宿泊棟へ戻りながら、立ち話していた生徒達を避けて窓の景色を眺める。
ふと、遊歩道脇に置かれた雨ざらしのベンチが目に入り、思わず足を止めてしまった。

錆びたベンチといえば、私にとっては、背中に真一文字の線が引かれた楓の白いユニフォームだ。慌てて洗ったが乾かす方法まで考えておらず、他校の校内を『ドライヤーありませんかー?』と必死に探し回ったことがある。

改めて思い返しても、自分達のアホさ加減を笑わずにはいられない。ほんとに、本当にかけがえのない時間だったのだと、今なら痛いほどわかる。

――ベンチだけじゃない。木々が風でざわめく姿も、清々しい青空も。私が見ている世界は、全て楓のカケラで出来ているとさえ感じる。


「椎名さん」

控えめな呼び声に振り返ると、待ち構えていたのは一糸先生だった。

「体調悪いって聞いたんですが、大丈夫ですか?」

先生がゆっくりと距離を詰め、近づいた分だけ私の防護壁が高くなる。

「……カンナから、ですか?」
「あ、いえ、昼食を結構残されていたので、榎本さん達に僕が尋ねたんです」

作り笑顔は得意だったはずなのに、こちらを見下ろす顔が真剣そのもので、私までつられてしまった。

僕が、と強調したのは、たぶん意図的だろう。カンナを悪者にしないように。

「午後の体験授業ですけど、うちのクラスは美術からなので1時間休んでもいいですよ?」
「え、でも」
「僕の授業ですからね、どうとでもなります。ただ、救護室に強制連行ですが」

凛とした瞳を見返す。この人の心の奥が微塵も読めない。

「……じゃあ、そうします」

先生の気遣いに便乗して思わぬラッキーを拾ったものの、いざ横になっても、頭から毛布を被ってみても、なかなか寝付けそうになかった。

普通、いち生徒をここまで気にかけるだろうか。相手は担任なので当然といえば当然だけど、でも、カンナの純粋な優しさとは違う気がする。

――先生の気遣いは、素直に受け入れきれない。

考えても時間のムダ。でもすっぱりと割り切れない。気づけば貴重な1時間が終わっていたが、ため息一つで諦めがつくくらいに、私には大きな問題だった。



「ふーゆー!」

救護室を出てすぐにカンナの声が聞こえてきて、ほっと胸を撫で下ろす。
よかった、迷わずに済んだ。……一糸先生も一緒なのは全く嬉しくないけど。

「ねぇ芙由、ウチが描いた絵見る?」
「顔色は悪くないですね。椎名さん、次からは大丈夫そうですか?」
「そだ! もう大丈夫?」

好き勝手に話す2人から顔を逸し、笑いを堪える。

よくよく考えてみると、カンナが一人で救護室へ来られるわけがない。ここは先生に感謝すべきなのだろう。

「先生、授業すみませんでした。次から出ます」

しかと見据えた端整な顔は、微笑みながら頷いた。

「では、僕は養護の先生に挨拶してきますので」
「春先生バイバーイ!」

カンナの大きな腕振りに、先生の軽やかな黒髪がふわりと揺れる。

「春先生がね、芙由の様子を見に行きませんか?って誘ってくれたんだよ」

カンナの密やかな声が妙にくすぐったい。