先生は何の説明もせずいなくなるし、わけがわからない。……けど。

帰り支度中だったカンナに声をかけて、教室を出る。
自分勝手な誘いなんて無視すればいい。先生が本当に、自分勝手な人なら。


『アトリエにあった青い絵、途中って話でしたけど、何をイメージして描いてるんですか?』

――あの帰り道、私はもう一つだけ質問した。

夜道を並んで歩きながら、先生が一瞬こちらを見た気配がした。

『それ答えただろ。まだ構想中だから、自分でも何をどう描きたいのかハッキリしてない。強いて言えば、人の中にある何か。あると分かってるけど、見えないからわからない何か』

想定外な反応に、私は首を傾げた。

『構想中って……あれ、答えだったんですか……?』
『は? 質問されたんだから、答え以外に返すもんなんて無いだろ』

私もその通りだと思う。でも、大人達は必ずしもそうじゃない。

あの日、先生は全ての質問に真っ直ぐな答えをくれた。2度目の質問に呆れはしても、なに一つ有耶無耶にはされなかった。
だから、一糸先生が人目を避けてまで呼び出すのなら、私は旧校舎へ行く。

この程度なら、素直に応じても惜しくはない。



毎日のように開閉している、屋上への重い鉄扉。これは、どれだけ慎重に押し開けてもギーッと鈍く唸る。こちらの都合なんてお構いなしだ。

「椎名さん。呼び出してすみません」

至る所から聞こえる喧騒のなかで、一人分の声だけが輪郭を保ったまま耳に触れる。つまりは、ほんとに2人きりということ。

フェンスに背を預けていた一糸先生の横に並ぶと、私は黙って景色を眺めた。

「……雨降らないまま7月になりそうですね」
「そうですね」
「期末が終わればあっという間に夏休みですし、文化祭の準備も始まりますねぇ」

一糸先生はタバコも吸わず、よそよそしい世間話を続ける。
まさかただの暇潰し……なワケないだろうけど。まあ、とりあえずは流れに乗る。

「私達のクラス、お客さんが殺到しそうですね」
「殺到、しますか?」
「だって陽平と先生、体育祭の後から人気急上昇みたいですし」

ひと月ほど前に終わった体育祭で、青組は惜しくも総合2位だったが、ラストの組対抗リレーでは多くの生徒達を湧かせた。
3人ごぼう抜きを披露した陽平と、上位接戦を単独首位へと変えた一糸先生。ついでに、アンカーとして1位を守りきった成弥くん。この3人の名前は、今でも様々な場面で耳にする。

だから本来ならば、こんな形で2人きりにはなりたくない。

「先生、一つ訊いてもいいですか?」
「どーぞ」
「送り狼、ってなんですか?」

私からの質問に、彫刻のようだった横顔が歪んだ。

「……この前からさ、お前ばっかり質問して不公平じゃない?」

持ち前の眼力でチラリと威嚇した一糸先生が、ズボンの後ろポケットからタバコを取り出す。

実のところ、『送り狼』については既に調べた。だから今回は有耶無耶も許す。この建前だらけの空気を変えられれば十分。

「そういえば、あのあと晴士さん怒ってませんでした?」

笑いを堪えて話題を変えると、今度は目尻だけがピクッ、とよくわからない反応をした。