「そーいえば兄ちゃんがさ、クラス替えは3年の時だけって言ってたよ!」

人気のない校舎の階段に、カンナの陽気な声が響く。

「えっ、じゃあ」
「そう! 修学旅行とかも一緒だよ!」

各学年9クラスあるなかで、私とカンナは同じ1年2組だった。この話が本当なら、高校生活は出だし上々。こんなに嬉しいことはない。

……本当の話なら。

「カンナ、からかわれてないよね?」

同高の3年に知人がいるのは何かと心強い。でもそれがカンナの兄、成弥(ナルミ)くんなら話は少し変わってくる。

イケメンな先輩っている?と訊けば、『俺以上にモテる生徒なんていない』と返し、さっき家に来てたのは彼女?と訊けば、『俺の師匠』と返す。とにかく、一筋縄ではいかないタイプの人だ。

「ないない! それにほら、イケメン先生も挨拶のとき言ってたじゃん。『2年間(●●●)担任します』って!」

確かに、と頷きながら教室のドアに手を掛ける。が、開かない。

「カンナよかったね、確実に1ば――」

1番乗りだよ、と言いかけた口を閉じる。カンナのすぐ後ろ――声が届くであろう距離に、いつの間にか例のイケメン先生がいた。

「おはようございます、早いですね」
「おはよーございまーす。先生こそ早くないですかー?」
「今日はプリントが多いので、皆が来る前に多少配っておこうと思いまして」

2人の会話に紛れ、私も小さく挨拶を返す。

カンナの『イケメン先生』と呼ぶ声が聞こえていたはずなのに、素知らぬ顔で鍵を開ける先生の態度。さて、どう解釈するか。

「先生、プリント大量にあんの?」
「そうですね、両手が塞がる程度には。一旦鍵を開けに来たくらいなので」
「じゃあウチらも手伝おーか? ね、芙由」

――――はい?

まってまって、その笑顔はなに? うちら? ね、芙由?

教室へ入るやいなや、カンナはバッグを机へ放り出し、再びこちらを見た。

「芙由どーする?」
「……待ってる」
「だってさ! 先生いこっ!」

ひらひらと手を振って2人を見送ると、自分の席へ腰を下ろしながら、ふぅーっと大げさにため息を吐く。

肩に掛からない程度の、柔らかいウェーブがかかった黒髪。長身が映えるタイトなカジュアルスーツ。カンナいわく、『ガチのイケメンだよ! 切り捨てた女は数知れずだよ!』らしいけど、私にはそういう意味での興味はない。


――入学式の日、先生(あの人)は姿勢よく教壇に立つと、切れ長な目で私達を見据えてから自己紹介を始めた。

『2年間担任をします、漢数字の一に糸と書いて“いと”といいます』

全クラスメイトが注目するなか、黒板に綴られていく達筆な文字。一糸春。

『いち、いと、はると書いて、“いと あずま”です。簡単な漢字ばかりですが、読み的にはちょっと面倒な名前だったりします。何と呼んで貰っても構いませんが、正式名称だけは覚えておいて下さい』

初日に得た情報はこの名前と、担当が選択芸術の美術だということ。それから、去年は講師として勤務していたらしく、クラス担任は初めて。しかも、急遽穴埋めとして抜擢された代打、らしい。

『クラスを持つのは大学での実習以来です。正直凄く緊張していますが、僕も精一杯やりますので、何か不備があれば遠慮なく言って下さい。2年間、よろしくお願いします』