真夏の空に、レモン型の月が見える。

青色の空に負け、今にも消えてしまいそうなほど薄い光をにじませている。

夏休み中でも、登校するときは制服を着なくてはならない。

「これじゃあ、帰りにどこにも寄れないじゃん」

旧校舎と新校舎の間にあるベンチに座る梨央奈は、さっきから不満を並べている。

「そう言いながら、前はファミレスに行きましたよね?」

横に座る瞳が葉菜に同意を求めた。

「プリも撮りにいったし、カラオケにも行ったよね」

ニコニコと答える葉菜は最近髪を切った。肩までの髪が、通り抜ける風に泳いでいる。

「クーポンの期限が近かったからしょうがないじゃん。それに、新しい実月ともっと遊びたかったんだもん」

「実月は前からずっと実月ですけど?」

瞳のツッコミに、梨央奈はぶうと頬をふくらませた。

「たしかにそうだけどさー」

三人の前に立つ私に、視線が向けられた。どの顔も穏やかで、これまで見たことのないスッキリした笑みを浮かべている。私にとっても、新しい梨央奈であり新しい瞳、新しい葉菜だ。

碧人に想いを伝えたあの日から、世界は輝いている。晴れた日だけじゃなく、曇りや雨の日、夜に包まれた風景ですら宝物のようにキラキラと輝いている。

碧人が、友だちが、そして幽霊たちが教えてくれたことなんだね。

「たくさん迷惑をかけてごめんね」

「それはもういいって。ちっとも迷惑じゃ……いや、少しは大変だったけどさ」

肩をすくめる梨央奈に、瞳が口元に笑みを浮かべた。

「私は霊感があることに感謝しました。実月の見えている世界を共有できたから」

「私も」とやさしく葉菜も笑う。

「実月がいなかったら、今の毎日はなかった。だから、本当にありがとう」

首を横にふってから旧校舎に目を向ける。

「同じだよ。私だってみんながいなかったら、現実に向き合えないままだったと思う」

去年、碧人が亡くなったあとのことをみんなは話してくれた。お母さんなんて、泣き過ぎて話がちっとも進まなかった。

それくらい、たくさんの人に迷惑をかけてきたんだな、と思う。

「で、碧人さんにはいつ会わせてくれるわけ?」

梨央奈は立ちあがると、あたりをキョロキョロ見回した。幽霊が苦手な梨央奈が、急に集合をかけたのだ。

ファストフード店で会うつもりだったらしいが、碧人は旧校舎からは出られない。渋々、ここで待ち合わせをした。

「前の教室にいるよ。でも、梨央奈、幽霊に会っても平気なの?」

「平気じゃない」

「じゃあ、中止にする?」

「それはダメ」

梨央奈が旧校舎に向かって歩きだしたので、みんなであとを追った。

あれから毎日、旧校舎に通っている。夏休みの課題を解いたり、碧人と屋上で寝転んだり。かけがえのない時間が愛おしくて、前以上に碧人のことが好きになっている。

そのうち工事がはじまってしまう。別れの準備をするつもりが、どんどん離れがたくなっているようだ。

「うわ、黒猫だ!」

ナイトがいつものように出迎えてくれた。

梨央奈のダッシュに驚いたのだろう、ナイトはするりと旧校舎のなかに消えてしまった。梨央奈はそのまま追いかけて行った。

「それにしても、もう八月なのにね」

廊下を歩きながら葉菜がつぶやいた。

「夏休み前はけっこう工事の人を見かけましたが、どこにも見当たりませんね」

瞳が私に問いかけた。七月末を最後に、この数日間、工事関係と思われる人の姿を見ていない。

教室の前にナイトがいた。梨央奈をギロッとけん制するようににらんでから、教室に入っていく。

碧人は、いつものように窓の前に立っていた。

夏服の白が、青い風景によく似合う。うれしそうにほほ笑んだ碧人が、遅れて教室に足を踏み入れる三人を見て、困ったように顔をしかめた。

「お久しぶりです」

律儀に頭を下げる瞳に、碧人は「どうも」と軽く頭を下げた。

「へ? どこ? 碧人さん、どこにいるの?」

「私も見えないです」

梨央奈と葉菜に、瞳が碧人のいる場所をおずおずと指さした。

「いることはたしかなんだね。じゃあ、いいや」

そう言うと、梨央奈は教室の中央に足を進めてゴホンと咳払いをした。

「今日はみんなに話があって集まってもらいました」

改まった口調の梨央奈に、思わず碧人と目を合わせた。

「うちのパパの話なんだけどね。とにかくあたしを溺愛してるわけ。あたしが頼めばなんでも買ってくれるくらいにベタぼれしてるの」

話の意図がわからず戸惑ってしまう。瞳と葉菜もどんな話か聞いてないのだろう、双子のように同じ角度で首をかしげている。

梨央奈が「実月」と私を呼んだ。

「碧人さんとのお別れは、この校舎が取り壊される日なんでしょう? もう、覚悟はできてるの?」

さっきまでの冗談交じりではなく、真剣な顔で私を見つめている。

「……まだ。でも、しなくちゃいけないと思ってる」

「碧人さんは?」

「そっちじゃないです」

瞳が改めて窓辺を指さし、梨央奈は体の向きを変えた。しばらく考えるようにうつむいた碧人が、「俺も」と言った。

「もう少し実月のそばにいたいと思ってる。でも、その日が来たらちゃんと受け入れるつもり」

碧人が悲しい瞳で私を見つめた。同じ気持ちでいることがうれしくて、だけどやっぱり悲しくて。

「なんて言ったの?」

と尋ねる梨央奈に、瞳は碧人が言ったままの言葉を伝えている。

聞き終わると梨央奈は、なぜかうれしそうに笑みを浮かべた。

「ところで最近、工事の人を見かけないって気づいてた?」

「あ、うん。さっき話してたところ」

私がそう言うと、瞳と葉菜がうなずいた。

「倒産したんだって」

あっさりと言う梨央奈に、しんとした沈黙が訪れた。

え、とうさんって……倒産のこと?

「もっと驚いてよ」

不満げな梨央奈に思わず駆け寄っていた。

「どういうこと? 倒産って……」

「解体を依頼してた会社と連絡が取れなくなったんだって。学校の人が会社に行ってみたら、夜逃げ同然にいなくなってたみたい」

「どうしてそんなことがわかるんですか?」

瞳も信じられないように目を見開いている。

「ほら、うちって不動産やってるじゃん? 『裁判とかになるけど、戻ってこないだろうなあ』ってパパが言ってた」

「え、じゃあ……」

旧校舎が解体されない、ということは――。

「いや」と碧人が芽生えかけた希望を摘み取った。

「解体業者はほかにもあるだろうし、このままってことはないはず」

瞳がそのまま伝えると、

「そういうこと」

梨央奈が、右手の人差し指を立てた。

「でも、ここからが朗報なのです」

「ろうほう」と、葉菜がつぶやく。

「実はここの土地はうちが学校に貸してるんだよね。経営状況の悪い会社の唯一の財産ってやつ。計画では第二グラウンドを作る予定だったけど、あたし的にはこれ以上、運動をさせられたくないわけ」

誰もが梨央奈に注目をしている。碧人も口をぽかんと開けたままだ。

「だからパパにお願いして、あたしたちが卒業するまでは第二グラウンドは作らないことにしてもらったの。もちろん、取り壊しは三年生の途中からされると思うけど、あと一年くらいは大丈夫じゃないかな」

ふふん、と自慢げにあごをあげる梨央奈。瞳と葉菜は無意識に手を握り合っている。

私は……もう泣く寸前だ。

「だけど」と梨央奈が碧人の横あたりをビシッと指さした。

「あくまでこれは予定だから。ふたりが納得したら、ちゃんとお別れをすること。自分たちで終わりの日を決めてほしいから」

「梨央奈……」

ツンと鼻が痛くなり、視界が海のなかにいるようにゆがみだす。まるで青い月の光に満たされているときみたい。

「これがあたしからのプレゼント。お礼はカラオケ代ね。先に行ってるから、あとで合流しなさいよ」

そう言うと、梨央奈は「ほら行くよ」と瞳と葉菜に声をかけた。

「七瀬さん、ありがとう」

碧人が背中に声をかけた。

「碧人が『ありがとう』って言ってる。私も、ありがとう」

右指を立てたまま、梨央奈は教室を出て行った。

まだ信じられない。明日にでも別れなくちゃいけないと思ってたから、体中の力が抜けてしまう。

「すごいプレゼントをもらった気分だ」

碧人が私の前に立ち、こぼれそうな涙を拭ってくれた。

「うん。うん……」

うなずきながら、思った。

「碧人は平気なの? まだここにいても大丈夫なの?」

「もちろん。夏休みが続くことを、よろこばない人はいないだろ?」

「うん」

碧人が体をかがめ、そっとキスをしてくれた。唇に碧人の温度を感じるのが不思議。

照れたように碧人は窓の外へ目を向けた。

碧人とまだ一緒にいられるんだ……。そのことがうれしくてたまらない。

「青い月がくれたプレゼントみたいだね」

「そうかもな。実月はずいぶんがんばってたし」

碧人がポケットからなにかを取り出した。それは、私があげたミサンガだった。

私の左手に碧人がミサンガを結んでくれた。さっきのキスのときよりも、碧人を近くに感じる。

「俺の願いもこめるよ」

「うん」

「実月がしあわせになれますように。実月もミサンガに願ってみて」

碧人がやさしく目じりを下げた。同じように私も笑っているのだろう。

目を閉じて私は願う。

いつか来る碧人との別れの日、笑ってさよならを言えますように、と。

そういう自分になるためにも、毎日をきちんと生きられますように、と。

「ほら、見て」

碧人が窓の外を指さした。遠くに消えそうな真昼の月が顔を出している。

「『青い月の伝説』は本当にあった。だからこそ、いつか離れてしまっても、永遠のしあわせが訪れるようにしような」

「うん。私たちならできるはず」

碧人が私の手を握ってくれた。彼のやさしさが伝わってくる。

いつか月が世界から消える日が来ても、この気持ちを忘れないでいるよ。

遠くでチャイムの音が聞こえた気がした。

                                        完