「これ。着替えたら、廊下出て左前の部屋な」
灰色のセットアップジャージを押し付けてきた先生は、謝罪の言葉もなしに、また洗面室を出ていく。
――――はあ?
いやいやいや。普通、声かけと同時にドアを開けるだろうか? 私が既に下着だったらどうする? 今のは、女性に対する気遣いがあってもいい場面だ。
先生を蔑みながらネクタイに手を掛け、ふと、吐き捨てるように『ガキ』と連呼していたモッさんを思い出した。
自分の幼さは自覚している。だから頑張っているんだ。いつも、いつも――。
着替えを済ませると、濡れた制服を抱えて指定された部屋へと向かう。借りておいてなんだが、シャツもジャージもぶかぶかで動きづらい。
「あの……服ありがとうございます」
ドアの隙間から覗き込むように様子を伺い、次の一歩を少し躊躇った。
リビングと呼ぶには殺風景な、でも事務所にしては生活感が濃いような空間。その中で先生は、中央に置かれたコの字型ソファへ腰掛け、テーブルに何枚もの書類を広げていた。
「これ、洗って返しますんで」
「ああ。あとそれ、飲んでいいよ」
先生がクイッと顎でそれを示し、同じデザインのマグカップを傾ける。
遠慮がちにソファの端で飲んだマグカップからは、優しい甘さと温かさが流れ込んできた。
「このカフェオレ、先生が淹れてくれたんですよね?」
「そうだけど」
「何か入れてます?」
書類と睨み合っていた先生が、そのままの顔でこちらを見る。
「あっ、変な意味じゃなくて!」
「ハチミツ」
素っ気なく返事をした先生は立ち上がり、ドア横に並んだキャビネットを漁りはじめた。なにやら忙しそうな姿に私はしばらく押し黙っていたが、先生は目もくれず配送用伝票の束を机に置いた。
「……何でハチミツ?」
「なんとなく。砂糖より温まりそうだから」
……そんな効果ないよ。
舌の上まできていた言葉をカフェオレとともに流し込み、丁寧に綴られてく文字を意味もなく追う。
気まずいというより、いまは心の置きどころがわからない。だから私は、脱ぎ捨てられたジャケットから先生がタバコを出すまで、その整った文字を眺め続けた。
「いる?」
「は? タバコを? 要るわけないです」
「だよな」
フッと鼻で笑った先生が、瞬時に表情を戻してタバコを咥える。白煙を吐こうと軽く開いた口元を見て、私はようやく自分の浅はかさに気づいた。
「……宿泊研修のとき、なんで私を疑わなかったんですか」
「やっと話す気になったか?」
先生の質問には答えず、その挑発的な顔を真っ直ぐに見つめ返す。
今日は終始、先生のペースに飲まれっぱなしだ。一々動揺を表に出していたら、足元をすくわれかねない。
「日頃からタバコ吸ってる奴ってさ、他人が吸ってるの見たら欲しくなるんだよ」
静かに話し始めた先生は、ため息なのか深呼吸なのか、耳に届くほどの大きな吐息と一緒に煙を舞い上がらせる。
「公園での一件も含めて、お前の前では何度もタバコ吸ってる。これまで一切関心を示さなかったのに疑う必要ないだろ」
「…………」
「あのときは単に、タバコを持ってた“経緯”より、それを話さない“理由”が気になっただけ」
灰色のセットアップジャージを押し付けてきた先生は、謝罪の言葉もなしに、また洗面室を出ていく。
――――はあ?
いやいやいや。普通、声かけと同時にドアを開けるだろうか? 私が既に下着だったらどうする? 今のは、女性に対する気遣いがあってもいい場面だ。
先生を蔑みながらネクタイに手を掛け、ふと、吐き捨てるように『ガキ』と連呼していたモッさんを思い出した。
自分の幼さは自覚している。だから頑張っているんだ。いつも、いつも――。
着替えを済ませると、濡れた制服を抱えて指定された部屋へと向かう。借りておいてなんだが、シャツもジャージもぶかぶかで動きづらい。
「あの……服ありがとうございます」
ドアの隙間から覗き込むように様子を伺い、次の一歩を少し躊躇った。
リビングと呼ぶには殺風景な、でも事務所にしては生活感が濃いような空間。その中で先生は、中央に置かれたコの字型ソファへ腰掛け、テーブルに何枚もの書類を広げていた。
「これ、洗って返しますんで」
「ああ。あとそれ、飲んでいいよ」
先生がクイッと顎でそれを示し、同じデザインのマグカップを傾ける。
遠慮がちにソファの端で飲んだマグカップからは、優しい甘さと温かさが流れ込んできた。
「このカフェオレ、先生が淹れてくれたんですよね?」
「そうだけど」
「何か入れてます?」
書類と睨み合っていた先生が、そのままの顔でこちらを見る。
「あっ、変な意味じゃなくて!」
「ハチミツ」
素っ気なく返事をした先生は立ち上がり、ドア横に並んだキャビネットを漁りはじめた。なにやら忙しそうな姿に私はしばらく押し黙っていたが、先生は目もくれず配送用伝票の束を机に置いた。
「……何でハチミツ?」
「なんとなく。砂糖より温まりそうだから」
……そんな効果ないよ。
舌の上まできていた言葉をカフェオレとともに流し込み、丁寧に綴られてく文字を意味もなく追う。
気まずいというより、いまは心の置きどころがわからない。だから私は、脱ぎ捨てられたジャケットから先生がタバコを出すまで、その整った文字を眺め続けた。
「いる?」
「は? タバコを? 要るわけないです」
「だよな」
フッと鼻で笑った先生が、瞬時に表情を戻してタバコを咥える。白煙を吐こうと軽く開いた口元を見て、私はようやく自分の浅はかさに気づいた。
「……宿泊研修のとき、なんで私を疑わなかったんですか」
「やっと話す気になったか?」
先生の質問には答えず、その挑発的な顔を真っ直ぐに見つめ返す。
今日は終始、先生のペースに飲まれっぱなしだ。一々動揺を表に出していたら、足元をすくわれかねない。
「日頃からタバコ吸ってる奴ってさ、他人が吸ってるの見たら欲しくなるんだよ」
静かに話し始めた先生は、ため息なのか深呼吸なのか、耳に届くほどの大きな吐息と一緒に煙を舞い上がらせる。
「公園での一件も含めて、お前の前では何度もタバコ吸ってる。これまで一切関心を示さなかったのに疑う必要ないだろ」
「…………」
「あのときは単に、タバコを持ってた“経緯”より、それを話さない“理由”が気になっただけ」