体育館から漏れているのであろう歓声と、自分の鼓動が耳の奥で混ざる。心臓のドキドキが階段を駆け上がった末のそれ以上だから、なんとも心地悪い。

「おい、起きろ。パンツ見えるぞ」

お節介先生の第一声に、反射的に上体を起こす。

なぜこの人は、何事もなかったかのように平然と現れるのか。ほんとムカつく。

――あの時、不覚にもこの低音ボイスに安心してしまった。タイミングの悪い登場には、毎度イライラさせられていたはずなのに。

「さすが、リレー選抜だけあって足速いな」

腰を屈めた一糸先生が私の横に置いたのは、『ねぇよ』と一度跳ね除けられたカフェオレだった。

「……ありがとうございます」

見上げた拍子に目が合ってしまい、あの大きな手の感触と温もりが蘇る。一瞬にしてぶり返してきた顔の熱を悟られたくなくて、私は慌てて視線を下げた。

「さっき、何でいたんですか?」
「旧美術室の鍵、渡し忘れてたからお前を探してた」

隣に腰を下ろした一糸先生はタバコを咥えたが、火を点けもせず、ライターもろともタバコを口元から離した。

「声かけられる雰囲気じゃなかったから、暫く様子見てた。悪いな」

この人にとっては無意識かもしれないが、それは謝罪じゃない。私からしてみれば、ただの蛇足だ。

「あの場で泣かずに済んで助かりました。楓に見られる可能性もあったので」
「ああ、振り返って見てたぞ」
「嘘でしょ?」
「さあな」

一糸先生が勿体ぶるように微笑むので、またしても私は、その視線から逃れるために目を伏せた。

ライターの着火音がすると、風に乗っていつもの匂いが横切っていく。
一糸先生の手元から上がる白煙は、登ってゆくにつれて薄くなり、目に見えないものへと変わる。

「……変わらないものってあると思いますか?」
「どうだろうな」

肯定も否定もしない、ただただ平行線を辿るだけの質問返し。でもそれは、決して交わらない代わりに、限りなく寄り添ってくれているようにも感じる。

「風がない日って、ずっと同じカタチの雲もあるですかね?」
「……変わっていくのが怖いか?」

抽象的な表現で濁したつもりだったが、一糸先生の言葉は、全てを見透かした上での発言に聞こえた。そして、美術室では自制できたはずの想いも、この数十分足らずで、一糸先生の言葉に怯んでしまうほど大きなものになっていた。

「今日、思ってしまったんです。目が合っただけで動揺したり、他の子と仲良くしてる姿に泣きそうになったり。……そういう感情が、煩わしいって」

口に出してしまったことで、一度は飲み込んだセリフが現実味を帯びてくる。

「変化していくことが……怖い、です」

不透明な未来も、無限の可能性もキライだ。いくらでも嫌な想像ができてしまう。

「楓への想いは私の誇りだったのに。なのに、無かったことにしたくないのに……消えて欲しいって、思ってしまうんです。時間が経てば色褪せるなら、はやく、早く失くなれって……」

心の内を明かすと、完全に止まっていたはずの涙が、また込み上げてきた。

「必死に守ったモノなのに、邪魔なモノに思えてくるんです。消えたほうが楽になれるとか……全部がムダだったことになる」

何ひとつ無駄じゃない。楓との時間は一生もの。そう胸を張っていたかったのに、今はできない。

「そっか」