これは夜野には内緒の俺の話。
☽
夜野心星。
彼女の存在を知ったのは高校に入学して半年経ったか経たなかったくらいの頃だったと思う。
ふつうに学校で生活していれば、漫画みたいにテストの順位が掲示されなくても、どこからか情報が漏れて、同じ学年で頭いい人の名前くらいはなんとなく知るようになる。夜野はその筆頭だった。
とはいえ名前くらいしか知らなかったし、どんな顔でどんな性格かなんて興味なかった。
転機が訪れたのは、たまたま廊下ですれ違ったとき。
声が、ステラに似ていたのだ。
思わず振り返ったが、友だちと歩く後ろ姿しか掴めず、呆然と立ち尽くす俺だけが取り残された。
そしてそんな俺を見かねた友だちがあれが例の夜野心星だと教えてくれた。
夜の美しさを体現したような名前を、飴玉でも舐めるみたいに心の中でころころと転がして吞み込む。
そういえば「ステラ」は日本語では星を意味する。
じゃあ、もしかして本当に――。いやそんなはずないと思いつつも、一度芽生えた期待を積むことができなかった。
それから俺は密かに彼女を目で追うようになった。
俺が意識したからかもしれないけれど、彼女とはよく廊下ですれ違う。たぶん、移動教室のタイミングが同じなんだと思う。
夜野心星。テストで毎回上位争いをしている頭のいいひと。そしてステラかもしれないひと。
初めはそれくらいの印象しかなかったけれど、見れば見るほど、彼女が特別な存在かのように錯覚するようになった。
光に照らされると艶々と煌めく黒髪。化粧っ気はないけれど、パーツの配置がよく整った顔。短すぎないスカート。極めつけは、その瞳。
廊下の曲がり角で偶然肩がぶつかり、彼女がちらっと俺を見上げながら「ごめん」と謝ったとき。
俺は確かに、彼女の瞳に星が宿っているのを見た。
芯の強さを表す、白い星だった。夜の明るさを纏っていた。
俺を惹きつけるステラのかけらみたいなものが、そこにあった。
☽
ステラとの出会いは中学1年生の冬。
聴きたい曲があるのに題名がうろ覚えで、かろうじて覚えていた歌詞の一部を検索にかけたとき。
関連曲として出てきたのが彼女の曲だった。
暇だったし新しい曲の開拓がてらなんとなくそれをタップして再生した。
『音降る夜と雨』
動画自体は1枚の画像に歌詞が映し出されていくという比較的シンプルなもので、これといった特徴はなかった。
でも、曲は違った。
流れてくる音はどれも洗練されていて、星の軌道を追うような、不思議な感覚がした。
歌声は冬の夜のように透き通った静けさを纏っていて。でも、その中心には決して揺れない芯もあって、聴いていてとても心地よかった。
それにすっかり魅力された俺は彼女のSNSアカウントをすぐさまフォローした。まだ活動を始めてからそれほど経っていないらしく、フォロワーは少なかった。今から追えば十分最古参の部類に入れるだろう、という打算もあったが、それ以上に自分だけの特別を見つけたような高揚感に包まれていたのをよく覚えている。
ステラの曲はそれぞれ物語みたいなものが組み込まれていて、1曲聴くたびに短編小説を読んだかのような気分になる。それが彼女がもっている箱庭を覗かせてもらっているようで、新曲が出るたびに魅了されていった。
そんなステラは曲以外に興味はないのか、Xに投稿する文も動画も簡素なので、無駄なものがない片付いた部屋で丁寧な暮らしを送っている20代くらいと勝手に想像していた。
そのステラの正体が夜野心星かもしれない。
予想を外したショックだとかなんだ同級生かという落胆なんてものはなく、ただただ信じがたかった。
もし本当にそうなら、俺が心を揺すぶられたあの曲は、彼女が中学1年生のときに作ったものということになる。
――あのクオリティの曲を、中1で……?
ゾクッとして全身が粟立った。
そして、一度でいいから夜野と話してみたいと思った。
未だに決定的な証拠は得られてないし、周りにステラのことを隠しているかもしれないので、俺から話を振るつもりはないが、それでも、彼女の声を近くで聞きたかった。
そんな俺の願いを誰かがきいてくれたのか、高校2年生で彼女と同じクラスになった。彼女の後を追いかけたと思われない程度に自然な感じで同じ委員会に入ることに成功し、実際に彼女と話したとき、疑念は確信へと変わった。
――ステラだ。
ステラが、いる。
同じ学校の、同じ学年に。
この震える気持ちを、どう表現すればいいのか。
ひとりでいるときの佇まいは凛としていて一匹狼のように見えるが、話すとわりと気さくな彼女。
例え応援していると直接伝えることができなくても、このまま密かに見守っていられたらいいと思っていた。
だが、あるときからステラの投稿がぴたりと止まった。
今までもこういうことはあったが、決まってテスト期間と被っていた。おそらく中学時代もそうだったのだろう。それならべつに心配しなかった。でも今は定期試験も模擬試験も近くにない。ないのに、なんで――。
ネットで活動する人の中には、飽きたとか本業が忙しくなったとかでパタリと活動を辞めることがある。それこそ星の数くらい。
その可能性を全く考えなかったわけじゃないが、ステラに限ったそんなことはありえないと思った。彼女の音楽に対する執念のようなものは、曲を通して十分伝わってきていたから。
だとしたら、他になにか問題でも生じたのか?
強烈なスランプに陥ったとか。喉に違和感があって思うように歌えなくなったとか。そう考えただけで不安になっていてもたってもいられなくなった。
☽
委員会終わり。他に誰もいない下駄箱で、俺は夜野を呼び止めた。
彼女の後ろから差し込む太陽のひかりが彼女の顔にほんの少しの影を落としているのに、その瞳に宿る白い星は相も変わらずまばゆかった。
だが、ステラのことに触れた途端、彼女は見たこともないくらいいとも簡単に揺らいだ。それこそまるで、この世の終わりみたいに。
そんな彼女の反応を見て、自身の過ちに気づいた。
夜野の芯の強さは、ステラでできていたんだ。
その繊細な部分に、俺は無遠慮に触れてしまった。
なんとか落ち着いてもらいたくて伸ばした手を一度引っ込めて、それでも伸ばして、壊れてしまわないようにそっと肩を叩いた。
夜野ははっとしたように顔を上げて、ようやくその瞳に俺を映した。いつもより近くで見たそれは、他の不純物が混じることを赦さないほど澄んでいて、息を呑むほど綺麗だった。
場所を移して話しても結局なんで低浮上だったのかわからなかったけれど、俺が初期からのファンであることやいつも曲に惹き込まれていることを伝えると、夜に咲く花がそっと開くように顔が綻んだ。
この様子ならもう大丈夫だと安心した矢先――ステラが炎上した。
スピカとかいう最近とある曲がバズったらしい奴の既存曲と、ステラの『汽水域の恋』のBメロが似ていることからステラが盗作したのではないかといありえない理由で。
比較動画を聴いてみたが、この程度の一致は偶然で片づけられるレベルだった。にもかかわらず、ステラが集中砲火に遭っていた。スピカとかいう自称繊細さんみたいな奴がステラと犯罪者扱いし、さらにそのファン層がごみの掃きだめみたいに最悪だったから。
ただの一般人を教祖として崇めている様が気持ち悪いし頭が悪いし、スピカがステラを犯罪者扱いしたら思考停止した状態で平気で低俗な言葉を使って人を罵倒する。教祖が教祖なら信者も信者だ。揃いも揃ってお風呂に入ってなさそう。
ネットの声に踊らされるなんてバカみたいだ。
でも、ステラはそこで息をしているから。
空気を奪われてしまえば、歌えなくなってしまう。――ステラが、しんでしまう。
衝動的にかけた電話の向こう側で夜野は憔悴しきっていた。
無理もない。夜野にとってステラは自身を構成する軸だから。
どうか壊れないでと願いながら、彼女の声にひとつひとつ応えた。その時間は胸が張り裂けそうなほど苦しくて、同時に、ここまで彼女を傷つけた連中が憎くて憎くてたまらなかった。
だから提案した。「あいつの素顔、特定しない?」と。
俺は彼女に少しでも楽に息をしてほしかった。
☽
スピカとかいう半端者のSNSの監視は俺が担当することになった。
夜野が奴の投稿を見るたびに心をすり減らしていくようで気が気じゃなかったから。
かくいう俺も、奴の投稿――正確にはSNSのアイコンを見るたびに殺したくなった。
瞳に星を宿しているのはステラだ。お前じゃない。
それを初めて見たときの怒りを何度もなぞっている。
複数のアカウントを使ってステラを貶めるポストを報告しても俺も行動なんて無意味だとでも言うようにXは全然対応しないし、それどころかステラの今までをも否定するようなポストが数を増していく。まるで透明人間になったみたいだ。ステラを侮辱するなという俺の声なんて誰にも聞いてくれない。無力だ。それでも彼女は俺を頼りにしてくれている。だから俺が彼女の防波堤になろう。こんな風に無力感に押し潰されようになるのは、俺だけでいい。俺だけで――。
「月城」
「えっ」
水面に浮かんだ泡のように意識が浮上し、弾かれたように声の方を見ると、夜野が不思議そうに俺を見つめていた。
あぁそうだ。今はファミレスで夜野と作戦会議をしているところだった。最近あまり眠れていないせいかついぼーっとしてしまった。ごめんと謝り、改めて目の前の彼女に向き合う。
夜野は現実に戻った俺から目を離し、スマートフォンをいじる傍ら、出来たてで運ばれてきたフライドポテトをつまんでいた。その様子をまじまじを見つめる。何の変哲もない動作だというのに、余計なフィルターがかかっているせいか、映画のワンシーンのようだ。
夜野とこんなふうに過ごすようになって早数日。未だに夢なんじゃないかと疑うときがある。
俺の視線に気づいた夜野が顔を上げ、「なに?」と口を動かした。さすがに馬鹿正直に夜野を観察してたなんて言えるわけないので、代わりに気になっていたことを尋ねる。
「……曲ってどんなふうに思いつくのかなって」
「どんな、か」
夜野は口元に手を当て少し考える素振りを見せた後、おもむろに俺を見つめた。
「どうしても中二病みたいな言い方しか思いつかないんだけど、月城は自分がどんな風に息してるのかちゃんと考えたことある?」
「ない、けど」
「私にとってはそれに近いんだよね。生まれたときから当たり前に備わってるものだから、どんなふうにって訊かれてもわかんない」
お手上げと言わんばかりに瞳を閉じて手をぱっと開き、ストローからミルクティーを吸いあげて飲んだ。ややあって口を開く。
「ただ……、音が降る感覚はあるかな」
「音?」
訊き返すとこくんと頷き、続けた。
「雨みたいにぽつぽつ降ってくるときもあれば、矢みたいに降ってくるときもあるし、たまに内からふつふつ湧き上がってくることもある。その時々で変わってくるからなんとも言えないんだけど」
ここで一度切り、夜空を映したような瞳が俺をとらえた。
「音を紡ぐということは息をするということ」
はっきりした言葉に、身が震えた。
「これだけは一貫してる」
夜野はゆっくりまばたきをして、伏し目がちにミルクティーを口に含んだ。
そして雰囲気を和らげるように「どう、イタい?」と挑発的に笑った。
理解できないだろとでも言いたいのだろう。そこに傲慢さはなく、ただ本当に理解できないと割り切っているように感じた。
実際、俺は夜野の言っていることをきちんと理解できている自信がない。でもそんな俺にだって言えることはある。
「すごいと思う。俺にはない感覚だから」
率直な感想だった。
夜野には特別な才がある。
こういうひとが将来大成するんだと確信させられるほど、特別な。
俺の反応が意外だったのか、夜野はかすかに目を見開いたあと「そっか」と笑った。
スピカとかいう偽物のSNSを監視するのは精神的にかなりきつい。
それでも、ステラについて知れるこの時間があるから俺は耐えられている。
ステラさえいれば、俺は大丈夫。
☽
夜野の言葉を真に理解したのは、彼女が屋上で歌ったときだった。
上から弾丸のように降り注ぐ音たちが彼女の身を削る。削られた部分が散る。ひかる。それがまるで星屑のようだった。
目に見えるはずもない音に俺まで刺されているような感覚がした。全身がビリビリする。
――「音を紡ぐということは息をするということ」
息は吸うだけでは生きていけない。
それと同じように、音も心の内で紡ぐばかりでは生きていけないのだ。
夜野を構成する軸は、彼女を壊す原因にもなりえる。
音に愛され呪われたひと。
そんな称号がぴったりだった。
夜野は歌っているとき、視線は俺に向いていた。にもかかわらず、目が合っていない感じがした。彼女はどこか遠くを見ながら歌っていた。俺よりも、はるか遠く。
ひときわ強く輝く白い星にはなにが見えているのか。
それこそ俺が理解できない問いだと思ったから、あえて訊かなかった。
代わりに気になったタイトルを尋ねると、夜野は俺につけてと愉快そうに笑った。ステラの曲にタイトルをつけるなんて恐れ多くて、先ほどとは違う意味で身震いした。それでも彼女がそれを望むから、ステラにふさわしいタイトルをつけようと思った。
その日から夜野は、時々俺の前でメロディを口ずさむようになった。
彼女の口から紡がれる音たちはいつもきらきらと瞬いている。
最近はそれだけではなく、普段の夜野の周りにもきらきらを見るようになった。こういうの、なんて言うんだろうか。
数歩前を歩く夜野がちらりと振り返るから、目が合った。その場に縫いとめられた気がした。
「夜野の声ってさ、綺麗だよね」
丸い瞳に吸い取られるようにそんな言葉が口をついてでていた。
あ、やばいと片手で口を覆ったが、すでに遅い。もう一方の手で夜野に待ったをかける。
「ごめん今のセクハラみたいだった。できたらなかったことにしてほしい、いや、してください」
「え、いやしないけど」
俺の頼みをばっさりと切り捨てた夜野はなんで最後敬語?とくすっと笑った。
「声褒められるの新鮮だからびっくりしただけ。ありがとう」
夜野は本当に驚いたようにそう言った。
もしかしたら夜野は、自身の声を降ってくる音たちを正確に再現するための楽器の一部としか思っていないのかもしれない。
だとしたらかなりもったいないと思う。
その反面、自覚がないからこそのびのびと音を紡げているのかもしれないとも思った。
彼女の持つ感覚は、俺には想像もつかないほど、複雑で繊細なものだろうから。
下手に触れずに、俺が勝手に好きでいればいい。
今抱えている問題が解決したあとでもこんなふうに、ただそばにいられたら。
そんなあわい願望が打ち砕かれたのは、そのすぐあとだった。
頭を悩ませて考えに考えた末決めた、あの曲のタイトルを彼女に伝えようとした日、スピカが花火大会に行くとXに投稿した。
焦るあまりまともな調査もせずに呼びだした俺を責めるでもなく、夜野は「どうせ来たんなら満喫しよ」となんてことないように笑った。彼女のこういう軽さにたびたび救われている。
満開に咲く花火をきちんと見たのはいつぶりだったか。覚えていないけれど、咲いては散っていく姿が、彼女から溢れる音たちに似ている気がした。
ふいにあの曲のタイトルが思い浮かんだ。
『未完の星』
彼女を蝕む激情から逃れるように歌い、俺を魅了したあの曲は、さらなる高みを渇望しているようにも感じたからこう名づけた。夜野はこのタイトルをどう思うだろうか。
花火が終わり、夜野にタイトルを伝えようとしたとき、スマートフォンが震えた。スピカがXに投稿したのだ。目の前が真っ暗になった。なんで、なんで今なんだよ。
見て見ぬふりをしてやりたかったが、奴の素顔を特定するのは彼女の本懐。
すぐに情報を共有し、スピカを見つけた瞬間芽生えたのは、明確な殺意だった。視界が危険を知らせるような赤色に染まっていく。
あんな彼女とは比較にもならない奴が、ステラを貶し、夜野を精神的に追い詰めたのか。ふざけるな。二度と、二度と表舞台に出てこれないように――。
怒りに身を任せ、夜野の代わりにスピカの中身を撮影しようとした俺を止めたのは、あれほどヤツを憎んでいた夜野だった。
「月城、辞めよう」
意味がわからなかった。わからないくせに、理由をちゃんと聞きもせずに彼女に詰め寄っていた。急に梯子を外されたような気分だったのだ。
今まで夜野も俺と同じくらい、いやそれ以上の憎悪を抱いていたはずなのに、なんでそんな冷静でいられるんだよ。
ステラが、唯一の星が、穢されたのに!
俺の手を振り払い走り去る夜野は、もう俺を振り返らなかった。そのまま人波の中に紛れて、見失ってしまった。
その後何度電話しても出てくれず、ラインにも返信がなかった。それどころか既読すらつかない。
こういうことは前にもあった。でも前回とはわけが違う。
話を聞こうともしなかった俺に失望したのかもしれない。
謝るから。何回も何回も許しを乞うから。これからは彼女の言うことをなんでも聞くから。お願いだから。
また話したかった。
☽
夜野の顔すらまともに見れなくなってから数日が過ぎた。
もう夜野との関係修復はおろか、ステラの歌声すらも聴けなくなるのではと絶望していた最中。
ステラにとって初めての生配信が始まった。
自身の潔白を証明するために戦う彼女は、目がくらくらするほど眩しくて、泣きそうになった。
彼女は自身の道を選ぶ強さを持っている。
もしかしたら、俺のしたことに意味なんてなかったのかもしれない。
彼女は俺がいなくても、そのうちひとりで立ち向かえたのではないか。
それほどまでに今の彼女は月のひかりすら凌駕するほどの輝きを放っている。
輝きを放ったまま、終焉を迎える。
『徒花』
活動停止を宣言した彼女が最後に選んだ曲だった。
いつもより本格的なバラード。初めて聴く曲のはずなのに、なぜだか聴き覚えがあった。
ああ、そっか。
夜野が以前、俺の前で口ずさんでいたメロディと同じなんだ。
それだけで一緒に過ごした日々を思い出して切なくなった。
歌詞を聴き、あることに気づいたときは、息が止まるかと思った。
ステラはよく歌詞に二重の意味を持たせる。
今回は俺の勘違いかもしれないけれど、何度も繰り返される「枯」が「彼」と重ねられている気がする。そして、その彼って――。
〈一緒に嫌ってくれてありがとう〉
俺のことだと、烏滸がましくも確信してしまった。同時に、救われた気持ちにもなった。
よかった。
こんな俺でも夜野の助けになれてたんだ。
よかった。ほんとうによかった。
彼女がひとりで潰れなくて。
よかった。でも、お願いだから。
いなくならないでという精一杯のわがまま。
〈ううん、ステラはもうおしまいだよ〉
彼女はそんな、ひとの弱さに惑わされない強さを持っている。
〈以上、ステラでした〉
たくさんのきらめきを纏ったまま、ステラが、消失した。
☽
失っても日々は移ろいでいく。
ぽっかり空いた心の穴を残したまま。
☽
俺たちは高校3年生になった。
夜野とはクラスが離れ、すれ違う頻度も1年生の頃より減った。委員会も以前とは違うところに入ったらしく、夜野と俺を繋ぐ接点はもうない。それを意識するたびに胸が苦しくなる。
当然と言えば当然かもしれないけれど、ステラが消えてからも、夜野から連絡してくることはなかった。
彼女はほんとうに星のようなひとだった。
少しは近づけたと思ったのに掴めなくて。彼女の瞳にはいつだって白い星が宿っていた。
それがまっすぐ俺を照らしているようだった。
でももう、そのひかりは俺に注がれない。
中学1年生の冬から繰り返し聴いていたステラの曲ももう聴けない。
日々、それらを痛感させられる。
周りの話題は受験一色となり、ステラが消えてからちょうど一年が経とうとしていた。
学校にいても息抜きできる時間なんてほとんどなくて、タブレットと参考書に向き合っているせいで目も首も痛い。
不安からか、夜の眠りも浅い。
高校受験のときはどうしてたっけ。ああそうだ、ステラの曲を聴いてたんだと思い出し、勝手に虚しくなった。今の俺はまるで抜け殻みたいだ。
灰色の空に折りたたみ傘持ってくればよかったとうんざりしながら下駄箱を開いたとき。
あるものが上段に入れられていた。膨らみのある茶封筒だった。
他の人に見られないように辺りを確認してからそれを取り出し、中身を覗いた。
なにも書かれていないCDに、折りたたまれたノートの切れ端が添えられていた。手紙だろうか。拙い手つきでそれを開く。そこには走り書きでこう綴られていた。
どうしてもってときに聴いて 夜野
――夜、野……。
久々に見た彼女の字と名前。
手紙を額にあて、そっと息を吐く。
夢じゃない。ほんとうに、夜野から送られたものだ。
誰が通るかわからない下駄箱にいるというのに、この場に泣き崩れてしまいそうだった。
今すぐにでもCDになにが焼かれているか知りたかったけれど、夜野がどうしてもってときにと念を押しているから、勉強を終え寝る前に再生した。
CDに収録されていたのは一曲だけだった。
『欠けた月』
なぜこの曲を選択したのか。相変わらず彼女の意図を正確に読み取るのは難しい。難しいけれど、頭で理解するよりも先に、するりと心に入ってきて。気づいたときには泣いていた。
この曲が投稿されたのは、俺がステラのファンであると本人に明かした日の晩。
あの頃はただ純粋にステラの曲に焦がれていた。
でも今は違う。
あの日から始まった夜野との日々がエンドロールのように流れてくる。
俺は夜野を思い浮かべずにステラの曲を聴くことができなくなってしまった。彼女はそれを危惧していたというのに。
切実に元の俺に戻りたいと思った。でももう戻れない。夜野の望む俺にはなれない。
夜野のことを、好きになってしまったから。
近くにいたときは気づかなかったけれど、今ならはっきりとわかる。
ステラに抱いていたものとはまた違う。神聖なものを遠くから眺めたいという信仰にも似た感情ではなく、誰よりも近くにいたいという邪な感情。
それがわからなかったからステラへの思いが勝り、現実の辛さから逃げるように傾倒した。綯い交ぜになった好きに振り回され、歪んで、夜野に理想を押し付けた。夜野以上にステラを想っているひとなんているわけないのに。夜野なら俺と同じようにステラのためならなんだってするって信じていた。信じていたかった。弱かったから。弱かったからなにかに傾倒しないと立っていられなかった。正気じゃなかった。だから彼女を失った。
そのくせこの期に及んで、好きにならない方がよかったって思えない。好きになれてよかったって思ってる。
そして、これからもずっと好きだと思う。
時間は前にしか進まない。
彼女はもう、時間とともに歩き出した。
俺も過去に縋りついて立ち止まっているわけにはいかない。
なにがあっても自分を失わないひとはほんのひと握りだと思う。
だからこそ彼女は強かった。
その強さを、もっと近くで見ていたかった。
そばにいられるように、自分も強くなりたいと思った。
☽
夜野心星。
彼女の存在を知ったのは高校に入学して半年経ったか経たなかったくらいの頃だったと思う。
ふつうに学校で生活していれば、漫画みたいにテストの順位が掲示されなくても、どこからか情報が漏れて、同じ学年で頭いい人の名前くらいはなんとなく知るようになる。夜野はその筆頭だった。
とはいえ名前くらいしか知らなかったし、どんな顔でどんな性格かなんて興味なかった。
転機が訪れたのは、たまたま廊下ですれ違ったとき。
声が、ステラに似ていたのだ。
思わず振り返ったが、友だちと歩く後ろ姿しか掴めず、呆然と立ち尽くす俺だけが取り残された。
そしてそんな俺を見かねた友だちがあれが例の夜野心星だと教えてくれた。
夜の美しさを体現したような名前を、飴玉でも舐めるみたいに心の中でころころと転がして吞み込む。
そういえば「ステラ」は日本語では星を意味する。
じゃあ、もしかして本当に――。いやそんなはずないと思いつつも、一度芽生えた期待を積むことができなかった。
それから俺は密かに彼女を目で追うようになった。
俺が意識したからかもしれないけれど、彼女とはよく廊下ですれ違う。たぶん、移動教室のタイミングが同じなんだと思う。
夜野心星。テストで毎回上位争いをしている頭のいいひと。そしてステラかもしれないひと。
初めはそれくらいの印象しかなかったけれど、見れば見るほど、彼女が特別な存在かのように錯覚するようになった。
光に照らされると艶々と煌めく黒髪。化粧っ気はないけれど、パーツの配置がよく整った顔。短すぎないスカート。極めつけは、その瞳。
廊下の曲がり角で偶然肩がぶつかり、彼女がちらっと俺を見上げながら「ごめん」と謝ったとき。
俺は確かに、彼女の瞳に星が宿っているのを見た。
芯の強さを表す、白い星だった。夜の明るさを纏っていた。
俺を惹きつけるステラのかけらみたいなものが、そこにあった。
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ステラとの出会いは中学1年生の冬。
聴きたい曲があるのに題名がうろ覚えで、かろうじて覚えていた歌詞の一部を検索にかけたとき。
関連曲として出てきたのが彼女の曲だった。
暇だったし新しい曲の開拓がてらなんとなくそれをタップして再生した。
『音降る夜と雨』
動画自体は1枚の画像に歌詞が映し出されていくという比較的シンプルなもので、これといった特徴はなかった。
でも、曲は違った。
流れてくる音はどれも洗練されていて、星の軌道を追うような、不思議な感覚がした。
歌声は冬の夜のように透き通った静けさを纏っていて。でも、その中心には決して揺れない芯もあって、聴いていてとても心地よかった。
それにすっかり魅力された俺は彼女のSNSアカウントをすぐさまフォローした。まだ活動を始めてからそれほど経っていないらしく、フォロワーは少なかった。今から追えば十分最古参の部類に入れるだろう、という打算もあったが、それ以上に自分だけの特別を見つけたような高揚感に包まれていたのをよく覚えている。
ステラの曲はそれぞれ物語みたいなものが組み込まれていて、1曲聴くたびに短編小説を読んだかのような気分になる。それが彼女がもっている箱庭を覗かせてもらっているようで、新曲が出るたびに魅了されていった。
そんなステラは曲以外に興味はないのか、Xに投稿する文も動画も簡素なので、無駄なものがない片付いた部屋で丁寧な暮らしを送っている20代くらいと勝手に想像していた。
そのステラの正体が夜野心星かもしれない。
予想を外したショックだとかなんだ同級生かという落胆なんてものはなく、ただただ信じがたかった。
もし本当にそうなら、俺が心を揺すぶられたあの曲は、彼女が中学1年生のときに作ったものということになる。
――あのクオリティの曲を、中1で……?
ゾクッとして全身が粟立った。
そして、一度でいいから夜野と話してみたいと思った。
未だに決定的な証拠は得られてないし、周りにステラのことを隠しているかもしれないので、俺から話を振るつもりはないが、それでも、彼女の声を近くで聞きたかった。
そんな俺の願いを誰かがきいてくれたのか、高校2年生で彼女と同じクラスになった。彼女の後を追いかけたと思われない程度に自然な感じで同じ委員会に入ることに成功し、実際に彼女と話したとき、疑念は確信へと変わった。
――ステラだ。
ステラが、いる。
同じ学校の、同じ学年に。
この震える気持ちを、どう表現すればいいのか。
ひとりでいるときの佇まいは凛としていて一匹狼のように見えるが、話すとわりと気さくな彼女。
例え応援していると直接伝えることができなくても、このまま密かに見守っていられたらいいと思っていた。
だが、あるときからステラの投稿がぴたりと止まった。
今までもこういうことはあったが、決まってテスト期間と被っていた。おそらく中学時代もそうだったのだろう。それならべつに心配しなかった。でも今は定期試験も模擬試験も近くにない。ないのに、なんで――。
ネットで活動する人の中には、飽きたとか本業が忙しくなったとかでパタリと活動を辞めることがある。それこそ星の数くらい。
その可能性を全く考えなかったわけじゃないが、ステラに限ったそんなことはありえないと思った。彼女の音楽に対する執念のようなものは、曲を通して十分伝わってきていたから。
だとしたら、他になにか問題でも生じたのか?
強烈なスランプに陥ったとか。喉に違和感があって思うように歌えなくなったとか。そう考えただけで不安になっていてもたってもいられなくなった。
☽
委員会終わり。他に誰もいない下駄箱で、俺は夜野を呼び止めた。
彼女の後ろから差し込む太陽のひかりが彼女の顔にほんの少しの影を落としているのに、その瞳に宿る白い星は相も変わらずまばゆかった。
だが、ステラのことに触れた途端、彼女は見たこともないくらいいとも簡単に揺らいだ。それこそまるで、この世の終わりみたいに。
そんな彼女の反応を見て、自身の過ちに気づいた。
夜野の芯の強さは、ステラでできていたんだ。
その繊細な部分に、俺は無遠慮に触れてしまった。
なんとか落ち着いてもらいたくて伸ばした手を一度引っ込めて、それでも伸ばして、壊れてしまわないようにそっと肩を叩いた。
夜野ははっとしたように顔を上げて、ようやくその瞳に俺を映した。いつもより近くで見たそれは、他の不純物が混じることを赦さないほど澄んでいて、息を呑むほど綺麗だった。
場所を移して話しても結局なんで低浮上だったのかわからなかったけれど、俺が初期からのファンであることやいつも曲に惹き込まれていることを伝えると、夜に咲く花がそっと開くように顔が綻んだ。
この様子ならもう大丈夫だと安心した矢先――ステラが炎上した。
スピカとかいう最近とある曲がバズったらしい奴の既存曲と、ステラの『汽水域の恋』のBメロが似ていることからステラが盗作したのではないかといありえない理由で。
比較動画を聴いてみたが、この程度の一致は偶然で片づけられるレベルだった。にもかかわらず、ステラが集中砲火に遭っていた。スピカとかいう自称繊細さんみたいな奴がステラと犯罪者扱いし、さらにそのファン層がごみの掃きだめみたいに最悪だったから。
ただの一般人を教祖として崇めている様が気持ち悪いし頭が悪いし、スピカがステラを犯罪者扱いしたら思考停止した状態で平気で低俗な言葉を使って人を罵倒する。教祖が教祖なら信者も信者だ。揃いも揃ってお風呂に入ってなさそう。
ネットの声に踊らされるなんてバカみたいだ。
でも、ステラはそこで息をしているから。
空気を奪われてしまえば、歌えなくなってしまう。――ステラが、しんでしまう。
衝動的にかけた電話の向こう側で夜野は憔悴しきっていた。
無理もない。夜野にとってステラは自身を構成する軸だから。
どうか壊れないでと願いながら、彼女の声にひとつひとつ応えた。その時間は胸が張り裂けそうなほど苦しくて、同時に、ここまで彼女を傷つけた連中が憎くて憎くてたまらなかった。
だから提案した。「あいつの素顔、特定しない?」と。
俺は彼女に少しでも楽に息をしてほしかった。
☽
スピカとかいう半端者のSNSの監視は俺が担当することになった。
夜野が奴の投稿を見るたびに心をすり減らしていくようで気が気じゃなかったから。
かくいう俺も、奴の投稿――正確にはSNSのアイコンを見るたびに殺したくなった。
瞳に星を宿しているのはステラだ。お前じゃない。
それを初めて見たときの怒りを何度もなぞっている。
複数のアカウントを使ってステラを貶めるポストを報告しても俺も行動なんて無意味だとでも言うようにXは全然対応しないし、それどころかステラの今までをも否定するようなポストが数を増していく。まるで透明人間になったみたいだ。ステラを侮辱するなという俺の声なんて誰にも聞いてくれない。無力だ。それでも彼女は俺を頼りにしてくれている。だから俺が彼女の防波堤になろう。こんな風に無力感に押し潰されようになるのは、俺だけでいい。俺だけで――。
「月城」
「えっ」
水面に浮かんだ泡のように意識が浮上し、弾かれたように声の方を見ると、夜野が不思議そうに俺を見つめていた。
あぁそうだ。今はファミレスで夜野と作戦会議をしているところだった。最近あまり眠れていないせいかついぼーっとしてしまった。ごめんと謝り、改めて目の前の彼女に向き合う。
夜野は現実に戻った俺から目を離し、スマートフォンをいじる傍ら、出来たてで運ばれてきたフライドポテトをつまんでいた。その様子をまじまじを見つめる。何の変哲もない動作だというのに、余計なフィルターがかかっているせいか、映画のワンシーンのようだ。
夜野とこんなふうに過ごすようになって早数日。未だに夢なんじゃないかと疑うときがある。
俺の視線に気づいた夜野が顔を上げ、「なに?」と口を動かした。さすがに馬鹿正直に夜野を観察してたなんて言えるわけないので、代わりに気になっていたことを尋ねる。
「……曲ってどんなふうに思いつくのかなって」
「どんな、か」
夜野は口元に手を当て少し考える素振りを見せた後、おもむろに俺を見つめた。
「どうしても中二病みたいな言い方しか思いつかないんだけど、月城は自分がどんな風に息してるのかちゃんと考えたことある?」
「ない、けど」
「私にとってはそれに近いんだよね。生まれたときから当たり前に備わってるものだから、どんなふうにって訊かれてもわかんない」
お手上げと言わんばかりに瞳を閉じて手をぱっと開き、ストローからミルクティーを吸いあげて飲んだ。ややあって口を開く。
「ただ……、音が降る感覚はあるかな」
「音?」
訊き返すとこくんと頷き、続けた。
「雨みたいにぽつぽつ降ってくるときもあれば、矢みたいに降ってくるときもあるし、たまに内からふつふつ湧き上がってくることもある。その時々で変わってくるからなんとも言えないんだけど」
ここで一度切り、夜空を映したような瞳が俺をとらえた。
「音を紡ぐということは息をするということ」
はっきりした言葉に、身が震えた。
「これだけは一貫してる」
夜野はゆっくりまばたきをして、伏し目がちにミルクティーを口に含んだ。
そして雰囲気を和らげるように「どう、イタい?」と挑発的に笑った。
理解できないだろとでも言いたいのだろう。そこに傲慢さはなく、ただ本当に理解できないと割り切っているように感じた。
実際、俺は夜野の言っていることをきちんと理解できている自信がない。でもそんな俺にだって言えることはある。
「すごいと思う。俺にはない感覚だから」
率直な感想だった。
夜野には特別な才がある。
こういうひとが将来大成するんだと確信させられるほど、特別な。
俺の反応が意外だったのか、夜野はかすかに目を見開いたあと「そっか」と笑った。
スピカとかいう偽物のSNSを監視するのは精神的にかなりきつい。
それでも、ステラについて知れるこの時間があるから俺は耐えられている。
ステラさえいれば、俺は大丈夫。
☽
夜野の言葉を真に理解したのは、彼女が屋上で歌ったときだった。
上から弾丸のように降り注ぐ音たちが彼女の身を削る。削られた部分が散る。ひかる。それがまるで星屑のようだった。
目に見えるはずもない音に俺まで刺されているような感覚がした。全身がビリビリする。
――「音を紡ぐということは息をするということ」
息は吸うだけでは生きていけない。
それと同じように、音も心の内で紡ぐばかりでは生きていけないのだ。
夜野を構成する軸は、彼女を壊す原因にもなりえる。
音に愛され呪われたひと。
そんな称号がぴったりだった。
夜野は歌っているとき、視線は俺に向いていた。にもかかわらず、目が合っていない感じがした。彼女はどこか遠くを見ながら歌っていた。俺よりも、はるか遠く。
ひときわ強く輝く白い星にはなにが見えているのか。
それこそ俺が理解できない問いだと思ったから、あえて訊かなかった。
代わりに気になったタイトルを尋ねると、夜野は俺につけてと愉快そうに笑った。ステラの曲にタイトルをつけるなんて恐れ多くて、先ほどとは違う意味で身震いした。それでも彼女がそれを望むから、ステラにふさわしいタイトルをつけようと思った。
その日から夜野は、時々俺の前でメロディを口ずさむようになった。
彼女の口から紡がれる音たちはいつもきらきらと瞬いている。
最近はそれだけではなく、普段の夜野の周りにもきらきらを見るようになった。こういうの、なんて言うんだろうか。
数歩前を歩く夜野がちらりと振り返るから、目が合った。その場に縫いとめられた気がした。
「夜野の声ってさ、綺麗だよね」
丸い瞳に吸い取られるようにそんな言葉が口をついてでていた。
あ、やばいと片手で口を覆ったが、すでに遅い。もう一方の手で夜野に待ったをかける。
「ごめん今のセクハラみたいだった。できたらなかったことにしてほしい、いや、してください」
「え、いやしないけど」
俺の頼みをばっさりと切り捨てた夜野はなんで最後敬語?とくすっと笑った。
「声褒められるの新鮮だからびっくりしただけ。ありがとう」
夜野は本当に驚いたようにそう言った。
もしかしたら夜野は、自身の声を降ってくる音たちを正確に再現するための楽器の一部としか思っていないのかもしれない。
だとしたらかなりもったいないと思う。
その反面、自覚がないからこそのびのびと音を紡げているのかもしれないとも思った。
彼女の持つ感覚は、俺には想像もつかないほど、複雑で繊細なものだろうから。
下手に触れずに、俺が勝手に好きでいればいい。
今抱えている問題が解決したあとでもこんなふうに、ただそばにいられたら。
そんなあわい願望が打ち砕かれたのは、そのすぐあとだった。
頭を悩ませて考えに考えた末決めた、あの曲のタイトルを彼女に伝えようとした日、スピカが花火大会に行くとXに投稿した。
焦るあまりまともな調査もせずに呼びだした俺を責めるでもなく、夜野は「どうせ来たんなら満喫しよ」となんてことないように笑った。彼女のこういう軽さにたびたび救われている。
満開に咲く花火をきちんと見たのはいつぶりだったか。覚えていないけれど、咲いては散っていく姿が、彼女から溢れる音たちに似ている気がした。
ふいにあの曲のタイトルが思い浮かんだ。
『未完の星』
彼女を蝕む激情から逃れるように歌い、俺を魅了したあの曲は、さらなる高みを渇望しているようにも感じたからこう名づけた。夜野はこのタイトルをどう思うだろうか。
花火が終わり、夜野にタイトルを伝えようとしたとき、スマートフォンが震えた。スピカがXに投稿したのだ。目の前が真っ暗になった。なんで、なんで今なんだよ。
見て見ぬふりをしてやりたかったが、奴の素顔を特定するのは彼女の本懐。
すぐに情報を共有し、スピカを見つけた瞬間芽生えたのは、明確な殺意だった。視界が危険を知らせるような赤色に染まっていく。
あんな彼女とは比較にもならない奴が、ステラを貶し、夜野を精神的に追い詰めたのか。ふざけるな。二度と、二度と表舞台に出てこれないように――。
怒りに身を任せ、夜野の代わりにスピカの中身を撮影しようとした俺を止めたのは、あれほどヤツを憎んでいた夜野だった。
「月城、辞めよう」
意味がわからなかった。わからないくせに、理由をちゃんと聞きもせずに彼女に詰め寄っていた。急に梯子を外されたような気分だったのだ。
今まで夜野も俺と同じくらい、いやそれ以上の憎悪を抱いていたはずなのに、なんでそんな冷静でいられるんだよ。
ステラが、唯一の星が、穢されたのに!
俺の手を振り払い走り去る夜野は、もう俺を振り返らなかった。そのまま人波の中に紛れて、見失ってしまった。
その後何度電話しても出てくれず、ラインにも返信がなかった。それどころか既読すらつかない。
こういうことは前にもあった。でも前回とはわけが違う。
話を聞こうともしなかった俺に失望したのかもしれない。
謝るから。何回も何回も許しを乞うから。これからは彼女の言うことをなんでも聞くから。お願いだから。
また話したかった。
☽
夜野の顔すらまともに見れなくなってから数日が過ぎた。
もう夜野との関係修復はおろか、ステラの歌声すらも聴けなくなるのではと絶望していた最中。
ステラにとって初めての生配信が始まった。
自身の潔白を証明するために戦う彼女は、目がくらくらするほど眩しくて、泣きそうになった。
彼女は自身の道を選ぶ強さを持っている。
もしかしたら、俺のしたことに意味なんてなかったのかもしれない。
彼女は俺がいなくても、そのうちひとりで立ち向かえたのではないか。
それほどまでに今の彼女は月のひかりすら凌駕するほどの輝きを放っている。
輝きを放ったまま、終焉を迎える。
『徒花』
活動停止を宣言した彼女が最後に選んだ曲だった。
いつもより本格的なバラード。初めて聴く曲のはずなのに、なぜだか聴き覚えがあった。
ああ、そっか。
夜野が以前、俺の前で口ずさんでいたメロディと同じなんだ。
それだけで一緒に過ごした日々を思い出して切なくなった。
歌詞を聴き、あることに気づいたときは、息が止まるかと思った。
ステラはよく歌詞に二重の意味を持たせる。
今回は俺の勘違いかもしれないけれど、何度も繰り返される「枯」が「彼」と重ねられている気がする。そして、その彼って――。
〈一緒に嫌ってくれてありがとう〉
俺のことだと、烏滸がましくも確信してしまった。同時に、救われた気持ちにもなった。
よかった。
こんな俺でも夜野の助けになれてたんだ。
よかった。ほんとうによかった。
彼女がひとりで潰れなくて。
よかった。でも、お願いだから。
いなくならないでという精一杯のわがまま。
〈ううん、ステラはもうおしまいだよ〉
彼女はそんな、ひとの弱さに惑わされない強さを持っている。
〈以上、ステラでした〉
たくさんのきらめきを纏ったまま、ステラが、消失した。
☽
失っても日々は移ろいでいく。
ぽっかり空いた心の穴を残したまま。
☽
俺たちは高校3年生になった。
夜野とはクラスが離れ、すれ違う頻度も1年生の頃より減った。委員会も以前とは違うところに入ったらしく、夜野と俺を繋ぐ接点はもうない。それを意識するたびに胸が苦しくなる。
当然と言えば当然かもしれないけれど、ステラが消えてからも、夜野から連絡してくることはなかった。
彼女はほんとうに星のようなひとだった。
少しは近づけたと思ったのに掴めなくて。彼女の瞳にはいつだって白い星が宿っていた。
それがまっすぐ俺を照らしているようだった。
でももう、そのひかりは俺に注がれない。
中学1年生の冬から繰り返し聴いていたステラの曲ももう聴けない。
日々、それらを痛感させられる。
周りの話題は受験一色となり、ステラが消えてからちょうど一年が経とうとしていた。
学校にいても息抜きできる時間なんてほとんどなくて、タブレットと参考書に向き合っているせいで目も首も痛い。
不安からか、夜の眠りも浅い。
高校受験のときはどうしてたっけ。ああそうだ、ステラの曲を聴いてたんだと思い出し、勝手に虚しくなった。今の俺はまるで抜け殻みたいだ。
灰色の空に折りたたみ傘持ってくればよかったとうんざりしながら下駄箱を開いたとき。
あるものが上段に入れられていた。膨らみのある茶封筒だった。
他の人に見られないように辺りを確認してからそれを取り出し、中身を覗いた。
なにも書かれていないCDに、折りたたまれたノートの切れ端が添えられていた。手紙だろうか。拙い手つきでそれを開く。そこには走り書きでこう綴られていた。
どうしてもってときに聴いて 夜野
――夜、野……。
久々に見た彼女の字と名前。
手紙を額にあて、そっと息を吐く。
夢じゃない。ほんとうに、夜野から送られたものだ。
誰が通るかわからない下駄箱にいるというのに、この場に泣き崩れてしまいそうだった。
今すぐにでもCDになにが焼かれているか知りたかったけれど、夜野がどうしてもってときにと念を押しているから、勉強を終え寝る前に再生した。
CDに収録されていたのは一曲だけだった。
『欠けた月』
なぜこの曲を選択したのか。相変わらず彼女の意図を正確に読み取るのは難しい。難しいけれど、頭で理解するよりも先に、するりと心に入ってきて。気づいたときには泣いていた。
この曲が投稿されたのは、俺がステラのファンであると本人に明かした日の晩。
あの頃はただ純粋にステラの曲に焦がれていた。
でも今は違う。
あの日から始まった夜野との日々がエンドロールのように流れてくる。
俺は夜野を思い浮かべずにステラの曲を聴くことができなくなってしまった。彼女はそれを危惧していたというのに。
切実に元の俺に戻りたいと思った。でももう戻れない。夜野の望む俺にはなれない。
夜野のことを、好きになってしまったから。
近くにいたときは気づかなかったけれど、今ならはっきりとわかる。
ステラに抱いていたものとはまた違う。神聖なものを遠くから眺めたいという信仰にも似た感情ではなく、誰よりも近くにいたいという邪な感情。
それがわからなかったからステラへの思いが勝り、現実の辛さから逃げるように傾倒した。綯い交ぜになった好きに振り回され、歪んで、夜野に理想を押し付けた。夜野以上にステラを想っているひとなんているわけないのに。夜野なら俺と同じようにステラのためならなんだってするって信じていた。信じていたかった。弱かったから。弱かったからなにかに傾倒しないと立っていられなかった。正気じゃなかった。だから彼女を失った。
そのくせこの期に及んで、好きにならない方がよかったって思えない。好きになれてよかったって思ってる。
そして、これからもずっと好きだと思う。
時間は前にしか進まない。
彼女はもう、時間とともに歩き出した。
俺も過去に縋りついて立ち止まっているわけにはいかない。
なにがあっても自分を失わないひとはほんのひと握りだと思う。
だからこそ彼女は強かった。
その強さを、もっと近くで見ていたかった。
そばにいられるように、自分も強くなりたいと思った。



