「……先生は気づいてたんですか? 私のこと」
「ああ。『フユ』って呼び名しか知らなかったし、確信はなかったけど」

分かってしまえば、全てが一変する。口調も横顔も、無言のうちに流れる空気も。

「態度、学校とはだいぶ違いますね」
「まぁ商業用って感じ。――僕は、環境に応じて変化できますからね」

先生の口元が緩やかに弧を描くと、一拍の間でモッさんと一糸先生が切り替わる。
2人きりの空間は宿泊研修での一件以来だが、あの時よりも気まずい。

「そういえば、先生は『とあちゃん』って呼ばれてましたよね?」
「いとあ(●●)ずま、だしな」
「……いいですね」
「え、なにが?」

先生の言葉を、自分の中でも復唱する。いくら話題を途切れさせたくないとはいえ、私は何を言っているのか。

「あー、えっと。私あだ名とかないから、そういうの羨ましいなぁって」
「付けようと思えばいくらでもあるだろ。椎名の『しいちゃん』とか、芙由の『ふうちゃん』とか」
「どっちも他にいました」

真っ直ぐ正面を向いていた顔が、ちらりとこちらを見る。

「どうしてもって言うなら、『ふぅ』って呼んでやろうか」

予期せぬ発言にギョッとして、口から何かが出そうになった。
その切り返しはなに? からかわれてる? 先生の目的がわからない。

「……別にいいです。そういうキャラでもないですから」

あだ名を羨ましいと思っていたのは事実。でも求めてはいないし、この人にあだ名で呼ばれるなんて、全っ然嬉しくない。

「お前さ、ほんと可愛くないよな」

翻弄されてたまるか。

「先生こそ。私からの信頼はゼロになったと思ってください」
「よく言うわ。そもそも信用してなかったくせに」

ごもっとも過ぎて、返す言葉もない……。

私は端から一糸先生を信じていないし、それは正体が判明したところで覆らない。なのに私はこの人の車に乗っていて、あらぬ方向に話が逸れた挙げ句、取り繕う余地がないほどに見透かされている。

――――もう、ほんとにサイアク。

「お前震えてない? もう着くけど暖房入れる?」
「えっ、あっ、いえ。大丈夫です」
「あっそ」

気の抜けた言葉尻に合わせて先生の腕がスッと伸び、時期外れのエアコンが唸り出す。私は、不覚にも絆されそうになった感情を正すために、窓の外へと視線を移した。

最初は缶コーヒーとハンカチ。次はのど飴で、今回はタオル。

街灯に反射して光る雨粒を眺めながら、頭に浮かんだモノを一つずつ掻き消す。

先生の『もう着くけど』という言葉通り、キラキラと流れていた景色は5分もせずに止まった。

「お前もとりあえず中入れ」

先生に続いて車を降り、横付けされた建物を眺める。アトリエと言うからオシャレな工房を想像していたが、実際は無骨というか無機質というか、ただのコンクリート造りの平屋だった。

促されるまま廊下の1番奥の部屋へと入ると、先生は収納棚から黒のロングTシャツとバスタオルを手渡して出ていった。
言うまでもなくここは洗面室なわけで、要するに、着替えろってこと?

「はぁ……」

腑に落ちない状況にため息を吐きつつ、ブレザーを脱ぐ。が、「開けるぞー」という声と同時に、視界の隅にあったドアが開いた。