幻燈ショー ~苦いだけの恋じゃない~

先生はそこまで言うと、終わりを知らせるかのように、自分のマグカップを手に取った。

分かっている、次は私が真相を語る番なのだろう。

私は裏ボス達の企みを許してはいない。でも、責めるつもりもない。間違った方向に動いてしまっているが、彼女達の根源にあるのはきっと、陽平達に対する純粋な好意だ。

包み隠さず打ち明けたとして、先生は、彼女達のその気持ちまで一緒くたに否定しないだろうか?

――いや、答えは考えるまでもない。

「嘘をついたのは謝ります、すみませんでした。でも、私から話せる事はなにもありません」

私が楓とのことで泣いてしまったときに、モッさんは『くだらない』と一蹴した。どうせ彼女達の悪事も、『しょうもない理由で』と片付けられるに決まっている。

この人に、何かを期待するだけ無駄。

裏ボス達が咎められれば清々するだろうけど、もしやり返すとしても、他人の力に頼る気はない。

「今回のことを(おおやけ)にしないでくれたのは本当に感謝してます。ありがとうございました」

私が頭を下げると、視界の隅でタバコが灰皿へと押し付けられた。

先生にも何か思うところがあるのだろう。私が姿勢を戻しても、先生は煙が立たなくなった吸い殻を弄り続け、自分の手元から視線を外そうとしない。

「ふぅ――」

先生がようやく顔を上げた瞬間――突然、唯一のドアが勢いよく開き、ストッパーとぶつかった衝撃で大きな音を立てた。

「カギ開いてたから勝手にきたよーっ! てか電話出てよ!」

いきなりの訪問客に茫然としながらも、先生の顔色をうかがう。目が据わっている表情から察するに、どうやら彼は、先生にとっても想定外なお客様らしい。

テンション高々に入って来たのは、紺色のスーツに身を包み、ウルフヘアをいちょう色に染めた若い男性だった。先生の凛々しさとは対照的な、その陽気さが残念に思えるほどの華やかさを纏っているひと。

ていうか、この人――――だれ?

「お前、遅れるんじゃなかったの」
「えーっと。……え? 彼女?」

いきなり現れた男性はピタリと足を止め、先生と私を交互に見た。

「つかもっと静かに入ってこいよ。ドア壊れたら弁償だからな」
「ちょっとイット! 彼女出来たとか聞いてないんだけど?」

――――イット?

「出来ても報告しないし、こいつは生徒」
「生徒に手ぇ出すくらいなら合コンに参加してよ!」
「無理、忙しい」

くっきりとした二重瞼の上に細く整えられた眉。筋が通った小さな鼻、シャープな輪郭。先生と大差ないスタイルの良さ。――外見的には先生と同等だが、中身は180度違うらしい。

「え、ちょっと待って。生徒連れ込んで何してんの。“一糸春”はどこいったのさ?」
「こいつには本性バレてるから。今は個人面談中」
「……バレた? てか、個人面談って響きがヤラシイんだけど」

相関図すら理解できていない私を間に置いたまま、温度差のある応酬は途切れることなく続いていく。
一方は仁王立ちで果敢に攻め、もう一方はソファからふてぶてしく応戦し、もう訳がわからない。

「それより晴士、いま何時?」
「えっとねー……19時12分」
たった一言二言の会話で、2人の付き合いの長さがみえた気がした。

あらぬ疑いを聞き流す先生も、さらりと腕時計の時刻を読み上げたこの人も、“それで問題ない”関係なのだろう。状況が掴めないなりに、私だけが部外者なのはひしひしと伝わってくる。

「晴士、伝票書き交替な。お前は梱包手伝え」
「え? 私ですか?」

やはりというべきか、この指示にも晴士という人は素直に応じた。

なんで私まで。そう尋ねても無駄に思えて、仕方なく私も先生を追って部屋を出た。



――――あ。

先生が別室のドアを開けた瞬間、わずかに漂ってきた独特な香り。それだけで、この先にある光景がわかる。

広々とした空間のあちこちに置かれたキャンバスや画材。額入りで飾られている絵、壁に立て掛けられているだけの絵、イーゼルに乗せられた絵。中には描きかけの作品もあり、これこそ私が想像していたザ・アトリエだった。

何気なく辺りを見回し、壁フックに吊るされていた絵へ歩み寄る。

A3用紙よりひと回りほど大きなキャンバス全体を使って、黒から鮮やかな青へ、そして淡い青から白へと色の移り変わりが描かれた絵画。言ってしまえば『ただのグラデーション』なのだが、私には異様に美しく見えた。

「何に見える?」

解体されたダンボールの束を抱えた先生が、隣に並ぶ。

「海、宇宙。……涙」
「へぇ、涙ね。そんなに悲しい印象受ける?」
「悲しいというか、綺麗です」
「綺麗な涙ってなに?」

なに?と訊かれても、そこまで考えていないし、わからない。

何かにつけて大人は、一挙手一投足にまで明確な理由を求めてくる。そもそも答えがない場合だってあるはずなのに。

「この絵、本当は何ですか?」
「構想中。まだ途中だから」

私達が曖昧に答えると突っ込むくせに、自分達は有耶無耶に濁す。大人の典型だ。

結局は一糸先生も他の大人と同じ。分かってはいたものの、改めて突きつけられたせいか、ついため息が漏れてしまった。

さっさと帰りたい。でもそうできないのは、見上げた先生の黒髪がまだ湿っているから。視線を落とすと、先生のジャージを着た自分が目に入るから。

これ以上の借りはゴメンなので、先生の指示を仰ぎながらダンボールの組み立てに専念する。

3つ目のダンボールを手にした時、この部屋でもまた、大きな音を立ててドアが開いた。

「独りは寂しいから来ちゃった!」
「伝票は?」
「持ってきた!」

自慢気に紙の束を掲げた晴士という人が、入り口横にあった丸椅子を私達の側まで運んでくる。どうやらテーブル代わりらしい。

「ねーねー、イットの本性を知ってどう思った?」

体を寄せながら囁かれた声は、明らかに先生を警戒していた。『イット』というのも、たぶん先生のことだろうけど……。

答えを求めて当人へ視線を流すと、さっきまで黙々と梱包材を詰めていたはずの先生は、再び部屋中を忙しなく動き回っていた。

――――あの人をどう思うか。

ぼんやりと頭に浮かんだのは、学校の廊下で生徒に囲まれている姿だった。そのスマートな佇まいが、夜の公園で気だるげにタバコを吸うモッさんへと切り替わる。
「そもそも好きじゃなかったですし、本性を知ったところで変わりません」
「え、好きじゃないの? じゃあ何でイットの服でここに居るの?」
「成り行きです」

身を乗り出すような距離感の詰め方に()されて、少しばかり肩を引く。

「ホントのこと話していいよ? 口の堅さは保証するから。あ、俺は晴士ね。晴士くんって呼んで」
「……本当もなにも、ただの先生と生徒です」

ぐいぐいと迫ってくる晴士さんに対し、組み立て中のダンボールを持ったまま更に後ずさる。

「じゃあさ、俺が彼氏に立候補しても問題ないよね? 名前は?」
「……椎名芙由です」
「芙由ちゃんみたいな綺麗系好みだし、俺は年齢差も気にしないよ?」

距離を取るために私が立ち上がると、晴士さんも立ち上がり、目線を合わせる。
私が一歩退けば、晴士さんが一歩踏み出す。

「誰かさんみたく捻くれてもないしさ。どう? イットより優良物件でしょ」
「えっと――――ッ!」

私の二歩目。それには想定外な力が加わり、勢いでよろけそうになった。

「晴士、こいつは許可できない」

晴士さんの姿が消えた白一色の視界で、知った声がキッパリと拒絶を告げる。状況が掴めず一瞬混乱したが、眼の前にあったのは白いシャツ、というか一糸先生の背中だった。

「なんでイットが出てくんの?」
「こいつの担任だから」
「俺には生徒とか関係ないじゃん」
「だめ」

相変わらず温度差のある会話は、キャッチボールというよりバッティング練習だ。へらりと挑発的に尋ねる声を、低音ボイスが淡々と打ち返す。
話題の中心は私のままだが、代打として前に立ってくれた先生が少し頼もしい。

「イットの彼女じゃないなら、俺が口説いても問題ないでしょ」
「そういう話じゃねぇだろ。そもそもガキだぞ?」
「可愛いじゃん! ていうか本人の意思を尊重しなきゃ。イットは邪魔だから、はい、どいてー」

半ば強引に一糸先生の身体が横へ除けられ、回避する間もなく、奇妙なトライアングルが完成してしまった。

苛立ちがチラつく冷徹な瞳の一糸先生と、面白いおもちゃを見つけたかのように瞳を輝かせている晴士さん。……このタイミングで私に全てを委ねるなんて、解せない。

「…………」
「ふぅ」
「あっ、ごめんなさい」

無難な回答を探していたのに、一糸先生の一声で反射的に頭を下げていた。

溜めに溜めた挙げ句、なんという語彙力のなさ。それもこれも、こんな場面で先生があだ名の件を持ち出してきたせいだ。一糸先生は卑怯だ。

「あははッ! 冗談だよ。ちょっと、からかいたくなっただけ。ゴメンね!」

顔を上げると、晴士さんが鼻先で手のひらを合わせる。

「晴士、お前のせいで時間ロスした。こいつ送って来るから」
「はーい! 芙由ちゃん、送り狼に気をつけて。またね」

――――送り狼?

聞き慣れない言葉は心で唱えるだけに留め、尋ねるのはやめた。現在進行系で不機嫌そうな一糸先生は、“さわるな危険”だ。



焼き鳥屋『オオカワ』までは徒歩も車も大差ない、ということで、帰りは街灯が灯る路地を2人並んで歩く。

雨は既に上がっていたが、進行方向から流れてくる夜風は少しばかり肌寒かった。



入学式が終わり、息つく間もなく催された宿泊研修の最終日。生徒達が全員帰路に着くと同時に、教師陣の顔が一斉に緩んだ。

「春先生も慰労会行きますよね」
「すみません、週末は予定が入ってまして。朝が早いので今回は遠慮しておきます」

適当な言い訳を並べ、今日最後の作り笑いを桜井先生へ返す。
サービス残業なんて冗談じゃない。

荷物を車へ放り込むと、まずは一服。肺の奥深くまで浸透していくスモークを2度堪能してから、エンジンをかけて走り出す。

ガキ共と過ごす2泊3日は地獄も同然だったが、個人的な収穫はあった。

椎名芙由はおそらく、例の女の子と同一人物だ。こちらを一切信用していない態度からして、ほぼ間違いない。

その一方で、椎名芙由はこちらに気づいていない可能性が高い。警戒しているわりには焼き鳥屋の話題は出ないので、表面上、普通に接していれば今後もバレないだろう。

ただ、今回の宿泊研修では新たな問題も発生した。

早くも精神的問題児っぷりを発揮しはじめた、椎名芙由。
本人が詳しく話したがらない以上、いくら追求しても無意味なのは分かっている。それでも、なかった事にはできない。

――――気に食わねぇ。

消化不良な感情を持て余したままアトリエへ着くと、駐車スペースの一角に見覚えのある車が停まっていた。

「いつから待ってた?」
「さっきだよ。今日帰るって言ってたから、土産話を聞きに来た」

近づいてきた晴士が、両手に持った半透明のビニール袋を掲げる。ずっしりと中身が詰まっているそれは、たぶん、ビールとつまみだろう。


「で? 女子高生とあまーい体験はしましたか?」

部屋へ入りお互いがソファの定位置に沈むと、さっそく晴士からの詮索が始まった。

「例の生徒、やっぱ同一人物っぽい」
「うわっまじで!? まぁ、とりあえず乾杯」

ビール缶を突き出す晴士に、同じ仕草を返す。
喉の奥へと一気に流し込んだそれは、冷え具合がやや物足りなかった。それでも、思わず笑みが零れるほどに美味い。

晴士が『さっき来た』と言えるような奴だからこそ、今があるのだろう。

「悪い晴士、ちょっと場所移動する」
「えっ、いきなりどしたの?」
「しばらく筆握ってないから、描きながら話そう」

作業部屋へ移ると、まずは隅に寄せていたテーブルと椅子を持ち出し、簡易的な宴席を作る。

「で、もしかしてイットの本性がバレたの?」
「いやバレてない。でも、ちょっと厄介」

幾度となく同じ状況を経験してきた晴士を相手に、今更指示なんて必要ない。会話を続けながらも、テーブルセッティングは滞りなく進んでゆく。

「厄介ってさ、“一糸先生にとって”ってこと?」
「そう。ある先生のタバコが紛失したんだけど、例の子が持ってたんだよ」

呑みの席が完成したら、次は作業スペースだ。

テーブルから少し離れた場所にイーゼルを設置すると、隣に丸椅子を2つ並べ、その上にパレットと溶き油を置く。これで準備完了。

一息つくためにテーブル側の椅子へ腰を下ろし、もう一度晴士と缶ビールをかち合わせる。

「それで? 失くなったタバコ、その女の子が()ったってこと?」
「簡潔に説明すると、先生のタバコが失くなった。ある生徒達が、トイレでタバコの匂いがするって報告してきた。荷物検査をする直前で例の子が、自分が持ってると言い出した。って感じ」
改めて振り返ってみても、やはり辻褄が合わない。晴士も何かしら違和感を覚えたのか、大事そうに両手で握っていた缶ビールを手放し、頬杖へ切り替えた。

「単なる不良少女ではないんだよね?」
「たぶん椎名は吸ってない」

数秒の沈黙ののち、晴士がいつぶりかのため息を吐く。

付き合いが長いと、その分だけ共通する記憶も多い。
きっと晴士は、高校時代の一片を顧みているのだろう。とはいえ自分達が高校1年のときに遭遇したのは、もっとシンプルな不良の違反行為だったが。

「……椎名ちゃんねぇ」

ぽつりと呟いた晴士を一瞥してから、テーブルの端に置いていたタバコへ手を伸ばす。一口目を吐き出した瞬間に目が合ったが、晴士は小さく微笑んだだけだった。

「俺が感じた矛盾は一つなんだけど、答え合わせする?」
「事前告知、だろ」
「さっすがぁ!」

生徒から密告があった場合、荷物検査の事前説明はまずない。今回も、トイレでタバコの匂いがする、と報告が入ったことは椎名には伝えていない。
だがアイツは、荷物検査という言葉を聞いただけで、『自分が持ってる』と言い出した。

「でもさ、それだけじゃ吸ってた可能性を否定できないよね。罪悪感があったから、荷物検査とタバコが直結しただけかもよ?」

確かに、深夜のロビーで対面するまでは、可能性はまだゼロじゃなかった。

晴士への説明では端折ったが、矛盾点は他にもある。

タバコを所持している背景は主に2つ。自分で持ち込んだか、もしくは、先生のタバコを拾ったか盗ったか。

椎名は最初、『私のです』としか言わなかった。だが『沢村先生に返しておく』とカマをかけたら、納得していた。つまりは、『私のです』という言葉は、“誰の私物か”を指しているわけじゃない。

「先生のタバコが行方不明なのは椎名も知ってた。いくらでも嘘がつける状況で、でも、『自分のだ』って言い張ったんだよ。そんなんさ、全て解った上で『誰かを庇ってます』って言ってるようなもんだろ」

納得したと言わんばかりに晴士が頷いたので、残りの言い分はビールで流し込む。

アイツはタバコの香りに興味を示さない。
――何年もの間、上手く隠せているつもりのお前と違って。

「何で正直に話さないのかな?」
「わからん」

晴士に関しては口を出せる立場じゃないのでいい。いま考えるべきは、椎名芙由についてだ。
残り短かったタバコを灰皿へ押し付けると、キャンバスの前へと移る。

「話さない理由に心当たりは?」
「なくはない」

まずは黒。

「その子は誰かを庇ってるんだよね」
「相手は察しがつくけど、そいつもタバコ吸うとは思えない」

そして青。

「下手したら停学でしょ。今どき喫煙で箔が付くわけでもないだろうに、やってない罪を被るかなー?」
「そこなんだよ、問題は」

最後も黒。……いや、白? 塗り直しを想定するなら、白がラクか。

「理由がわかんねぇから面倒くさい」

キャンバス全体に色を伸ばし終えると、晴士の向かい側へと戻る。

「イットが関心を示す子、ね。お気にちゃんだね!」
「違うだろ」
「確かその子、綺麗系って話だったよね。会いたいなー」
「一生会うことはないだろうな」
鼻で笑い飛ばせるほどのくだらない戯れ言。そう思っていたのに、『一生』が覆されるまであまり時間はかからなかった。


――晴士と椎名芙由が顔を合わせてしまったのは、奇しくも正体がバレた日。



「ちょっと! 送るとしても遅すぎじゃない? 梱包まで全部一人で終わったんだけど」
「ああ、悪い」

椎名芙由を途中まで送った後、焼き鳥屋で一息ついてアトリエへと戻ると、晴士は休憩室で既にビール缶を2本空けていた。

「まさか本当に送りオオカミ」
「違う。つかお前、なんであんな来るの早かったの?」
「だからさぁ、間に合いそうだよ、って電話入れたんですけどー。出なかったのはそっちじゃん!」

手土産として包んで貰った焼き鳥をキッチンに置き、ソファへ腰掛けるよりも先にタバコへ火を点ける。

「……あの赤ずきんちゃんが例の子でしょ」

確かにアイツの頭は赤いが、童話の主人公みたいな初々しさはない。ついでに、狼に襲われてもいない。

「ガードが硬そうだね。元彼でも引きずってるパターンかな」
「お前のそれ、わざとだろ」

笑いながら腰を上げた晴士は、冷蔵庫から2本の缶ビールを持って戻って来た。電話の件とイタズラと、これで手打ちってことで、乾杯してからビールを開ける。

「にしても、イットがあんな庇い方するとはね」
「人のことからかって、さぞ楽しかっただろうな」
「イットがあからさまに嫌そうな顔するから、ついね」

何がつい、だ。

「まぁあれはやりすぎだったかな、ごめんね。――てことで、次はイットの番」
「は? 電話に気づかなかったから謝れって?」
「違うでしょ! 服に匂いが染み付いてるよ!」
「ああ。シンクのとこに土産置いてる」

晴士は不満げに鼻を鳴らすと、手近にあった紙とペンを取り、スマホを弄りだした。

「これ、芙由ちゃんに渡しといて」

一度折り畳まれた紙を、また開く。そこに書かれていたのは、晴士の連絡先だった。

「なんで」
「口実は何でもいいよ。俺が仲良くなれたら、芙由ちゃんが秘めてるものを引き出せるかもよ? イットよりも適任だと思わない?」

晴士の意見は、たぶん正しい。

少し距離が縮まったと思っても態度は変わらないし、椎名芙由には絶対的なラインがあるようだった。アイツの扱い方が分かるなら、頭を悩ます必要もなくなる。

「余計なちょっかい出さないって保証は?」
「俺がイットの敵に回ったことある?」

悪い話……では、ないか。

「渡すだけ、だからな」



衣替えの移行期間が終了し、梅雨真っ只中。なんでも今年は空梅雨らしく、登下校だけでじんわりと汗ばむ日もある。
とはいえ、冷暖房が完備されている教室だと、窓際の席は日差しが心地いい。

――ただ、問題が一つ。
ふとした時に視界へ入ってくる空模様だけは、どうしても好きになれない。

既に夏空と呼べそうな青と、掴めそうなくらいの質量を感じる白。このコントラストを見ると、否が応でも一糸先生の絵を思い出してしまう。


『晴士が悪かったな』

一糸先生がそう呟いたのは、あの日の帰り道。街灯に照らされた一本道を歩きながら、隣にあった先生の顔を盗み見たときのこと。


「あの……訊いてもいいですか?」
「なに」
「環境に応じて変化できる、ってどういう意味ですか? 焼き鳥屋では『とあちゃん』だったのに、何で晴士さんは『イット』なんですか?」
「質問多いな」

面倒くさそうにこちらを見下ろした先生は、いきなり私の肩を押し、ここ左――と進路変更を促す。

私達の会話は、まるで独り言を言い合っているようだった。少しの沈黙で夜道に解け消えて、やはりこの質問も有耶無耶にされるのか、と思った。

「人付き合いとかそういうの。周りの環境によって、一番ラクなキャラクターってあるだろ」

半歩ほど前を歩いていた先生が、角を曲がった先の自販機で立ち止まる。

「お前が知ってる一糸先生も、親しまれやすさを考慮した上でのキャラって感じ。とりあえず上手くいってるし、本性バラすのだけはやめて。あ、これ、飲む用じゃなくて暖とる用な」

先生から差し出されたのは、モッさんが買ってくれたカフェオレと同じだった。

「あとは何だっけ? あだ名?」
「あっ、はい」
「えーっと、元々が『イット』で、高校に入ってから『とあちゃん』になった。簡単に言うと、『とあちゃん』も都合のいいキャラってやつだよ」

淡々と話す先生にならい、一旦止めた足を再び踏み出す。両手で缶コーヒーを握りしめると、指先から熱が伝い、足取りまでわずかに軽くなる。

「……いくつもあだ名あるんですね」
「羨ましいか?」
「そういう意味じゃないです」
「あっそ。素直じゃねぇな」

嫌味ったらしく口角を上げる先生を見て、思わず顔を背けていた。

「お前が愛嬌ってのを覚えたらまた呼んでやるよ」

先生の余計な一言で、その『また』が頭の中で繰り返される。
ある意味、晴士さんの冗談よりタチが悪い。いまこの人はモッさんなのか、一糸先生なのか。それともイットか、とあちゃんか。

――結局この奇妙なシチュエーションは、見知った公園を素通りし、いつかと同じ道を辿り、焼き鳥屋まで続いた。


「では、終礼は以上です。あっ椎名さん、ちょっといいですか?」

名前を呼ばれて教壇へ目を向けると、一糸先生がにっこりと微笑んだ。
既に本性を知っている身としては、もうため息すら出ない。

生徒達が続々と帰っていくなか、渋々教卓を挟んで立った私に、先生は教師然とした態度を貫く。

「この後、いつもの場所で待ってます」

――――は?

いつもの場所って、旧校舎の屋上? なんで? 放課後にわざわざ? カンナがいたらマズイ話?
先生は何の説明もせずいなくなるし、わけがわからない。……けど。

帰り支度中だったカンナに声をかけて、教室を出る。
自分勝手な誘いなんて無視すればいい。先生が本当に、自分勝手な人なら。


『アトリエにあった青い絵、途中って話でしたけど、何をイメージして描いてるんですか?』

――あの帰り道、私はもう一つだけ質問した。

夜道を並んで歩きながら、先生が一瞬こちらを見た気配がした。

『それ答えただろ。まだ構想中だから、自分でも何をどう描きたいのかハッキリしてない。強いて言えば、人の中にある何か。あると分かってるけど、見えないからわからない何か』

想定外な反応に、私は首を傾げた。

『構想中って……あれ、答えだったんですか……?』
『は? 質問されたんだから、答え以外に返すもんなんて無いだろ』

私もその通りだと思う。でも、大人達は必ずしもそうじゃない。

あの日、先生は全ての質問に真っ直ぐな答えをくれた。2度目の質問に呆れはしても、なに一つ有耶無耶にはされなかった。
だから、一糸先生が人目を避けてまで呼び出すのなら、私は旧校舎へ行く。

この程度なら、素直に応じても惜しくはない。



毎日のように開閉している、屋上への重い鉄扉。これは、どれだけ慎重に押し開けてもギーッと鈍く唸る。こちらの都合なんてお構いなしだ。

「椎名さん。呼び出してすみません」

至る所から聞こえる喧騒のなかで、一人分の声だけが輪郭を保ったまま耳に触れる。つまりは、ほんとに2人きりということ。

フェンスに背を預けていた一糸先生の横に並ぶと、私は黙って景色を眺めた。

「……雨降らないまま7月になりそうですね」
「そうですね」
「期末が終わればあっという間に夏休みですし、文化祭の準備も始まりますねぇ」

一糸先生はタバコも吸わず、よそよそしい世間話を続ける。
まさかただの暇潰し……なワケないだろうけど。まあ、とりあえずは流れに乗る。

「私達のクラス、お客さんが殺到しそうですね」
「殺到、しますか?」
「だって陽平と先生、体育祭の後から人気急上昇みたいですし」

ひと月ほど前に終わった体育祭で、青組は惜しくも総合2位だったが、ラストの組対抗リレーでは多くの生徒達を湧かせた。
3人ごぼう抜きを披露した陽平と、上位接戦を単独首位へと変えた一糸先生。ついでに、アンカーとして1位を守りきった成弥くん。この3人の名前は、今でも様々な場面で耳にする。

だから本来ならば、こんな形で2人きりにはなりたくない。

「先生、一つ訊いてもいいですか?」
「どーぞ」
「送り狼、ってなんですか?」

私からの質問に、彫刻のようだった横顔が歪んだ。

「……この前からさ、お前ばっかり質問して不公平じゃない?」

持ち前の眼力でチラリと威嚇した一糸先生が、ズボンの後ろポケットからタバコを取り出す。

実のところ、『送り狼』については既に調べた。だから今回は有耶無耶も許す。この建前だらけの空気を変えられれば十分。

「そういえば、あのあと晴士さん怒ってませんでした?」

笑いを堪えて話題を変えると、今度は目尻だけがピクッ、とよくわからない反応をした。
「別に。からかった晴士への仕返しだし、お前が気にすることじゃねぇよ」

あの日、アトリエで作業を続ける晴士さんを放って、一糸先生は焼き鳥屋の中へ消えた。私が知っているのはここまでだが、触れないほうがよかっただろうか?

「……からかわれたの、私ですけど」
「これ以上なにか訊きたいなら、まずはお前が答えろ。タバコの件について」

これ見よがしに、薄い唇の間から白いモヤが吐き出される。胡散臭い教師の仮面を剥がすのには成功したが、この流れは予期していなかった。

少しばかり、現実を見失っていた気がする。

一糸先生はあくまでもオトナ(●●●)で、先生(●●)だ。私の大事なモノを、くだらないと切り捨てた人だ。どれだけ対等に扱ってくれていても、同じ目線で物事を捉えてくれるわけじゃない。

「……じゃあいい加減、本題に入ってくれませんか」

じんわりと沸き上がってきた苛立ちが、フェンスを握る手に伝っていく、
先生が空を仰ぐと、フェンスが軋み、握ったままの左手が微かに引っ張られた。

「本題はこれ」

ストライプシャツの胸ポケットから出てきたのは、ヨレた2つ折りのメモ用紙だった。中身は、携帯番号とメールアドレス、SNSのID。そして右下に【晴士】の文字も――。

「どういう事ですか」
「渡せって言われた」

意味がわからない。

「連絡くれってことですか?」
「好きにすれば」

端的なやり取りを繰り返していた横顔が、一拍おいて吐息を漏らす。

「それと、これ」

またもや先生は、次はタバコの外装フィルムからメモ紙を引き抜いた。さきほどよりもピンと真新しく、書かれている携帯番号もメールアドレスも違う。

「もし晴士に連絡するなら、先にこっちに報告入れて」

つまり、この走り書きは先生の連絡先らしい。

「晴士は悪い奴じゃないし善悪も弁えてるけど、まあ念のため」

言い終えると、先生は残り短いタバコを口へ運んだ。相変わらずの無表情だが、一応は心配してくれているのだろうか。

「たぶん、一生(●●)連絡しないと思いますけど」
「どうだろうな」

鼻で笑いながら、先生がタバコを携帯灰皿に押し込む。

「あ。それ、プライベート用だからバラすなよ」
「……私に教えていいんですか?」
「一応担任だし、子守りする義理があんだろ。じゃ、お疲れ」

片手を上げて去っていく先生を、今度は私が一笑してやった。

フワフワと風に揺れる暗髪と、スマートな後ろ姿。いつだか私を庇うように立ちはだかった広い背中が、いまは似て非なるものに見える。

――――なにが子守りだ。

屋上(ここ)に来てよかった。教師とは親しくなれないと、改めて実感できた。
隠したい一面を知っているのはお互い様なのだから、要はプラマイゼロ。一糸先生らしく、そして椎名芙由らしく在るには、互いに干渉しなければいいだけ。

私は家へ帰ると、貰った2枚の紙を自室のキャビネットに封印した。

これで全て元通り。

実際、夏休みまでの約1ヵ月の間に、この日の出来事は頭の片隅で薄らいでいった。