――――順調に進めば1日。いや、グラッシまでやると2日か。

「ホイ」

晴士から受け取ったゴムで髪を一つに結うと、早速キャンバスに油絵具を伸ばしていく。

「教師の仕事って、あの美人ママから?」
「叔母さん、な。急に人員が必要になったんだと」
「それは断れないね」
「まぁ、本格的に恩返しだな」

背中越しに晴士との会話を続けながらも、思考と手は休まず動かす。

「……意外と向いてるかもよ、センセイ! いっそ本業にしたら?」
「冗談だろ」
「いや、本気で。あの“一糸春”なら、女の子にキャーキャー言われるっしょ。実際1年やってみてどう? やっぱ告白とかされる?」
「…………帰れ」

最も簡単な言葉で毒突くと、クツクツと悪趣味な息遣いが聞こえた。

晴士はいつも、機嫌を損ねると分かった上で冗談を重ねる。ほんとタチが悪い。

「んじゃ、大人しく帰りましょうかねー」

一頻(ひとしき)り笑った晴士が素直に応じたので、少々驚きながらも一旦筆を止める。

「いいなー。モテモテェ」
「…………」
「いいなぁ、モテモテー」

否、素直なんて表現は晴士とは無縁だ。
玄関までの数メートル。コイツは、何度同じことを口にすれば気が済むのだろうか。

「……お前以上にモテる奴をオレは知らないけど?」
「いや、五分五分でしょ。2S(ツーエス)なんだからさ」

晴士が自嘲ぎみに零した最後のセリフは、思いもよらないものだった。

「2Sって……久々聞いたわ」

ダブルスプリング――通称『2S』。
誰が言い出したかは知らないが、いつの間にか浸透していた2人を示す言葉。これを聞けば、自然と高校時代の記憶が蘇る。あまり思い出したくない黒歴史だ。

――――モテモテ、ね。

自身の過去も含め、高校生なんて自制心を持たないエゴイスト集団でしかない。好意を向けられたとて、ただただ面倒なだけ。実際この1年、絆されもしなかった。

作業部屋の定位置へ戻ると、くだらない思考を掻き消すように大きく息を吐く。

手を動かし始めさえすれば、意識は自ずと一点に集中した。



――――よし。

制作が一段落して壁掛け時計を見ると、時刻は6時を回っていた。

休憩室へ移動してコーヒーを入れながら、置きっぱなしだったスマホを確認する。画面に表示されたのは、晴士からの不在着信2件と【18:07】の文字。

「まじか」

たしか、昨日学校を出たのは17時ごろだった。時計を確認した時は朝の6時だと思ったが、どうやら短針は2周していたらしい。

「やっぱ遮光ブラインド外すかなぁ」

時間経過を認識した途端、疲れがどっと押し寄せてくる。
気怠さに対抗するだけの余力を持ち合わせていない今、やるべき事は一つだ。

コンタクトをゴミ箱に捨てて、洗面所で顔を洗う。のそりと頭を上げると、鏡に写った自分は、絵具で汚れたワイシャツを着ていた。

――――シャワー。いや、めんどくさいな。

脱いだシャツを洗濯カゴへ放り込み、髪を束ねていたゴムとメガネを交換して休憩室へと戻る。