「絶対にイヤ!」
さっきから梨央奈はかたくなに拒んでいる。
夕暮れの時刻になっても、春の空にはまだ青色が広がっている。雲が多いせいか、そろそろ顔を出していいはずの月はまだ姿を見せていない。
「だってまだ事件は解決してないよ。お願い、ジュースおごるから」
「事件なんてどうでもいい。『青い月の伝説』とかもどうでもいいの。あたし、幽霊とか信じてないんだって。あたしの常識を壊さないで!」
手をふりほどこうと必死な梨央奈。ここで逃げられてしまったら、ひとりで旧校舎に行かなくてはならない。
「ジュース二本おごるから」
「ムリ!」
「じゃあ、休みの日にランチおごるから」
ふいに逃れようとする力が消えた。ランチに心が動かされたみたいだ。梨央奈は渋々という表情になった。
「あの写真だけど……たしかに陸さんの顔だったんでしょう?」
「うん」
どう見ても旧校舎で会った陸さんで間違いない。
「海弥って人がウソをついてないなら、陸さんは幽霊ってことになるんだよね?」
「そうなるね」
自分でも信じられないままうなずく。まさか本当に幽霊だったなんて……。
「もう、しょうがないなあ……」
あきらめてくれたのだろう、梨央奈が肩で息をついたのでホッとして握っていた手を離した。
と、同時に梨央奈はダッシュで駆けていく。
「ごめん、やっぱりムリ!」
「梨央奈⁉」
ひどい。一緒に行ってくれると思ったのに、逃れるための作戦だったんだ。
見あげると空は濃い紫色に変わりつつある。東の空、雲の切れ間にやっと顔を出した月は、銀色に光っている。
陸さんには、青色の月が輝く日じゃないと会えないのだろう。誰に言われたわけでもないのにわかるのは、やっぱり私が使者だから?
とりあえず今日は帰ろう。歩き出そうとするそばで、誰かの視線を感じてふり向いた。
「よお」
ガラス戸にもたれて碧人が立っていた。
「え、碧人? いつから――」
言葉に急ブレーキをかけた。学校にいるときは話しかけてはいけないルールだ。
でも、碧人は「さっきから」と普通に答える。
「もめてる人がいるな、って思ったらまさかの実月だった。盗み聞きしたわけじゃなくて、ひどいようなら止めないと、って」
「ああ、うん。ちょっとね……」
碧人が歩きだしたので、少し遅れてついていく。碧人のクラスメイトに見られるかもしれないし。
碧人は歩幅を緩め、私の横に並んだ。
「実月の友だち、なんて名前だっけ?」
「梨央奈だよ。去年、何回か話したことあるじゃん」
「顔は覚えてるんだけどな」
首をひねる碧人。どうして校内なのに話してくれるのだろう?
「気になることがあるんだけどさ、実月の友だち、『青い月の伝説』って言ってなかった?」
碧人がそう尋ねてきた。
「……うん。昨日、青い月を見たの」
「え⁉」
校門の前で碧人が足を止めた。
「昨日、青い月が出てたのか? ぜんぜん知らなかった」
「出たって言っても、前に見たほど青くはなかったの。それでね、黒猫も見たし……」
「マジかよ……。じゃあ、誰かと手をつなげたってこと?」
そんなわけないじゃん。私に恋人がいないことを知ってるくせに。
ムッとする感情をなんとか抑えた。
「詳しく話したいけど、少しややこしくて……」
「えー、俺も行きたかった」
「連絡したかったけど、碧人、スマホないし」
去年の夏のケガ以降、碧人はスマホを解約してしまった。
「先輩とかからの慰めのメッセージが嫌だったんだよ。ああ、こんなことになるなら解約するんじゃなかった」
悔しそうに言ったあと、碧人が顔を近づけてきた。
「ちゃんと聞かせて。ていうか、なんでも話してほしい」
下校する生徒がいるのにもかかわらず、碧人が興奮したように言ってくる。
自分の興味があることなら、約束を破れるんだね。一度抑えたはずのムカムカがお腹のなかで沸々と温度をあげている。
碧人より先に校門を出たのは、『学校のなかでは話さない』という約束を守りたかったから。私なりの小さな正義だ。
マンションに着くまでの間、昨日から今日までのことを話した。碧人はなにか考えこむような顔で、最後まで黙って聞いてくれた。
街に本格的に夜がおりてきている。空は秒ごとに光を失くし、マンションまで続く街灯は、まるで空港の滑走路のよう。
もうすぐマンションのエントランスというところで、碧人が足を止めた。
「やっぱり伝説は本当のことだったんだ。ていうか、実月も前は『忘れた』なんて言ってたけど、ちゃんと覚えてたんだな」
「……あとで思い出しただけ」
「それでも覚えててくれたのがうれしい。あの日のこと、俺は一生――いや、死んでも忘れないだろうし」
「大げさだよ」
荒ぶる気持ちが少しずつ穏やかになっていく。私の大切な思い出を、碧人はそれ以上に大事にしてくれていたんだ。
あのとき、すぐに家に戻って碧人を呼んでくるべきだった。今さら反省しても遅いけれど。
「土日に行こう」
碧人が街灯の下で白い歯を見せて笑った。
「え?」
「もし土日の間に、青い月が出たら一緒に旧校舎に行こう」
碧人は自分の提案に自分でうなずいている。
「でも、土日はテニス部の練習があるでしょ」
「ないない」
また、ウソだ。少し浮上した気持ちが、音もなく沈んでいくのを感じた。
「ちゃんと部活に行かないと、スポーツ科にいられなくなるんじゃないの?」
「もう退部届、提出したから」
あっさりとそんなことを言う碧人が信じられない。まさか本当に退部するなんて思っていなかった。
「本当に辞めちゃったの? ひょっとして、ケガの後遺症がひどいの?」
「いや、ぜんぜん。前も言ったけど、ほかにやりたいことができたんだよ」
私が碧人のことを考える時間、彼はもうほかのことに目を向けている。
私の知らない世界へ羽ばたいていく。私のことなんて、偶然に会ったときに思い出すだけ。
ねえ、もし青い月を見たのが私じゃなく、碧人だけだったとしたらどうしたの? 私を呼んでくれたの?
「意味がわからない」
思わず本音が出てしまった。首をかしげる碧人に、抑えていた気持ちが爆発するように喉元にせりあがってくる。
「碧人はなんにも話してくれない。それなのに、私にはなんでも話せって言う。意味がわからないよ」
「ひょっとして、怒ってる?」
心外そうに碧人が眉をひそめ、それがさらに怒りを増長させる。
「『青い月の伝説』のことよりも、部活とか学科のほうが大事でしょ。なのに、相談もしてくれない、学校では話もできないじゃん」
碧人の顔を見たくなくて、強引に背を向けた。
「自分が興味あるときだけ話しかけてこないで」
この言葉をあとで死ぬほど後悔するだろう。何回も、何百回も、何千回も。
わかっていても、早くひとりになりたい。この場からいなくなりたい。
碧人を置いて走りだしても、うしろから声は聞こえなかった。
エントランスに飛びこむと、向こうから美代子さんが私を見つけて手をあげた。仕事帰りなのだろう、バッグを手にしている。
「実月ちゃんお帰りなさい。ちょうどよかった。お母さんに、パンフレットありがとうって伝えておいてくれる?」
「わかりました」
「それでね、パンフレットに書いてあったことなんだけど――」
まだ話したそうな美代子さんに「すみません」と言ってエレベーターのボタンを押した。
「ちょっと急用で……失礼します」
頭を下げてからエレベーターに乗りこんだ。
美代子さんはにこやかに帰っていく。ドアが閉まる前に、碧人がホールに飛びこんできたけれど、見なかったことにした。
エレベーターの浮遊感のなか、涙がやっとこぼれた。
悲しくなるとき、思い出すのは去年の二学期に言われた言葉。目を閉じても、あの日の出来事が勝手に再生されていく。
さっきから梨央奈はかたくなに拒んでいる。
夕暮れの時刻になっても、春の空にはまだ青色が広がっている。雲が多いせいか、そろそろ顔を出していいはずの月はまだ姿を見せていない。
「だってまだ事件は解決してないよ。お願い、ジュースおごるから」
「事件なんてどうでもいい。『青い月の伝説』とかもどうでもいいの。あたし、幽霊とか信じてないんだって。あたしの常識を壊さないで!」
手をふりほどこうと必死な梨央奈。ここで逃げられてしまったら、ひとりで旧校舎に行かなくてはならない。
「ジュース二本おごるから」
「ムリ!」
「じゃあ、休みの日にランチおごるから」
ふいに逃れようとする力が消えた。ランチに心が動かされたみたいだ。梨央奈は渋々という表情になった。
「あの写真だけど……たしかに陸さんの顔だったんでしょう?」
「うん」
どう見ても旧校舎で会った陸さんで間違いない。
「海弥って人がウソをついてないなら、陸さんは幽霊ってことになるんだよね?」
「そうなるね」
自分でも信じられないままうなずく。まさか本当に幽霊だったなんて……。
「もう、しょうがないなあ……」
あきらめてくれたのだろう、梨央奈が肩で息をついたのでホッとして握っていた手を離した。
と、同時に梨央奈はダッシュで駆けていく。
「ごめん、やっぱりムリ!」
「梨央奈⁉」
ひどい。一緒に行ってくれると思ったのに、逃れるための作戦だったんだ。
見あげると空は濃い紫色に変わりつつある。東の空、雲の切れ間にやっと顔を出した月は、銀色に光っている。
陸さんには、青色の月が輝く日じゃないと会えないのだろう。誰に言われたわけでもないのにわかるのは、やっぱり私が使者だから?
とりあえず今日は帰ろう。歩き出そうとするそばで、誰かの視線を感じてふり向いた。
「よお」
ガラス戸にもたれて碧人が立っていた。
「え、碧人? いつから――」
言葉に急ブレーキをかけた。学校にいるときは話しかけてはいけないルールだ。
でも、碧人は「さっきから」と普通に答える。
「もめてる人がいるな、って思ったらまさかの実月だった。盗み聞きしたわけじゃなくて、ひどいようなら止めないと、って」
「ああ、うん。ちょっとね……」
碧人が歩きだしたので、少し遅れてついていく。碧人のクラスメイトに見られるかもしれないし。
碧人は歩幅を緩め、私の横に並んだ。
「実月の友だち、なんて名前だっけ?」
「梨央奈だよ。去年、何回か話したことあるじゃん」
「顔は覚えてるんだけどな」
首をひねる碧人。どうして校内なのに話してくれるのだろう?
「気になることがあるんだけどさ、実月の友だち、『青い月の伝説』って言ってなかった?」
碧人がそう尋ねてきた。
「……うん。昨日、青い月を見たの」
「え⁉」
校門の前で碧人が足を止めた。
「昨日、青い月が出てたのか? ぜんぜん知らなかった」
「出たって言っても、前に見たほど青くはなかったの。それでね、黒猫も見たし……」
「マジかよ……。じゃあ、誰かと手をつなげたってこと?」
そんなわけないじゃん。私に恋人がいないことを知ってるくせに。
ムッとする感情をなんとか抑えた。
「詳しく話したいけど、少しややこしくて……」
「えー、俺も行きたかった」
「連絡したかったけど、碧人、スマホないし」
去年の夏のケガ以降、碧人はスマホを解約してしまった。
「先輩とかからの慰めのメッセージが嫌だったんだよ。ああ、こんなことになるなら解約するんじゃなかった」
悔しそうに言ったあと、碧人が顔を近づけてきた。
「ちゃんと聞かせて。ていうか、なんでも話してほしい」
下校する生徒がいるのにもかかわらず、碧人が興奮したように言ってくる。
自分の興味があることなら、約束を破れるんだね。一度抑えたはずのムカムカがお腹のなかで沸々と温度をあげている。
碧人より先に校門を出たのは、『学校のなかでは話さない』という約束を守りたかったから。私なりの小さな正義だ。
マンションに着くまでの間、昨日から今日までのことを話した。碧人はなにか考えこむような顔で、最後まで黙って聞いてくれた。
街に本格的に夜がおりてきている。空は秒ごとに光を失くし、マンションまで続く街灯は、まるで空港の滑走路のよう。
もうすぐマンションのエントランスというところで、碧人が足を止めた。
「やっぱり伝説は本当のことだったんだ。ていうか、実月も前は『忘れた』なんて言ってたけど、ちゃんと覚えてたんだな」
「……あとで思い出しただけ」
「それでも覚えててくれたのがうれしい。あの日のこと、俺は一生――いや、死んでも忘れないだろうし」
「大げさだよ」
荒ぶる気持ちが少しずつ穏やかになっていく。私の大切な思い出を、碧人はそれ以上に大事にしてくれていたんだ。
あのとき、すぐに家に戻って碧人を呼んでくるべきだった。今さら反省しても遅いけれど。
「土日に行こう」
碧人が街灯の下で白い歯を見せて笑った。
「え?」
「もし土日の間に、青い月が出たら一緒に旧校舎に行こう」
碧人は自分の提案に自分でうなずいている。
「でも、土日はテニス部の練習があるでしょ」
「ないない」
また、ウソだ。少し浮上した気持ちが、音もなく沈んでいくのを感じた。
「ちゃんと部活に行かないと、スポーツ科にいられなくなるんじゃないの?」
「もう退部届、提出したから」
あっさりとそんなことを言う碧人が信じられない。まさか本当に退部するなんて思っていなかった。
「本当に辞めちゃったの? ひょっとして、ケガの後遺症がひどいの?」
「いや、ぜんぜん。前も言ったけど、ほかにやりたいことができたんだよ」
私が碧人のことを考える時間、彼はもうほかのことに目を向けている。
私の知らない世界へ羽ばたいていく。私のことなんて、偶然に会ったときに思い出すだけ。
ねえ、もし青い月を見たのが私じゃなく、碧人だけだったとしたらどうしたの? 私を呼んでくれたの?
「意味がわからない」
思わず本音が出てしまった。首をかしげる碧人に、抑えていた気持ちが爆発するように喉元にせりあがってくる。
「碧人はなんにも話してくれない。それなのに、私にはなんでも話せって言う。意味がわからないよ」
「ひょっとして、怒ってる?」
心外そうに碧人が眉をひそめ、それがさらに怒りを増長させる。
「『青い月の伝説』のことよりも、部活とか学科のほうが大事でしょ。なのに、相談もしてくれない、学校では話もできないじゃん」
碧人の顔を見たくなくて、強引に背を向けた。
「自分が興味あるときだけ話しかけてこないで」
この言葉をあとで死ぬほど後悔するだろう。何回も、何百回も、何千回も。
わかっていても、早くひとりになりたい。この場からいなくなりたい。
碧人を置いて走りだしても、うしろから声は聞こえなかった。
エントランスに飛びこむと、向こうから美代子さんが私を見つけて手をあげた。仕事帰りなのだろう、バッグを手にしている。
「実月ちゃんお帰りなさい。ちょうどよかった。お母さんに、パンフレットありがとうって伝えておいてくれる?」
「わかりました」
「それでね、パンフレットに書いてあったことなんだけど――」
まだ話したそうな美代子さんに「すみません」と言ってエレベーターのボタンを押した。
「ちょっと急用で……失礼します」
頭を下げてからエレベーターに乗りこんだ。
美代子さんはにこやかに帰っていく。ドアが閉まる前に、碧人がホールに飛びこんできたけれど、見なかったことにした。
エレベーターの浮遊感のなか、涙がやっとこぼれた。
悲しくなるとき、思い出すのは去年の二学期に言われた言葉。目を閉じても、あの日の出来事が勝手に再生されていく。