着いてからものの数秒で、小間使いとして働き出す。一糸先生が人を使うことに慣れているのは前回感じたが、私もバイトを始めた甲斐あって、人に使われ慣れてきたらしい。

「いとせんせぇ、ダンボールどこに運びますかー?」

解体された何枚ものダンボールを抱えたまま、玄関から一糸先生を呼ぶ。張り上げた声は、直線的な廊下を駆け抜けるように響いた。

「お前さぁ、朝から元気すぎ」

廊下の最奥、洗面室から気怠げに現れた一糸先生が眉を掻く。
スウェット姿なのはひとまず置いておくとして、メガネにモサモサヘアだと、あの日のモッさんそのものだ。

「ダンボールはこっち」

覇気のない指示に応じて、丸まった背中を追う。

ダンボールを作業部屋に立て掛けると、会話らしい会話もなく、先日のリビング?へと促された。

「ちょっとシャワー浴びてくる」

…………。ぽつんと取り残されてしまい、一糸先生がテーブルに置いていったカフェオレのグラスを見下ろす。
何とも解せない状況だが、ソファに座って待つ以外、やることもない。

氷たっぷりのグラスに注がれたカフェオレは、前回と同じく、一口目からハチミツの優しい甘さがした。9時と指定した本人がこの有り様なのは癇に障るが、このカフェオレ1杯でプラマイゼロ……マイナスイチ程度には許せてしまう。

頭にタオルを被ったまま一糸先生が戻ってきたのは、カフェオレが半分まで減ったころのこと。Tシャツにジーンズ姿の一糸先生を見て、今朝の自分を密かに褒めた。

「今日は何するんですか?」
「要らない画材とかを学校に運ぶ。使える物は授業で使おうと思って」

――――がっこう。

「私、私服で来ちゃったんですけど」
「大丈夫だろ、教室棟には(●●●●●)行かないし」

自身のコーヒーを用意した一糸先生が、ワシャワシャと髪を拭きながらコの字ソファの中央へ腰を下ろす。

偶然……だろうか。私服で来た、としか言っていないのに、カンナと鉢合わせる不安まで見透かされている気がする。

思えば、これが初めてじゃない。一糸先生は深く追求しない一方で、私の考えを察している節がある。それこそ、あえて濁している部分の、その理由まで。

私が葛藤しているなんて知る(よし)もない一糸先生は、タオルを脱ぎ捨ててタバコへ火を点けた。

さきほどよりシャキッとしてはいるが、未だにモッさんのまま。黒髪から首筋へと垂れる水滴に目を奪われても、一瞬色気を感じた後には、笑いが込み上げてしまう。

一糸先生のこんなに冴えない姿は、きっと誰も想像すらしない。

「なに?」

変貌ぶりを観察していると、不意に目が合ってしまい、一糸先生が顔を歪ませた。

「あっ、私は何をすればいいのかなぁって」
「これ吸ってからな」

その言葉通り、一糸先生はタバコを消すと同時に、テキパキと指示を出し始める。
優秀な司令塔と従順な小間使いが揃ったことで、気づけば、2時間ほどで荷造りは終了した。



「んじゃ、一旦休憩したら移動な。飲み物のおかわりは?」
「大丈夫です、まだ残ってるんで」
「ぬるいだろ。淹れ直すから待ってろ」

冷房が効いている部屋で作業していたので、さして暑くはない。でも、一糸先生の細やかな気遣いを受け流すには、のどごし爽やかなほうが幾分かマシだった。