私がいきなり大声を上げたせいか、先生は瞬時にこちらへ顔を向けた。
目に被っているモッサリした黒髪。間違いない。今の状態にメガネを掛けたら、あの日見たモッさんの完成だ。
「―――とせんせぇ」
呆気に取られていたのも束の間、ふいに、放心状態だった私を呼び戻す野太い声が聞こえてきた。
「あーっと確か、椎名だったよな? 一糸先生見てないか?」
学年主任の沢村先生が私の名前を覚えていたのは意外だったが、それはまあいいとして。
返事をしない一糸先生へ、チラリと視線を送る。
先生はなぜか靴箱の陰にしゃがみ込み、身を潜めていた。おまけに、眉間にシワを寄せながら、しかめっ面で首を横に振る始末。
「……知りません」
「そっか、引き止めて悪かったな。傘がないなら事務室に貸出用があるから、早く帰れよ」
「はい、有難うございます」
沢村先生の足音が遠のいていくと、未だタオルを被ったまま屈んでいる一糸先生を見下ろす。
「なんで隠れるんですか?」
「え? ……まぁ、なんとなくですよ」
先生が頭上のタオルを首に掛け直したことで、モサモサヘアが再び露になった。ドクン、ドクン、と少しずつ緊張が高まっていく。
「あの、先生……」
「はい?」
「焼き鳥屋……えっと、カフェオレを2本、女の子に奢った記憶ってありますか?」
居た堪れない数秒間の沈黙ののち、先生は静かに立ち上がった。
「この後は帰るだけだろ? 庇って貰ったし送ってやる。職員駐車場、奥の方に停まってる赤い車だから」
意味がわからず、2回3回と目を瞬く。
いや、言っていることは分かる。でも理解が追いつかない。
「あ、後ろは荷物あるから助手席な。他の先生に見られたくないから警戒しろよ」
一方的に話を終えると、一糸先生は車のキーを渡してどこかへと消えていった。
質問の答えは聞けていないが、あの口調と態度の変貌ぶりが十分にその役割を果たしている。一糸先生は間違いなく、卒業パーティーの日に会った“モッさん”だ。
――――やばい。最悪だ。
赤い車を見つけて助手席へ乗り込むと、体を丸めてこれまでの言動を振り返る。
まさか、最も見られたくない姿を披露してしまった相手が、担任だったなんて。こんな結果を誰が予想できる?
確かにあの日は、顔なんて大して見ていなかった。焼き鳥屋にいる“おひとりさま”ってだけで、オジサン認定した。でもこれは詐欺レベルだ。
ひと目でモッさんと一糸先生が結びつく人間なんて、絶対にいない。
というか、なんで言われるがまま車に乗っちゃうかな。私のバカ――。
頭を抱えてみても、散らかった思考が整理されるわけもなく。一糸先生が運転席に乗り込んできたことで、私は全てを放棄した。
「悪い。いま電話あって、ちょっとアトリエ寄るけど大丈夫か?」
一糸先生が少しでも動くと、エアリー感を失った黒髪から雫が落ちる。
この土砂降りのなか、校舎と駐車場を往復か。……放っておけばいいのに。
「聞いてる? あの焼き鳥屋の近くなんだけど」
「あ、はい。体育祭の準備で遅くなるって連絡はしてるんで」
「んじゃシートベルトして」
今回ばかりは嫌味のひとつも浮かばず、黙って先生の指示に従う。
重く鈍い起動音を発した車は、雨音をBGMに、ゆっくりと動き出した。
目に被っているモッサリした黒髪。間違いない。今の状態にメガネを掛けたら、あの日見たモッさんの完成だ。
「―――とせんせぇ」
呆気に取られていたのも束の間、ふいに、放心状態だった私を呼び戻す野太い声が聞こえてきた。
「あーっと確か、椎名だったよな? 一糸先生見てないか?」
学年主任の沢村先生が私の名前を覚えていたのは意外だったが、それはまあいいとして。
返事をしない一糸先生へ、チラリと視線を送る。
先生はなぜか靴箱の陰にしゃがみ込み、身を潜めていた。おまけに、眉間にシワを寄せながら、しかめっ面で首を横に振る始末。
「……知りません」
「そっか、引き止めて悪かったな。傘がないなら事務室に貸出用があるから、早く帰れよ」
「はい、有難うございます」
沢村先生の足音が遠のいていくと、未だタオルを被ったまま屈んでいる一糸先生を見下ろす。
「なんで隠れるんですか?」
「え? ……まぁ、なんとなくですよ」
先生が頭上のタオルを首に掛け直したことで、モサモサヘアが再び露になった。ドクン、ドクン、と少しずつ緊張が高まっていく。
「あの、先生……」
「はい?」
「焼き鳥屋……えっと、カフェオレを2本、女の子に奢った記憶ってありますか?」
居た堪れない数秒間の沈黙ののち、先生は静かに立ち上がった。
「この後は帰るだけだろ? 庇って貰ったし送ってやる。職員駐車場、奥の方に停まってる赤い車だから」
意味がわからず、2回3回と目を瞬く。
いや、言っていることは分かる。でも理解が追いつかない。
「あ、後ろは荷物あるから助手席な。他の先生に見られたくないから警戒しろよ」
一方的に話を終えると、一糸先生は車のキーを渡してどこかへと消えていった。
質問の答えは聞けていないが、あの口調と態度の変貌ぶりが十分にその役割を果たしている。一糸先生は間違いなく、卒業パーティーの日に会った“モッさん”だ。
――――やばい。最悪だ。
赤い車を見つけて助手席へ乗り込むと、体を丸めてこれまでの言動を振り返る。
まさか、最も見られたくない姿を披露してしまった相手が、担任だったなんて。こんな結果を誰が予想できる?
確かにあの日は、顔なんて大して見ていなかった。焼き鳥屋にいる“おひとりさま”ってだけで、オジサン認定した。でもこれは詐欺レベルだ。
ひと目でモッさんと一糸先生が結びつく人間なんて、絶対にいない。
というか、なんで言われるがまま車に乗っちゃうかな。私のバカ――。
頭を抱えてみても、散らかった思考が整理されるわけもなく。一糸先生が運転席に乗り込んできたことで、私は全てを放棄した。
「悪い。いま電話あって、ちょっとアトリエ寄るけど大丈夫か?」
一糸先生が少しでも動くと、エアリー感を失った黒髪から雫が落ちる。
この土砂降りのなか、校舎と駐車場を往復か。……放っておけばいいのに。
「聞いてる? あの焼き鳥屋の近くなんだけど」
「あ、はい。体育祭の準備で遅くなるって連絡はしてるんで」
「んじゃシートベルトして」
今回ばかりは嫌味のひとつも浮かばず、黙って先生の指示に従う。
重く鈍い起動音を発した車は、雨音をBGMに、ゆっくりと動き出した。