たん、とん、ととんたん、たん、とん、たん……。
――私の周りには、いつも音が満ちている。
人の話し声や車のエンジン音、空気の流れ。そんな日常に溢れる音のみならず、物心ついたときからずっと、私だけに聞こえる音があった。正確には私が思いついたものらしいけれど、本当のところはよくわからない。もしかしたら他の人はみんなこの音たちを無視しているだけかもしれないし、私にだけ聞こえる特殊な周波数があるのかもしれない。こんなことをぼーっと考えるくらいに音は私にとって当たり前に降ってくるものだ。思いつき、あっという間に紡がれ音楽となっていく。私が意図して行っていることじゃない。
それは今だってそう。
ホームルームで担任の先生の大して中身のない話を聞き流し窓の外を眺めていると、ぽこぽこと音が降ってきた。アニメや漫画では普通、廊下の反対側の窓の外には海や山のような田舎を感じさせる景色や都会感を表す高層ビル、気になる人が運動しているところを盗み見れる校庭などが広がっているものだが、この高校の場合見えるのは教員らの駐車場のみ。なんて殺風景な。それでも音を紡ぐ上では充分だったらしい。車の色から着想を得てどんどん音が生まれていく。
あぁ、早く家に帰りたい。早く帰って掬いあげないと、この音たちは簡単に忘れ去られてしまう。ヒトは無意識下で行ったことを記憶に留めておけないから。
「心星帰ろ~!」
「かーえろー」
ホームルームが終わり、梨々花と美波が私の席にやってきた。明るくて高く結んだポニーテールが特徴なのが梨々花で、気だるげで腰まで長い茶髪を下ろしているのが美波だ。
ふたりの声に適当に応えつつ、スクールバッグを手に立ち上がった。すると梨々花が「ねねね!」とスマホの画面をバッとこちらに向けてきた。そこにはどろっとして甘そうなドリンクが映っていた。
「スタバの新作今日からだって! ちょっと寄ってかない?」
その提案に「おーいいじゃん。寄ろ寄ろ」と美波が賛成する中、私は浮遊感を覚えた。心が支えを失って不安定になる感覚。
これは焦りだ。早くに帰って音を紡がないとという情動。この焦りを解消しないと私はすぐダメになる。だから新作楽しみだねと話すふたりを前に、歯切れ悪く切り出した。
「あーー、悪いんだけど私今日パス。このまま帰るわ」
「え、どうして?」
梨々花の純粋な疑問が私の胸にちくりと刺さり、そこからじわじわと罪悪感が広がった。まるで白いシャツにコーヒーを零したみたいだ。
みんなで寄り道しようってときに空気も読まず誘いを断って家に帰るなんて心苦しい。でもそれ以上に今すぐ音を形にしないとという使命感にも似た衝動に支配されている。
そんな小さな葛藤を悟られないように、首元に手を当てて取り繕った。手に触れた髪が無駄にサラサラしていて、まるで違う人の髪のようだ。美容院でストレートパーマをあててもらい始めてからかれこれ3年は経つというのに、未だに慣れない。
「ほら、期末近いからさ」
わずかに顎を上げながら言うと、ふたりは納得したように肩を竦めた。その目には大変だね、という同情心が込められている。
「あーね。心星の親両方とも厳しいもんね」
「そー。ほんとやんなる」
「んじゃ心星はまた今度遊ぼ! 絶対だかんね!!」
「うん。楽しんどいで」
ふたりはこういうことに理解があるから助かる。付き合い悪いよねって不満をぶつけてこないし、他人の悪口も言わない。みんな遊びたいときに遊んで無理そうなら普通に断るのだ。全体的にさっぱりとしていると思う。まるで制汗剤みたいだ。でもだからこそそんなふたりのいいところに甘えているみたいで申し訳なさがある。
それでも校門でふたりと別れたところでほっとしてしまった。嘘がバレなかったことに対する安堵だ。
私の両親が厳しいのも期末テストまで1ヶ月切ったことも本当。でも今日は違う。友だちより音楽を優先する私はいつかきっと罰が当たるだろうね。
★
「ただいまー……」
マンションの4階。特別高くも低くもない自宅に帰り、ガチャッと鍵を閉めた。「おかえり」とは返ってなかった。当然だ。父も母も仕事に行っているのだから。それでもただいまと言うのは防犯対策だ。家に人がいるように見せかけることで誘拐されたり襲われたりするリスクが減るらしい。世界から治安が良いとされている日本だが、日に日に物騒になっている気がする。
さっさと手を洗って誰もいないリビングを通しすぎ、自室へと向かった。
自室のドアを閉めるとすぐさまパソコンを立ち上げ、ヘッドフォンを耳に付けた。録音ボタンを押す。
瞬間、私は音とひとつになった。
胸に溜まった音を、譜面の上で踊るようにリズムと言葉にのせ、紡ぐ。
この感覚をどう表現すればいいだろうか。私のようで私じゃないような、もうひとりの自分に操られているような。なにかに憑りつかれたとでも言えるこの感覚を――。
ワンコーラス歌ったところで、ふいに音が枯れた。溜まった音をすべて吐き終わったからだ。
ふっと身体から力が抜け、ベッドに倒れこんだ。バネがギシッと音を立てる。
微かに息が上がっていた。それに気づかないほど集中して歌っていたらしい。そんな状態だから到底起き上がる気力なんて湧かなかった。なんとなしにスカートのポケットからスマートフォンを取り出し、Xを開く。すると左上に見慣れたアイコンが浮かんだ。
澄んだ空のもとでひとつ、儚くも強くひかる星の写真だ。
それをタップするとプロフィール画面が表示された。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
ステラ @77__stellar
夜の片隅で私の音を紡ぎます。☆
315 フォロー中 6,270 フォロワー
ーーーーーーーーーーーーーーーー
これがもうひとりの私だ。心星の"星"をスペイン語で"ステラ"ということから名付けた。
中学生になるタイミングでスマートフォンを買い与えられてから、かれこれ5年。私はステラという名前で、シンガーソングライターとして活動している。
とはいっても、大して知名度はない。オリジナル曲よりも歌ってみたの方が少しだけ再生回数が伸びているのがなによりの証拠だ。
本当は私の曲だけを歌っていたい。でも、それだけだと誰も興味を持ってくれないから。
それに、歌ってみたを投稿する度に増える数字に承認欲求を満たされている私もいる。浅はかだ。こんな自分は好きじゃない。けど、仕方ないとも思う。私には新曲を宣伝してくれるようなネットの友達がいなければ、熱心に布教してくれるファンも極わずかしかいないのだから。
気を取り直すように好きなシンガーソングライターさんの投稿を見る。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
Lune @lun___e
曲作ったり、弾き語りしたり。
75 フォロー中 22,584 フォロワー
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月のピアスをつけた女の子がギターを抱きしめているイラストのアイコンにしている、Luneさん。
私の憧れの人。私は彼女と出会ったことがきっかけでシンガーソングライターに興味を持ち、インターネットに曲を投稿するようになったのだ。
彼女の最新の投稿にいいねを押したところで、ふとステラのフォロワーが増えていることに気づいた。
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スピカ @spica__singer
FJK/シンガーソングライター兼歌い手歴1年目/ファンネーム:☆信者/みんなを照らす一番星になれますように/お仕事依頼はDMまで☆
5,150 フォロー中 5,000 フォロワー
ーーーーーーーーーーーーーーーー
プロフィールを読むとシンガーソングライターと書かれていたのでフォローバックした。同じ活動者はフォローするように心掛けているのだ。
へぇ、最近始めたばっかなんだ。星被り……まぁよくあるよね。
ただ、一番星になれますようにと祈っているにもかかわらず、活動名が「スピカ」とはどういうことだろうか。一番星は金星だ。間違ってもスピカじゃない。もしかしたら彼女は一番星と一等星を混合しているのかもしれない。スピカはおとめ座の一等星だから。
そこに引っかかりはしたものの、わざわざ指摘するような仲ではないのでスルーする。
最新の投稿は〈Xの☆信者が5000人突破いたしました……!わたしを支えてくれるみなさま、いつもありがとうございます><泣〉だった。
これに対し、眉をひそめる。
――え、もしかして私も勝手に信者にカウントされてるの? 全く信仰してないんですけど。……ってこれを言うのは野暮か。ファンネームが「☆信者」とか、かなり強気だなぁ。
正直、この人とは合わないと直感的に思った。
こういう界隈において「信者」はあまりいい意味で使われない。主に害悪なファンを「信者」と皮肉るときがあるからだ。にもかかわらず、自らファンネームにするなんて。
それについて誰も突っ込まない時点でこの人を取り巻く環境は歪なのかもしれない。それを象徴するかのように、この人の投稿には決まって同じ人たちがリプを送っていた。
〈スピカ様今日も可愛い☆〉
〈きゃ〜〜〜〜教祖様ぁぁぁぁぁ☆☆☆☆〉
〈おはようございますスピカ様☆☆〉
〈今日夢にスピカ様☆が出てきて光栄でした泣泣〉
どれもこの人を過度に持ち上げるような内容。しかも名前の最後には必ず「@☆信者」と書かれているし、ユーザー名にはどこかしたらに「spica.believer」と書かれている。
フォロワー5000人に対しフォロー5150人と表示されているところを見ると、手当り次第フォローしまくった結果だろうに、よくこんな厄介そうなファンを量産できたものだ。
なにはともあれ、囲いがいるの苦手だなぁ、とげんなりする。
こういうノリが苦手だから私はSNSに向いていないのだろう。
胸焼けしそうになったところでベッドから起き上がり、パソコンの前の椅子に腰を下ろした。先程歌ったものがきちんと保存されているか確認したあと、別の日に録った曲のデータを開く。
曲名は『ドライアイスセンセーション』。
ドライアイスセンセーションとは温度感覚異常で、低温の物質や冷気に触れたときに、電気的な刺激に似た痛みを生じる知覚障害のことだ。それを失恋の痛みと織り交ぜて作り上げたのがこの曲。
ちらりと時計を目をやると、17時を回っていた。20時まで3時間弱。まだ余裕はあるな。それを視認してから再びヘッドフォンをつけた。
今日は新曲『ドライアイスセンセーション』を投稿すると予告した日。おおかた完成はしているが微調整が残っている。一音一音丁寧に確認していく作業には骨が折れるが、生半可な音を世に流すのはプライドが赦さないので、黙々とパソコンをいじる。もし私に絶対音感があれば、きっともっと楽に曲を創れていたはずだ。
私には、絶対音感がない。
だから最初に歌声を録音して、それからどの音階のどの音が当てはまるのか一音ずつ確かめていかなければならない。音を曲にし始めた当初はそれがとにかく難しく、何度も躓きそうになったものだ。今ではある程度要領を得たが、それでも他の人よりは断然遅いだろう。機材も全く整っていないから、ノイズを除去したり音質を良くしたりする整音も必須事項だし。
私がもっているのは音が降ってくるという才能だけ。これを天賦の才だというのなら、絶対音感を与えなかった神は、果たしてどういう感情でこれだけを与えたのだろうか。普段神の存在なんか信じていないのに、こういうときばかりはいるかも分からない神を恨みたくなる。我ながら責任転嫁もいいところだ。
★
19時59分。
汗ばむ手をマウスに乗せ、そのときを待つ。
20時00分。
投稿の文字をクリックした。新曲が世に流れる。それを見届けると、私は素早くXを開き、新曲の宣伝をポストした。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
ステラ @77__stellar
【宣伝】
新曲『ドライアイスセンセーション』
大好きな人に振られた、いつかの貴方へ。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
そのとき、ある人と投稿するタイミングが被った。その差、わずか1秒。
見ると、今日認知したばかりのスピカだった。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
スピカ @spica__singer
☆新曲☆
『きみにとっては二番目でも』
ダメだと分かっていてもクズ男に沼ってしまう女の子の曲です><♡
#拡散希望 #スピカ☆ #オリジナル曲 #FJK
ーーーーーーーーーーーーーーーー
同じタイミングに投稿するなんて、少しだけ気まずいな。
それにスピカの方がいいねを押されるスピードも拡散されるスピードも速い。これが囲いがいるかいないかの差なのか。
――でも、私の方が、長く活動してるのに……。
広がっていく差が悔しくて、複雑だ。私もスピカのように囲いを作っていればよかったのだろうか。
下を向いてそんなことを考えていると、リビングから母の私を呼ぶ声が聞こえた。夕飯ができたのだ。「今行くー」と返事して、パソコンを閉じた。
★
テストのときはいつも緊張する。
張り詰めた空気とシャーペンが机を叩く音。ベラっとめくられる紙と時計の音。そして、他の人に聞こえてしまいそうなほど大きく跳ねる心臓の音。
どれも苦手だ。手が震える。
「――試験終了です。ペンを机に置いて解答用紙を後ろから前に回してください」
試験監督の声を合図に、一斉にシャーペンが机に置かれた。その音がパラパラと雨粒のようだった。
ふーっと息を吐くと、疲労感がドッと押し寄せてきた。
いつも通りできた、と思いたい。
そうでなければ両親に怒られてしまう。いや、それだけならまだいい。強制的に塾にでも入れられようものならステラとしての時間が減ってしまう。ただでさえこの2週間まともに吐き出せなくて苦しかったというのに。これ以上創作の時間を削られたら死ねと言われているようなものだ。
ぐいーっと伸びをすると、少しだけ身体が軽くなった気がしたけれど、まだまだ重い。積もりに積もった音たちがずっしりと心にいるからだ。ちらりと梨々花と美波を盗み見ると、梨々花は「疲れた」の文字を体現するように机に突っ伏していて、美波は眠そうに欠伸をしていた。
今日はふたりとも部活があるから放課後遊びに誘われることはないだろう。つまり、久々に思いっきり音を吐き出せるということ。
早速帰ったら作業に取り掛かろうとそわそわしながら帰り支度をしていると、とん、と机に手を置かれた。そして低く澄んだ声が耳に届く。
「夜野」
「っえ、なに?」
私に声を掛けてきたのは月城。
同じクラスで同じ委員会に属している男の子だ。確か下の名前は侑久だった気がする。
同じ委員会とはいえ、彼から話しかけられることはほとんどないので、つい驚いてしまった。
なんの用かとじっと彼を見上げると、彼は少したじろぎながら口を開いた。
そのとき、前髪の隙間からちらっと見えた猫目が目に留まったが、ほんの一瞬だけだった。
「今日委員会あるけど」
「えっ」
ぱちっと泡が弾けるように、私の意識は月城が発した言葉へと向けられた。
委員会? そんなの聞いてない。というか覚えてない。
私の反応を見て察したのか、訝しむように月城が訊いてくる。
「もしかしてなにか予定入れた?」
「いや、予定といえば予定だけど違うといえば違うというか」
果たして家に帰って音を吐き出すことを予定と言っていいのだろうか。
予定に正確な定義がないから曖昧な返事しかできない。
するとはっきりしない私を見かねた月城が口を挟んだ。
「今日クラスに配布するプリント渡されて簡単な説明されるだけらしいよ」
「よく知ってるね」
「隣のクラスのやつから聞いた」
「へぇ」
そんな人脈があったのか、と感心する。
月城はいわゆる二軍。誰とでもそつなく話せる、陽キャとも陰キャとも言い難い位置にいる存在だ。
だけどそれはあくまでクラス内の話で、他クラスとはなんの関わりもないと思っていた。体育や学年集会など他クラスと関わる場面で同じクラスの人以外と話しているところを見たことがなかったから。
まぁでも四六時中月城のことを目で追っていたわけじゃないからそういうこともあるよねと思い直していると、月城が「だから、」と続けた。
「今日は俺ひとりでも大丈夫だと思う。なにか予定あるなら帰りな」
「えっ……いいの?」
「うん」
問うと月城はなんてことないように頷いた。その顔に無理している様子はない。
月城は善意からこの提案をしてくれたのか。
「ありがとう、月城。今度埋め合わせするよ」
そう言ってくすっと笑うと「べつにいいけど」と遠慮してきたので「貰えるものは貰っときなよ」と軽く肩を叩いたら微妙な顔をされた。嫌だったか。ごめん。
「ていうか予定あるってなんでわかったの?」
気を取り直してそう尋ねると、月城は少し考える素振りを見せた。
「なんとなく。帰る準備が異様に早いからもしかしたらって思って」
「なにそれ恥ずかしい」
まさか見られてるとは思ってなかった。
それから羞恥心を覆い隠すようにスクールバッグを手に月城と教室を後にした。もちろんその手前で梨々花と美波にバイバイすることも忘れずに。
「ほんとありがとう。じゃ、また明日」
階段を降りるとき、振り向きざまにそう告げると、月城の口角が微かに持ち上げられた。
「うん、頑張って。――――ラ」
最後の方の言葉は上手く聞き取れなかったけど、わざわざ聞き返すことでもないよねと思い、もう一度「またね」とだけ言って背を向けた。
★
家に帰りすぐに自室に引きこもった。
流れるように録音の準備を整え、ヘッドフォンに手で押さえる。こうするとより音に集中できる気がするのだ。
さて、どれから歌おうか。
テスト期間中、さまざまな質の音たちが頭の中に浮かんでは消え、いつの間にか心を覆い尽くすほど溜まっていた。
最有力は高校生の甘酸っぱい恋愛を春から夏にかけ変わりゆく空模様とかけたものかな。あぁ、夜の東京のひかりに照らされてできた影に吸い込まれて不思議な世界に迷い込む非日常感あふれるものもいい。
アイディアならたくさんある。
でもどれも決定打に欠ける。
手を伸ばせば届きそうなのに掴めなくて。じっと見つめれば見つめるほどあやふやで。少し時間が空いただけで、ワンコーラス分すら形にできるか不安になる。
――「うん、頑張って。――――ラ」
ふと、月城のことを思い出した。
別れ際の彼の口元を見て、綺麗な弧を描くんだな、と思った。夜空にぽつんと浮かぶ三日月みたいで、控えめでも、確かにそこにあって。――あ。
降る。降る。降ってくる。
黄色と緑と青。
月夜を思わせる色を孕んだ音が、私のもとへ降り注ぐ。
流れ星のような軌道を描きながらも、強く、そして儚く。
――歌おう。
そう、録音ボタンをクリックした。
★
音が枯れたときにはすでに日が傾いており、全身が汗ばんでいた。自身を落ち着かせるようにはぁ、と息を吐く。アドレナリンが切れたのか、一気に暑さが押し寄せてきた。服に汗が染み込んでいて気持ち悪い。酸素の足りていない頭でクーラーをつけ、椅子に腰掛ける。こんな身体じゃベッドに倒れ込むのには抵抗がある。が、シャワーを浴びる気力はなかった。
今は6月下旬。
幼い頃は冷房装置を使わなくてもやっていけてきた気がするが、地球温暖化が進んだ今では夕方でも十分暑い。
夏の創作はかなりハードだ。
エアコンの風の音が入ると整音がより面倒になるからクーラーなしで歌わないといけないし、録音しているときは集中していて暑さにも喉の乾きにも鈍感になるから熱中症に気をつけなければならない。
一度脱水症状を起こしたときは世界が歪んで見えて終わったかと思った。もちろんそれも曲にして消費した。
私は音楽のためにいろいろなものを犠牲にしている。
そう思う瞬間が、度々ある。
クーラーが効くのを待っていられず、冷却プレート付きのハンディファンを首にあてがった。ヒヤッとして気持ちいい。
そういえば以前挙げた曲にどんなコメントが書き込まれたのだろうと、YouTubeを開いた。
すると、ホーム画面の一番上にスピカの曲が表示された。
そのことに強烈な違和感を抱く。なんだか胸騒ぎがした。
私とスピカはあくまでXでしか関わりがなく、YouTubeでスピカの曲を聴いたことは一度もない。だというのにホーム画面に表示された。なぜ。
恐る恐る視線を下にずらすと、嫌な予感が的中した。血管がキリキリと収縮した気がする。
【53万回視聴】
スピカの曲が、バズっていた。
約2週間前、私とほぼ同時に投稿したあの曲が。
私が、テスト勉強に集中しているときに。
対して私の曲は3.2万。差は歴然だ。
心にモヤが立ち込める。これは、嫉妬だ。
震える手は無意識のうちに、再生ボタンを押していた。
数秒の広告のあと、曲が流れ始める。
『きみにとっては二番目でも』
スピカがXで言っていたようにダメだと分かっていてもクズ男に沼ってしまう女の子の心情を切なく歌った曲だった。
彼女がいると分かっているのにセフレという関係をキープし、一番になれないと嘆く歌詞が滑稽で、私はこの曲にほんの少しも共感できなかった。
被害者はクズ男と付き合っている彼女だけだ。間違ってもこの曲の視点人物ではない。それにもかかわらず悲劇のヒロインのように振る舞っているところがイライラする。
言葉選び自体もありきたりで薄っぺらい。
曲全体が教本でも読んだのかお手本のように作られていて、独創性が感じられず、スピカの心が伝わってこない。
端的に言うとひどく機械っぽいのだ。
表面的に繕うばかりでなにも響いてこない。
これのどこがいいのだろう。私にはよくわからなかった。
だがコメント欄の反応は私とは真逆だった。
〈切なくて泣いちゃいました…T T〉
〈まるでわたしのことを言われてるみたいでした泣〉
〈エモすぎ良すぎて涙涙〉
〈クズに沼る気持ち分かる〜〜! わたしも今こんな感じなの笑 彼女さんさっさと別れてくれないかな〜〜〜〉
〈今回の曲もすっごくエモくて最高です!!!!!!! スピカ様☆☆☆!!!!!!!〉
〈この曲の女の子とは少し違うのですが、かれこれ付き合って3年の彼氏がいます。最近彼が結婚していることを知ってしまい、別れようかと悩んでいましたが、この曲を聴いて奥さんよりもわたしの方が好きと言ってくれてる彼のことを信じて少し頑張ってみようと思えました。ありがとうございます!!〉
〈!祝!53万回再生おめでとうございます☆☆☆〉
とても見ていられなくてパタン、とパソコンを閉じた。背もたれに身を預け天井を仰ぐ。
――みんなが賞賛するものを好きになれない私がおかしいのだろうか。
昔からそうだった。
周りがいいというものほど本当にいいのか疑ってしまって好きになれなかった。
それは人でも同じで、周りがいい人という人のことほど粗を探してしまう。そして少しでも悪い所を見つけるとなんだ大したことないじゃないかと鼻白む。我ながら性格が悪い。
でもこれは一種の自己防衛だ。人から好かれない自分に対しての。
万人受けするためにはTikTokで拡散されやすいように簡単な振り付けがついたものや短時間で印象に残るような曲を投稿したり、スピカのように軽い言葉で作られたエモい曲を投稿したりするべきなのだろう。
でも、それは私が紡ぎたい音楽じゃないから。
もしそこを曲げてしまえばちいさい頃から大事に大事にしていたものが無価値だって突きつけられるようで、怖くて怖くて仕方がない。
「心星ちゃん!」
突然ガンッと扉が開けられた。
「今日でテスト終わったよね? ちゃんとできたの? 終わったからって気を抜かずにちゃんと勉強してるでしょうね!?」
部屋に入ってくるなり質問責めにしてくるのは母親だ。どうやら今日はいつもより早く仕事が終わったらしい。歌い終わった後でよかったと安堵する。
「……うん、してるよ。ほら」
そう言ってパソコンを開いてみせると、机に向き合っていたこともあり、母親はあっさりと信じ、「夕飯までまだ時間あるからしっかりね」と言い残し部屋を出ていった。
私の両親は厳格な人だ。
父親は銀行員、母親は公務員をしていて、幼い頃から「安定した職に就きなさい」と育てられた。だがそれに反し、私はずっとシンガーソングライターになりたいと思っていた。あふれる音楽を形にしたいと思っていたから。
そのことを小学6年生の授業参観のときに勇気を出していってみた。各々綴った作文を発表する場面で「私の将来の夢はシンガーソングライターになることです」と。初めて夢を口にした瞬間だった。
そんな12歳の精一杯の勇気は、帰りの車で打ち砕かれた。
――「なれるわけないでしょ、そんなの。恥ずかしいから二度と言わないで」
母親は吐き捨てるように言うと、それ以上なにも言ってこなかった。
恥ずかしい。
母親が放った言葉が胸に重くのしかかった。
私の夢はそんなに恥ずかしいことなのだろうか。じゃあ、音楽番組に出ている人はみんな恥ずかしい人なの?
わからなかった。混乱した。母の目が冷たくてとても怖かった。
私のすべてが否定された気がした。
この日以来、両親の前で将来の夢を口にしたことはない。
その後勉強のために買い与えられたパソコンと集中したいからという理由で買ってもらったヘッドフォンで活動しているわけだけど。
両親だけではなく友人にも否定されたらと思うと怖く、て梨々花にも美波にも言えていない。私だけの秘密。それでいい。
私は死ぬまでこうやって音楽を紡ぐつもりだ。
改めて決意を固めたところで再度YouTubeを開くと、今度は先程とは違う画面が表示された。
『【緊急配信】わたしがスピカになるまでのおはなし』
なんとスピカが生配信していたのだ。どんなものだろう、とステラのアカウントから別のものに切り替え配信を見る。
すると、スピカと思われる女の子の首から下だけが映し出された。顔を見せる勇気はないが一端の承認欲求をもっている活動者が愛用している構図だ。髪は束ねられているのか短いのか知らないが写っていない。白い壁を背景に透け感のある水色のシャツに白いタンクトップを合わせた人物のみが存在していた。
ほかの人がこの構図で撮っていてもなんとも思わないのに、スピカ相手だとわずかに嫌悪感が湧いた。生理的に受けつけないものはどう足掻いても受けつけられないのでその事実ごと受け入れる。
『☆信者のみなさま、こんばんは。スピカです』
スピカの声は歌っているときよりも少し上ずっていた。緊張しているのかもしれない。
私のように興味本位で見にきている人もいるだろうに、自分以外の人を「☆信者」と称するところは相変わらずだ。というか「☆」を「スピカ」と読ませていたのか。これまた傲慢な。
『今日は、わたしの過去についておはなししたくて配信しました』
私が呆れていると彼女はそう言って自語りを始めた。
スピカの両親は彼女が中学生になるタイミングで離婚したらしい。そして母に引き取られ現在祖父母の家で生活しているとのこと。ある日何者かになりたくて、たまたま楽器屋さんの前を通りかかったことで音楽を作りたいと思うようになる。そのことを母や祖父母に話すと応援すると言われ、機材を揃えてもらったりボイトレ――ボイストレーニング教室――に通わせてもらうようになった、と。
ここで彼女は一度言葉を切り、ラベルが剥がされているペットボトルの水を口に含んだ。
彼女は続ける。
『高校生になり、友だちができました。みんないい子でこんなわたしにもやさしくしてくれます』
ここで少し沈黙があった。目元を擦る素振りを見せ、再び話し始める。
『でも、よく、思うんです。……死にたいなって』
え、と声が漏れた。
『夜、そう思うだけで不安定になります。たすけてって突発的に配信したこともあります。☆信者のみなさんならご存知ですよね? 家族も友だちもみんなわたしのことが好きなのに、わたしだけウジウジして……。それで学校に行けなくなって、今通信制高校に通おうか迷っています』
これ以上はまずいとパソコンの電源ごと消した。
スピカと自分が違いすぎて、吐きそうになったのだ。
両親が離婚しているけれど音楽活動を応援してもらえているスピカと、両親はいるけれど音楽活動を応援してもらえない私。
必要な機材を揃えてもらいボイトレにも通っているスピカと、パソコンとヘッドフォンしかない私。
恵まれているのに死にたいスピカと、音楽を紡げるかぎり死にたくない私。
私にはスピカが理解できなかった。
それでもチャット欄は〈スピカ様可哀想……〉とか〈死にたい気持ち分かります〉などスピカに同情していた。中には〈両親が離婚されていたなんて……さぞお辛かったでしょう。そんな経験をされているからあなたの曲は心に響くんですね〉と賞賛する声もあった。
まるで彼女の過去が彼女の価値を高めるステータスみたいに扱われている。
――そんなのおかしくない?
彼女の過去なんて周りが作り上げた結果でしかないのに。それをステータスにして周りによしよしされて同情心を集めるなんて。
気持ち悪い。スピカも、コメント欄も。
応援してくれてる人がいるだけいいじゃん、と思う私は心がないのだろうか。
私は正直、スピカが羨ましいと思った。
音楽をする上での障害がなにもないからだ。
でも、世間はスピカが可哀想と評価するんだ。両親が離婚したから。死にたいと思っているから。
じゃあ片親の人は無条件で不幸なのだろうか。死にたいと思う人はみな同情するに値するのだろうか。
私はそうは思わない。
どんな状況下でも表面的な肩書きでヒトの幸不幸は測れないのだから。
こんなふうにひねくれた考え方をしてしまうから私はスピカのように再生回数が伸びないかな……。
途端、私の大切なパソコンとヘッドフォンがチープなものに思えてきた。こんなの、スピカからしたらガラクタも同然だろう。
――あぁ、ダメだ。泣きそう。
モヤモヤを孕んだ黒い音が矢と成り私の心に突き刺さってくる。曇り空の下降り注ぐ豪雨のように、強く、強く。身を削るみたいに。
それに潰される前に、衝動的にパソコンを立ち上げた。
助けて、誰か、私を助けて、と。
青いひかりに縋りながら。
――私の周りには、いつも音が満ちている。
人の話し声や車のエンジン音、空気の流れ。そんな日常に溢れる音のみならず、物心ついたときからずっと、私だけに聞こえる音があった。正確には私が思いついたものらしいけれど、本当のところはよくわからない。もしかしたら他の人はみんなこの音たちを無視しているだけかもしれないし、私にだけ聞こえる特殊な周波数があるのかもしれない。こんなことをぼーっと考えるくらいに音は私にとって当たり前に降ってくるものだ。思いつき、あっという間に紡がれ音楽となっていく。私が意図して行っていることじゃない。
それは今だってそう。
ホームルームで担任の先生の大して中身のない話を聞き流し窓の外を眺めていると、ぽこぽこと音が降ってきた。アニメや漫画では普通、廊下の反対側の窓の外には海や山のような田舎を感じさせる景色や都会感を表す高層ビル、気になる人が運動しているところを盗み見れる校庭などが広がっているものだが、この高校の場合見えるのは教員らの駐車場のみ。なんて殺風景な。それでも音を紡ぐ上では充分だったらしい。車の色から着想を得てどんどん音が生まれていく。
あぁ、早く家に帰りたい。早く帰って掬いあげないと、この音たちは簡単に忘れ去られてしまう。ヒトは無意識下で行ったことを記憶に留めておけないから。
「心星帰ろ~!」
「かーえろー」
ホームルームが終わり、梨々花と美波が私の席にやってきた。明るくて高く結んだポニーテールが特徴なのが梨々花で、気だるげで腰まで長い茶髪を下ろしているのが美波だ。
ふたりの声に適当に応えつつ、スクールバッグを手に立ち上がった。すると梨々花が「ねねね!」とスマホの画面をバッとこちらに向けてきた。そこにはどろっとして甘そうなドリンクが映っていた。
「スタバの新作今日からだって! ちょっと寄ってかない?」
その提案に「おーいいじゃん。寄ろ寄ろ」と美波が賛成する中、私は浮遊感を覚えた。心が支えを失って不安定になる感覚。
これは焦りだ。早くに帰って音を紡がないとという情動。この焦りを解消しないと私はすぐダメになる。だから新作楽しみだねと話すふたりを前に、歯切れ悪く切り出した。
「あーー、悪いんだけど私今日パス。このまま帰るわ」
「え、どうして?」
梨々花の純粋な疑問が私の胸にちくりと刺さり、そこからじわじわと罪悪感が広がった。まるで白いシャツにコーヒーを零したみたいだ。
みんなで寄り道しようってときに空気も読まず誘いを断って家に帰るなんて心苦しい。でもそれ以上に今すぐ音を形にしないとという使命感にも似た衝動に支配されている。
そんな小さな葛藤を悟られないように、首元に手を当てて取り繕った。手に触れた髪が無駄にサラサラしていて、まるで違う人の髪のようだ。美容院でストレートパーマをあててもらい始めてからかれこれ3年は経つというのに、未だに慣れない。
「ほら、期末近いからさ」
わずかに顎を上げながら言うと、ふたりは納得したように肩を竦めた。その目には大変だね、という同情心が込められている。
「あーね。心星の親両方とも厳しいもんね」
「そー。ほんとやんなる」
「んじゃ心星はまた今度遊ぼ! 絶対だかんね!!」
「うん。楽しんどいで」
ふたりはこういうことに理解があるから助かる。付き合い悪いよねって不満をぶつけてこないし、他人の悪口も言わない。みんな遊びたいときに遊んで無理そうなら普通に断るのだ。全体的にさっぱりとしていると思う。まるで制汗剤みたいだ。でもだからこそそんなふたりのいいところに甘えているみたいで申し訳なさがある。
それでも校門でふたりと別れたところでほっとしてしまった。嘘がバレなかったことに対する安堵だ。
私の両親が厳しいのも期末テストまで1ヶ月切ったことも本当。でも今日は違う。友だちより音楽を優先する私はいつかきっと罰が当たるだろうね。
★
「ただいまー……」
マンションの4階。特別高くも低くもない自宅に帰り、ガチャッと鍵を閉めた。「おかえり」とは返ってなかった。当然だ。父も母も仕事に行っているのだから。それでもただいまと言うのは防犯対策だ。家に人がいるように見せかけることで誘拐されたり襲われたりするリスクが減るらしい。世界から治安が良いとされている日本だが、日に日に物騒になっている気がする。
さっさと手を洗って誰もいないリビングを通しすぎ、自室へと向かった。
自室のドアを閉めるとすぐさまパソコンを立ち上げ、ヘッドフォンを耳に付けた。録音ボタンを押す。
瞬間、私は音とひとつになった。
胸に溜まった音を、譜面の上で踊るようにリズムと言葉にのせ、紡ぐ。
この感覚をどう表現すればいいだろうか。私のようで私じゃないような、もうひとりの自分に操られているような。なにかに憑りつかれたとでも言えるこの感覚を――。
ワンコーラス歌ったところで、ふいに音が枯れた。溜まった音をすべて吐き終わったからだ。
ふっと身体から力が抜け、ベッドに倒れこんだ。バネがギシッと音を立てる。
微かに息が上がっていた。それに気づかないほど集中して歌っていたらしい。そんな状態だから到底起き上がる気力なんて湧かなかった。なんとなしにスカートのポケットからスマートフォンを取り出し、Xを開く。すると左上に見慣れたアイコンが浮かんだ。
澄んだ空のもとでひとつ、儚くも強くひかる星の写真だ。
それをタップするとプロフィール画面が表示された。
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ステラ @77__stellar
夜の片隅で私の音を紡ぎます。☆
315 フォロー中 6,270 フォロワー
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これがもうひとりの私だ。心星の"星"をスペイン語で"ステラ"ということから名付けた。
中学生になるタイミングでスマートフォンを買い与えられてから、かれこれ5年。私はステラという名前で、シンガーソングライターとして活動している。
とはいっても、大して知名度はない。オリジナル曲よりも歌ってみたの方が少しだけ再生回数が伸びているのがなによりの証拠だ。
本当は私の曲だけを歌っていたい。でも、それだけだと誰も興味を持ってくれないから。
それに、歌ってみたを投稿する度に増える数字に承認欲求を満たされている私もいる。浅はかだ。こんな自分は好きじゃない。けど、仕方ないとも思う。私には新曲を宣伝してくれるようなネットの友達がいなければ、熱心に布教してくれるファンも極わずかしかいないのだから。
気を取り直すように好きなシンガーソングライターさんの投稿を見る。
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Lune @lun___e
曲作ったり、弾き語りしたり。
75 フォロー中 22,584 フォロワー
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月のピアスをつけた女の子がギターを抱きしめているイラストのアイコンにしている、Luneさん。
私の憧れの人。私は彼女と出会ったことがきっかけでシンガーソングライターに興味を持ち、インターネットに曲を投稿するようになったのだ。
彼女の最新の投稿にいいねを押したところで、ふとステラのフォロワーが増えていることに気づいた。
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スピカ @spica__singer
FJK/シンガーソングライター兼歌い手歴1年目/ファンネーム:☆信者/みんなを照らす一番星になれますように/お仕事依頼はDMまで☆
5,150 フォロー中 5,000 フォロワー
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プロフィールを読むとシンガーソングライターと書かれていたのでフォローバックした。同じ活動者はフォローするように心掛けているのだ。
へぇ、最近始めたばっかなんだ。星被り……まぁよくあるよね。
ただ、一番星になれますようにと祈っているにもかかわらず、活動名が「スピカ」とはどういうことだろうか。一番星は金星だ。間違ってもスピカじゃない。もしかしたら彼女は一番星と一等星を混合しているのかもしれない。スピカはおとめ座の一等星だから。
そこに引っかかりはしたものの、わざわざ指摘するような仲ではないのでスルーする。
最新の投稿は〈Xの☆信者が5000人突破いたしました……!わたしを支えてくれるみなさま、いつもありがとうございます><泣〉だった。
これに対し、眉をひそめる。
――え、もしかして私も勝手に信者にカウントされてるの? 全く信仰してないんですけど。……ってこれを言うのは野暮か。ファンネームが「☆信者」とか、かなり強気だなぁ。
正直、この人とは合わないと直感的に思った。
こういう界隈において「信者」はあまりいい意味で使われない。主に害悪なファンを「信者」と皮肉るときがあるからだ。にもかかわらず、自らファンネームにするなんて。
それについて誰も突っ込まない時点でこの人を取り巻く環境は歪なのかもしれない。それを象徴するかのように、この人の投稿には決まって同じ人たちがリプを送っていた。
〈スピカ様今日も可愛い☆〉
〈きゃ〜〜〜〜教祖様ぁぁぁぁぁ☆☆☆☆〉
〈おはようございますスピカ様☆☆〉
〈今日夢にスピカ様☆が出てきて光栄でした泣泣〉
どれもこの人を過度に持ち上げるような内容。しかも名前の最後には必ず「@☆信者」と書かれているし、ユーザー名にはどこかしたらに「spica.believer」と書かれている。
フォロワー5000人に対しフォロー5150人と表示されているところを見ると、手当り次第フォローしまくった結果だろうに、よくこんな厄介そうなファンを量産できたものだ。
なにはともあれ、囲いがいるの苦手だなぁ、とげんなりする。
こういうノリが苦手だから私はSNSに向いていないのだろう。
胸焼けしそうになったところでベッドから起き上がり、パソコンの前の椅子に腰を下ろした。先程歌ったものがきちんと保存されているか確認したあと、別の日に録った曲のデータを開く。
曲名は『ドライアイスセンセーション』。
ドライアイスセンセーションとは温度感覚異常で、低温の物質や冷気に触れたときに、電気的な刺激に似た痛みを生じる知覚障害のことだ。それを失恋の痛みと織り交ぜて作り上げたのがこの曲。
ちらりと時計を目をやると、17時を回っていた。20時まで3時間弱。まだ余裕はあるな。それを視認してから再びヘッドフォンをつけた。
今日は新曲『ドライアイスセンセーション』を投稿すると予告した日。おおかた完成はしているが微調整が残っている。一音一音丁寧に確認していく作業には骨が折れるが、生半可な音を世に流すのはプライドが赦さないので、黙々とパソコンをいじる。もし私に絶対音感があれば、きっともっと楽に曲を創れていたはずだ。
私には、絶対音感がない。
だから最初に歌声を録音して、それからどの音階のどの音が当てはまるのか一音ずつ確かめていかなければならない。音を曲にし始めた当初はそれがとにかく難しく、何度も躓きそうになったものだ。今ではある程度要領を得たが、それでも他の人よりは断然遅いだろう。機材も全く整っていないから、ノイズを除去したり音質を良くしたりする整音も必須事項だし。
私がもっているのは音が降ってくるという才能だけ。これを天賦の才だというのなら、絶対音感を与えなかった神は、果たしてどういう感情でこれだけを与えたのだろうか。普段神の存在なんか信じていないのに、こういうときばかりはいるかも分からない神を恨みたくなる。我ながら責任転嫁もいいところだ。
★
19時59分。
汗ばむ手をマウスに乗せ、そのときを待つ。
20時00分。
投稿の文字をクリックした。新曲が世に流れる。それを見届けると、私は素早くXを開き、新曲の宣伝をポストした。
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ステラ @77__stellar
【宣伝】
新曲『ドライアイスセンセーション』
大好きな人に振られた、いつかの貴方へ。
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そのとき、ある人と投稿するタイミングが被った。その差、わずか1秒。
見ると、今日認知したばかりのスピカだった。
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スピカ @spica__singer
☆新曲☆
『きみにとっては二番目でも』
ダメだと分かっていてもクズ男に沼ってしまう女の子の曲です><♡
#拡散希望 #スピカ☆ #オリジナル曲 #FJK
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同じタイミングに投稿するなんて、少しだけ気まずいな。
それにスピカの方がいいねを押されるスピードも拡散されるスピードも速い。これが囲いがいるかいないかの差なのか。
――でも、私の方が、長く活動してるのに……。
広がっていく差が悔しくて、複雑だ。私もスピカのように囲いを作っていればよかったのだろうか。
下を向いてそんなことを考えていると、リビングから母の私を呼ぶ声が聞こえた。夕飯ができたのだ。「今行くー」と返事して、パソコンを閉じた。
★
テストのときはいつも緊張する。
張り詰めた空気とシャーペンが机を叩く音。ベラっとめくられる紙と時計の音。そして、他の人に聞こえてしまいそうなほど大きく跳ねる心臓の音。
どれも苦手だ。手が震える。
「――試験終了です。ペンを机に置いて解答用紙を後ろから前に回してください」
試験監督の声を合図に、一斉にシャーペンが机に置かれた。その音がパラパラと雨粒のようだった。
ふーっと息を吐くと、疲労感がドッと押し寄せてきた。
いつも通りできた、と思いたい。
そうでなければ両親に怒られてしまう。いや、それだけならまだいい。強制的に塾にでも入れられようものならステラとしての時間が減ってしまう。ただでさえこの2週間まともに吐き出せなくて苦しかったというのに。これ以上創作の時間を削られたら死ねと言われているようなものだ。
ぐいーっと伸びをすると、少しだけ身体が軽くなった気がしたけれど、まだまだ重い。積もりに積もった音たちがずっしりと心にいるからだ。ちらりと梨々花と美波を盗み見ると、梨々花は「疲れた」の文字を体現するように机に突っ伏していて、美波は眠そうに欠伸をしていた。
今日はふたりとも部活があるから放課後遊びに誘われることはないだろう。つまり、久々に思いっきり音を吐き出せるということ。
早速帰ったら作業に取り掛かろうとそわそわしながら帰り支度をしていると、とん、と机に手を置かれた。そして低く澄んだ声が耳に届く。
「夜野」
「っえ、なに?」
私に声を掛けてきたのは月城。
同じクラスで同じ委員会に属している男の子だ。確か下の名前は侑久だった気がする。
同じ委員会とはいえ、彼から話しかけられることはほとんどないので、つい驚いてしまった。
なんの用かとじっと彼を見上げると、彼は少したじろぎながら口を開いた。
そのとき、前髪の隙間からちらっと見えた猫目が目に留まったが、ほんの一瞬だけだった。
「今日委員会あるけど」
「えっ」
ぱちっと泡が弾けるように、私の意識は月城が発した言葉へと向けられた。
委員会? そんなの聞いてない。というか覚えてない。
私の反応を見て察したのか、訝しむように月城が訊いてくる。
「もしかしてなにか予定入れた?」
「いや、予定といえば予定だけど違うといえば違うというか」
果たして家に帰って音を吐き出すことを予定と言っていいのだろうか。
予定に正確な定義がないから曖昧な返事しかできない。
するとはっきりしない私を見かねた月城が口を挟んだ。
「今日クラスに配布するプリント渡されて簡単な説明されるだけらしいよ」
「よく知ってるね」
「隣のクラスのやつから聞いた」
「へぇ」
そんな人脈があったのか、と感心する。
月城はいわゆる二軍。誰とでもそつなく話せる、陽キャとも陰キャとも言い難い位置にいる存在だ。
だけどそれはあくまでクラス内の話で、他クラスとはなんの関わりもないと思っていた。体育や学年集会など他クラスと関わる場面で同じクラスの人以外と話しているところを見たことがなかったから。
まぁでも四六時中月城のことを目で追っていたわけじゃないからそういうこともあるよねと思い直していると、月城が「だから、」と続けた。
「今日は俺ひとりでも大丈夫だと思う。なにか予定あるなら帰りな」
「えっ……いいの?」
「うん」
問うと月城はなんてことないように頷いた。その顔に無理している様子はない。
月城は善意からこの提案をしてくれたのか。
「ありがとう、月城。今度埋め合わせするよ」
そう言ってくすっと笑うと「べつにいいけど」と遠慮してきたので「貰えるものは貰っときなよ」と軽く肩を叩いたら微妙な顔をされた。嫌だったか。ごめん。
「ていうか予定あるってなんでわかったの?」
気を取り直してそう尋ねると、月城は少し考える素振りを見せた。
「なんとなく。帰る準備が異様に早いからもしかしたらって思って」
「なにそれ恥ずかしい」
まさか見られてるとは思ってなかった。
それから羞恥心を覆い隠すようにスクールバッグを手に月城と教室を後にした。もちろんその手前で梨々花と美波にバイバイすることも忘れずに。
「ほんとありがとう。じゃ、また明日」
階段を降りるとき、振り向きざまにそう告げると、月城の口角が微かに持ち上げられた。
「うん、頑張って。――――ラ」
最後の方の言葉は上手く聞き取れなかったけど、わざわざ聞き返すことでもないよねと思い、もう一度「またね」とだけ言って背を向けた。
★
家に帰りすぐに自室に引きこもった。
流れるように録音の準備を整え、ヘッドフォンに手で押さえる。こうするとより音に集中できる気がするのだ。
さて、どれから歌おうか。
テスト期間中、さまざまな質の音たちが頭の中に浮かんでは消え、いつの間にか心を覆い尽くすほど溜まっていた。
最有力は高校生の甘酸っぱい恋愛を春から夏にかけ変わりゆく空模様とかけたものかな。あぁ、夜の東京のひかりに照らされてできた影に吸い込まれて不思議な世界に迷い込む非日常感あふれるものもいい。
アイディアならたくさんある。
でもどれも決定打に欠ける。
手を伸ばせば届きそうなのに掴めなくて。じっと見つめれば見つめるほどあやふやで。少し時間が空いただけで、ワンコーラス分すら形にできるか不安になる。
――「うん、頑張って。――――ラ」
ふと、月城のことを思い出した。
別れ際の彼の口元を見て、綺麗な弧を描くんだな、と思った。夜空にぽつんと浮かぶ三日月みたいで、控えめでも、確かにそこにあって。――あ。
降る。降る。降ってくる。
黄色と緑と青。
月夜を思わせる色を孕んだ音が、私のもとへ降り注ぐ。
流れ星のような軌道を描きながらも、強く、そして儚く。
――歌おう。
そう、録音ボタンをクリックした。
★
音が枯れたときにはすでに日が傾いており、全身が汗ばんでいた。自身を落ち着かせるようにはぁ、と息を吐く。アドレナリンが切れたのか、一気に暑さが押し寄せてきた。服に汗が染み込んでいて気持ち悪い。酸素の足りていない頭でクーラーをつけ、椅子に腰掛ける。こんな身体じゃベッドに倒れ込むのには抵抗がある。が、シャワーを浴びる気力はなかった。
今は6月下旬。
幼い頃は冷房装置を使わなくてもやっていけてきた気がするが、地球温暖化が進んだ今では夕方でも十分暑い。
夏の創作はかなりハードだ。
エアコンの風の音が入ると整音がより面倒になるからクーラーなしで歌わないといけないし、録音しているときは集中していて暑さにも喉の乾きにも鈍感になるから熱中症に気をつけなければならない。
一度脱水症状を起こしたときは世界が歪んで見えて終わったかと思った。もちろんそれも曲にして消費した。
私は音楽のためにいろいろなものを犠牲にしている。
そう思う瞬間が、度々ある。
クーラーが効くのを待っていられず、冷却プレート付きのハンディファンを首にあてがった。ヒヤッとして気持ちいい。
そういえば以前挙げた曲にどんなコメントが書き込まれたのだろうと、YouTubeを開いた。
すると、ホーム画面の一番上にスピカの曲が表示された。
そのことに強烈な違和感を抱く。なんだか胸騒ぎがした。
私とスピカはあくまでXでしか関わりがなく、YouTubeでスピカの曲を聴いたことは一度もない。だというのにホーム画面に表示された。なぜ。
恐る恐る視線を下にずらすと、嫌な予感が的中した。血管がキリキリと収縮した気がする。
【53万回視聴】
スピカの曲が、バズっていた。
約2週間前、私とほぼ同時に投稿したあの曲が。
私が、テスト勉強に集中しているときに。
対して私の曲は3.2万。差は歴然だ。
心にモヤが立ち込める。これは、嫉妬だ。
震える手は無意識のうちに、再生ボタンを押していた。
数秒の広告のあと、曲が流れ始める。
『きみにとっては二番目でも』
スピカがXで言っていたようにダメだと分かっていてもクズ男に沼ってしまう女の子の心情を切なく歌った曲だった。
彼女がいると分かっているのにセフレという関係をキープし、一番になれないと嘆く歌詞が滑稽で、私はこの曲にほんの少しも共感できなかった。
被害者はクズ男と付き合っている彼女だけだ。間違ってもこの曲の視点人物ではない。それにもかかわらず悲劇のヒロインのように振る舞っているところがイライラする。
言葉選び自体もありきたりで薄っぺらい。
曲全体が教本でも読んだのかお手本のように作られていて、独創性が感じられず、スピカの心が伝わってこない。
端的に言うとひどく機械っぽいのだ。
表面的に繕うばかりでなにも響いてこない。
これのどこがいいのだろう。私にはよくわからなかった。
だがコメント欄の反応は私とは真逆だった。
〈切なくて泣いちゃいました…T T〉
〈まるでわたしのことを言われてるみたいでした泣〉
〈エモすぎ良すぎて涙涙〉
〈クズに沼る気持ち分かる〜〜! わたしも今こんな感じなの笑 彼女さんさっさと別れてくれないかな〜〜〜〉
〈今回の曲もすっごくエモくて最高です!!!!!!! スピカ様☆☆☆!!!!!!!〉
〈この曲の女の子とは少し違うのですが、かれこれ付き合って3年の彼氏がいます。最近彼が結婚していることを知ってしまい、別れようかと悩んでいましたが、この曲を聴いて奥さんよりもわたしの方が好きと言ってくれてる彼のことを信じて少し頑張ってみようと思えました。ありがとうございます!!〉
〈!祝!53万回再生おめでとうございます☆☆☆〉
とても見ていられなくてパタン、とパソコンを閉じた。背もたれに身を預け天井を仰ぐ。
――みんなが賞賛するものを好きになれない私がおかしいのだろうか。
昔からそうだった。
周りがいいというものほど本当にいいのか疑ってしまって好きになれなかった。
それは人でも同じで、周りがいい人という人のことほど粗を探してしまう。そして少しでも悪い所を見つけるとなんだ大したことないじゃないかと鼻白む。我ながら性格が悪い。
でもこれは一種の自己防衛だ。人から好かれない自分に対しての。
万人受けするためにはTikTokで拡散されやすいように簡単な振り付けがついたものや短時間で印象に残るような曲を投稿したり、スピカのように軽い言葉で作られたエモい曲を投稿したりするべきなのだろう。
でも、それは私が紡ぎたい音楽じゃないから。
もしそこを曲げてしまえばちいさい頃から大事に大事にしていたものが無価値だって突きつけられるようで、怖くて怖くて仕方がない。
「心星ちゃん!」
突然ガンッと扉が開けられた。
「今日でテスト終わったよね? ちゃんとできたの? 終わったからって気を抜かずにちゃんと勉強してるでしょうね!?」
部屋に入ってくるなり質問責めにしてくるのは母親だ。どうやら今日はいつもより早く仕事が終わったらしい。歌い終わった後でよかったと安堵する。
「……うん、してるよ。ほら」
そう言ってパソコンを開いてみせると、机に向き合っていたこともあり、母親はあっさりと信じ、「夕飯までまだ時間あるからしっかりね」と言い残し部屋を出ていった。
私の両親は厳格な人だ。
父親は銀行員、母親は公務員をしていて、幼い頃から「安定した職に就きなさい」と育てられた。だがそれに反し、私はずっとシンガーソングライターになりたいと思っていた。あふれる音楽を形にしたいと思っていたから。
そのことを小学6年生の授業参観のときに勇気を出していってみた。各々綴った作文を発表する場面で「私の将来の夢はシンガーソングライターになることです」と。初めて夢を口にした瞬間だった。
そんな12歳の精一杯の勇気は、帰りの車で打ち砕かれた。
――「なれるわけないでしょ、そんなの。恥ずかしいから二度と言わないで」
母親は吐き捨てるように言うと、それ以上なにも言ってこなかった。
恥ずかしい。
母親が放った言葉が胸に重くのしかかった。
私の夢はそんなに恥ずかしいことなのだろうか。じゃあ、音楽番組に出ている人はみんな恥ずかしい人なの?
わからなかった。混乱した。母の目が冷たくてとても怖かった。
私のすべてが否定された気がした。
この日以来、両親の前で将来の夢を口にしたことはない。
その後勉強のために買い与えられたパソコンと集中したいからという理由で買ってもらったヘッドフォンで活動しているわけだけど。
両親だけではなく友人にも否定されたらと思うと怖く、て梨々花にも美波にも言えていない。私だけの秘密。それでいい。
私は死ぬまでこうやって音楽を紡ぐつもりだ。
改めて決意を固めたところで再度YouTubeを開くと、今度は先程とは違う画面が表示された。
『【緊急配信】わたしがスピカになるまでのおはなし』
なんとスピカが生配信していたのだ。どんなものだろう、とステラのアカウントから別のものに切り替え配信を見る。
すると、スピカと思われる女の子の首から下だけが映し出された。顔を見せる勇気はないが一端の承認欲求をもっている活動者が愛用している構図だ。髪は束ねられているのか短いのか知らないが写っていない。白い壁を背景に透け感のある水色のシャツに白いタンクトップを合わせた人物のみが存在していた。
ほかの人がこの構図で撮っていてもなんとも思わないのに、スピカ相手だとわずかに嫌悪感が湧いた。生理的に受けつけないものはどう足掻いても受けつけられないのでその事実ごと受け入れる。
『☆信者のみなさま、こんばんは。スピカです』
スピカの声は歌っているときよりも少し上ずっていた。緊張しているのかもしれない。
私のように興味本位で見にきている人もいるだろうに、自分以外の人を「☆信者」と称するところは相変わらずだ。というか「☆」を「スピカ」と読ませていたのか。これまた傲慢な。
『今日は、わたしの過去についておはなししたくて配信しました』
私が呆れていると彼女はそう言って自語りを始めた。
スピカの両親は彼女が中学生になるタイミングで離婚したらしい。そして母に引き取られ現在祖父母の家で生活しているとのこと。ある日何者かになりたくて、たまたま楽器屋さんの前を通りかかったことで音楽を作りたいと思うようになる。そのことを母や祖父母に話すと応援すると言われ、機材を揃えてもらったりボイトレ――ボイストレーニング教室――に通わせてもらうようになった、と。
ここで彼女は一度言葉を切り、ラベルが剥がされているペットボトルの水を口に含んだ。
彼女は続ける。
『高校生になり、友だちができました。みんないい子でこんなわたしにもやさしくしてくれます』
ここで少し沈黙があった。目元を擦る素振りを見せ、再び話し始める。
『でも、よく、思うんです。……死にたいなって』
え、と声が漏れた。
『夜、そう思うだけで不安定になります。たすけてって突発的に配信したこともあります。☆信者のみなさんならご存知ですよね? 家族も友だちもみんなわたしのことが好きなのに、わたしだけウジウジして……。それで学校に行けなくなって、今通信制高校に通おうか迷っています』
これ以上はまずいとパソコンの電源ごと消した。
スピカと自分が違いすぎて、吐きそうになったのだ。
両親が離婚しているけれど音楽活動を応援してもらえているスピカと、両親はいるけれど音楽活動を応援してもらえない私。
必要な機材を揃えてもらいボイトレにも通っているスピカと、パソコンとヘッドフォンしかない私。
恵まれているのに死にたいスピカと、音楽を紡げるかぎり死にたくない私。
私にはスピカが理解できなかった。
それでもチャット欄は〈スピカ様可哀想……〉とか〈死にたい気持ち分かります〉などスピカに同情していた。中には〈両親が離婚されていたなんて……さぞお辛かったでしょう。そんな経験をされているからあなたの曲は心に響くんですね〉と賞賛する声もあった。
まるで彼女の過去が彼女の価値を高めるステータスみたいに扱われている。
――そんなのおかしくない?
彼女の過去なんて周りが作り上げた結果でしかないのに。それをステータスにして周りによしよしされて同情心を集めるなんて。
気持ち悪い。スピカも、コメント欄も。
応援してくれてる人がいるだけいいじゃん、と思う私は心がないのだろうか。
私は正直、スピカが羨ましいと思った。
音楽をする上での障害がなにもないからだ。
でも、世間はスピカが可哀想と評価するんだ。両親が離婚したから。死にたいと思っているから。
じゃあ片親の人は無条件で不幸なのだろうか。死にたいと思う人はみな同情するに値するのだろうか。
私はそうは思わない。
どんな状況下でも表面的な肩書きでヒトの幸不幸は測れないのだから。
こんなふうにひねくれた考え方をしてしまうから私はスピカのように再生回数が伸びないかな……。
途端、私の大切なパソコンとヘッドフォンがチープなものに思えてきた。こんなの、スピカからしたらガラクタも同然だろう。
――あぁ、ダメだ。泣きそう。
モヤモヤを孕んだ黒い音が矢と成り私の心に突き刺さってくる。曇り空の下降り注ぐ豪雨のように、強く、強く。身を削るみたいに。
それに潰される前に、衝動的にパソコンを立ち上げた。
助けて、誰か、私を助けて、と。
青いひかりに縋りながら。



