き声を披露していた。
……僕らのお願いターンは終わった。後は志乃の回答次第だ。彼女の答えで子ネコの運命が決まる。ぼくらはもはや縋るような心持ちだった。
『いや、あたしの用件は後回しでも良いけど、ネコかぁ……』
けれど……志乃の反応は芳しくない。これは断られてしまうのだろうか? 碧が拾ってしまった子ネコは、幸せにはなれないのだろうか……?
『そうだ! あたしのお祖母ちゃん家、すぐ近くに保健所があるんだー』
『!?』
ほ、保健所!?
そんなのダメ!……とは、軽々しく言えなかった。だってぼくらはあくまでもお願いしている立場。この依頼を受けた場合、子ネコの処遇をどうするのか、その最終的な決定権は志乃にある。志乃の家でも子ネコが飼えないと言うのなら、保健所に連れて行く選択も取らざるを得ないかもしれない……
『あはは! ごめんごめん、流石に保健所は冗談だよー。あたしンちでもこのネコちゃん飼うのは難しいんだけど、あたしの従妹がまだ小さくて、伯母さん――お母さんのお姉さん――に、ネコ飼いたい! ネコ飼いたい! ってダダをコネていたからねー。頼んでみるから、ちょっと待って?』
そう言って志乃は碧との通話を一旦ミュートにし、他の誰かに電話を掛け始めた。恐らく彼女の叔母だろう。いまこの場で直接交渉してくれるらしい。……ぼくらにとっては、つくづくありがたい限りだった。
ピッ
数十秒後、伯母さんとの通話を終えた志乃が、ぼくらとの通話を再開し――ビデオ通話でサムズアップをした上で子ネコに視線を寄越す。……ぼくらとの始めの会話で分かっていたけれど、碧が拾ってしまった子ネコはこの様子なら、偶然通り掛った碧の元クラスメート・竹中志乃の叔母の家に引き取られる事になるようだ。
『OKだったよー。伯母さんの家で飼ってくれるって!』
「!? ありがとう、志乃!」
「あっ、ありがとう……ございます、志乃」
「うにゃあ……」
改めて、志乃の回答を聞いたぼくらは、それこそ安堵したあまり泣き出さんばかりの勢いで彼女にお礼を伝えた。子ネコも自分の事だと分かっているのか、可愛らしい鳴き声で感謝の意を表する。
無事に子ネコの処遇が決まってくれて、ぼくらはホッと胸を撫で下ろすのだった。拾ってしまった経緯は完全にイレギュラーだったけれど。碧が草むらの鳴き声のする方に手を突っ込んで掴んだら、突然この子ネコが現れたのだから。……でもぼくは最後までこの子ネコ……泥棒ネコは可愛いと思わなかったけれどね!
碧の手の中で、話題の中心に上がった子ネコは順繰りと周りを見回す。碧と、志乃と、ぼく……を、ゆっくりと見回して、最後にぼくの顔を見てから――
「…………ふっ(にやり)」
「!?」
こっ……
こんの、バカネコがあぁぁッ!!
またぼくの事を鼻で笑いやがった! どこまでもぼくの事をバカにするのかっ、このクソネコがッ!!
「碧! やっぱりこのネコ、ガッツリ痛い目を見た方が良いかもしれない! 絶対にぼくの事をバカにしているッ!!」
「ちょっと!? 落ち着いてよ、祐希ちゃん!」
『どしたー? 何かあったん?』
……ぼくらは完全に志乃を置いてけぼりにしていた。碧は片手で抱っこするバカネコに手を伸ばすぼくを華麗に躱しながら、空いた手でスマホの画面へ意識を向ける。……くっ、器用な。ええい、抵抗せずに、そのクソネコをぼくに寄越すんだ、碧! こればかりは例え相手が好きな人だからって譲れないよ!?
子ネコを巡るぼくらの争いをスマホの画面越しに眺めつつ、志乃が呆れ顔で叫んだ。正直、雷が落ちたかと思ったくらい、びっくりしちゃった。性格的に温厚な女子だと思っていたから、そのギャップにも驚いたんだ。
『ウチのネコをイジメるなっ! もしその子に何かあったら、例え碧と祐希があたしの友達と言っても、絶対に許さないよっ!!』
「「!?」」
『二人とも、返事は!?』
「「は、はいっ!」」
『……よろしい。動物は、あたし達、人間より弱いんだからさ……。優しく扱わなきゃダメだよー?』
「「……(こくこく)」」
無言で首を縦に振るぼくら。……志乃からしたら、息の合ったぼくらの動きに怒気を削がれたかもしれない。怯えている、と受け取られたかも?
『……ん。じゃあ、碧と祐希は今、河川敷にいるんだよね? あたしの用件は、今度の日曜日のトレーニングの事だったんだけどー。その子ネコちゃん、日曜日にあたしがお母さんと一緒に伯母さんの家に連れて行くから。明日の土曜日は部活の監督と話をするからさー、時間が取れないんだ。ごめんねー? そういう訳で、その子ネコちゃん、あたしが今から引き取りに行くよー。丁度今出先だし。ちょっと待っててー。じゃー、よろしくー』
「……うん、分かったよ。ありがとうね、せっかく電話くれたのに、私の突然のお願いを優先しちゃって……」
『いーのいーの、そんなん。それじゃあねー? 祐希もー。バイバーイ』
ピッ
嵐のような通話が終わった。何と言うか……かなり姉御肌な女子だったなあ、志乃は。特にぼくと碧が子ネコを奪い合っていた時の一喝たるや……。本当に怖かったよ。たぶんアレ、志乃はガチギレしていたかもしれない。でも、捉えようによっては良かったと言えるよね。だって突然増えた家族を快く迎えてくれて、危険が迫っているかもしれないと判断したら、毅然とした態度でぼくらに雷を落としたんだから。子ネコの命に真摯に向き合ってくれる事、請け合いだ。……まぁ、実際に飼うのは志乃の叔母さんなんだけれどね。
「……あっ、疲れたのかな? ネコちゃん、寝ちゃった……」
「……ホントだ。こうして見ればかわい……いや、ぼくは認めない。このバカネコは絶対にぼくの事を嫌っているんだ……!」
碧の腕の中で幸せそうにすやすやと眠る子ネコは……確かに可愛いかもしれない。けど、ぼくは騙されない。このクソネコは邂逅時から眠りに就く先ほどまで、明らかにぼくの事を下に見ていたんだ(……そうとしか思えなかった)。
……ぼくから仁科碧を奪う泥棒ネコめ!
「寝ちゃったなら、しょうがないか。とりあえず、私のバッグの中で寝かせてあげよう」
そう言うと、碧は優しい手つきで子ネコをバッグの中に入れてあげた。……ダメ、そんなソフトタッチでバカネコになんか触らないで。触るんだったらぼくにして……。
……そんな、ぼくの哀しい心の慟哭はさておいて。
思わぬ邪魔が入ったけれど、ぼくらは夢について語っていた。ぼくがラノベ作家、碧がイラストレーターとしてプロデビューし、タッグを組んで、スマッシュヒットを連発するんだって。……正しくは、その妄想を膨らませまくるだけだったけれど。
柴沼祐希も仁科碧も、今はまだ、どこにでもいるような一介の高校生に過ぎない。もっと言ってしまえば、社会においては、ぼくらはまだ何者でもない。その『何者か』になるために、ぼくらは学び、行動し、時には壁にぶつかったりしながら経験を積んでいくんだ。そのために今ぼくらは高校に通っているんだ。
経験した事はリセットできない。つまり、今まで積み上げて来た経験値は人生のどこかで必ず役に立つ。役に立たないと思う事も、時にはあるかもしれない。けれど、『経験した』という事実が大事なんだ。何をするにしても、対処法を知っているのと知らないのとでは、知っている方が断然良いに決まっている。どの経験が何の役に立ってくれるか分からないからこそ、より多くの事を知って覚えておいた方が、長い人生で『知ってて良かった』と思う日が来るはずだから。経験がその後の人生を大きく変える事だって充分にあり得るし。
「……本当は勉強したり将来の夢について話したりするはずだったのに、私が偶然ネコちゃん見つけちゃったせいで、脱線しちゃったね。ごめんね、祐希ちゃん?」
「いやいや! これは不可抗力だよ。このバカネ……子ネコを拾ったのは完全に予期せぬ事態だったから。碧が話の腰を折った訳じゃ無いから」
「うん、ありがと!」
そう言って、『盟友』は弾けんばかりの笑顔を見せてくれた。……癒されるなあ。この眩しい笑顔を、今この時だけはぼくが独占できている事に、優越感を覚える。全く、最高かよ。
……ヤバいなあ。ぼくの顔は火照りまくって、沸騰してしまいそうだよ。今までずっと碧の前で顔を赤くしていた――と思うけれど、果たして今はどれくらい赤くなっているだろう?……碧に指摘されるのは、何だか怖いな。でも、好きな人にありのままの自分を見せられるのって、とても素敵な事だと思うんだ。……あぁ、でも、『ありのままの自分』と言ってもぼくらはまだ高校二年生だから、ハダカになったりはしないけれどね。
そりゃあぼくだって碧の裸に興味はあるよ。でも、順番が違うでしょ。身体で繋がるより、ぼくは碧とまず先に心で繋がりたいんだ。『盟友』=『セフレ』では無いんだ。……『盟友』は『盟友』。むしろ『恋人』ですらあり得ない、とぼくは思っている。
だって考えてもみて欲しい。
元々、ぼくと碧はお互いに、『人には言えない重大な秘密』を持っている。そしてとある事件がキッカケで、ぼくらは互いのその秘密について明確に知り合う事となった。それぞれの秘密は二人とも、過去から現在まで家族や信頼できる友人くらいまでにしか打ち明けていない(秘密を知り合う事になったぼくと碧は当然例外だけれど)。
その後ぼくらはじっくり話し合い、お互いの『人には言えない重大な秘密』の詳細を理解し合った上で、それを第三者に悟られないよう協力したり、困った時にサポートし合ったりする『盟友』という間柄になるという結論に至ったんだ。それまでは秘密を抱えるが故に頼れる他人がおらず、ぼくらは出逢うまでそれぞれ孤立を深めていたし。
何も、孤独に耐えられなかったからとか、傷を舐め合いたかったから誰も知らないところで協力関係を結んだ訳じゃ無い。言ってみればビジネスパートナーみたいなものだ。互いにメリットがあるから手を組んでいる――というだけ。そこに余計な感情は必要ない。私情を挟めば秘密を抱えるために不都合となっている事柄が排除できなくなってしまう。
仮に『柴沼祐希と仁科碧って付き合ってんじゃね?』などと言う噂が広まりでもしたら、せっかく波風立てぬよう静かに過ごそうとしている高校生活が強制終了させられてしまう。中学まではそれぞれ秘密がバレず、悪目立ちせずにやり過ごせて来たのに、高校二年生で全てが破綻するなんて最悪だ。一生隠し通す事は流石にムリかもしれないけれど、せめて高校卒業までくらいなら隠し通したい。それだけ、ぼくと碧が交際しているかも? という疑惑は、ぼくらの秘密にとって致命的なのだ。
……というように、今までは考えていたのだけれど。
今のぼくは仁科碧に対して完全に恋愛感情を抱いてしまっている。これでは『盟友』失格だ。『盟友』相手に恋愛感情を抱くなんて、言語道断。油断していると、どこから情報が洩れてしまうか分からないしね。『柴沼祐希&仁科碧交際疑惑』に尾ひれが付いて、そこを皮切りに真実が暴露されたんじゃ目も当てられない。思春期の高校生は、恋バナが大好物だからね。ただでさえぼくは陰キャのぼっちなんだし、それに加えて自分のパーソナルスペースに他人が土足で上がり込んできて欲しくない。
特に、恋愛脳になっている状態では、マトモな思考は働かない。自分の秘密よりも相手の秘密を優先し、それを庇う代わりに自身を犠牲にする可能性だってある。そんな事では『盟友』として約束を交わした意味がなくなってしまうし。……とは言っても――
――……この恋心を正当化するためには、碧にもぼくの事を好きになって貰うしかない。けれど人の感情を自由に操る事は困難だ。だからもう、ぼくは今、仁科碧に好かれている、と願うしかない……
もしも付き合うのだったら碧との交際は周囲にはバレたくない、そう思う反面、『碧はぼくの恋人だ!』と声高に主張したくなる、という、相反する想いが渦巻いて、一体ぼくはどうしたいのだろう? と思い悩む。
ぼくと碧が『恋人』以外の立場で関わる……将来ライトノベル作家とイラストレーターになったって、最終的にはぼくの慕情のせいで碧を巻き込んで、互いをヘンに意識してしまって、ずぶずぶの関係になってしまうかもしれない。好き同士だったらそうなる事は全く不自然じゃ無いし、むしろ当たり前の事と言えそうだけれど。プロになってから私的な感情を優先しすぎるあまり、本業である執筆や作画を怠ってはいけないけれどね。
……ここで大事なのは、ぼくはまだ仁科碧に『片想い中』であると言う事。ぼくと碧がイチャつくのは、あくまでも恋人同士になってから。如何にぼくが碧に好意を抱いていても、肝心の碧がぼくの事を好きでいてくれるとは限らないのだ。……片想いって辛いなあ、はぁ。
「祐希ちゃんって凄いね。小説のネタ帳、とても上手に纏めてあって……。こういう、文章を管理する能力があるのって、素晴らしい事だと思うよ!」
「……いえ、恐れ入りまず」
碧のキラキラした目を正面から見られなかった。気恥ずかしいし、何より、ぼくの好意が筒抜けになっていないか不安だったんだ。結果、碧の顔の斜め下を見ながら、小さな声でそう言うのが精いっぱい。我ながら情けないよ。
「……祐希ちゃん、大丈夫? 何だか元気無いけど……もしかして、暑さで体調悪くなった?」
「!? いやいやいやいや、違います違います!」
即座に否定した。……アナタの天真爛漫な笑顔に魅了されているせいです――なんて言える訳が無いからね。心配そうに顔を覗き込んで来る碧に、胸中でそう答える。
近くで見る碧の表情は、本当に見ていて飽きない。モデルやアイドルにスカウトされても遜色ないレベルだ。将来はイラストレーター兼モデル・俳優兼アイドルとしても充分やっていけるに違いない。無敵だぜ、仁科碧……!
……はい、済みません。恋愛補正、大幅に入りました。でも、あながち違う、とも言い切れないんだ。
「……それなら良いんだけど……。でもさ、私達が一緒にいて、痴漢に狙われるのは私だけど、不良に絡まれたりするのは祐希ちゃんでしょ? もっと鍛えろ! とは言わないからさ、せめて私が護身術代わりに教えてあげるよ? 空手でも、柔道でも、剣道でも」
碧からの提案。
そうなのだ。仁科碧は、可愛らしいその顔立ちに似合わず、めちゃくちゃ腕っぷしが強いのだ。
いま本人が挙げた通り、碧は幼い頃から空手・柔道・剣道を習っていて、その実力は全国に名前が知れ渡るほどだった。
七月最初の日曜日にぼくと映画を観に行った際も、バス停で絡んで来た不良達をたった一人で返り討ちにした。当時は何と言うか……圧巻だったなあ。襲い掛かる不良達を、次から次へとバッタバッタと薙ぎ倒して、でも碧本人は掠り傷一つ無くて……
因みにその時のぼくは傍観者に徹していた。傍から見たら、か弱い美少女を助けようともせず、安全圏からただ見ているだけの彼氏というのはどういう了見だ!? と突っ込みが入りそうだったけれど……冗談抜きで碧はぼくより強いんだ。逆にぼくが最前線に顔を出してしまうと、碧の足手まといにしかならない。ぼくの手助けは碧にとって『余計な事』なのだ。……そして周囲には毎回『付き合っている』前提で見られるが、ぼくらはあくまでも『盟友』だし。『恋人』じゃあ無いんだ。
さて、そんな、武道に長けた仁科碧は現在、空手も柔道も剣道も、自主的には稽古に顔を出していない。元々、碧は両親の言い付けで道場へ通わされ、稽古をつけて貰っていたのだが……中学三年生の個人戦・全国大会にて、三種目全てで優勝を果たした後――『盟友』の中でやり切った感が出てしまったらしい。その結果、高校受験を理由に三競技から距離を置き、学業に力を入れた。元々の学業成績も良かったため、中学校内でも仁科碧はメキメキと頭角を現し、やがてはテストの度にトップの座を争う存在になったようだ。文武両道を体現・ルックスも完璧って、チートかよ。
そうして見事に名門進学校である私立松ヶ谷学園高校に合格したのだが……受験勉強中の息抜きが、ぼくも知る、盟友の決して人には言えない秘密なのであった。
期間にしておおよそ1年10ヶ月近く、『盟友』は人目を忍んでその趣味を楽しんでいた。
似たような趣味はぼくも持っている。だから碧の感覚が良く分かるんだ。その、感覚の同調こそが、ぼくらが『盟友』という関係性に至る決め手となった。
碧が武道の稽古では無く、自主的なジョギングや筋トレなどのトレーニングを行なっているのは、前に述べた通り。しかもかなりのガチ勢。更には『盟友』のかつての同級生・竹中志乃とも一緒にトレーニングをしているらしく。
……そうなると、完全な横恋慕だけれど、面白くないのはこのぼくだ。『盟友』との時間はぼくが、ぼくだけが、独占したいと思ってしまっている。他の誰にも仁科碧を渡したくない、と。竹中志乃よりぼくを選んでくれよ、と。……参ったな、ぼくはどんだけ碧の事が好きなんだよ。これで碧がぼくの事を好きでも何でもなかったら――? イヤだ、そんな悪夢は想像したくもない!
「……うーん、護身術かあ。碧から習うのも大事かもしれないけれど、ぼくは基本的に運動が苦手だからさ。身につけたところで上手く活用できるとは思えないんだよね……」
自身の不安を振り払いたくて、ぼくは碧の提案に反応を返した。しかしそれも歯切れが悪くなってしまう。そりゃあ碧が手取り足取り教えてくれるのはこの上なく嬉しい。けれどここで忘れてはいけないのは、『盟友』が教えてくれるのは護身術であって、簡単なストレッチや筋トレなどではない事。しかも碧はこと運動に関してはガチ勢だから、ぼくへの講義も相当スパルタなものになるだろう。……陰キャぼっちで、運動音痴のぼくにどうしろと?
このぼく――柴沼祐希は中学時代からの、根っからの陰キャだ。太りやすいクセに筋肉はつき難にくく、昔からクラスメート達にバカにされてきた。教室ではもちろんぼっち。そんなぼくは気付けば自分と他人を冷静に、俯瞰的に捉えるようになっていて、『自身が行動する際は必ず、以前に見て学んだ他人の行動を参照しよう』と考えるようになり……つまるところ、何をするにしても、誰かの失敗を反面教師にしよう、ああはなるまい、という思考形態が作り出されていた。……結果的にぼくはシニカルで性格の悪い人間になってしまった感があるけれど……仁科碧に嫌われなければ、今はもうそれで良いやと思うようになっている。……重症だね、コレは。
「……私が色々教えてあげるからさ。ね? やってみない? 大丈夫、痛くしないから」
渋るぼくに、碧が上目遣いで聞いて来た。……その目つきは反則ですよ、仁科碧さん。オトされてしまうじゃないですか。それにアナタのその台詞は立派なセクハラです。
「まぁ……ぼくにはコレがあるから」
言ってぼくが取り出したのは――今の趣味を始めた頃から必ず携帯している、スタンガンだ。思えばこのスタンガンは様々な場面でぼくを救ってきてくれた。先月の、碧と一緒に映画を観に行った、あの時も。
碧もぼくの相棒とも言えるスタンガンを否定する事はできない。何故なら実績を挙げているからだ。それこそ、二人で映画を観に行った時だって、碧が複数の不良達と対峙している際、他の一人がぼくへと肉薄し、碧の動きを制限するために、ぼくの身体を羽交い絞めにして人質に取ろうとしたんだ。その拘束を破ったのが、このスタンガン。もしもコレが無かったら、僕らは不良達から辱めを受けていたかもしれない。
「……祐希ちゃんが心配だけど、私が常に一緒にいられる訳じゃ無いから……」
スタンガンをちらりと見た碧が、どこか寂しそうに呟いた。
それはそうだ。例えぼくらが『盟友』だと言ったところで、家族ではないし、恋人ですらない。どんなにお互いが大切であっても、物理的な距離だけはどうしよもなく。……『盟友』であるが故に、ただの『親友』には及ばない、特別な絆はあるだろう。だがそれも『家族』や『恋人』の絆に勝るのか? と問われたら、肯定する事は難しいかもしれない。『盟友』は、『家族』や『恋人』に比べたら、心の距離は離れている。碧の、『常に一緒にいられる訳じゃ無い』という台詞から、そういうニュアンスが滲み出ている気がしたのだ。
……大丈夫。ぼくは仁科碧のお陰でだいぶ強くなれた。だから……時々でも良いから、ぼく――柴沼祐希に、きみを支えさせて欲しいんだ。
「碧、あのさ……」「祐希ちゃん、あのね……」
ぼくらの声が重なってしまった。『盟友』の声音はどこか震えていたようにも思える。ドキドキしながら碧の顔を見やると、まるで火照ったかのように真っ赤だった。表情も憂いを帯びた――という表現がぴったりだ。何故だろう……? と、考えるまでも無い。仁科碧も少なからずぼく――柴沼祐希に対して好意を抱いてくれている、と言う事だ。思春期の恋愛脳が考えそうな妄想だ――そう、貶されるかもしれない。けれどぼくと碧は『盟友』として、様々な苦難をともに乗り越えて来た。だってぼくらは『人には言えない重大な秘密』を抱えているのだから。それを共有する、数少ない仲間――『盟友』なのだから。
加えて、二人が異性というのもポイントが高い。同性……竹中志乃のように、女子ならば女子にしか分からない悩みだってシェアできる。彼女の存在はぼくにも碧にも大きいと言えるだろう。碧もぼくも、志乃になら困っている事を相談しやすい気軽さがあるんだ。彼女の性格がサッパリしているのもありがたかったし。……尤も、ぼくが彼女と会話したのは、数分前が最初だけれどね。
「……碧から先にどうぞ」
「良いの、祐希ちゃん?」
カッコいいところを見せたいがために、ぼくはそう強がってしまった。本当ならぼくの口から本音を吐露したかったんだけれど……何を? って、そんな事は分かり切っているじゃないか。
「…………好きだよ」
っていう事の他に無いじゃんか……
……
…………えっ?
ええええええええええええっ!?
い、いいい、今っ、あああああ碧はッ!? ぼぼぼぼぼくの事を……ッ!?
「%&=#!@?*+」
「もう! 祐希ちゃん、動揺し過ぎ!」
そんな事言ったって……ぼくは生粋の陰キャだよ? 異性から告白された事なんて一度も無いんだよ? 落ち着けって言う方が無理なんだよ……ッ!?
ぼくの反応は相当分かり易かったのだろう。碧は形の良い細い眉を八の字にして、苦笑いをしていた。その顔を見たぼくと言えば、動揺と驚愕で目を見開いていたのが自分でも分かる。次いで徐々に歓喜が湧いて来て……最後に去来した大きな感情は――羞恥だった。
恥ずかしい。
でも……地味で目立たないこんなぼくを、『好きだ』と言ってくれる人が現れた事は――素直に嬉しい。
けれど……嗚呼、やっぱり――恥ずかしいものは、恥ずかしいよ……ッ!!
……ただ、ここで大きな問題が浮上して来る。そう、ぼくらの関係性――『盟友』の今後について、だ。
今までの柴沼祐希と仁科碧の『盟友』という関係性は、『人には言えない重大な秘密』を共有できるという点にあるからこそ、成立していた。仮にぼくが碧からの告白に対する回答として『OK』を出してしまったら、もう以前のような間柄には決して戻れない。だからこそこの場の返答は慎重に考えた上で出さなければならない。
ただ、『ぼくも高二だし~、そろそろ恋人欲しいし~』なんて軽い気持ちだったり、『碧がどうしても……って言うのなら、仕方無いなあ』と相手のせいにしたりとか、そういう不誠実な答えを返すのだけは絶対に違う。
……じゃあ、なんて返す? 仁科碧の気持ちを無下に断っても良いのだろうか? けれどぼくらは大切な『盟友』だし……。無責任に告白を受け入れて、大事な『盟友』を失うくらいなら、ぼくは恋人なんか要らない……。ダメだ、一体どう答えれば良いのか全く分からないよ。
「……もしかして、迷惑……だったかな? 祐希ちゃんは、私の事、嫌い?」
「えっ!?」
……仁科碧さん、その質問はズルいですよ。『迷惑』だとか『嫌い』だとか言ってしまったら、今までの『盟友』という関係性まで否定する事になってしまうでしょうよ。けれど、『そんな事は無い、ぼくも碧の事が好きだよ』などと軽々しく言ってしまったら、もう二度と『盟友』には戻れない。つまり碧の質問には、どう答えても不正解になってしまうのだ。
「……私が言いたい事は言えたから……。次は祐希ちゃんの番。さっきは何て言おうとしたの?」
「え、ええっ!? そ、それはそのぅ……」
……仁科碧、ドSかよ。答えに窮するぼく。ここは正直に、『これからはぼくにも碧を支えさせて下さい』って言おうかな?……ダメだ。それじゃあ『盟友』云々や告白の答えを通り越してプロポーズになっちゃう! 言いたい事はそのまんまなんだけれど、台詞のその部分だけを切り取ったら、完全に誤解される!
かと言って、『本当にぼくの事が好きなの?』なんて質問で返してしまったら、碧の気持ちを疑っていると捉えられかねない。碧を傷付ける事になってしまう。
結局のところ、ぼくは『盟友』と『恋人』を天秤にかけて、どちらを取れば良いのか分からないのだった。
ふと視線を上げて、碧の顔を見てみる。整った顔立ちはぼくの好みだ。もちろん顔の造作だけで相手への感情を決めるほどぼくは外道じゃない。ぼく――柴沼祐希は仁科碧が心の底から好きなんだ。……ならば、答えはもう決まっているじゃないか――!
「……いや、ぼくはいつも碧に守られてばかりで……。そんな自分が情けないけれど、ぼくは今まで碧に支えられて来たみたいに、今度はぼくが、碧の事を支えたいって、思っているから」
「……うんうん」
「……だから……もう、『盟友』じゃなくなっちゃうけれど、こんなぼくで良かったら……付き合って下さい……」
「…………うん。ありがとう。嬉しい……これから宜しくお願いします、柴沼祐希さん」
「……ぼくの方こそ、宜しくお願いします……仁科碧さん」
……残暑の厳しい八月下旬、柴沼祐希と仁科碧はこうして、『盟友』から彼氏彼女――『恋人』になりました――
「ねえ、碧……さん。これからなんて呼べば良いかな?」
「えー、何も変える必要無いって。今まで通り『碧』って呼び捨てで構わないよ」
「……うん。でもさ……碧。ぼくは今まで異性と交際した経験が無いから、いざ付き合うってなっても、何が正解か分からない……」
「うんうん。今までと変える事なんか無いよ? だってほら、私達はずっと『盟友』として酸いも甘いも味わい、苦楽をともにして来たでしょ? その絆があるんだし、今まで通りで良いんじゃないかな?」
「……じゃあ、ぼくの事は引き続き『祐希ちゃん』?」
「……恥ずかしいのなら、やめるけど……」
「いやいや! そんな事無いよ! 今まで通りが一番だ…………碧」
「……うん、ありがと、祐希ちゃん」
ぼくと碧は高校で出逢って互いの秘密を知り、約1年4ヶ月もの間、『盟友』として協力し合ってから、『恋人』になった訳だけれど……何だか気恥ずかしいし、慣れない。でもこれからは充実した日々が待っているのだと思うと、わくわくが止まらない。それによくよく考えてみれば、『恋人』は『盟友』の上位互換みたいなものだ。どちらも大切なのは同じだけれど、『恋人』――『彼氏彼女』『交際相手』――は、『盟友』よりも親密さだったり距離感だったりが近いような印象なのだ。
……でもさ。冷静になって考えてみると、恋人イナイ歴16年のぼくにとって、『お付き合い』のイロハなんて分かる訳が無い。碧は美形だし、相当モテるだろうから、恋愛経験も豊富なのかもしれない。碧に対してぼくができる事は、恋人を悲しませない事。何をおいてもまずはこれだろう。……碧の事、大切にしよう。
「……ねえ、祐希ちゃん」
「…………何?」
唐突に、名前を呼ばれる。大輪の花を咲かせる向日葵のような笑顔を見せる碧。その顔を見ながら、思わずぼくは愉悦に浸るところだった。だって恋人の笑った顔は、ずっと見ていたいから。名前を付けて保存したいんだ。
「祐希ちゃんが良かったら……だけど」
「……うん」
……何だ? 碧は一体何を企んでいるんだ? 楽しみであるし、少し怖くもある。
心臓の高鳴るぼくを前に、碧は腰を浮かせて、よりぼくの近くへと寄って来た。当然だけれどぼくの心臓の鼓動が更に早まったのは言うまでも無い。恋人のサラサラの髪が、ぼくの頬をくすぐっていた。スラリと引き締まった肢体からは、相変わらず制汗剤の良い匂いが漂ってくる。
目がきょろきょろと忙しなく動くぼくを尻目に、碧はとんでもない爆弾を投下してきた。
「ねぇ……付き合いました記念に……キス……しない?」
「え!?」
な……
何を言っているんだ、この人は……ッ!?
そりゃあ、恋人として付き合っていれば、いずれは身体的な接触をする事もあるだろう。けれど……今!? 付き合い始めてたったの数分でキスをするって、展開が早過ぎない!?……いや、まぁ、交際0日婚よりは急な話では無いけれど……でもぼくらはまだ高校二年生! 学生です! 確かに仁科碧の身体に興味はあるけれど……まずは心で繋がろうよ!
「やっぱり、私とは、キスなんかできない……よね。……ごめんね」
「いやいやいやいやいや!」
違う、そうじゃない! そういう事じゃ無いんだ! ぼくが考えているのはあくまでも順序だったり順番だったりの話であって、碧とキスする事がイヤだ! なんて事は微塵も考えていないんだ!
一体どうすれば良いんだ……。陰キャぼっちのぼくに、恋人にキスを迫られたらどう反応するのが正解かなんて分かる訳が無いのに! 因みに『私とはキスなんかできないよね』は立派なセクハラですよ、仁科碧さん!?
……ええい、こうなったら仕方無い! 腹を括ろうじゃないか!
「…………碧、本当に……キス、して……良いんだね……?」
「……うん。祐希ちゃんが、イヤじゃなければ」
イヤな訳がないでしょ……! 胸中でそう叫び、ぼくは静かに目を閉じた。不安と緊張で背中にイヤな汗を掻いている。手汗も酷くてびしゃびしゃだ。何より、心臓がトチ狂ったように早鐘を打っていて、胸のドキドキが収まらない!……ヤダなあ。碧と……キス、するって分かっていたら、お昼ごはんにタラコの冷製パスタは選ばなかったのに……。
……食後に口は拭いたけれど、唇にタラコの粒とか付いていないかな? これから……、碧とキス……するのに、口にタラコが付いていて、口移しみたいになっちゃったら……恥ずかしいよぅ……
「……んっ」
けれど、不安に心を押し潰されそうになっていたのは、ほんの数秒だけ。気付けばぼくの唇に、柔らかくて温かな恋人の唇が重なっていた。
接触はほんの一瞬。碧の唇が離れて目を開けた時には、羞恥で顔を真っ赤に染めた恋人の姿があった。……何て言うか、とても柔らかかった。顔も身体も熱くて、まるで今にも溶けてしまいそう。その後に温かい気持ちが胸に去来して、きゅんとする。
よく、『ファーストキスはレモン味』……なんて言うけれど、何の事は無い、ぼくの人生初、碧との初めてのキスは、相手が食後に飲んでいたコーヒーの味だった。それならば、碧が味わったのは、ぼくが飲んでいたフルーツ系の天然水のほのかな甘味か、或いはタラコの冷製パスタのしょっぱい塩味か。……恋人は一体どう感じたのだろう? 気になるけれど、恥ずかしくて聞ける訳が無い。それにもし……もしも、だけれど……碧が他の誰かとファーストキスを済ませていたら? そんな不安が押し寄せて怖くなってきた。うぅ、聞きたいけれど、怖くて聞けない。もし碧が『キスは経験済み』だったらどうしよう……。ぼくばかりが未経験で、ぐるぐると思い悩んでいる――うぶだってバレてしまったら、恥ずかしさのあまり大声をあげながらこの場を走り去ってしまいそうだ。
碧と唇を離した後……恋人と視線を合わせる事なんてできる訳が無かった。決して気まずくは無い。ただ、単純に恥ずかしいだけ。ぼくの心は、気持ちは、仁科碧への純粋な『好き』で溢れている。『幸せ』で満たされている。願わくは、恋人もぼくと同じ想いを抱いていてくれたら良いな……と思う。碧が実は経験豊富な恋人だったら、かなり複雑だけれど。
「……祐希ちゃんとのキス……甘い果実の味がした」
いちいち報告しなくても良いよぅ。でも、どこか安心しているぼくがいた。
……タラコの塩気じゃなくて良かったって。ついでに言えば、同じ塩味であっても別なものに由来し、もっとイヤな結果にならなくて良かったと安心してもいる。
それは――タラコパスタ系全般に付き物の、刻み海苔。恋人と視線を合わせられないから、顔を逸らしつつ、横目で碧の唇を確認する。……大丈夫、海苔が付いている形跡は見当たらなかった。考えてみればそれは当たり前の事だよね。だってぼくはキスする前に、口元を拭って汚れを落としていたのだから。そもそもぼくの唇に刻み海苔は付着していなかったのだ。……良かった、改めて安心したよ。
「……ぼく、キスなんて、初めてした」
「……祐希ちゃんも? 実は私も、今のがファーストキス」
恋人の『初キス』がぼくで、良かった。もちろんぼくの『初キス』が碧で良かった、とも思っている。やっぱり恋人ができたのが初めてだから、色々な『経験』も初めての相手が良いって思うよね。
……とは言え、様々な願望を持つぼくも碧も、これまで誰かと交際しようとはしてこなかった。碧はどうか分からないけれど、少なくともぼくには恋愛願望があったよ? けれどそれを叶えようとしなかった理由は、やっぱりぼくの抱える秘密にある。この悩みはぼくも碧も、今まで他の誰とも分かち合う事ができなかった。ある意味この秘密は、共有できたからこそ、ぼくらは恋人になれたのだと思う。
ぼくらが抱える秘密と言うのは――
「……ぼくの恋人が本当にきみで良かったよ……、碧『くん』」
「……ありがとう。私も同じ気持ちだよ、祐希ちゃん。……でも二人きりの時は、『くん』はやめてよ」
「……うん、分かった。……ぼくと一緒にいる時、男っぽいところを見られるの、イヤだもんね。碧は」
「……うん、ごめんね。……私もやっぱり祐希『ちゃん』はやめた方が良いかな? 女性性を前面に押し出しているかもしれないし」
「いや、ぼくはもう、慣れたから、それ。……人前じゃなければ、碧の前でなら……、大丈夫」
そう。仁科碧は『男の娘』で、ぼく――柴沼祐希は『僕(ぼく)っ娘』の『男装女子』なのだ。
ぼくらは高校一年生の時にそれぞれ『性的マイノリティー』の新入生として邂逅し、事情を共有してから『盟友』となった。
……ただ、性的マイノリティーとは言っても、碧の性自認は男だし、ぼくの性自認は女だ。加えて碧の性的指向は女性だし、ぼくの性的指向も男性。要は、碧は女装が好きなだけの男子高校生、ぼくは一人称が『ぼく』であるだけの男装が趣味の女子高生(JK)。碧の一人称が『私』なのは、真面目で礼儀正しいからである事に他ならない。
ぼくらがそれぞれの性自認とは反対の性別の格好をするのは決まってプライベートな時だけ。高校での碧はキッチリとした男子の制服だし、ぼくは高校指定のブレザーを纏った、花も恥じらう制服JKなのだ。
そうは言っても、ぼくらの趣味が他のクラスメート達に最初から理解される訳も無く。
一番初めに訪れた試練は、二人とも中学三年生の頃の事だった。私立松ヶ谷学園高校受験のプレッシャーが想像以上に厳しく、ぼくも碧も、自分を開放したくてうずうずしていた。そこで思い付いたのが異性になり切る事だったのだ。流石に第三者に目撃された時は心無い言葉を浴びせられたが、次第に周囲の目はぼくや碧から興味を失っていった。高校受験が目前に迫っていたからね。周りのクラスメート達は陰湿ないじめを行なって、自らの評価を下げる愚は犯さなかったのだ。
ぼくらが『変身』する最初のキッカケになった理由は、お互いに幼少期まで遡る。
幼い頃のぼくは活発でよく男の子と間違えられた。……陰キャぼっちの今とは考えられない事だ。けれど両親はぼくに『女の子らしさ』を求めていた。本来が女子だから、当たり前の事なのだけれどね。
しかし外で遊び回るのを禁止され、『お淑やかに』と育てられた事で、ぼくの中で『男装』への想いは強くなっていって……。それが高校受験の勉強で抑圧されていた中学三年生の頃に爆発しちゃったんだ。
碧は幼稚園でも女の子とおままごとをするのが楽しかったようだけれど、男の子からそれをバカにされたりイジメられたりしていたそうだ。そういう訳で碧の両親は彼に武道を習わせようと思ったらしい。周囲は碧の気持ちなど分かってなどくれなかったようだ。碧もしばらく我慢していたけれど、前にも述べた通り、高校受験の息抜きとの名目にして、中学三年時に女装の歯止めが効かなくなった訳だ。
基本的にぼくらが変身するのは休日が多い。平日の放課後に堂々と異性の格好をしていたら、特殊な趣味を持っている事がバレてしまうから。だからぼくも碧も、男装&女装趣味をできる限り隠し続けていた。
今だってそう。夏休みの午後だからこそ、ぼくらは変装しているのだし。予備校が終わった後、ぼくと碧はそれぞれトイレでこっそり着替えていたのだ。そのロスのせいで、予備校を出る時間も遅くなった訳だ。
元々ぼくはショートカットだったから髪の長さを変える必要なんて無かったし、碧は碧で、男子にしては髪がやや長めだったので、二人とも少しだけ髪型を整えるだけで異性になれたのだ。因みにぼくも碧もどちらかと言うと童顔なので、男子女子どちらとも取れる顔立ちだった。
……ぼくは幼児体型で身体のラインにメリハリが無く、胸もお尻も小さかった。けれどその特徴は男装するに当たってとても都合が良かった。煽情的なスタイルだったり、巨乳だったりしたら、男子になり切る事は難しかったからね。……セクシーな女性のスタイルには憧れるけれど、ぼくの彼氏――仁科碧は恋人の身体だけしか見ていない、なんて事は無いだろうから、別に構わないのだけれど。
一方で碧は中々に悩ましかったようだ。男性特有の骨格だったり、筋肉の発達具合だったりが、碧の女装を困難にしていたのだから。
加えて空手・柔道・剣道を嗜んでいた事で鍛え上げられた屈強な体躯も碧は持っていた。そのせいで思春期の女子に表れてくるような、丸みを帯びた身体つきとは似ても似つかなくなってしまうのだ。
碧は今もガチめのトレーニングはしているものの、全盛期からはかなり強度を落としたと教えて貰った。……女の子を意識した今の碧の体型も良いけれど、やっぱり、男性として鍛え上げられた身体も見てみたかったなあ。まぁぼくはどちらの仁科碧でも受け入れたい。だって、碧はぼくの彼氏……大切な恋人、だからね。
更に真面目で成績も優秀。人当たりの良い性格で、碧にネガティブな印象を抱くクラスメートは殆どいなかったのだ。
因みに小中学校時代の仁科碧がいじめや嫌がらせに遭わなかった理由に、彼は腕っぷしが滅法強いという事があった。もしも碧をいじめたのなら、力を以て手痛い報復を受ける事になるしね。幼稚園の頃のいじめっ子が、碧が強くなるキッカケになったみたいだ。感謝する必要は全く無いけれどね。
高校入学直後、ぼくらは男装・女装趣味について誰かに知られてしまわないか、戦々恐々としながら過ごしていた。初めて変身した中学三年生時のように、周りから白い目で見られたくないからね。だから碧の秘密を知った時は、驚きもしたけれど、『仲間』の存在に安堵した。ぼくらが同じクラスになって出逢えたのは幸運以外の何物でも無かったのだ。
そこからは……何度も説明している通り。突き詰めれば、ぼくらが付き合う事になったのも、互いに特殊な趣味嗜好を持っていて、出逢ったからこそだ……
『性的マイノリティー』――多様性を受け入れてくれる世の中になったとは言え、ぼくらへの風当たりはまだまだ厳しいと言えるかもしれない。幼い子供に見られた時などは、その子供が無邪気な分、言う事は残酷であり。
けれど子供には悪意が無いんだ。目で見て、感じて、思った事をストレートに言っただけ。それに対して『配慮しろ』というのはナンセンス。だって相手は善悪の区別が付かない子供なのだから。
もちろん幼いうちからそういう偏見を無くすように教育する事は大切だ。けれどぼくと碧の場合は事情が複雑だ。だって二人とも性別を偽って――男装なり女装なりをして快感を得ているのだから。
誰に何と言われようとも、ぼくらはぼくらの趣味を続けていく。別に法に触れるような悪事を働いている訳で無し。たった一人の理解者がいてくれれば、それで良い。最初は『盟友』で、今は『恋人』となった、仁科碧がいてくれるのなら……
……暗い話になってしまったけれど、ぼくと碧は晴れて『盟友』から『恋人』にクラスチェンジした事で、これからの日々が楽しみで仕方無くなった。互いに特殊な趣味を持っているけれど、ぼくらは恋人同士で分かり合えるし、助け合う事もできる。……イチャイチャも、できる……かな? 今日を境に、毎日に彩りが添えられたみたいで、何だか嬉しくて堪らないんだ……!
「おーい、碧! 祐希! お待たせ―!」
キスを終えてしばらく見つめ合うぼくらの下に、志乃の呼ぶ声がした。バカネコ……子ネコの未来もこれで安心だね。志乃には本当に感謝だ。ムリなお願いを聞いて貰って、彼女には頭が上がらないや。
……はぁ、残念だけれど、碧とのラブラブタイムはここで一旦終わりだね。やけに顔が熱くなっているけれど、志乃に不審がられないだろうか?……碧とキス、していた事、バレないよね?
因みに志乃は仁科碧の女装趣味は知っているらしい。でもそりゃあそうだよね。話していなければ、休日に一緒にトレーニングなんかしないし。……でも碧の彼女としては、彼氏が他の女(竹中志乃)と仲良くしているのは正直面白くないけれど。ぼくも二人のトレーニングに混ざって、志乃を牽制しようかな?……ぼくは運動がからっきしだけれど。
ぼくと碧は互いにずっと抱えていた悩みがキッカケで、最終的に交際にまで発展する事ができた。これからは何をおいても恋人を大事にしたいと思う。今までの高校生活では『盟友』以外に救いの手を差し伸べてくれる人はいなかったし、己の秘密を自ら暴露する訳でも無いから、碧の他には誰にも助けを求められなかった。
けれどこれからは仁科碧がぼくにとって今以上に心強い存在になってくれる。ぼくはぼくで、柴沼祐希が恋人にとって重要な存在でいられたら良いなと思えた。
……ねえ、仁科碧くん。あんまり女の子っぽい可愛さは無いかもしれないけれど、こんなぼくの事を彼女にしてくれて、本当にありがとね。……これからも、よろしくっ!
END
今日は金曜日。所謂『華金』だけれど、ぼくら学生にはあまり特別感やありがたみが感じられない。『夏休み』を過ごす小中高生にとっては当たり前の事かもしれないけれどね。
ぼくも『盟友』も、予備校で受けている本日の講義は午前中のみ。と言う事で、ぼくらは講義から解放されてすぐ、予備校を出て次の目的地へ向かっていた。相変わらず残暑が厳しい。今年の夏は全国的な猛暑に見舞われ、最高気温が40℃を記録した地点はかなりの数に上ったみたいだ。
「……いやぁ、暑いね」
『盟友』は汗を拭いながら、げんなりとした声でそう呟いた。……うん、それなら、この暑い中で長袖シャツは無いと思うよ。
そんな『盟友』はスラリとした体型で、肩まで伸ばした髪はサラサラだ。卵みたいな丸い輪郭の顔も、細い眉もとても整っていて、きっと昔からモテたんだろうなあと思わせる。
対するぼくは、顔の造作はそんなに悪くないとは思うけれど、身体の線が細くて相手に頼りなさげな印象を与えてしまう。……人によっては、筋肉質なタイプより好きな人はいるかもしれないけれどね。
「うん。コンビニでお昼ごはんと飲み物を買ったら、すぐに涼しい場所に避難しよう」
心の声は、表に出さず。如何に『盟友』とは言え、相手を傷付ける発言は極力避けたかった。それに、『盟友』の白いシャツは、夏の青空とのコントラストが映えていたし。……ぼくの水色の半袖Tシャツが、『盟友』の白いシャツとの対比にもなっているね――と思ったのは、ここだけの話。
建物の外に出た『盟友』の嘆きを聞いたぼくは提案する事で、相手のモチベーションを維持させようと試みた。予備校での今日の学習は終わったものの、この後もぼくらは勉強しなければならないのだ。そのためにも、モチベを高めておくのは大事なのだ。
暑い中、ぼくらは近所のコンビニに一時避難すべく自転車を走らせる。とは言え、そこで昼食を調達して、図書館辺りに移動して、予習復習をしなければならない。別にファミレスや喫茶店でも良いのだけれど、ぼくらはともにバイトはしておらず、予算は親から貰っているお小遣いの範囲内でやり繰りしなければいけないのだ。本当だったら簡単なバイトでもやってみたいけれど、ぼくも『盟友』も両親が過保護なのに加えて、高校の勉強がとても難しいので、少しでも学業の手を抜いたら即刻、落ち零れてしまう。なので、ぼくらの高校の生徒は夏休みであっても勉強に集中しなければならないのである。
ぼくらの通う『私立松ヶ谷学園高校』はこの街――星出市で断トツのトップを貫くエリート進学校。その反面、校風は極めて自由で、殆どの選択権が生徒達に委ねられている。しかしそれは同時に責任も自ら負わなければならない事でもあるので、何でも真面目に考えて選択・実行しなければならない。後で痛い目を見るのは自分自身なのだから。自由の意味をはき違えてはいけないのだ。
自転車を漕ぐ事、約7分。予備校から三番目に近いコンビニに到着した。どうしてわざわざ三番手をチョイスしたか? というと、それは現在の時刻と予備校の場所に起因する。
まず、時刻。
予備校の午前の講義が全て終了したとはいえ、今はもう13時を優に過ぎてしまっていた。そうなると、コンビニでは飲食物の争奪戦になる事は必至。
次に、場所。
予備校は星出市の中心地・星出駅から徒歩5分の好立地にある。そのためお昼時ともなれば、駅前のオフィス群から昼休みを迎えたサラリーマンやOLがぞろぞろ出て来て昼食を買いに来るのだ。
また、最近の飲食店では原材料費・光熱費に加え、人件費も決して安くは抑えられず、提供されるメニューで利益をあげなければならないため、結果的に値上がりを余儀なくされている。つまるところ、『値段が高くて、気軽に外食できない』と考える大人達が増えて来ているのだ。
結論として、皆コンビニで買ってきて、安く済ませようと言う考えに落ち着く訳で。……賃金は上がっているはずなのに、不景気は改善されないんだなあ。
そんな訳で、予備校から一番目二番目に近いコンビニでは、食料争奪戦に勝てない事を意味する。
そこで三番手の出番だ。ここは立地的にオフィス群から少しだけ離れており、ぼくら学生達――それこそ、松ヶ谷学園高校の生徒達御用達とも言えるコンビニの一つなのだ。松ヶ谷学園高校の生徒で、かつぼくらが通っている予備校の生徒はさほど多くはない(それでも全学年合わせて三〇人はいるだろうけれど)。
ぼくは松ヶ谷学園高校生が良く利用するこのコンビニで、ペットボトルの清涼飲料水とタラコの冷製パスタ、『盟友』はペットボトルのアイスコーヒーと冷やし中華を、それぞれ購入して店外に出た。……太陽の陽射しは厳しい。日焼け止めクリームは毎日塗っているけれど、流れる汗で落ちてしまっているに違いない。……これじゃあお肌が荒れちゃうよ。
「……ホントに、暑い」
『盟友』はアイスコーヒーを口に含みながら、苦々しく呟いた。ぼくも全くもって同感だ。けれど文句を言った所で状況は、気象は、簡単に変わってはくれない。ある程度は受け入れるしかないだろうね。
「……暑いね。さっさと図書館に行って、涼みながら勉強しよう」
「うん」
ぼくの言葉に『盟友』も頷き、改めて自転車に跨って、次の目的地である図書館へと走り出した。……ちょっと買い物するために短時間だけ停めていたのに、自転車のサドルはとても熱くなっていた。灼熱の太陽は、ぼくらに恨みでもあるんだろうか? そんなボヤキは雑踏の中へと消えてゆく――
『臨時休館』
コンビニで買い物を終えて自転車を走らせる事、約15分。ようやく図書館に到着し、やっと涼めると思っていたのに、その漢字四文字が、ぼくらを絶望の淵へと叩き込んだ。
――……えっ、何? 臨時休館って、どういう事?
意味が分からない。ここで一体何があったのさ?
しかし呆けていても始まらない。ぼくは強引に思考を切り換え、図書館の入口に貼られたおしらせに、注意深く目を通す。
つまりは、こういう事らしい。
お昼前、図書館の電気系統で突如トラブルが発生し、館内だけでなく、図書館の敷地全体に電力の供給ができなくなったようなのだ。こうなってしまえばエアコンが利かないから館内で涼める訳も無い。この暑い中、肝心のエアコンだけでなく、照明も館内の電化製品ももちろん使用できないから、この施設は今、図書館としての機能が果たせていない。臨時休館も、やむを得なかった。
「……どうしようか」
「……大丈夫。ぼくに考えがある」
「ホント!? 頼りになるなあ」
不安そうに訊ねる『盟友』にぼくがそっと肩に手を当て一言囁くと、『盟友』は手放しで喜んだ……けれど、ぼくは正直、ヒヤヒヤしていた。……頼りにされるのは誇らしいけれど、何だかこそばゆいし、恥ずかしいよ。それに……
ぼくの考えと言うのは――星出市の河川敷の、橋の下へ行ってみる事。そこは水辺だから多少は涼しいだろうし、車のエンジン音が反響してうるさいかもしれないけれど、橋の下だから穴場と言ったら穴場だし。そこでお昼ごはんを食べて、少しのんびりしてから、青空教室よろしく屋外で勉強しよう――そんなプランだ。
……では、ぼくはその場所の一体何にヒヤヒヤしているのか? というと。
人目に付かない場所だから、不良だったりホームレスだったりという『先客』がいるかもしれない事だった。だってイカつい人に絡まれるのは、やっぱり怖いじゃないか。尤も、ぼくはヒヤヒヤと同時に、『『盟友』の雄姿が見られるかも?』と密かに期待していたのは、ここだけのヒミツだ。
不安や秘密にしている部分を隠した上で、ぼくは考えを『盟友』に伝えた。話を最後まで聞いた上で、『盟友』もぼくのプランに同意してくれたため、早速二人で河川敷を目指す。晩夏の陽射しは痛いくらいに降り注いでいるはずなのに、今のぼくには不思議とそれが悪くないかも? と思えていた。……『盟友』のパワーは凄いよ。こんなにもぼくを勇気付けてくれる。自信を持たせてくれる。ぼくは本当に、『盟友』の事を――
ギラギラと夏の太陽が照り付ける中、ぼくらは汗を拭いつつ、必死で自転車を漕いで星出市でも有名な河川敷にやってきた。午後も13時半を過ぎたら少し風が出て来て、火照った身体にじんわりと心地良い。
……河川敷ではぼくの懸念は杞憂に終わる。不良もホームレスも姿は無く、ただ穏やかな風がキラキラと輝く河面を揺らしているだけだった。何と言うか、平和だった。とても。
自転車を停めたぼくらは橋の下、日陰になっているところに入り、まずはお昼ごはんを食べる事にした。そこまで大食いでは無いけれど、ぼくらは成長期真っ只中の高校二年生。暑いとは言っても食欲はそれなりにあるのだ。
タラコの冷製パスタを食べる前に、ぼくはペットボトルの清涼飲料水を一口。ここに来るまでに何度か飲んだけれど、汗も掻いたし、喉だって乾くんだ。
「そう言えば、祐希ちゃんは何飲んでいるの? 私にも一口頂戴?」
「……何言ってんのさ。碧だってアイスコーヒーがあるじゃんか。そっちを先に飲めば良いじゃん。……それと、何度も言っているけれど、『祐希ちゃん』はやめてよ」
――……それに、これをキミに一口あげたら、間接キスになるじゃないか。
全く、ぼくの気も知らずに、ワガママ言って。『ちゃん』付けして子供扱いするのもやめて欲しい。……でも、ぼくはそんな『盟友』の事が――とは、口が裂けても言えない。いつか胸を張って言える日が来ると良いんだけれど、その前にぼくは、自分の気持ちにハッキリと決着をつけなければならないだろう。中途半端な気持ちを伝えてしまったら、それこそ相手にとって迷惑になってしまうかもしれないから。
「……祐希ちゃんって、意外と頑固でケチだよね。ほら! 私の冷やし中華を一口あげるから! 交換しよ? ね?」
「……頑固でケチな性格で悪かったね。……良いよ、分かった。冷やし中華は要らないから。ぼくの飲み物、一口あげるよ」
「ホント!? ありがとう! やっぱり持つべきものは『盟友』だなあ!」
――……無邪気に笑う『盟友』――仁科碧を見ていると、何だかこちらまで嬉しくなってしまう。
――……あぁ、そうか。これが、『好き』って気持ちなのか。
先月、一緒に映画を観に行った時も、今月、碧の叔父さんが営む民宿で初めてお泊りした時も、ぼく――柴沼祐希は、自分の気持ちにウソを吐き続けていたんだなあ。こんなにも『盟友』の事を好きになるなんて、碧と初めて会った時には想像もしていなかったよ。
「うん、ありがとう。美味しかった。……祐希ちゃん、あんまり甘ったるいものは飲まないんだね。ジュースだと思って飲んだから、天然水系で驚いたよ」
「いいえ、どう致しまして。……そうだね。ジュースを飲み過ぎると太っちゃうから。ぼくの家系は太りやすい体質だし、注意して、節制しているんだよ」
「そうなんだ。今の私は昔ほど身体を動かしていないけど、でも、鈍っちゃわないように、ジョギングや筋トレ程度ならやっているから、幸い太らずに済んでいるよ。良かったら祐希ちゃんも一緒にトレーニングしよう?」
「……いや、ぼくは遠慮しておく。だって碧のトレーニングは完全にガチ勢じゃん。陰キャで筋肉が付きにくい体質のぼくにはトレーニングは向いていないよ。……でも、気持ちだけは、ありがたく受け取っておきます」
「そっか、それは残念だなあ。でも、気が変わったらいつでも言ってね? 私はいつでも、祐希ちゃんのトレーニングに付き合うから!」
「ありがと。……それより、早くごはん食べよう。ぼくはもうお腹ペコペコだよ」
「うん、そうしよ。私もお腹と背中がくっ付きそう」
そう言って、ぼくらはかなり遅めのお昼ごはんを食べ始めた。
……タラコの冷製パスタに冷やし中華。麺類をチョイスしたのは失敗だったかな? と、一瞬思ったけれど、今のコンビニ飯は改良されていて、意外とバカにできない。確かに、麺類は時間経過で伸びてしまうけれど、最近のコンビニが販売している麺料理は様々な試行錯誤の結果、伸びにくくなるよう進化しているのだ。
ずるずる、ずるずる……
ずるずる、ずるずる……
しばらく無言で麺を啜るぼくら。眩しい陽射しと、河沿いの草木を揺らす風が、アンバランスだけれどとても気持ち良い。また、日陰に入っているので頬を撫でる風が丁度良い塩梅なのだ。暑いのは暑いけれど、そこまで暑すぎる訳ではない、という具合で。
「はー、ご馳走様でした!」
「……うん、ぼくも、ご馳走様でした」
殆ど同じタイミングで、ぼくらは食べ終えた。食事を終え、それぞれ飲み物を飲んで喉を潤す。
今日の天気はとても穏やかだ。お腹がいっぱいになったら、何だか眠くなってきた。
「はあ……良い天気だから、眠くなっちゃうね?」
どうやら『盟友』も考えている事・感じている事はぼくと一緒らしい。気が合うのは嬉しい事だ。何と言ったって、ぼくらは――『盟友』だからね!
……はい、済みません、強がりました。『盟友』だから嬉しいんじゃありません。仁科碧がぼくの好きな人だから嬉しいんです。
……碧はぼくの事をどう想っているのだろう? 知りたいような、知りたくないような……
それに……だ。もしも碧がぼくの好意を受け入れてくれなかったら、今後は『盟友』という関係にも戻れないかもしれない。軽々しく『好きだ!』だなんて言ってしまったら、今まで築き上げて来た大切で得難い関係性すら失いかねないのだ。……だったら――
――……告白なんか、しない方が良いに決まってる。
自分の顔が赤くなっている事を自覚しながら、ぼくは心にそう、強く決めるのだった。
「……本当、良い天気だね。でも、外で昼寝したら大変だから……」
思っている事を悟られまいと、ぼくは話を躱すように、トートバッグからノートを取り出した。でもこのノートはただのノートじゃない。ぼくが今まで書き溜めて来た、創作のネタ帳だ。恥ずかしいから本当だったら誰にも見せたくないけれど、他でもない『盟友』の碧になら、見せても良いと思えるようになった。だから、密かに持ち歩いているんだ。
「何々? これは……小説?」
「うん。文章はまだまだ拙いけれど、これはぼくが毎日、書いている小説のネタ帳。碧だけになら、見せても良いかなあ? って……」
「そうなの!? 祐希ちゃん、凄いね! 文才があるんだなあ」
『盟友』は身を乗り出して、興奮気味にぼくのネタ帳を覗き込んだ。
誰かから称賛されるのは、性格が捻くれていない限り、どんな人でも悪い気はしない。ぼくだってそうだ。捻くれている……と言うか、素直じゃ無いぼくは、他人の好意を中々正直に受け取れない。ただ、それは『盟友』の場合に限り、大幅な補正が働いて、非常に好意的に受け取ってしまうのだ。……思春期の恋愛脳に辟易する反面、この想いが無かったらぼくは一体、碧とどんな顔で接していたのだろうか? と、とても怖い疑問が浮かんで来た。
そう。ぼくも『盟友』も思春期を迎えた高校二年生。アオハルを謳歌して何が悪いんだ。……まあぼくらは少々――と言うか、かなり、普通の高校生から外れているのだけれど。
無邪気に目をキラキラ輝かせ、『盟友』はぼくのネタ帳を読み耽る。時折、『うんうん』『なるほど』『この展開は……』と唸りながら、ぼくの小説の世界へと没頭していく。何でも素直に受け取る姿勢は仁科碧の長所だ。碧は陽キャだから、色んな人に意見を窺って、取捨選択して自身の思考へ取り込んでいく。だけれど、周りの意見に流されているだけでは、決して無い。『盟友』は己の意志もしっかり持っていて、最終判断は碧自身がキッチリつけているのだった。
それに引き換え、ぼくは根っからの陰キャだ。教室で独り寂しく過ごすのは慣れているから、ぼくは本を暇潰しの相方にしている。読書に飽きたら調べ物をしたりして勉強する。それらはつまるところ、小説を書く事に繋がっている。創作のためには物語を読んで、知らない言葉や単語、情報などを調べて脳に取り込む。秀逸な文章を紡ぐ基本は、何をおいても本を『読む事』だ。それを踏まえてとにかく書く。語彙や知識を蓄えた上で、文章構成力を上げるためには書くしかないんだ。
と言う訳で、ぼっちでいる事の多いぼくは人付き合いだって基本は苦手だし、言ってしまえば仁科碧以外に親しい友はいないんだ。……碧がぼくの『盟友』で、本当に良かったと、つくづく思うよ。
……その『盟友』の、肩の辺りまで伸ばした髪から制汗剤の匂いが漂って来て、何だかソワソワしてしまう。落ち着かない。でもネタ帳を取り出したのはぼくだ。碧がそれを読みたいと思うのは、至極当然な事である訳で。
『盟友』がノートを読み終わるまでが、とても長く感じる。自業自得とは言え、碧も少しはぼくの意を汲み取ってくれても良いじゃないか。意識……、しちゃうって、分かってくれても良いじゃんか。……これでもぼくらは、異性……なんだし。
「ありがとう、祐希ちゃん。凄いなあ! 『盟友』にこんな才能があったなんて、何だか私まで鼻高々だよ!」
「……う、うん。ありがとう。……でも、あんまり慣れていないから、手放しで褒めるのはヤメテクダサイ……」
恥ずかしくて顔から火が出そうだ。正直、このことわざなんか実際に当て嵌まるシチュエーションが訪れる訳なんて無いだろう……と思っていたけれど、それはぼくの読みが甘いだけだった。
『顔から火が出る』――が、今のぼくにはドンピシャで当て嵌まっていたのだ。
何だか碧と目を合わせるのが怖い。ぼくのこんな、羞恥で真っ赤に染まった顔を見られたくない。この場から逃げ出してしまいたくなる。
「ねえ、祐希ちゃん」
「はイッ!?」
……悶々としているところで突然声を掛けられたため、思わずヘンな声が出てしまった。……ヤバい、変なヤツだと思われていないだろうか。根っからの陰キャだから、ぼくは人から嫌われる事には慣れているけれど、他でもない『盟友』には嫌われたくない。……現金なものだよ、恋ってヤツは。相手が好きだと自覚したら、後はもう、恋愛沼に嵌ってしまうものだ。ぼくもその沼に嵌った一人なのであった。
「……祐希ちゃん、大丈夫?」
「え? あ、う、うん! 大丈夫、大丈夫! それより、何?」
「……うん、実はね。私……」
「う、うん……」
ごくり。
……何だ? 何だ何だ何だ!? 碧は一体、ぼくに何を言う気なんだっ!?
思わず唾と息を呑む。
何だよ、もしかして、愛の告白? 『実は私、祐希ちゃんの事がずっと好きで……』みたいな?
……いやいや、相手の感情を勝手に好意的に受け取るんじゃない。だってぼくと碧は『盟友』だよ? 秘密を共有する仲間なんだよ? 実も蓋も無い言い方をすれば、ただの意見の合う同志に過ぎないんだよ?……その割には、ぼくは碧に惚れてしまいましたけれど。
心臓の鼓動がドキドキとうるさい。外気の暑さとは全く別な熱さで、頭が沸騰しそうだ。顔も熱い。良く見ると、ネタ帳を持つぼくの両手が震えている。……緊張、していた。これでもか! と言うくらい明確に。
……ヤバいヤバいヤバい。碧と目を合わせられない。正面から『盟友』の目を見ようと顔を向けるけれど、意志に反して勝手に目だけを逸らしてしまう。明らかに挙動不審。碧は一体何を――
「実は私、学校の皆には秘密で、イラストを描いているんだ」
「ヤバいヤバいヤバい……って、はい?」
……今、なんて?
「だーかーら! 私は、今は独学だけれど、カラーイラストの勉強をして、普段から描いて、練習しているの! 題材は主に、色んな風景に佇む高校生!」
「……え? あ、あー、うん。はい」
『盟友』のカミングアウトに、ぼくは間抜けな声で反応していた。相手にしてみれば一世一代の『告白』だったかもしれないけれど、正直ぼくは肩透かしを食らってしまった気分だ。……だってここはぼくみたいに恋愛絡みの話題になるべきでしょう?……うん、それは完全にぼくの妄想だ。ぼくが恋愛脳だから考えてしまった、愚かしい発想だ。
「……って、ちょっと待って! と言う事は……!?」
「……うん、そう。だからさ……」
事ここに至って、ぼくはやっと『盟友』の言いたい事に気付いた。
つまり――
――柴沼祐希は小説を書いている。ジャンルは大まかに言って、ラブコメ多めのライトノベル
――仁科碧はイラストを描いている。題材は主に、風景に佇む高校生、そのカラーイラスト
果たしてそこから何が連想されるかと言うと。
ぼくがアオハルもののラブコメラノベを執筆し、『盟友』がその作品のイラストを描く。そうして、二人で力を合わせて、ラノベ界を席巻しよう! という話だ。つまりぼくと碧がタッグを組み、『盟友』としての絆が更に強くなる――そういう事だ。
……前例は幾つかあるけれど、作家×絵師のコンビが恋人同士だったり夫婦だったりと、人生で重要なパートナーだった場合って、やっぱり大変なのかな? 作品のためには本気で意見を交わす必要だってあるだろうし。恋人や夫婦だったら私生活の部分にまで影響が出て来るだろうから、『相手が好きです』という理由だけでタッグを組むのって、本来ならばもしかしたら避けた方が良いのかも……
でもなぁ……ぼくはもう、『仁科碧』が好きになっている。ここまで来てしまったら、もう、以前のように『人には言えない重大な秘密を抱える「盟友」』には戻れない。恋愛って、惚れた方が負けなのかな……
「……でもさ、仮に碧がイラストレーターを志すとして、碧の厳しいご両親が簡単に首を縦に振るとは思えないけれど……」
「……うーん、確かにそうなんだけど。でも、楽観視はしているかな?」
「それは何故?」
「だってそれは……」
にゃー
「……にゃー? 碧はいつからネコになったのさ?」
「違う違う! 私じゃない!」
にゃにゃっ
「ほら、やっぱり! 今もにゃにゃって……」
「ええいっ! 違うっ!……そこだっ!」
バッ!
にゃにゃにゃにゃにゃっ!
会話の途中で『盟友』がいきなりネコになった。突然『にゃーにゃー』言い出したんだ。気を削がれたぼくは思わず半眼を作って碧をねめ付けたが、相手はそんなのガン無視で草むらに手を突っ込んだ。
どうやら何かしらの手応えがあったらしい。そんな『盟友』が嬉々として草むらから引っ張り出したのは――
「うにゃあ……」
「……ネコだ」
「……ネコだね」
まだ小さい黒ネコだった。……と言うか、本当にネコがいたんだ……。ぼく、全く気付かなかったよ。
「まだ子供だね……。ね、祐希ちゃん。この子はオスメスどっちかな?」
「……いやいや、幾ら何でもそれを言わせるのはセクハラでしょ。……それにしても、随分と大人しいネコだなあ。碧の手の中で、完全にリラックスしているし……」
ぼくも動物は嫌いじゃ無い。性別は大事なところを見ればすぐに分かる。それでもオスメスの違いだけで可愛がるか否かを変えるほど、ぼくは非情じゃない。
引っ張り出されたと言うのに、子ネコは碧に抱かれて完全なリラックスモードだ。人懐っこくて可愛いなあ。首輪はしていないし、恐らくノラネコだろう。もしかしたら、生後間もない赤ちゃんの可能性さえある。
「……ほらほら、ぼくの方にも来てごらん? 怖くないよー?」
「きしゃあぁぁぁっ!!」
「!?」
……子ネコに手を伸ばしたら、思いっ切り威嚇された。……何だよぅ。ぼくはネコにまで嫌われるのかよぅ……
「ネコちゃんを怖がらせちゃダメだよ、祐希ちゃん! ほら、よしよし……」
「ふにゃあ、ごろごろごろ……」
「…………」
……こっ……
こんの……、泥棒ネコがあぁぁッ!!
碧に撫でられて喉を鳴らしやがってえぇぇッ!!
……前言撤回。ぼくはこのネコを可愛いとは思わない。このネコは――ぼくの敵だッ……!!
「碧! このネコはメスだっ! ぼくから碧を奪う泥棒ネコは、メスネコに決まってるッ!!」
「ちょっと、祐希ちゃん!? 一体何言ってるの!? 訳分かんないよ!」
「……ふっ(にやり)」
「あーっ!? このクソネコ、今ぼくのこと鼻で笑ったな!? 碧、ちょっとそのバカネコ貸してっ! 世の中の厳しさ、ぼくがたーっぷり教えてやる……ッ!」
「ちょっとちょっと、落ち着いてよ、祐希ちゃん!」
河川敷で昼食後、少し休憩して勉強――のはずが、物凄い勢いで脱線してしまった。けれど、意外とこういうイレギュラーもアリかもしれない。図書館が利用できない不便さはあったけれど、代わりに碧の秘めたる想いや……意志の一端も垣間見る事ができたし。……最後の泥棒ネコのくだりは、今のぼくらには全く必要無かったけれどね。ぐすん……
もう、子ネコと碧はワンセットとして考える事にした。……納得はできないけれど、そうでないと話が進まないし。
本来ならば、ライトノベル作家・柴沼祐希、イラストレーター・仁科碧についての話をするはずだったけれど、突如降って沸いた問題――偶然拾ってしまった子ネコをどうするか? について早急に話し合わなければならなくなったのだ。
何故なら……命を育てるには、責任が必要だから。
小さくて可愛いからー、と言って愛するのは良いけれど、飽きたからー、とか、大きくなって可愛げが無くなったからー、などと言って世話する事を途中で投げ出してはいけないのだ。
育てられないのであれば、最初から飼ってはいけない。
非情な言葉に聞こえるかもしれないけれど、でも、逆にペットの身になって考えてみて欲しい。
ペットが飼い主に懐くのは、飼い主を信頼しているから。大事な家族と認めているから。けれどその飼い主がペットである自分の世話――食事とかを放棄してしまったら、ペットは悲しむ。ごはんが食べられなければ、ペットはどうにかして飼い主に空腹を訴えるだろう。
でもペットに責任を持たない飼い主は、その泣き叫ぶなどの要求だけに苛立ち、更に世話をしなくなってしまう。哀しいかな、ペットは人語を介す事ができないんだ。直接的に窮状を訴える事ができないんだ。
その先に待っているのは――虐待死。
結局は、ペットの命は飼い主の意志に懸かっているのだ。
ぼくは無駄に命を奪ったりしたくない。例えそれが幼い子ネコだったとしても。
本来ならば、子ネコを見つけたぼくか碧が飼うのが一番良いのだろうけれど、生憎ママがネコアレルギーなので、ぼくの家ではこの子を飼う事ができない。……ぼくから碧を奪う泥棒ネコなんか、飼いたくないけどねっ!
じゃあ、碧はどうか? と考えるけれど、碧の住むマンションはペット禁止。……高級マンションなんだから、ペットくらい許して欲しいと思うけれどねぇ……
……ダメだ、初手から詰んでる。どうしよう……
プルルルル……
『あー、もしもし。碧?』
「……あ、志乃?」
「?」
碧のスマホに突然着信が入った。その声の様子から女子だと思われる。そしてフレンドリーに碧に声を掛けている。碧は碧でその女子に気軽に返していた。……誰、この女子?
「あっ、祐希ちゃんに紹介するね。この子は私の小六の時のクラスメートで、竹中志乃さん。今はマラソンに力を入れていて、高校の陸上部でもトップの実力を誇る、期待のホープだよ。私もたまに、彼女と一緒にトレーニングしているんだ」
ぼくの心の声が聞こえたのだろうか。碧がスマホをビデオ通話に切り換えて、唐突に電話して来た女子に笑顔を向けてから、その子をぼくに紹介してくれた。……そうかそうか、碧のガチなトレーニングは、この子と一緒に行なっているんだね。
しかしこの竹中志乃って子、中々可愛らしい女子だ。スマホの画面が通話相手の全身を捉えている。痩せ型の体型で、くせっ毛の髪はショートにしていた。なるほど、全てがマラソンに特化している。無駄な脂肪を削ぎ落した体躯も含めて、走る事に全振りしたスタイルなんだろう。そうだよね。長髪をなびかせて走るのは――悪いとは言わないけれど――、鬱陶しく感じる選手もいる訳だし。竹中さんは走る際に、髪は短くて良いと思ったようだ。右目の泣きぼくろも含めて、顔の作りはとても良いし、充分に可愛らしいから、髪の長さで自身の魅力が変わらないと思っているのだろう。……ううむ、スマホの画面越しとはいえ、全身から自信が漲ってくるなあ。
『初めまして! あたしは竹中志乃って言います。キミは……碧の友達? なら、あたしにとっても友達だよー。良かったら『志乃』って呼んで。えぇと……』
「……あっ、どうも。ぼくは柴沼祐希って言います。碧とは、めいゆ……友達、ですね。はい。ぼくは人見知りなので、失礼なところがあるかもしれないですけれど……宜しくお願いします、志乃……さん」
『あはは! そうなんだ。呼び捨てで良いよ。あたしは畏まったのが嫌いだからー! 代わりにあたしも『祐希』って呼び捨てにするねー』
「……あ、はい……志乃。ありが……とう」
『そんなに緊張しなくても大丈夫だよー! 別に取って食う訳じゃ無いし!』
……人見知りのぼくとしては、竹中さんのように相手との距離感が近い人は苦手だ。何だかぼくのテリトリーに無断で踏み込まれるようで、落ち着かないからね。
でも彼女はカラっとした、スッキリ晴れた日の天気のような性格で、清々しい。少なくとも、陰でぼくの事を悪く言ったりするようなタイプには見えなかったし。何よりぼくの『盟友』の仁科碧が心を許せる相手だ。『盟友』のぼくらだけが知る、否、秘密にしている事まで知っているかもしれないし、碧が信用している女子だから、ぼくも信用して良いのかもしれない。
「そうだ、碧。志乃……に、なら……」
ぼくは碧を見ながら思いついた事を口にする。……うん、志乃からしたらぼくらはかなり無責任かもしれないけれど、今は彼女に望みを懸けるしか無いのだ。
「うん、私もたぶん、祐希ちゃんと同じ事を考えていた」
碧がぼくの台詞に頷く。状況が状況だけに、この場で志乃から着信が入ったのは、ぼくらにとってまさに渡りに船と言えるだろう。……一人だけ、話に付いていけていない志乃がスマホの画面の向こうで頭上に『?』を浮かべて首を傾げていた。
「ごめんね、志乃。電話を受けた側からお願いして申し訳無いんだけど……」
『えっ、何々? 急に改まって……いつもの碧らしくないよー』
一言、断って、碧は子ネコをスマホの画面の向こうにいる志乃に見せた。そして土下座も辞さないとばかりの勢いで話し始める。
「……実は、河沿いの草むらでこの子を拾っちゃって……。私の家はペット禁止だし、祐希ちゃんの家はお母さんがネコアレルギーで飼えなくて……。だから、お願い! 志乃、この子ネコ、飼ってあげて下さい!」
「……ぼ、ぼくからも、お願いしますっ!」
「にゃあ」
碧に倣って、ぼくも志乃に頭を下げる。自分の事を話していると分かっているのか、子ネコも可愛らしい鳴き声を披露していた。
……僕らのお願いターンは終わった。後は志乃の回答次第だ。彼女の答えで子ネコの運命が決まる。ぼくらはもはや縋るような心持ちだった。
『いや、あたしの用件は後回しでも良いけど、ネコかぁ……』
けれど……志乃の反応は芳しくない。これは断られてしまうのだろうか? 碧が拾ってしまった子ネコは、幸せにはなれないのだろうか……?
『そうだ! あたしのお祖母ちゃん家、すぐ近くに保健所があるんだー』
『!?』
ほ、保健所!?
そんなのダメ!……とは、軽々しく言えなかった。だってぼくらはあくまでもお願いしている立場。この依頼を受けた場合、子ネコの処遇をどうするのか、その最終的な決定権は志乃にある。志乃の家でも子ネコが飼えないと言うのなら、保健所に連れて行く選択も取らざるを得ないかもしれない……
『あはは! ごめんごめん、流石に保健所は冗談だよー。あたしンちでもこのネコちゃん飼うのは難しいんだけど、あたしの従妹がまだ小さくて、伯母さん――お母さんのお姉さん――に、ネコ飼いたい! ネコ飼いたい! ってダダをコネていたからねー。頼んでみるから、ちょっと待って?』
そう言って志乃は碧との通話を一旦ミュートにし、他の誰かに電話を掛け始めた。恐らく彼女の叔母だろう。いまこの場で直接交渉してくれるらしい。……ぼくらにとっては、つくづくありがたい限りだった。
ピッ
数十秒後、伯母さんとの通話を終えた志乃が、ぼくらとの通話を再開し――ビデオ通話でサムズアップをした上で子ネコに視線を寄越す。……ぼくらとの始めの会話で分かっていたけれど、碧が拾ってしまった子ネコはこの様子なら、偶然通り掛った碧の元クラスメート・竹中志乃の叔母の家に引き取られる事になるようだ。
『OKだったよー。伯母さんの家で飼ってくれるって!』
「!? ありがとう、志乃!」
「あっ、ありがとう……ございます、志乃」
「うにゃあ……」
改めて、志乃の回答を聞いたぼくらは、それこそ安堵したあまり泣き出さんばかりの勢いで彼女にお礼を伝えた。子ネコも自分の事だと分かっているのか、可愛らしい鳴き声で感謝の意を表する。
無事に子ネコの処遇が決まってくれて、ぼくらはホッと胸を撫で下ろすのだった。拾ってしまった経緯は完全にイレギュラーだったけれど。碧が草むらの鳴き声のする方に手を突っ込んで掴んだら、突然この子ネコが現れたのだから。……でもぼくは最後までこの子ネコ……泥棒ネコは可愛いと思わなかったけれどね!
碧の手の中で、話題の中心に上がった子ネコは順繰りと周りを見回す。碧と、志乃と、ぼく……を、ゆっくりと見回して、最後にぼくの顔を見てから――
「…………ふっ(にやり)」
「!?」
こっ……
こんの、バカネコがあぁぁッ!!
またぼくの事を鼻で笑いやがった! どこまでもぼくの事をバカにするのかっ、このクソネコがッ!!
「碧! やっぱりこのネコ、ガッツリ痛い目を見た方が良いかもしれない! 絶対にぼくの事をバカにしているッ!!」
「ちょっと!? 落ち着いてよ、祐希ちゃん!」
『どしたー? 何かあったん?』
……ぼくらは完全に志乃を置いてけぼりにしていた。碧は片手で抱っこするバカネコに手を伸ばすぼくを華麗に躱しながら、空いた手でスマホの画面へ意識を向ける。……くっ、器用な。ええい、抵抗せずに、そのクソネコをぼくに寄越すんだ、碧! こればかりは例え相手が好きな人だからって譲れないよ!?
子ネコを巡るぼくらの争いをスマホの画面越しに眺めつつ、志乃が呆れ顔で叫んだ。正直、雷が落ちたかと思ったくらい、びっくりしちゃった。性格的に温厚な女子だと思っていたから、そのギャップにも驚いたんだ。
『ウチのネコをイジメるなっ! もしその子に何かあったら、例え碧と祐希があたしの友達と言っても、絶対に許さないよっ!!』
「「!?」」
『二人とも、返事は!?』
「「は、はいっ!」」
『……よろしい。動物は、あたし達、人間より弱いんだからさ……。優しく扱わなきゃダメだよー?』
「「……(こくこく)」」
無言で首を縦に振るぼくら。……志乃からしたら、息の合ったぼくらの動きに怒気を削がれたかもしれない。怯えている、と受け取られたかも?
『……ん。じゃあ、碧と祐希は今、河川敷にいるんだよね? あたしの用件は、今度の日曜日のトレーニングの事だったんだけどー。その子ネコちゃん、日曜日にあたしがお母さんと一緒に伯母さんの家に連れて行くから。明日の土曜日は部活の監督と話をするからさー、時間が取れないんだ。ごめんねー? そういう訳で、その子ネコちゃん、あたしが今から引き取りに行くよー。丁度今出先だし。ちょっと待っててー。じゃー、よろしくー』
「……うん、分かったよ。ありがとうね、せっかく電話くれたのに、私の突然のお願いを優先しちゃって……」
『いーのいーの、そんなん。それじゃあねー? 祐希もー。バイバーイ』
ピッ
嵐のような通話が終わった。何と言うか……かなり姉御肌な女子だったなあ、志乃は。特にぼくと碧が子ネコを奪い合っていた時の一喝たるや……。本当に怖かったよ。たぶんアレ、志乃はガチギレしていたかもしれない。でも、捉えようによっては良かったと言えるよね。だって突然増えた家族を快く迎えてくれて、危険が迫っているかもしれないと判断したら、毅然とした態度でぼくらに雷を落としたんだから。子ネコの命に真摯に向き合ってくれる事、請け合いだ。……まぁ、実際に飼うのは志乃の叔母さんなんだけれどね。
「……あっ、疲れたのかな? ネコちゃん、寝ちゃった……」
「……ホントだ。こうして見ればかわい……いや、ぼくは認めない。このバカネコは絶対にぼくの事を嫌っているんだ……!」
碧の腕の中で幸せそうにすやすやと眠る子ネコは……確かに可愛いかもしれない。けど、ぼくは騙されない。このクソネコは邂逅時から眠りに就く先ほどまで、明らかにぼくの事を下に見ていたんだ(……そうとしか思えなかった)。
……ぼくから仁科碧を奪う泥棒ネコめ!
「寝ちゃったなら、しょうがないか。とりあえず、私のバッグの中で寝かせてあげよう」
そう言うと、碧は優しい手つきで子ネコをバッグの中に入れてあげた。……ダメ、そんなソフトタッチでバカネコになんか触らないで。触るんだったらぼくにして……。
……そんな、ぼくの哀しい心の慟哭はさておいて。
思わぬ邪魔が入ったけれど、ぼくらは夢について語っていた。ぼくがラノベ作家、碧がイラストレーターとしてプロデビューし、タッグを組んで、スマッシュヒットを連発するんだって。……正しくは、その妄想を膨らませまくるだけだったけれど。
柴沼祐希も仁科碧も、今はまだ、どこにでもいるような一介の高校生に過ぎない。もっと言ってしまえば、社会においては、ぼくらはまだ何者でもない。その『何者か』になるために、ぼくらは学び、行動し、時には壁にぶつかったりしながら経験を積んでいくんだ。そのために今ぼくらは高校に通っているんだ。
経験した事はリセットできない。つまり、今まで積み上げて来た経験値は人生のどこかで必ず役に立つ。役に立たないと思う事も、時にはあるかもしれない。けれど、『経験した』という事実が大事なんだ。何をするにしても、対処法を知っているのと知らないのとでは、知っている方が断然良いに決まっている。どの経験が何の役に立ってくれるか分からないからこそ、より多くの事を知って覚えておいた方が、長い人生で『知ってて良かった』と思う日が来るはずだから。経験がその後の人生を大きく変える事だって充分にあり得るし。
「……本当は勉強したり将来の夢について話したりするはずだったのに、私が偶然ネコちゃん見つけちゃったせいで、脱線しちゃったね。ごめんね、祐希ちゃん?」
「いやいや! これは不可抗力だよ。このバカネ……子ネコを拾ったのは完全に予期せぬ事態だったから。碧が話の腰を折った訳じゃ無いから」
「うん、ありがと!」
そう言って、『盟友』は弾けんばかりの笑顔を見せてくれた。……癒されるなあ。この眩しい笑顔を、今この時だけはぼくが独占できている事に、優越感を覚える。全く、最高かよ。
……ヤバいなあ。ぼくの顔は火照りまくって、沸騰してしまいそうだよ。今までずっと碧の前で顔を赤くしていた――と思うけれど、果たして今はどれくらい赤くなっているだろう?……碧に指摘されるのは、何だか怖いな。でも、好きな人にありのままの自分を見せられるのって、とても素敵な事だと思うんだ。……あぁ、でも、『ありのままの自分』と言ってもぼくらはまだ高校二年生だから、ハダカになったりはしないけれどね。
そりゃあぼくだって碧の裸に興味はあるよ。でも、順番が違うでしょ。身体で繋がるより、ぼくは碧とまず先に心で繋がりたいんだ。『盟友』=『セフレ』では無いんだ。……『盟友』は『盟友』。むしろ『恋人』ですらあり得ない、とぼくは思っている。
だって考えてもみて欲しい。
元々、ぼくと碧はお互いに、『人には言えない重大な秘密』を持っている。そしてとある事件がキッカケで、ぼくらは互いのその秘密について明確に知り合う事となった。それぞれの秘密は二人とも、過去から現在まで家族や信頼できる友人くらいまでにしか打ち明けていない(秘密を知り合う事になったぼくと碧は当然例外だけれど)。
その後ぼくらはじっくり話し合い、お互いの『人には言えない重大な秘密』の詳細を理解し合った上で、それを第三者に悟られないよう協力したり、困った時にサポートし合ったりする『盟友』という間柄になるという結論に至ったんだ。それまでは秘密を抱えるが故に頼れる他人がおらず、ぼくらは出逢うまでそれぞれ孤立を深めていたし。
何も、孤独に耐えられなかったからとか、傷を舐め合いたかったから誰も知らないところで協力関係を結んだ訳じゃ無い。言ってみればビジネスパートナーみたいなものだ。互いにメリットがあるから手を組んでいる――というだけ。そこに余計な感情は必要ない。私情を挟めば秘密を抱えるために不都合となっている事柄が排除できなくなってしまう。
仮に『柴沼祐希と仁科碧って付き合ってんじゃね?』などと言う噂が広まりでもしたら、せっかく波風立てぬよう静かに過ごそうとしている高校生活が強制終了させられてしまう。中学まではそれぞれ秘密がバレず、悪目立ちせずにやり過ごせて来たのに、高校二年生で全てが破綻するなんて最悪だ。一生隠し通す事は流石にムリかもしれないけれど、せめて高校卒業までくらいなら隠し通したい。それだけ、ぼくと碧が交際しているかも? という疑惑は、ぼくらの秘密にとって致命的なのだ。
……というように、今までは考えていたのだけれど。
今のぼくは仁科碧に対して完全に恋愛感情を抱いてしまっている。これでは『盟友』失格だ。『盟友』相手に恋愛感情を抱くなんて、言語道断。油断していると、どこから情報が洩れてしまうか分からないしね。『柴沼祐希&仁科碧交際疑惑』に尾ひれが付いて、そこを皮切りに真実が暴露されたんじゃ目も当てられない。思春期の高校生は、恋バナが大好物だからね。ただでさえぼくは陰キャのぼっちなんだし、それに加えて自分のパーソナルスペースに他人が土足で上がり込んできて欲しくない。
特に、恋愛脳になっている状態では、マトモな思考は働かない。自分の秘密よりも相手の秘密を優先し、それを庇う代わりに自身を犠牲にする可能性だってある。そんな事では『盟友』として約束を交わした意味がなくなってしまうし。……とは言っても――
――……この恋心を正当化するためには、碧にもぼくの事を好きになって貰うしかない。けれど人の感情を自由に操る事は困難だ。だからもう、ぼくは今、仁科碧に好かれている、と願うしかない……
もしも付き合うのだったら碧との交際は周囲にはバレたくない、そう思う反面、『碧はぼくの恋人だ!』と声高に主張したくなる、という、相反する想いが渦巻いて、一体ぼくはどうしたいのだろう? と思い悩む。
ぼくと碧が『恋人』以外の立場で関わる……将来ライトノベル作家とイラストレーターになったって、最終的にはぼくの慕情のせいで碧を巻き込んで、互いをヘンに意識してしまって、ずぶずぶの関係になってしまうかもしれない。好き同士だったらそうなる事は全く不自然じゃ無いし、むしろ当たり前の事と言えそうだけれど。プロになってから私的な感情を優先しすぎるあまり、本業である執筆や作画を怠ってはいけないけれどね。
……ここで大事なのは、ぼくはまだ仁科碧に『片想い中』であると言う事。ぼくと碧がイチャつくのは、あくまでも恋人同士になってから。如何にぼくが碧に好意を抱いていても、肝心の碧がぼくの事を好きでいてくれるとは限らないのだ。……片想いって辛いなあ、はぁ。
「祐希ちゃんって凄いね。小説のネタ帳、とても上手に纏めてあって……。こういう、文章を管理する能力があるのって、素晴らしい事だと思うよ!」
「……いえ、恐れ入りまず」
碧のキラキラした目を正面から見られなかった。気恥ずかしいし、何より、ぼくの好意が筒抜けになっていないか不安だったんだ。結果、碧の顔の斜め下を見ながら、小さな声でそう言うのが精いっぱい。我ながら情けないよ。
「……祐希ちゃん、大丈夫? 何だか元気無いけど……もしかして、暑さで体調悪くなった?」
「!? いやいやいやいや、違います違います!」
即座に否定した。……アナタの天真爛漫な笑顔に魅了されているせいです――なんて言える訳が無いからね。心配そうに顔を覗き込んで来る碧に、胸中でそう答える。
近くで見る碧の表情は、本当に見ていて飽きない。モデルやアイドルにスカウトされても遜色ないレベルだ。将来はイラストレーター兼モデル・俳優兼アイドルとしても充分やっていけるに違いない。無敵だぜ、仁科碧……!
……はい、済みません。恋愛補正、大幅に入りました。でも、あながち違う、とも言い切れないんだ。
「……それなら良いんだけど……。でもさ、私達が一緒にいて、痴漢に狙われるのは私だけど、不良に絡まれたりするのは祐希ちゃんでしょ? もっと鍛えろ! とは言わないからさ、せめて私が護身術代わりに教えてあげるよ? 空手でも、柔道でも、剣道でも」
碧からの提案。
そうなのだ。仁科碧は、可愛らしいその顔立ちに似合わず、めちゃくちゃ腕っぷしが強いのだ。
いま本人が挙げた通り、碧は幼い頃から空手・柔道・剣道を習っていて、その実力は全国に名前が知れ渡るほどだった。
七月最初の日曜日にぼくと映画を観に行った際も、バス停で絡んで来た不良達をたった一人で返り討ちにした。当時は何と言うか……圧巻だったなあ。襲い掛かる不良達を、次から次へとバッタバッタと薙ぎ倒して、でも碧本人は掠り傷一つ無くて……
因みにその時のぼくは傍観者に徹していた。傍から見たら、か弱い美少女を助けようともせず、安全圏からただ見ているだけの彼氏というのはどういう了見だ!? と突っ込みが入りそうだったけれど……冗談抜きで碧はぼくより強いんだ。逆にぼくが最前線に顔を出してしまうと、碧の足手まといにしかならない。ぼくの手助けは碧にとって『余計な事』なのだ。……そして周囲には毎回『付き合っている』前提で見られるが、ぼくらはあくまでも『盟友』だし。『恋人』じゃあ無いんだ。
さて、そんな、武道に長けた仁科碧は現在、空手も柔道も剣道も、自主的には稽古に顔を出していない。元々、碧は両親の言い付けで道場へ通わされ、稽古をつけて貰っていたのだが……中学三年生の個人戦・全国大会にて、三種目全てで優勝を果たした後――『盟友』の中でやり切った感が出てしまったらしい。その結果、高校受験を理由に三競技から距離を置き、学業に力を入れた。元々の学業成績も良かったため、中学校内でも仁科碧はメキメキと頭角を現し、やがてはテストの度にトップの座を争う存在になったようだ。文武両道を体現・ルックスも完璧って、チートかよ。
そうして見事に名門進学校である私立松ヶ谷学園高校に合格したのだが……受験勉強中の息抜きが、ぼくも知る、盟友の決して人には言えない秘密なのであった。
期間にしておおよそ1年10ヶ月近く、『盟友』は人目を忍んでその趣味を楽しんでいた。
似たような趣味はぼくも持っている。だから碧の感覚が良く分かるんだ。その、感覚の同調こそが、ぼくらが『盟友』という関係性に至る決め手となった。
碧が武道の稽古では無く、自主的なジョギングや筋トレなどのトレーニングを行なっているのは、前に述べた通り。しかもかなりのガチ勢。更には『盟友』のかつての同級生・竹中志乃とも一緒にトレーニングをしているらしく。
……そうなると、完全な横恋慕だけれど、面白くないのはこのぼくだ。『盟友』との時間はぼくが、ぼくだけが、独占したいと思ってしまっている。他の誰にも仁科碧を渡したくない、と。竹中志乃よりぼくを選んでくれよ、と。……参ったな、ぼくはどんだけ碧の事が好きなんだよ。これで碧がぼくの事を好きでも何でもなかったら――? イヤだ、そんな悪夢は想像したくもない!
「……うーん、護身術かあ。碧から習うのも大事かもしれないけれど、ぼくは基本的に運動が苦手だからさ。身につけたところで上手く活用できるとは思えないんだよね……」
自身の不安を振り払いたくて、ぼくは碧の提案に反応を返した。しかしそれも歯切れが悪くなってしまう。そりゃあ碧が手取り足取り教えてくれるのはこの上なく嬉しい。けれどここで忘れてはいけないのは、『盟友』が教えてくれるのは護身術であって、簡単なストレッチや筋トレなどではない事。しかも碧はこと運動に関してはガチ勢だから、ぼくへの講義も相当スパルタなものになるだろう。……陰キャぼっちで、運動音痴のぼくにどうしろと?
このぼく――柴沼祐希は中学時代からの、根っからの陰キャだ。太りやすいクセに筋肉はつき難にくく、昔からクラスメート達にバカにされてきた。教室ではもちろんぼっち。そんなぼくは気付けば自分と他人を冷静に、俯瞰的に捉えるようになっていて、『自身が行動する際は必ず、以前に見て学んだ他人の行動を参照しよう』と考えるようになり……つまるところ、何をするにしても、誰かの失敗を反面教師にしよう、ああはなるまい、という思考形態が作り出されていた。……結果的にぼくはシニカルで性格の悪い人間になってしまった感があるけれど……仁科碧に嫌われなければ、今はもうそれで良いやと思うようになっている。……重症だね、コレは。
「……私が色々教えてあげるからさ。ね? やってみない? 大丈夫、痛くしないから」
渋るぼくに、碧が上目遣いで聞いて来た。……その目つきは反則ですよ、仁科碧さん。オトされてしまうじゃないですか。それにアナタのその台詞は立派なセクハラです。
「まぁ……ぼくにはコレがあるから」
言ってぼくが取り出したのは――今の趣味を始めた頃から必ず携帯している、スタンガンだ。思えばこのスタンガンは様々な場面でぼくを救ってきてくれた。先月の、碧と一緒に映画を観に行った、あの時も。
碧もぼくの相棒とも言えるスタンガンを否定する事はできない。何故なら実績を挙げているからだ。それこそ、二人で映画を観に行った時だって、碧が複数の不良達と対峙している際、他の一人がぼくへと肉薄し、碧の動きを制限するために、ぼくの身体を羽交い絞めにして人質に取ろうとしたんだ。その拘束を破ったのが、このスタンガン。もしもコレが無かったら、僕らは不良達から辱めを受けていたかもしれない。
「……祐希ちゃんが心配だけど、私が常に一緒にいられる訳じゃ無いから……」
スタンガンをちらりと見た碧が、どこか寂しそうに呟いた。
それはそうだ。例えぼくらが『盟友』だと言ったところで、家族ではないし、恋人ですらない。どんなにお互いが大切であっても、物理的な距離だけはどうしよもなく。……『盟友』であるが故に、ただの『親友』には及ばない、特別な絆はあるだろう。だがそれも『家族』や『恋人』の絆に勝るのか? と問われたら、肯定する事は難しいかもしれない。『盟友』は、『家族』や『恋人』に比べたら、心の距離は離れている。碧の、『常に一緒にいられる訳じゃ無い』という台詞から、そういうニュアンスが滲み出ている気がしたのだ。
……大丈夫。ぼくは仁科碧のお陰でだいぶ強くなれた。だから……時々でも良いから、ぼく――柴沼祐希に、きみを支えさせて欲しいんだ。
「碧、あのさ……」「祐希ちゃん、あのね……」
ぼくらの声が重なってしまった。『盟友』の声音はどこか震えていたようにも思える。ドキドキしながら碧の顔を見やると、まるで火照ったかのように真っ赤だった。表情も憂いを帯びた――という表現がぴったりだ。何故だろう……? と、考えるまでも無い。仁科碧も少なからずぼく――柴沼祐希に対して好意を抱いてくれている、と言う事だ。思春期の恋愛脳が考えそうな妄想だ――そう、貶されるかもしれない。けれどぼくと碧は『盟友』として、様々な苦難をともに乗り越えて来た。だってぼくらは『人には言えない重大な秘密』を抱えているのだから。それを共有する、数少ない仲間――『盟友』なのだから。
加えて、二人が異性というのもポイントが高い。同性……竹中志乃のように、女子ならば女子にしか分からない悩みだってシェアできる。彼女の存在はぼくにも碧にも大きいと言えるだろう。碧もぼくも、志乃になら困っている事を相談しやすい気軽さがあるんだ。彼女の性格がサッパリしているのもありがたかったし。……尤も、ぼくが彼女と会話したのは、数分前が最初だけれどね。
「……碧から先にどうぞ」
「良いの、祐希ちゃん?」
カッコいいところを見せたいがために、ぼくはそう強がってしまった。本当ならぼくの口から本音を吐露したかったんだけれど……何を? って、そんな事は分かり切っているじゃないか。
「…………好きだよ」
っていう事の他に無いじゃんか……
……
…………えっ?
ええええええええええええっ!?
い、いいい、今っ、あああああ碧はッ!? ぼぼぼぼぼくの事を……ッ!?
「%&=#!@?*+」
「もう! 祐希ちゃん、動揺し過ぎ!」
そんな事言ったって……ぼくは生粋の陰キャだよ? 異性から告白された事なんて一度も無いんだよ? 落ち着けって言う方が無理なんだよ……ッ!?
ぼくの反応は相当分かり易かったのだろう。碧は形の良い細い眉を八の字にして、苦笑いをしていた。その顔を見たぼくと言えば、動揺と驚愕で目を見開いていたのが自分でも分かる。次いで徐々に歓喜が湧いて来て……最後に去来した大きな感情は――羞恥だった。
恥ずかしい。
でも……地味で目立たないこんなぼくを、『好きだ』と言ってくれる人が現れた事は――素直に嬉しい。
けれど……嗚呼、やっぱり――恥ずかしいものは、恥ずかしいよ……ッ!!
……ただ、ここで大きな問題が浮上して来る。そう、ぼくらの関係性――『盟友』の今後について、だ。
今までの柴沼祐希と仁科碧の『盟友』という関係性は、『人には言えない重大な秘密』を共有できるという点にあるからこそ、成立していた。仮にぼくが碧からの告白に対する回答として『OK』を出してしまったら、もう以前のような間柄には決して戻れない。だからこそこの場の返答は慎重に考えた上で出さなければならない。
ただ、『ぼくも高二だし~、そろそろ恋人欲しいし~』なんて軽い気持ちだったり、『碧がどうしても……って言うのなら、仕方無いなあ』と相手のせいにしたりとか、そういう不誠実な答えを返すのだけは絶対に違う。
……じゃあ、なんて返す? 仁科碧の気持ちを無下に断っても良いのだろうか? けれどぼくらは大切な『盟友』だし……。無責任に告白を受け入れて、大事な『盟友』を失うくらいなら、ぼくは恋人なんか要らない……。ダメだ、一体どう答えれば良いのか全く分からないよ。
「……もしかして、迷惑……だったかな? 祐希ちゃんは、私の事、嫌い?」
「えっ!?」
……仁科碧さん、その質問はズルいですよ。『迷惑』だとか『嫌い』だとか言ってしまったら、今までの『盟友』という関係性まで否定する事になってしまうでしょうよ。けれど、『そんな事は無い、ぼくも碧の事が好きだよ』などと軽々しく言ってしまったら、もう二度と『盟友』には戻れない。つまり碧の質問には、どう答えても不正解になってしまうのだ。
「……私が言いたい事は言えたから……。次は祐希ちゃんの番。さっきは何て言おうとしたの?」
「え、ええっ!? そ、それはそのぅ……」
……仁科碧、ドSかよ。答えに窮するぼく。ここは正直に、『これからはぼくにも碧を支えさせて下さい』って言おうかな?……ダメだ。それじゃあ『盟友』云々や告白の答えを通り越してプロポーズになっちゃう! 言いたい事はそのまんまなんだけれど、台詞のその部分だけを切り取ったら、完全に誤解される!
かと言って、『本当にぼくの事が好きなの?』なんて質問で返してしまったら、碧の気持ちを疑っていると捉えられかねない。碧を傷付ける事になってしまう。
結局のところ、ぼくは『盟友』と『恋人』を天秤にかけて、どちらを取れば良いのか分からないのだった。
ふと視線を上げて、碧の顔を見てみる。整った顔立ちはぼくの好みだ。もちろん顔の造作だけで相手への感情を決めるほどぼくは外道じゃない。ぼく――柴沼祐希は仁科碧が心の底から好きなんだ。……ならば、答えはもう決まっているじゃないか――!
「……いや、ぼくはいつも碧に守られてばかりで……。そんな自分が情けないけれど、ぼくは今まで碧に支えられて来たみたいに、今度はぼくが、碧の事を支えたいって、思っているから」
「……うんうん」
「……だから……もう、『盟友』じゃなくなっちゃうけれど、こんなぼくで良かったら……付き合って下さい……」
「…………うん。ありがとう。嬉しい……これから宜しくお願いします、柴沼祐希さん」
「……ぼくの方こそ、宜しくお願いします……仁科碧さん」
……残暑の厳しい八月下旬、柴沼祐希と仁科碧はこうして、『盟友』から彼氏彼女――『恋人』になりました――
「ねえ、碧……さん。これからなんて呼べば良いかな?」
「えー、何も変える必要無いって。今まで通り『碧』って呼び捨てで構わないよ」
「……うん。でもさ……碧。ぼくは今まで異性と交際した経験が無いから、いざ付き合うってなっても、何が正解か分からない……」
「うんうん。今までと変える事なんか無いよ? だってほら、私達はずっと『盟友』として酸いも甘いも味わい、苦楽をともにして来たでしょ? その絆があるんだし、今まで通りで良いんじゃないかな?」
「……じゃあ、ぼくの事は引き続き『祐希ちゃん』?」
「……恥ずかしいのなら、やめるけど……」
「いやいや! そんな事無いよ! 今まで通りが一番だ…………碧」
「……うん、ありがと、祐希ちゃん」
ぼくと碧は高校で出逢って互いの秘密を知り、約1年4ヶ月もの間、『盟友』として協力し合ってから、『恋人』になった訳だけれど……何だか気恥ずかしいし、慣れない。でもこれからは充実した日々が待っているのだと思うと、わくわくが止まらない。それによくよく考えてみれば、『恋人』は『盟友』の上位互換みたいなものだ。どちらも大切なのは同じだけれど、『恋人』――『彼氏彼女』『交際相手』――は、『盟友』よりも親密さだったり距離感だったりが近いような印象なのだ。
……でもさ。冷静になって考えてみると、恋人イナイ歴16年のぼくにとって、『お付き合い』のイロハなんて分かる訳が無い。碧は美形だし、相当モテるだろうから、恋愛経験も豊富なのかもしれない。碧に対してぼくができる事は、恋人を悲しませない事。何をおいてもまずはこれだろう。……碧の事、大切にしよう。
「……ねえ、祐希ちゃん」
「…………何?」
唐突に、名前を呼ばれる。大輪の花を咲かせる向日葵のような笑顔を見せる碧。その顔を見ながら、思わずぼくは愉悦に浸るところだった。だって恋人の笑った顔は、ずっと見ていたいから。名前を付けて保存したいんだ。
「祐希ちゃんが良かったら……だけど」
「……うん」
……何だ? 碧は一体何を企んでいるんだ? 楽しみであるし、少し怖くもある。
心臓の高鳴るぼくを前に、碧は腰を浮かせて、よりぼくの近くへと寄って来た。当然だけれどぼくの心臓の鼓動が更に早まったのは言うまでも無い。恋人のサラサラの髪が、ぼくの頬をくすぐっていた。スラリと引き締まった肢体からは、相変わらず制汗剤の良い匂いが漂ってくる。
目がきょろきょろと忙しなく動くぼくを尻目に、碧はとんでもない爆弾を投下してきた。
「ねぇ……付き合いました記念に……キス……しない?」
「え!?」
な……
何を言っているんだ、この人は……ッ!?
そりゃあ、恋人として付き合っていれば、いずれは身体的な接触をする事もあるだろう。けれど……今!? 付き合い始めてたったの数分でキスをするって、展開が早過ぎない!?……いや、まぁ、交際0日婚よりは急な話では無いけれど……でもぼくらはまだ高校二年生! 学生です! 確かに仁科碧の身体に興味はあるけれど……まずは心で繋がろうよ!
「やっぱり、私とは、キスなんかできない……よね。……ごめんね」
「いやいやいやいやいや!」
違う、そうじゃない! そういう事じゃ無いんだ! ぼくが考えているのはあくまでも順序だったり順番だったりの話であって、碧とキスする事がイヤだ! なんて事は微塵も考えていないんだ!
一体どうすれば良いんだ……。陰キャぼっちのぼくに、恋人にキスを迫られたらどう反応するのが正解かなんて分かる訳が無いのに! 因みに『私とはキスなんかできないよね』は立派なセクハラですよ、仁科碧さん!?
……ええい、こうなったら仕方無い! 腹を括ろうじゃないか!
「…………碧、本当に……キス、して……良いんだね……?」
「……うん。祐希ちゃんが、イヤじゃなければ」
イヤな訳がないでしょ……! 胸中でそう叫び、ぼくは静かに目を閉じた。不安と緊張で背中にイヤな汗を掻いている。手汗も酷くてびしゃびしゃだ。何より、心臓がトチ狂ったように早鐘を打っていて、胸のドキドキが収まらない!……ヤダなあ。碧と……キス、するって分かっていたら、お昼ごはんにタラコの冷製パスタは選ばなかったのに……。
……食後に口は拭いたけれど、唇にタラコの粒とか付いていないかな? これから……、碧とキス……するのに、口にタラコが付いていて、口移しみたいになっちゃったら……恥ずかしいよぅ……
「……んっ」
けれど、不安に心を押し潰されそうになっていたのは、ほんの数秒だけ。気付けばぼくの唇に、柔らかくて温かな恋人の唇が重なっていた。
接触はほんの一瞬。碧の唇が離れて目を開けた時には、羞恥で顔を真っ赤に染めた恋人の姿があった。……何て言うか、とても柔らかかった。顔も身体も熱くて、まるで今にも溶けてしまいそう。その後に温かい気持ちが胸に去来して、きゅんとする。
よく、『ファーストキスはレモン味』……なんて言うけれど、何の事は無い、ぼくの人生初、碧との初めてのキスは、相手が食後に飲んでいたコーヒーの味だった。それならば、碧が味わったのは、ぼくが飲んでいたフルーツ系の天然水のほのかな甘味か、或いはタラコの冷製パスタのしょっぱい塩味か。……恋人は一体どう感じたのだろう? 気になるけれど、恥ずかしくて聞ける訳が無い。それにもし……もしも、だけれど……碧が他の誰かとファーストキスを済ませていたら? そんな不安が押し寄せて怖くなってきた。うぅ、聞きたいけれど、怖くて聞けない。もし碧が『キスは経験済み』だったらどうしよう……。ぼくばかりが未経験で、ぐるぐると思い悩んでいる――うぶだってバレてしまったら、恥ずかしさのあまり大声をあげながらこの場を走り去ってしまいそうだ。
碧と唇を離した後……恋人と視線を合わせる事なんてできる訳が無かった。決して気まずくは無い。ただ、単純に恥ずかしいだけ。ぼくの心は、気持ちは、仁科碧への純粋な『好き』で溢れている。『幸せ』で満たされている。願わくは、恋人もぼくと同じ想いを抱いていてくれたら良いな……と思う。碧が実は経験豊富な恋人だったら、かなり複雑だけれど。
「……祐希ちゃんとのキス……甘い果実の味がした」
いちいち報告しなくても良いよぅ。でも、どこか安心しているぼくがいた。
……タラコの塩気じゃなくて良かったって。ついでに言えば、同じ塩味であっても別なものに由来し、もっとイヤな結果にならなくて良かったと安心してもいる。
それは――タラコパスタ系全般に付き物の、刻み海苔。恋人と視線を合わせられないから、顔を逸らしつつ、横目で碧の唇を確認する。……大丈夫、海苔が付いている形跡は見当たらなかった。考えてみればそれは当たり前の事だよね。だってぼくはキスする前に、口元を拭って汚れを落としていたのだから。そもそもぼくの唇に刻み海苔は付着していなかったのだ。……良かった、改めて安心したよ。
「……ぼく、キスなんて、初めてした」
「……祐希ちゃんも? 実は私も、今のがファーストキス」
恋人の『初キス』がぼくで、良かった。もちろんぼくの『初キス』が碧で良かった、とも思っている。やっぱり恋人ができたのが初めてだから、色々な『経験』も初めての相手が良いって思うよね。
……とは言え、様々な願望を持つぼくも碧も、これまで誰かと交際しようとはしてこなかった。碧はどうか分からないけれど、少なくともぼくには恋愛願望があったよ? けれどそれを叶えようとしなかった理由は、やっぱりぼくの抱える秘密にある。この悩みはぼくも碧も、今まで他の誰とも分かち合う事ができなかった。ある意味この秘密は、共有できたからこそ、ぼくらは恋人になれたのだと思う。
ぼくらが抱える秘密と言うのは――
「……ぼくの恋人が本当にきみで良かったよ……、碧『くん』」
「……ありがとう。私も同じ気持ちだよ、祐希ちゃん。……でも二人きりの時は、『くん』はやめてよ」
「……うん、分かった。……ぼくと一緒にいる時、男っぽいところを見られるの、イヤだもんね。碧は」
「……うん、ごめんね。……私もやっぱり祐希『ちゃん』はやめた方が良いかな? 女性性を前面に押し出しているかもしれないし」
「いや、ぼくはもう、慣れたから、それ。……人前じゃなければ、碧の前でなら……、大丈夫」
そう。仁科碧は『男の娘』で、ぼく――柴沼祐希は『僕(ぼく)っ娘』の『男装女子』なのだ。
ぼくらは高校一年生の時にそれぞれ『性的マイノリティー』の新入生として邂逅し、事情を共有してから『盟友』となった。
……ただ、性的マイノリティーとは言っても、碧の性自認は男だし、ぼくの性自認は女だ。加えて碧の性的指向は女性だし、ぼくの性的指向も男性。要は、碧は女装が好きなだけの男子高校生、ぼくは一人称が『ぼく』であるだけの男装が趣味の女子高生(JK)。碧の一人称が『私』なのは、真面目で礼儀正しいからである事に他ならない。
ぼくらがそれぞれの性自認とは反対の性別の格好をするのは決まってプライベートな時だけ。高校での碧はキッチリとした男子の制服だし、ぼくは高校指定のブレザーを纏った、花も恥じらう制服JKなのだ。
そうは言っても、ぼくらの趣味が他のクラスメート達に最初から理解される訳も無く。
一番初めに訪れた試練は、二人とも中学三年生の頃の事だった。私立松ヶ谷学園高校受験のプレッシャーが想像以上に厳しく、ぼくも碧も、自分を開放したくてうずうずしていた。そこで思い付いたのが異性になり切る事だったのだ。流石に第三者に目撃された時は心無い言葉を浴びせられたが、次第に周囲の目はぼくや碧から興味を失っていった。高校受験が目前に迫っていたからね。周りのクラスメート達は陰湿ないじめを行なって、自らの評価を下げる愚は犯さなかったのだ。
ぼくらが『変身』する最初のキッカケになった理由は、お互いに幼少期まで遡る。
幼い頃のぼくは活発でよく男の子と間違えられた。……陰キャぼっちの今とは考えられない事だ。けれど両親はぼくに『女の子らしさ』を求めていた。本来が女子だから、当たり前の事なのだけれどね。
しかし外で遊び回るのを禁止され、『お淑やかに』と育てられた事で、ぼくの中で『男装』への想いは強くなっていって……。それが高校受験の勉強で抑圧されていた中学三年生の頃に爆発しちゃったんだ。
碧は幼稚園でも女の子とおままごとをするのが楽しかったようだけれど、男の子からそれをバカにされたりイジメられたりしていたそうだ。そういう訳で碧の両親は彼に武道を習わせようと思ったらしい。周囲は碧の気持ちなど分かってなどくれなかったようだ。碧もしばらく我慢していたけれど、前にも述べた通り、高校受験の息抜きとの名目にして、中学三年時に女装の歯止めが効かなくなった訳だ。
基本的にぼくらが変身するのは休日が多い。平日の放課後に堂々と異性の格好をしていたら、特殊な趣味を持っている事がバレてしまうから。だからぼくも碧も、男装&女装趣味をできる限り隠し続けていた。
今だってそう。夏休みの午後だからこそ、ぼくらは変装しているのだし。予備校が終わった後、ぼくと碧はそれぞれトイレでこっそり着替えていたのだ。そのロスのせいで、予備校を出る時間も遅くなった訳だ。
元々ぼくはショートカットだったから髪の長さを変える必要なんて無かったし、碧は碧で、男子にしては髪がやや長めだったので、二人とも少しだけ髪型を整えるだけで異性になれたのだ。因みにぼくも碧もどちらかと言うと童顔なので、男子女子どちらとも取れる顔立ちだった。
……ぼくは幼児体型で身体のラインにメリハリが無く、胸もお尻も小さかった。けれどその特徴は男装するに当たってとても都合が良かった。煽情的なスタイルだったり、巨乳だったりしたら、男子になり切る事は難しかったからね。……セクシーな女性のスタイルには憧れるけれど、ぼくの彼氏――仁科碧は恋人の身体だけしか見ていない、なんて事は無いだろうから、別に構わないのだけれど。
一方で碧は中々に悩ましかったようだ。男性特有の骨格だったり、筋肉の発達具合だったりが、碧の女装を困難にしていたのだから。
加えて空手・柔道・剣道を嗜んでいた事で鍛え上げられた屈強な体躯も碧は持っていた。そのせいで思春期の女子に表れてくるような、丸みを帯びた身体つきとは似ても似つかなくなってしまうのだ。
碧は今もガチめのトレーニングはしているものの、全盛期からはかなり強度を落としたと教えて貰った。……女の子を意識した今の碧の体型も良いけれど、やっぱり、男性として鍛え上げられた身体も見てみたかったなあ。まぁぼくはどちらの仁科碧でも受け入れたい。だって、碧はぼくの彼氏……大切な恋人、だからね。
更に真面目で成績も優秀。人当たりの良い性格で、碧にネガティブな印象を抱くクラスメートは殆どいなかったのだ。
因みに小中学校時代の仁科碧がいじめや嫌がらせに遭わなかった理由に、彼は腕っぷしが滅法強いという事があった。もしも碧をいじめたのなら、力を以て手痛い報復を受ける事になるしね。幼稚園の頃のいじめっ子が、碧が強くなるキッカケになったみたいだ。感謝する必要は全く無いけれどね。
高校入学直後、ぼくらは男装・女装趣味について誰かに知られてしまわないか、戦々恐々としながら過ごしていた。初めて変身した中学三年生時のように、周りから白い目で見られたくないからね。だから碧の秘密を知った時は、驚きもしたけれど、『仲間』の存在に安堵した。ぼくらが同じクラスになって出逢えたのは幸運以外の何物でも無かったのだ。
そこからは……何度も説明している通り。突き詰めれば、ぼくらが付き合う事になったのも、互いに特殊な趣味嗜好を持っていて、出逢ったからこそだ……
『性的マイノリティー』――多様性を受け入れてくれる世の中になったとは言え、ぼくらへの風当たりはまだまだ厳しいと言えるかもしれない。幼い子供に見られた時などは、その子供が無邪気な分、言う事は残酷であり。
けれど子供には悪意が無いんだ。目で見て、感じて、思った事をストレートに言っただけ。それに対して『配慮しろ』というのはナンセンス。だって相手は善悪の区別が付かない子供なのだから。
もちろん幼いうちからそういう偏見を無くすように教育する事は大切だ。けれどぼくと碧の場合は事情が複雑だ。だって二人とも性別を偽って――男装なり女装なりをして快感を得ているのだから。
誰に何と言われようとも、ぼくらはぼくらの趣味を続けていく。別に法に触れるような悪事を働いている訳で無し。たった一人の理解者がいてくれれば、それで良い。最初は『盟友』で、今は『恋人』となった、仁科碧がいてくれるのなら……
……暗い話になってしまったけれど、ぼくと碧は晴れて『盟友』から『恋人』にクラスチェンジした事で、これからの日々が楽しみで仕方無くなった。互いに特殊な趣味を持っているけれど、ぼくらは恋人同士で分かり合えるし、助け合う事もできる。……イチャイチャも、できる……かな? 今日を境に、毎日に彩りが添えられたみたいで、何だか嬉しくて堪らないんだ……!
「おーい、碧! 祐希! お待たせ―!」
キスを終えてしばらく見つめ合うぼくらの下に、志乃の呼ぶ声がした。バカネコ……子ネコの未来もこれで安心だね。志乃には本当に感謝だ。ムリなお願いを聞いて貰って、彼女には頭が上がらないや。
……はぁ、残念だけれど、碧とのラブラブタイムはここで一旦終わりだね。やけに顔が熱くなっているけれど、志乃に不審がられないだろうか?……碧とキス、していた事、バレないよね?
因みに志乃は仁科碧の女装趣味は知っているらしい。でもそりゃあそうだよね。話していなければ、休日に一緒にトレーニングなんかしないし。……でも碧の彼女としては、彼氏が他の女(竹中志乃)と仲良くしているのは正直面白くないけれど。ぼくも二人のトレーニングに混ざって、志乃を牽制しようかな?……ぼくは運動がからっきしだけれど。
ぼくと碧は互いにずっと抱えていた悩みがキッカケで、最終的に交際にまで発展する事ができた。これからは何をおいても恋人を大事にしたいと思う。今までの高校生活では『盟友』以外に救いの手を差し伸べてくれる人はいなかったし、己の秘密を自ら暴露する訳でも無いから、碧の他には誰にも助けを求められなかった。
けれどこれからは仁科碧がぼくにとって今以上に心強い存在になってくれる。ぼくはぼくで、柴沼祐希が恋人にとって重要な存在でいられたら良いなと思えた。
……ねえ、仁科碧くん。あんまり女の子っぽい可愛さは無いかもしれないけれど、こんなぼくの事を彼女にしてくれて、本当にありがとね。……これからも、よろしくっ!
END