「別に。からかった晴士への仕返しだし、お前が気にすることじゃねぇよ」

あの日、アトリエで作業を続ける晴士さんを放って、一糸先生は焼き鳥屋の中へ消えた。私が知っているのはここまでだが、触れないほうがよかっただろうか?

「……からかわれたの、私ですけど」
「これ以上なにか訊きたいなら、まずはお前が答えろ。タバコの件について」

これ見よがしに、薄い唇の間から白いモヤが吐き出される。胡散臭い教師の仮面を剥がすのには成功したが、この流れは予期していなかった。

少しばかり、現実を見失っていた気がする。

一糸先生はあくまでもオトナ(●●●)で、先生(●●)だ。私の大事なモノを、くだらないと切り捨てた人だ。どれだけ対等に扱ってくれていても、同じ目線で物事を捉えてくれるわけじゃない。

「……じゃあいい加減、本題に入ってくれませんか」

じんわりと沸き上がってきた苛立ちが、フェンスを握る手に伝っていく、
先生が空を仰ぐと、フェンスが軋み、握ったままの左手が微かに引っ張られた。

「本題はこれ」

ストライプシャツの胸ポケットから出てきたのは、ヨレた2つ折りのメモ用紙だった。中身は、携帯番号とメールアドレス、SNSのID。そして右下に【晴士】の文字も――。

「どういう事ですか」
「渡せって言われた」

意味がわからない。

「連絡くれってことですか?」
「好きにすれば」

端的なやり取りを繰り返していた横顔が、一拍おいて吐息を漏らす。

「それと、これ」

またもや先生は、次はタバコの外装フィルムからメモ紙を引き抜いた。さきほどよりもピンと真新しく、書かれている携帯番号もメールアドレスも違う。

「もし晴士に連絡するなら、先にこっちに報告入れて」

つまり、この走り書きは先生の連絡先らしい。

「晴士は悪い奴じゃないし善悪も弁えてるけど、まあ念のため」

言い終えると、先生は残り短いタバコを口へ運んだ。相変わらずの無表情だが、一応は心配してくれているのだろうか。

「たぶん、一生(●●)連絡しないと思いますけど」
「どうだろうな」

鼻で笑いながら、先生がタバコを携帯灰皿に押し込む。

「あ。それ、プライベート用だからバラすなよ」
「……私に教えていいんですか?」
「一応担任だし、子守りする義理があんだろ。じゃ、お疲れ」

片手を上げて去っていく先生を、今度は私が一笑してやった。

フワフワと風に揺れる暗髪と、スマートな後ろ姿。いつだか私を庇うように立ちはだかった広い背中が、いまは似て非なるものに見える。

――――なにが子守りだ。

屋上(ここ)に来てよかった。教師とは親しくなれないと、改めて実感できた。
隠したい一面を知っているのはお互い様なのだから、要はプラマイゼロ。一糸先生らしく、そして椎名芙由らしく在るには、互いに干渉しなければいいだけ。

私は家へ帰ると、貰った2枚の紙を自室のキャビネットに封印した。

これで全て元通り。

実際、夏休みまでの約1ヵ月の間に、この日の出来事は頭の片隅で薄らいでいった。