先の見えない道をただ走っていた。聞こえてくる無数の声を振り切るように。
〈スピカ様かわいそうT T〉
〈高校生の才能に嫉妬したおばさんw〉
うるさい。
〈炎上商法で草〉
〈今までの曲も全部パクリだったんじゃない?〉
〈スピカ様に申し訳なくないんですか!? 早く謝ってください!!!〉
うるさい。
〈☆はスピカ様のものです。☆までパクるつもりですか?〉
〈スピカ様の音楽を汚すな〉
〈死ね〉
〈なにかに本気で取り組んだことないからこんなことできるんだろーな〉
うるさいうるさいうるさい。黙れ黙れ黙れ……!!
――ピピピピピ、ピピピピピ。
電子音とともに霧散していった。
それによって得られるのは、中傷から逃れられた安堵と、なにも変わってない朝への絶望。
もう何日も目にしていないのに、私はずっと、あの日の炎上に囚われている。
目覚まし時計を止め枕元のスマートフォンに目をやると、月城からメッセージが来ていた。
〈今日も集まれそう?〉
朝の挨拶もない簡素な文は実に月城らしい。彼に倣い私も〈うん〉とだけ返し、ベッドから降りた。自身にまとわりつく悪夢を振り払うように。
★
補習期間が終わり、本格的に夏休みがやってきた。
とはいえ、学校に行かなくなっただけで、月城と私は毎日のように集まり、スピカが出没しそうな所を巡っているので、以前の生活とあまり変わらない。
強いて言うなら、集合場所が学校から少し離れたところから張り込む場所の最寄り駅になったことだろう。
数日前に母親に毎日どこをほっつき歩いているのかと咎められたが、図書館で勉強していると言えばあっさりと引き下がってくれた。まぁ実際は図書館になんて一度も足を運んでないが、この嘘がバレることはないだろう。スピカを張り込みつつ、ちゃんとカフェやファミレスで課題を終わらせたり、前に受けた模試の解き直しをしたりしているのだから。
「はよー」
「うん、おはよ」
いつも通り集まって、いつもと同じ言葉を交わす。
そして日傘を月城に持ってもらい、彼がそのままスマホ片手に道案内する。私はその隣でハンディファンの風を交互に当てたり、テキトーな話題をふっかけたり。
溶けそうなほど暑いことを除けば、私たちがこれからしようとしていることに反して十分平和だと言える。
そして、いつしか月城といることに安堵を覚える自分がいることに気づいた。
それこそ、もしスピカの素顔を特定して、パクリ疑惑が晴れたあともたまにはこうして過ごしたいくらいに。
創作はひとりでしたい。
でも、それ以外のときなら、誰かと一緒にいてもいいんじゃないか。
そう思えるくらい、私は油断していたのだ。
だから普段しないような失態を犯した。
そしてその代償は、私の音で払わなければならなかった。
★
「なにしてるの!?」
薄暗い私の部屋に、母親の怒りとも焦りとも捉えられる声が響き渡った。
「――あ」
やらかした、と思ったときにはもう手遅れで、すごい勢いで血の気が引いていく。手から離れたヘッドフォンが、無惨に音を立てて床に落下した。
母親の次の言葉が発せられるまでの数秒で、今日の軌跡が走馬灯のように再生された。
今日もスピカ現れなかったねとかもうすぐお盆だけど今まで通り集まれそう?とか話しながら月城と分かれ、寄り道することなく帰宅し、パソコンとヘッドフォンを用意した後、積もった音たちを夢中で吐き出していた。
悪夢を見たときの刺すような音と平穏な時間により生まれたやわらかい音。
見たもの、聞いたもの、感じたもの。
それらを織り交ぜて、ひとつの音楽に。
炎上以降まともに曲を創れていないくせに、溜まった音の欠片だけを、アイディアの種を、永遠とノートに楽譜を書いていたあの頃のように、ひとりの世界に閉じこめる。
その世界の中で神経が研ぎ澄まされていたことで、いつもより外の音に鈍感になっていた。
もっと具体的に言うなら、母親が朝に今日は早く帰ってくると言っていたことを忘れ、母親が帰ってきた音にも気づけなかった。私は完全に油断していたのだ。
母親は依然として私を見つめている。あの日のような嫌な目で。
――「なれるわけないでしょ、そんなの。恥ずかしいから二度と言わないで」
どくん、どくんと心臓がはねる。背中ではツーッと冷たい汗が流れ落ちた。緊張したとき特有の喉の乾きにより、上手く言葉が出てこない。
「まさか、まだ歌手になりたいの?」
沈黙を破ったのは母親の声だった。
記憶の中とは違い、どこか恐れているように見える。
自分の娘に限ってそんなことない。自分の娘はちゃんと大学に進学して収入が安定したところに就職する。
そう信じさせてくれと訴えかけているようだった。
母親はたぶん、私が世間が想像する"普通"から逸れるのが怖いんだ。自身が"普通"の道しか辿ったことがないから。
だったらいっそのこと、全部ぶちまけてしまおうかと思った。
私は大学進学するよりも安定した職業に就くよりも、シンガーソングライターになりたいと。
――でも、正直に言ったところでなにになる?
母親が聞き入れてくれるわけないじゃないか。小学6年生のときですら恥ずかしいと一蹴された内容だ。それを高校2年生の今になって言ったところで、また、否定されるだけ。それどころかまだそんな子どもじみたことを言っているのかと激情されるところまでありありと想像できる。
それでもなお夢を語る気力など、到底残っていなかった。
私はずっと疲れている。
誹謗中傷された日から、あるいは、スピカが現れた日から。
「そんなわけないよ。ただ、気分転換に歌ってただけ」
絞り出した声は震えていなかっただろうか。どうか気づかないでくれと祈りながら腕に手を添えた。
「じゃあ今日の昼、男の子と歩いてたのは?」
「……え?」
「日傘で相合傘なんかして恥ずかしくないの?」
間違いない。月城のことだ。
見られてたんだ。そう思うと急に恥ずかしくなって、頭に血がのぼった。
そういえば、今日張り込んだところは母親の職場の近くだ。迂闊だった。お昼休憩の時間に母親が外食しに行く可能性を完成に失念していた。
もっとちゃんと気をつけておけば。
噛んだ唇の裏側から微かに鉄の味がした。
母親はまるでいやらしいものでも見るような目つきで私を捉えた。
「心星ちゃんに彼氏はまだ早いでしょ!?」
早いってなんだ早いって。高校2年生にもなって早いわけがない。今どき小学生にだって恋人くらいいる。
月城は私の彼氏じゃないけれど、そう反論したくなった。
黙り込む私が気に入らなかったのか、母親は腕を組みながら見せつけるように深い溜息をついた。
「とにかく、明日からは家で勉強しなさい。お昼ちゃんと作っとくから、それちゃんと食べなよ」
釘を刺すようにそう言い、背を向けた。
「全く、受験戦争はもう始まってるっていうのに恋愛にうつつ抜かして……」
扉を閉めた衝撃が波となり、空気づてに肌に伝わってきた。
壁越しに母親の小言が聞こえる。それが遠ざかり、母親の気配が消えたところでようやく息を吐けた。
足元がグラグラする。
酸素不足と過度のストレスのせいで平衡感覚がおかしくなっているんだ。
「……自分の言いたいことだけ言って、高尚ぶるなよ」
母親の身勝手さにイライラする。
私に勉強しろと口うるさく言うくせに、私を良い大学に行かせたいくせに、小学校受験でも中学受験もさせず大学受験にのみ重点を置いているだけじゃ飽き足らず、塾に強制的に通わせようとはせず、ただただ勉強しているのか催促してくるだけという中途半端さ。
結局のところ、母親は私でリベンジしたいだけなんだ。
自分が小学校受験も中学受験も受けさせてもらえず塾にも通えなかったから大学に落ちたわけじゃない。たまたま運が悪かっただけ。自分にも良い大学に受かるだけの学力はあった。それを証明するために似たような条件の私を利用している。私は母親じゃないのに。
父親は母親のリベンジに関して干渉してこない。むしろ良い大学に行くのはいいことだからと母親を応援しているきらいすらある。
くだらない。そんなに私の学歴が大事か? 良い大学を卒業したところで無職ならば意味がないだろ。
一番大切なのはなりたい職業に就くこと。
これじゃないのか。
力が抜け、地面に膝を打ちつけた。痛い。血が滲んでいく感覚がする。内出血したのかもしれない。そのおかげか幾分か冷静さを取り戻した。
落ち着け、耐えろ、考えろ……。
今1番気にするべきは、母親に月城の存在を知られてしまったこと。
もしまた月城と一緒にいるところを見られたら何をされるかわからない。今度は直接詰め寄ってくるかもしれない。私に別れろと脅してくるやらまだいい。でも、矛先が月城に向いてしまったら――。
想像するだけで全身が粟立った。
関係ないことに月城を巻き込むわけにはいかない。彼はただ私のために協力してくれているだけ。どうにかして彼と母親を会わせないようにしないと。
突き動かされるようにスマートフォンを手に取った。
〈ごめん、月城〉
シュポ、とメッセージを送った音が虚しく響く。
続けざまにカタカタと音を立てながら指をキーボードの上でスライドさせ、送信ボタンを押した。
〈もう一緒に捜索できない〉
自分で送ったくせに、字面を見ただけで息が詰まった。
耐えきれなくなりスマートフォンをベッドに投げ置くと、雑に放っておいたスクールバッグが目に入った。
――あぁ、そうだ。
「勉強。勉強、しなきゃ……」
ふらふらと立ち上がり、椅子に腰を下ろした。いつもより重力を強く感じた。
それからスクールバッグから筆箱と参考書とルーズリーフを取り出し、机に向き合った。
ベッドの方からバイブ音がしたが気づかないふりをして、筆箱から取り出したシャーペンを強く握り、参考書の設問に取り組む。
文字が全然頭に入ってこないし字もぐちゃぐちゃだけど、形だけでも勉強している間は母親の機嫌を損ねずに済むし、月城が巻き込まれることも私の音たちに干渉してくることもない。
大丈夫、大丈夫、きっと大丈夫……。
――〈スピカ様可哀想……〉
考えるな。
信者に散々同情されたあいつは今も自分が被害者だと思い込み、大した障害もなく家族に応援されながら音楽活動ができているなんて。
そんなの考えたところで何も変わらない。虚しくなるだけだ。
私は、大丈夫。
母親が月城のことをすっぱり忘れてくれるまでこうして勉強していればいい。
その先にはきっと穏やかな日常が待ち受けているはずだ。
だから、それ以外のことは全部ぐちゃぐちゃにして丸めて捨ててしまえ。
私は全部を手にするにはまだ色んなものと足りていなくて。とにかく今目の前にある大切なものを守ることに必死だった。
こうして月城の返信を見ることもできないまま、私たちはお盆を迎えた。
★
高校生の夏休みは社会人の次くらいに短い。
お盆が終われば補講と称してまた学校が再開する。
生活習慣がやや乱れた頭はまだ寝てたいと訴えてきて鬱陶しい。
車窓の外。流れゆく景色の奥で高々と膨らむ入道雲を眺めていると、お盆での出来事がパソコンのディスプレイのように次々と浮き上がってきた。
あれから私は母親の言いつけ通り家から出ず、自室に引きこもって勉強した。課題も模試の解き直しも終わらせたから受験勉強にいいらしいと母親が買ってきた参考書や問題集に取り組んだ。将来使わなそうな知識で脳みそがギチギチに埋められて頭が痛かった。
そんな中で音を紡ごうと思ったことは何度もあった。
でも、また母親に見られたらと思うと怖くなって、手がつけられなかった。
月城の返信もまだ読めていない。というか読めなかった。もし月城に理由を訊かれていたらなんて返せばいいかわからないからだ。
正直に話して、理解されなかったら怖い。母親に干渉されすぎだとか、それくらいどうとでもなると言われたら、もう。
もちろん月城がそんなこと軽々しく口にしないってわかってるが、それでもほんの少しの疑心が拭えずにいる。
ただ、私が今考えていることは全部杞憂で、月城があっさりと引き下がっていたら、それはそれで簡単に諦めないでよと寂しくなってしまう。
身勝手だ。
こうして尻込みしている間にも吐き出せない音たちが胃を埋め尽くすように溜まっていって。少しの衝撃で胃液ごと吐いてしまいそうなほどになった。
そしてその弊害は日常生活に現れた。
「おはよ〜!」
「あ、梨々花。おはよう」
――あれ?
友だちとの何気ない朝の挨拶。だというのに強烈な違和感に襲われた。
――私、今、どんな顔してた?
いつもなら自然と笑顔になって返していたはずだ。でも今日はちゃんと笑えたか確信が持てなかった。心做しか表情筋が硬くなった気がする。
「心星?」
「ん、なに?」
「なんか元気なくないよ〜。昼夜逆転しちゃった?」
「あっバレた? そのせいで上手く寝れなくって寝不足なんだよねー」
今度はちゃんと笑えたという確信があった。作り笑いを浮かべたからだ。
意図的に動かさないといけないくらい感情表情が乏しくなっている。
「今日から文化祭準備始まるよね! 楽しみ〜」
「ね。どうせなら午前授業なしで全部それだったらいいのに」
「わかる! 通常授業とかほんといらない!」
友だちとの何気ない会話にこれっぽっちも笑えていなくて、どこか違う場所にいるみたい。
――現実と心が乖離していく。
小説ではこういうとき、灰色の世界だとか残酷な世界だとか世界単位で表現されがちだけれど、やっぱり大袈裟だと思う。
太陽は今日も憎たらしいくらい輝いているし、木々を青々と生い茂っている。私の周りはとても平和だ。
取り残されているのは私だけ。
一歩引いたところで、じっと目の前の出来事を見つめている。
★
「夜野」
月城に話しかけられたのは、文化祭準備に必要な資材を取りに行っている途中だった。一緒にいた梨々花と美波には委員会の話があるからと言って先に帰ってもらい、人通りのない廊下でふたり向き合う。
「……なに?」
正面から彼の顔を見ることが出来ず、俯いたまま視線だけ上げた。
「悪いけど、捜索はもうできないよ」
そう言った途端、月城の顔にグッと力がこもった。
「中途半端に巻き込んで、ごめん」
重圧にも似た罪悪感に押し潰されるように頭を下げた。このとき頬にさらりとした髪が触れた。――あぁ、そういえば。
母親は髪にストレートパーマをあてたときも私のことをいやらしいもののように扱ってきた。高校生になって変に色気づいたように見えたのかもしれない。きっと母親の頭の中ではこのことと月城といたことが勝手に紐付けされている。そう思うとより一層月城に申し訳なくなった。彼を母親の妄想の一部に入れたくない。
だが、返ってきたのは予想外の言葉だった。
「……夜野は、今、ちゃんと寝れてる?」
えっ、と弾かれたように顔を上げ、月城を見た。
彼の表情には怒りや呆れもなく、ただ私を心配しているようだった。それも、目を逸らしたくなるほど純粋に。
「すっごく疲れた顔してる」
不意をつかれたからか、脆くなっていたところからゆっくり崩れていって。
「――あ」
気づけば涙が零れていた。
「こっち」
そのまま手を引かれ、ふたりぶんの足音だけがする廊下を進んだ。他の人に見られたらどうしようとか梨々花たちに作業押しつけちゃったとかまともに考えてる余裕もなく、視界がぐじゃぐじゃでどこに向かっているのかもわからないけれど、手から伝わるぬくもりに導かれるように自然と足が動いた。
階段を登ってガチャ、と音がしたと思ったら風が前髪をさらった。
「なんで、屋上……」
「学祭準備期間だから解放されてるんだってさ」
ほら、と促され、初めて屋上に降り立った。まだ太陽は照りつけていて暑いけれど、風のおかげでいくらかマシに思えた。
そして開放的なところに来たからか緊張が緩んで、堰が切れてしまった。
「ごめん。ほんとごめん、月城」
手を離し、目に押しつけるように涙を拭う。
「母親に月城と会ってることバレたの。それで、付き合ってるって誤解されて、別れろって。もしまた母親に会ってることバレたら、月城になにするかわかんない」
「――――」
拭いでも拭いでも止まらない。
「だからこれ以上巻き込みたくなくってあんなこと言ったけど、結局こうして迷惑かけてるしし。ほんと、いろいろちゃんとできなくて、音も上手く吐けなくて」
「―――の」
内容も抑揚も無茶苦茶でとても人に聞かせられるようなものじゃない。
月城が呼びかけてくれているのにモスキート音みたいな耳鳴りがして上手く音を拾えない。私の意志とは関係なしに口が動き続ける。
「そうしたらだんだん自分がどう振舞ってたかもわからなくなってきて。こんな身勝手だけど、お願いだから、スピカのこと好きにならな――」
「ならないよ」
「っえ」
「ならない」
一瞬耳鳴りが消えて、月城の声だけが鮮明に聞こえた。
暗い深海に差した一筋のひかりのように真っ直ぐと私の元へと届き、ようやく彼と目が合った。
「夜野歌って」
「――え?」
歌?
瞬きをするとまた一粒涙が流れた。
いきなり歌ってとはどういうことだろう。
ここは学校だ。誰がどこで見聞きしているかわからないのに。
「大丈夫だから」
私の懸念を見透かすように月城が言った。それが合図だった。
私は息を吸った。
★
激流のように押し寄せてくる音たちに身を任せ、私は歌った。
いや、あれを歌ったと言っていいのか定かではない。
ただ溜め込んでいたものを全部綯い交ぜにして吐き出したのだ。
スピカが嫌い。
スピカの信者も嫌い。
両親も、私の行く道を矯正しようとするな。
お願いだからとか、こっちが下手に出るつもりはない。
誰も私の邪魔するな。
私は、ただ、ずっと、音を紡いでいたいだけだ。
それさえ叶うのならあとはなんだっていい。
だって私は音とともに生きてるから。
音を紡がないとまともに生活できないの。
現実と心が結びつかなくなるの。
そんなことを思いながら、こちらを覗きこむように近づいてくる空に向かって歌った。
でも、吐いた音たちは大気圏にすら届かず、途中で空気に吸われどこかへ行ってしまった。
それを認めるとドッと力が抜けて、前に倒れこんだ。硬いなにかに額がぶつける。
その正体が月城の肩だということに数秒遅れて気づいたと同時に、酸素が不足して息が切れていたことや耳鳴りが止まっていたことにも気づいた。
月城に頭を預けたまま、息を整える。
すると、下から吹奏楽部と軽音楽部と箏曲部の演奏が聞こえてきた。譜面に沿って奏でられた音が空気によって解かれ他の音と混じってはまた解かれ、不協和音になっている。風も相変わらず吹いていることから、月城が大丈夫と言った理由をようやく理解する。
ある程度落ち着いたところで礼を言い、頭を離した。返事はなかった。
ややあって月城が訊く。
「……今の、なんて曲?」
思わずこぼしてしまったような言い方だった。
初めて聴いた曲だったので、驚いたのだろう。目を丸くしたまま、答えを切望するように私を見つめている。
「さぁ。即興だったからわかんない。それにもう思い出せないし、同じものは一生歌えない」
言い切ると、月城がわずかにたじろいだ。その気持ちが風化しないうちに言葉を重ねる。「だから」
「この曲のタイトル、月城がつけていいよ」
風が月城の前髪を浮かばせた。
「無茶苦茶な歌を聴いてくれた、せめてものお礼」
月城の黒い瞳にふっと笑う私が映る。
彼はらしくもなく笑う私の言葉を咀嚼するように瞬きして、こくんと頷いた。その瞳はひかりがこぼれてきそうなほどきらきらしている。
――……不思議。私の言葉でこんなふうになる月城が。
そんなことを思いながらゆっくり続きを紡いだ。
「あと、さっき言ったこと撤回させてくれる?」
首を少し傾けると、今度は私の横髪が風になびいて顔にかかった。髪の束の隙間から彼に笑いかける。
「私、やっぱりスピカのこと嫌いだから弱み握っときたい」
思う存分歌って身も心が軽くなったのは確かだ。
でもいくら吐き出してもスピカへのイライラは治まらなかった。黒いモヤモヤが腹の底から無尽蔵に湧き出てくる。
だから、この嫌な感情から開放されるためにも、私は彼女より優位に立ちたいのだ。
「……思えば、俺ら結構がむしゃらにやってたよね」
「ね。ひたすら張りこんでた」
「だからこれからはもっと計画的にいこう」
「計画的?」
問うと月城は口を端をあげた。
その笑顔には、私に素顔特定しようと提案したときと、同じ翳りがあった。
〈スピカ様かわいそうT T〉
〈高校生の才能に嫉妬したおばさんw〉
うるさい。
〈炎上商法で草〉
〈今までの曲も全部パクリだったんじゃない?〉
〈スピカ様に申し訳なくないんですか!? 早く謝ってください!!!〉
うるさい。
〈☆はスピカ様のものです。☆までパクるつもりですか?〉
〈スピカ様の音楽を汚すな〉
〈死ね〉
〈なにかに本気で取り組んだことないからこんなことできるんだろーな〉
うるさいうるさいうるさい。黙れ黙れ黙れ……!!
――ピピピピピ、ピピピピピ。
電子音とともに霧散していった。
それによって得られるのは、中傷から逃れられた安堵と、なにも変わってない朝への絶望。
もう何日も目にしていないのに、私はずっと、あの日の炎上に囚われている。
目覚まし時計を止め枕元のスマートフォンに目をやると、月城からメッセージが来ていた。
〈今日も集まれそう?〉
朝の挨拶もない簡素な文は実に月城らしい。彼に倣い私も〈うん〉とだけ返し、ベッドから降りた。自身にまとわりつく悪夢を振り払うように。
★
補習期間が終わり、本格的に夏休みがやってきた。
とはいえ、学校に行かなくなっただけで、月城と私は毎日のように集まり、スピカが出没しそうな所を巡っているので、以前の生活とあまり変わらない。
強いて言うなら、集合場所が学校から少し離れたところから張り込む場所の最寄り駅になったことだろう。
数日前に母親に毎日どこをほっつき歩いているのかと咎められたが、図書館で勉強していると言えばあっさりと引き下がってくれた。まぁ実際は図書館になんて一度も足を運んでないが、この嘘がバレることはないだろう。スピカを張り込みつつ、ちゃんとカフェやファミレスで課題を終わらせたり、前に受けた模試の解き直しをしたりしているのだから。
「はよー」
「うん、おはよ」
いつも通り集まって、いつもと同じ言葉を交わす。
そして日傘を月城に持ってもらい、彼がそのままスマホ片手に道案内する。私はその隣でハンディファンの風を交互に当てたり、テキトーな話題をふっかけたり。
溶けそうなほど暑いことを除けば、私たちがこれからしようとしていることに反して十分平和だと言える。
そして、いつしか月城といることに安堵を覚える自分がいることに気づいた。
それこそ、もしスピカの素顔を特定して、パクリ疑惑が晴れたあともたまにはこうして過ごしたいくらいに。
創作はひとりでしたい。
でも、それ以外のときなら、誰かと一緒にいてもいいんじゃないか。
そう思えるくらい、私は油断していたのだ。
だから普段しないような失態を犯した。
そしてその代償は、私の音で払わなければならなかった。
★
「なにしてるの!?」
薄暗い私の部屋に、母親の怒りとも焦りとも捉えられる声が響き渡った。
「――あ」
やらかした、と思ったときにはもう手遅れで、すごい勢いで血の気が引いていく。手から離れたヘッドフォンが、無惨に音を立てて床に落下した。
母親の次の言葉が発せられるまでの数秒で、今日の軌跡が走馬灯のように再生された。
今日もスピカ現れなかったねとかもうすぐお盆だけど今まで通り集まれそう?とか話しながら月城と分かれ、寄り道することなく帰宅し、パソコンとヘッドフォンを用意した後、積もった音たちを夢中で吐き出していた。
悪夢を見たときの刺すような音と平穏な時間により生まれたやわらかい音。
見たもの、聞いたもの、感じたもの。
それらを織り交ぜて、ひとつの音楽に。
炎上以降まともに曲を創れていないくせに、溜まった音の欠片だけを、アイディアの種を、永遠とノートに楽譜を書いていたあの頃のように、ひとりの世界に閉じこめる。
その世界の中で神経が研ぎ澄まされていたことで、いつもより外の音に鈍感になっていた。
もっと具体的に言うなら、母親が朝に今日は早く帰ってくると言っていたことを忘れ、母親が帰ってきた音にも気づけなかった。私は完全に油断していたのだ。
母親は依然として私を見つめている。あの日のような嫌な目で。
――「なれるわけないでしょ、そんなの。恥ずかしいから二度と言わないで」
どくん、どくんと心臓がはねる。背中ではツーッと冷たい汗が流れ落ちた。緊張したとき特有の喉の乾きにより、上手く言葉が出てこない。
「まさか、まだ歌手になりたいの?」
沈黙を破ったのは母親の声だった。
記憶の中とは違い、どこか恐れているように見える。
自分の娘に限ってそんなことない。自分の娘はちゃんと大学に進学して収入が安定したところに就職する。
そう信じさせてくれと訴えかけているようだった。
母親はたぶん、私が世間が想像する"普通"から逸れるのが怖いんだ。自身が"普通"の道しか辿ったことがないから。
だったらいっそのこと、全部ぶちまけてしまおうかと思った。
私は大学進学するよりも安定した職業に就くよりも、シンガーソングライターになりたいと。
――でも、正直に言ったところでなにになる?
母親が聞き入れてくれるわけないじゃないか。小学6年生のときですら恥ずかしいと一蹴された内容だ。それを高校2年生の今になって言ったところで、また、否定されるだけ。それどころかまだそんな子どもじみたことを言っているのかと激情されるところまでありありと想像できる。
それでもなお夢を語る気力など、到底残っていなかった。
私はずっと疲れている。
誹謗中傷された日から、あるいは、スピカが現れた日から。
「そんなわけないよ。ただ、気分転換に歌ってただけ」
絞り出した声は震えていなかっただろうか。どうか気づかないでくれと祈りながら腕に手を添えた。
「じゃあ今日の昼、男の子と歩いてたのは?」
「……え?」
「日傘で相合傘なんかして恥ずかしくないの?」
間違いない。月城のことだ。
見られてたんだ。そう思うと急に恥ずかしくなって、頭に血がのぼった。
そういえば、今日張り込んだところは母親の職場の近くだ。迂闊だった。お昼休憩の時間に母親が外食しに行く可能性を完成に失念していた。
もっとちゃんと気をつけておけば。
噛んだ唇の裏側から微かに鉄の味がした。
母親はまるでいやらしいものでも見るような目つきで私を捉えた。
「心星ちゃんに彼氏はまだ早いでしょ!?」
早いってなんだ早いって。高校2年生にもなって早いわけがない。今どき小学生にだって恋人くらいいる。
月城は私の彼氏じゃないけれど、そう反論したくなった。
黙り込む私が気に入らなかったのか、母親は腕を組みながら見せつけるように深い溜息をついた。
「とにかく、明日からは家で勉強しなさい。お昼ちゃんと作っとくから、それちゃんと食べなよ」
釘を刺すようにそう言い、背を向けた。
「全く、受験戦争はもう始まってるっていうのに恋愛にうつつ抜かして……」
扉を閉めた衝撃が波となり、空気づてに肌に伝わってきた。
壁越しに母親の小言が聞こえる。それが遠ざかり、母親の気配が消えたところでようやく息を吐けた。
足元がグラグラする。
酸素不足と過度のストレスのせいで平衡感覚がおかしくなっているんだ。
「……自分の言いたいことだけ言って、高尚ぶるなよ」
母親の身勝手さにイライラする。
私に勉強しろと口うるさく言うくせに、私を良い大学に行かせたいくせに、小学校受験でも中学受験もさせず大学受験にのみ重点を置いているだけじゃ飽き足らず、塾に強制的に通わせようとはせず、ただただ勉強しているのか催促してくるだけという中途半端さ。
結局のところ、母親は私でリベンジしたいだけなんだ。
自分が小学校受験も中学受験も受けさせてもらえず塾にも通えなかったから大学に落ちたわけじゃない。たまたま運が悪かっただけ。自分にも良い大学に受かるだけの学力はあった。それを証明するために似たような条件の私を利用している。私は母親じゃないのに。
父親は母親のリベンジに関して干渉してこない。むしろ良い大学に行くのはいいことだからと母親を応援しているきらいすらある。
くだらない。そんなに私の学歴が大事か? 良い大学を卒業したところで無職ならば意味がないだろ。
一番大切なのはなりたい職業に就くこと。
これじゃないのか。
力が抜け、地面に膝を打ちつけた。痛い。血が滲んでいく感覚がする。内出血したのかもしれない。そのおかげか幾分か冷静さを取り戻した。
落ち着け、耐えろ、考えろ……。
今1番気にするべきは、母親に月城の存在を知られてしまったこと。
もしまた月城と一緒にいるところを見られたら何をされるかわからない。今度は直接詰め寄ってくるかもしれない。私に別れろと脅してくるやらまだいい。でも、矛先が月城に向いてしまったら――。
想像するだけで全身が粟立った。
関係ないことに月城を巻き込むわけにはいかない。彼はただ私のために協力してくれているだけ。どうにかして彼と母親を会わせないようにしないと。
突き動かされるようにスマートフォンを手に取った。
〈ごめん、月城〉
シュポ、とメッセージを送った音が虚しく響く。
続けざまにカタカタと音を立てながら指をキーボードの上でスライドさせ、送信ボタンを押した。
〈もう一緒に捜索できない〉
自分で送ったくせに、字面を見ただけで息が詰まった。
耐えきれなくなりスマートフォンをベッドに投げ置くと、雑に放っておいたスクールバッグが目に入った。
――あぁ、そうだ。
「勉強。勉強、しなきゃ……」
ふらふらと立ち上がり、椅子に腰を下ろした。いつもより重力を強く感じた。
それからスクールバッグから筆箱と参考書とルーズリーフを取り出し、机に向き合った。
ベッドの方からバイブ音がしたが気づかないふりをして、筆箱から取り出したシャーペンを強く握り、参考書の設問に取り組む。
文字が全然頭に入ってこないし字もぐちゃぐちゃだけど、形だけでも勉強している間は母親の機嫌を損ねずに済むし、月城が巻き込まれることも私の音たちに干渉してくることもない。
大丈夫、大丈夫、きっと大丈夫……。
――〈スピカ様可哀想……〉
考えるな。
信者に散々同情されたあいつは今も自分が被害者だと思い込み、大した障害もなく家族に応援されながら音楽活動ができているなんて。
そんなの考えたところで何も変わらない。虚しくなるだけだ。
私は、大丈夫。
母親が月城のことをすっぱり忘れてくれるまでこうして勉強していればいい。
その先にはきっと穏やかな日常が待ち受けているはずだ。
だから、それ以外のことは全部ぐちゃぐちゃにして丸めて捨ててしまえ。
私は全部を手にするにはまだ色んなものと足りていなくて。とにかく今目の前にある大切なものを守ることに必死だった。
こうして月城の返信を見ることもできないまま、私たちはお盆を迎えた。
★
高校生の夏休みは社会人の次くらいに短い。
お盆が終われば補講と称してまた学校が再開する。
生活習慣がやや乱れた頭はまだ寝てたいと訴えてきて鬱陶しい。
車窓の外。流れゆく景色の奥で高々と膨らむ入道雲を眺めていると、お盆での出来事がパソコンのディスプレイのように次々と浮き上がってきた。
あれから私は母親の言いつけ通り家から出ず、自室に引きこもって勉強した。課題も模試の解き直しも終わらせたから受験勉強にいいらしいと母親が買ってきた参考書や問題集に取り組んだ。将来使わなそうな知識で脳みそがギチギチに埋められて頭が痛かった。
そんな中で音を紡ごうと思ったことは何度もあった。
でも、また母親に見られたらと思うと怖くなって、手がつけられなかった。
月城の返信もまだ読めていない。というか読めなかった。もし月城に理由を訊かれていたらなんて返せばいいかわからないからだ。
正直に話して、理解されなかったら怖い。母親に干渉されすぎだとか、それくらいどうとでもなると言われたら、もう。
もちろん月城がそんなこと軽々しく口にしないってわかってるが、それでもほんの少しの疑心が拭えずにいる。
ただ、私が今考えていることは全部杞憂で、月城があっさりと引き下がっていたら、それはそれで簡単に諦めないでよと寂しくなってしまう。
身勝手だ。
こうして尻込みしている間にも吐き出せない音たちが胃を埋め尽くすように溜まっていって。少しの衝撃で胃液ごと吐いてしまいそうなほどになった。
そしてその弊害は日常生活に現れた。
「おはよ〜!」
「あ、梨々花。おはよう」
――あれ?
友だちとの何気ない朝の挨拶。だというのに強烈な違和感に襲われた。
――私、今、どんな顔してた?
いつもなら自然と笑顔になって返していたはずだ。でも今日はちゃんと笑えたか確信が持てなかった。心做しか表情筋が硬くなった気がする。
「心星?」
「ん、なに?」
「なんか元気なくないよ〜。昼夜逆転しちゃった?」
「あっバレた? そのせいで上手く寝れなくって寝不足なんだよねー」
今度はちゃんと笑えたという確信があった。作り笑いを浮かべたからだ。
意図的に動かさないといけないくらい感情表情が乏しくなっている。
「今日から文化祭準備始まるよね! 楽しみ〜」
「ね。どうせなら午前授業なしで全部それだったらいいのに」
「わかる! 通常授業とかほんといらない!」
友だちとの何気ない会話にこれっぽっちも笑えていなくて、どこか違う場所にいるみたい。
――現実と心が乖離していく。
小説ではこういうとき、灰色の世界だとか残酷な世界だとか世界単位で表現されがちだけれど、やっぱり大袈裟だと思う。
太陽は今日も憎たらしいくらい輝いているし、木々を青々と生い茂っている。私の周りはとても平和だ。
取り残されているのは私だけ。
一歩引いたところで、じっと目の前の出来事を見つめている。
★
「夜野」
月城に話しかけられたのは、文化祭準備に必要な資材を取りに行っている途中だった。一緒にいた梨々花と美波には委員会の話があるからと言って先に帰ってもらい、人通りのない廊下でふたり向き合う。
「……なに?」
正面から彼の顔を見ることが出来ず、俯いたまま視線だけ上げた。
「悪いけど、捜索はもうできないよ」
そう言った途端、月城の顔にグッと力がこもった。
「中途半端に巻き込んで、ごめん」
重圧にも似た罪悪感に押し潰されるように頭を下げた。このとき頬にさらりとした髪が触れた。――あぁ、そういえば。
母親は髪にストレートパーマをあてたときも私のことをいやらしいもののように扱ってきた。高校生になって変に色気づいたように見えたのかもしれない。きっと母親の頭の中ではこのことと月城といたことが勝手に紐付けされている。そう思うとより一層月城に申し訳なくなった。彼を母親の妄想の一部に入れたくない。
だが、返ってきたのは予想外の言葉だった。
「……夜野は、今、ちゃんと寝れてる?」
えっ、と弾かれたように顔を上げ、月城を見た。
彼の表情には怒りや呆れもなく、ただ私を心配しているようだった。それも、目を逸らしたくなるほど純粋に。
「すっごく疲れた顔してる」
不意をつかれたからか、脆くなっていたところからゆっくり崩れていって。
「――あ」
気づけば涙が零れていた。
「こっち」
そのまま手を引かれ、ふたりぶんの足音だけがする廊下を進んだ。他の人に見られたらどうしようとか梨々花たちに作業押しつけちゃったとかまともに考えてる余裕もなく、視界がぐじゃぐじゃでどこに向かっているのかもわからないけれど、手から伝わるぬくもりに導かれるように自然と足が動いた。
階段を登ってガチャ、と音がしたと思ったら風が前髪をさらった。
「なんで、屋上……」
「学祭準備期間だから解放されてるんだってさ」
ほら、と促され、初めて屋上に降り立った。まだ太陽は照りつけていて暑いけれど、風のおかげでいくらかマシに思えた。
そして開放的なところに来たからか緊張が緩んで、堰が切れてしまった。
「ごめん。ほんとごめん、月城」
手を離し、目に押しつけるように涙を拭う。
「母親に月城と会ってることバレたの。それで、付き合ってるって誤解されて、別れろって。もしまた母親に会ってることバレたら、月城になにするかわかんない」
「――――」
拭いでも拭いでも止まらない。
「だからこれ以上巻き込みたくなくってあんなこと言ったけど、結局こうして迷惑かけてるしし。ほんと、いろいろちゃんとできなくて、音も上手く吐けなくて」
「―――の」
内容も抑揚も無茶苦茶でとても人に聞かせられるようなものじゃない。
月城が呼びかけてくれているのにモスキート音みたいな耳鳴りがして上手く音を拾えない。私の意志とは関係なしに口が動き続ける。
「そうしたらだんだん自分がどう振舞ってたかもわからなくなってきて。こんな身勝手だけど、お願いだから、スピカのこと好きにならな――」
「ならないよ」
「っえ」
「ならない」
一瞬耳鳴りが消えて、月城の声だけが鮮明に聞こえた。
暗い深海に差した一筋のひかりのように真っ直ぐと私の元へと届き、ようやく彼と目が合った。
「夜野歌って」
「――え?」
歌?
瞬きをするとまた一粒涙が流れた。
いきなり歌ってとはどういうことだろう。
ここは学校だ。誰がどこで見聞きしているかわからないのに。
「大丈夫だから」
私の懸念を見透かすように月城が言った。それが合図だった。
私は息を吸った。
★
激流のように押し寄せてくる音たちに身を任せ、私は歌った。
いや、あれを歌ったと言っていいのか定かではない。
ただ溜め込んでいたものを全部綯い交ぜにして吐き出したのだ。
スピカが嫌い。
スピカの信者も嫌い。
両親も、私の行く道を矯正しようとするな。
お願いだからとか、こっちが下手に出るつもりはない。
誰も私の邪魔するな。
私は、ただ、ずっと、音を紡いでいたいだけだ。
それさえ叶うのならあとはなんだっていい。
だって私は音とともに生きてるから。
音を紡がないとまともに生活できないの。
現実と心が結びつかなくなるの。
そんなことを思いながら、こちらを覗きこむように近づいてくる空に向かって歌った。
でも、吐いた音たちは大気圏にすら届かず、途中で空気に吸われどこかへ行ってしまった。
それを認めるとドッと力が抜けて、前に倒れこんだ。硬いなにかに額がぶつける。
その正体が月城の肩だということに数秒遅れて気づいたと同時に、酸素が不足して息が切れていたことや耳鳴りが止まっていたことにも気づいた。
月城に頭を預けたまま、息を整える。
すると、下から吹奏楽部と軽音楽部と箏曲部の演奏が聞こえてきた。譜面に沿って奏でられた音が空気によって解かれ他の音と混じってはまた解かれ、不協和音になっている。風も相変わらず吹いていることから、月城が大丈夫と言った理由をようやく理解する。
ある程度落ち着いたところで礼を言い、頭を離した。返事はなかった。
ややあって月城が訊く。
「……今の、なんて曲?」
思わずこぼしてしまったような言い方だった。
初めて聴いた曲だったので、驚いたのだろう。目を丸くしたまま、答えを切望するように私を見つめている。
「さぁ。即興だったからわかんない。それにもう思い出せないし、同じものは一生歌えない」
言い切ると、月城がわずかにたじろいだ。その気持ちが風化しないうちに言葉を重ねる。「だから」
「この曲のタイトル、月城がつけていいよ」
風が月城の前髪を浮かばせた。
「無茶苦茶な歌を聴いてくれた、せめてものお礼」
月城の黒い瞳にふっと笑う私が映る。
彼はらしくもなく笑う私の言葉を咀嚼するように瞬きして、こくんと頷いた。その瞳はひかりがこぼれてきそうなほどきらきらしている。
――……不思議。私の言葉でこんなふうになる月城が。
そんなことを思いながらゆっくり続きを紡いだ。
「あと、さっき言ったこと撤回させてくれる?」
首を少し傾けると、今度は私の横髪が風になびいて顔にかかった。髪の束の隙間から彼に笑いかける。
「私、やっぱりスピカのこと嫌いだから弱み握っときたい」
思う存分歌って身も心が軽くなったのは確かだ。
でもいくら吐き出してもスピカへのイライラは治まらなかった。黒いモヤモヤが腹の底から無尽蔵に湧き出てくる。
だから、この嫌な感情から開放されるためにも、私は彼女より優位に立ちたいのだ。
「……思えば、俺ら結構がむしゃらにやってたよね」
「ね。ひたすら張りこんでた」
「だからこれからはもっと計画的にいこう」
「計画的?」
問うと月城は口を端をあげた。
その笑顔には、私に素顔特定しようと提案したときと、同じ翳りがあった。



