「あっ、春先生! おつかれー」
「お疲れ様です。よかった、2人共いましたね」

ついでに。今日も今日とて、昼休みになると一糸先生は旧校舎の屋上へ現れる。

「今日の6限枠でリレーの練習をするらしいですよ」
「マジ? 確定?」
「はい。さきほど、榎本さんのお兄さんがお願いに来られました」

なんとも複雑だ。

高校生活初日の“偶然の遭遇”以降も先生はここでタバコを吸っているし、カンナは完全に懐いてしまったし。まるで宿泊研修での一件がなかったかのような日々は、平穏だけど複雑。

「春先生も練習に出るんだよね?」
「はい。できることなら、日陰から皆さんを応援してたいですけどね」
「……その練習って強制、ですか?」
「そうですね。逃げ道はありません」

カンナと私の質問に隙なく応えた先生は、ジャケットの内ポケットから出したタバコに火を点けた。

吐き出された煙を無意識のうちに追った先――淀んだ灰色の空を見て、『雨よ降れ』と心で唱える。

宿泊研修を終えた私達を待ち構えていたのは、ビッグイベントの一つである体育祭だった。学校行事に対する基本スタンスは“楽しむ”だし、体育祭もまあまあ好き。だが、今回ばかりは例外。

「ねぇカンナ、私達って間違いなく成弥くんに騙されたよね」

不満たっぷりに呟くと、カフェラテのストローを咥えたままカンナが視線を逸らす。

「……ナンモイエネェ」
「何の話ですか?」
「ウチの兄ちゃんがね、体力測定の50メートル走で勝った方に1000円やるって」
「…………。ああ、なるほど」

どうやら一糸先生は、簡略化されたカンナの説明でも全てを察せるらしい。話の冒頭だけで納得したように頷かれると、余計に惨めだ。


成弥くんが例の話を持ちかけてきたのは、宿泊研修が終わってすぐのこと。

私達が各学年の2組から成る『青組』であることと、青組の団長がカンナの兄『成弥くん』であることを知ったのは、一週間くらい前の話。

そして、組対抗リレーのメンバー選出に体力測定の結果が使われると知ったのは、つい先日だった。

「1000円返すからリレーやめたい」
「芙由はまだマシじゃん! ウチなんてタダでリレー走らされるんだよ」
「僕もです」

ストローを咥えていた人は頬を膨らませ、タバコを咥えていた人はそっぽを向く。もう、どいつもこいつも。

「カンナ、お兄ちゃんの為だと思って頑張って。あと先生も。給料貰ってるんだから頑張ってください」

捻り出した私からのエールに、2人は揃って空模様に似た表情を返す。これ以上、どうフォローしろというのか。

「てかさ、春先生は何でそんなにヘコんでんの? 走るの得意そうなのに」
「得意かどうか以前に、好きではないです」
「へぇ。でも芙由もだけどさ、背ェ高い人って足速い人多いよね?」

カンナが首を傾げると、先生はタバコの煙を吐きながら力なく微笑んだ。

美術教師なのだから、運動全般が苦手だったとしても不思議ではない。ただ、外見的にはちょっと笑える。

「じゃあ次の準備があるので、僕は先に戻りますね」
「春先生またねー」
「はい、また6限目に。自分達だけサボるのはナシですからね」

去り際の一言を放った時の先生は、しかとこちらを見据えていた。