「私も。あっでも、できれば人目を避けたルートで」
「はいはい」

横断歩道を渡るとき以上に左右を警戒していると、一糸先生は時折、笑い声に似た息遣いを漏らす。
笑いたきゃ勝手に笑えばいい。だが、腹が減ったから購買に行こう、なんて言い出すのは言語道断だ。

「わざわざ人目を避けてきた意味がないです」
「それはお前の都合。時間的にもさぁ」
「お昼時だからこそ、ですよ!」

屋上のドアが目前に見えているのに、前を行く一糸先生との論争はなかなか収束しない。一糸先生は基本的に一本調子なので、背中越しだと、本気か冗談か判断がつかなくて困る。

「ああ、時間はちょうど良かったか」
「え?」

ドアを開けた瞬間の、不可解な発言。それが私に向けられたものではないと気づいたのは、一糸先生がドアの動きに合わせて左へ逸れたあとだった。

「芙由! よかった、来てくれたんだね」

――――は? えっ?

会わないうちにブルーテイストの髪色へと変わった、ポニーテール姿の幼馴染。知らぬ存ぜぬな素振りでタバコを咥える担任。何もかも、訳がわからない。

「芙由ごめん。ちゃんと話したくて、昨日、春先生に相談したんだ」

あ然と隣を見ると、ドアを支えていた一糸先生が顎をしゃくり、外へ出ろと促す。

「お前が焼き鳥屋でバイトしてるってのは、おっちゃんから聞いてたよ」

小声で補足した一糸先生は、完全にドアが閉まってからタバコへ火を点けた。

……なるほど。昨夜、一糸先生が焼き鳥屋へ来たことも、今日の手伝いも、何ならこの休憩も偶然じゃない、と。要するに私は、まんまと先生にはめられたわけだ。

全てを理解すると、あまりの茶番に笑いすら込み上げてくる。

いくら生徒(カンナ)から相談されたとはいっても、さすがにこれは介入し過ぎだろう。

騙された上に、こんなお膳立てまでされて――。モッさんには『ガキ』だと言われるだろうけど、この状況に素直に順応できるほど、私は大人じゃない。

感情に従って踵を返すが、悠々とタバコを吸っている大人がドアの前を陣取る。

「どいてくれませんか?」
「無理」

それはこっちのセリフだ。

「自分が何をしたか分かってます? 私はこんなこと頼んでません」
「わかってないのはお前。人が勇気振り絞ってんだぞ。一方的に背を向けるとか、そういう格好悪いことはすんな」

ただ真っ直ぐに、私を捕らえて離さない力強い眼差し。その瞳に頭の中まで見透かされている気がして、言葉が続かない。
一糸先生ともモッさんとも違う人。これも、一糸春が作り出したキャラの一つなのだろうか。

先生に腕を引かれて、カンナの前へ立つ。ピクリとも笑わないカンナは、目が合った瞬間、長いまつ毛を伏せながら顔を俯けた。

脳内で榎本カンナの“しんゆう”が告げる。
――――居心地が悪いのは私だけじゃない。

脳内で世話焼きな担任が諭す。
『貰った分は返したい、って思えるかどうかじゃないの?』

可能なら、今すぐにでも帰りたい。先生の力を借りてしまったこの現状も癪だ。でももっと厄介なのは、カンナと喧嘩した日に先生と交わした会話が、ずっと頭から離れないこと。

――そしてなにより、格好悪い“椎名芙由”は、私が許せない。

「カンナ、とりあえず座って話そう」