まるで海のなかにいるみたい。

教室ごと深海に沈んだなか、取り残されたふたりぼっち。

あの事故は夢だと思って生きてきた。目の前にいる碧人は、現実に耐えられなかった私が見ていた幻だったの?

「ごめん」と、碧人が言った。

「実月の言うとおりだよ。俺はあの事故で死んでしまって、幽霊になったんだ」

「碧人……」

彼のうしろにある満月はあまりにも大きい。ゆっくり碧人が私に近づき、やっとその表情が見られた。

小さなころからいつも一緒にいたよね。恋を知ったあの日から、世界は碧人を中心に回り、それがもっと大きなよろこびを教えてくれた。

「幽霊になってすぐのころは、この教室から一歩も出られなかった。でも、死んで一週間が過ぎたくらいのころに、急に自由に動けるようになったんだ」

やさしく目を細める碧人。こんなにリアルなのに、碧人はもうこの世にいない。

そう考えると、さらに頭がしめつけられるように痛んだ。

「ひょっとして『青い月の伝説』を知っていた人の特典なのかも、って思ったけど違った。青い月が出てなくても好きな場所に行けたし」

学校帰りにいろんな話をしたよね。マンションのロビーでも。ぜんぶ、覚えているよ。私の思い出には碧人がいつもいた。だから、生きてこられたの。

だからこそ、幽霊になってしまったなんて信じたくないよ。

「幽霊は自分の強い願いや思いだけじゃ存在できない。実月が俺の死を受け入れなかったから、存在できたんだ。でも、俺の姿は実月や、霊感の強い人にしか見えない」

「うん」

「だから『話しかけないで』って言ってしまった。実月がおかしな人に思われたくなくてさ……」

「うん」

涙が視界をにじませていく。青い光がイルミネーションのようにキラキラ輝いている。

「実月は俺の死をなかったことにした。誰かが現実を諭そうとすると、パニックになり泣き叫んだ。だから……周りの人が実月の世界を壊さないようにしてくれたんだ」

ああ、そうだったんだ……。

夏休みの間、私は碧人が生きていると思いこんだ。

いろんな人が慰 めてくれた記憶がかすかに残っている。そのたびに部屋に閉じこもったことも思い出した。

最初のうちは真実を告げようと努力した人たちも、碧人のことに触れないルールを作ることで見守ってくれていたんだ……。

「誰からも俺の姿は見えないのに、実月には普通に見えていた。俺に教室で話しかけてきたときはアセった。周りのヤツら、ギョッとしてたから」

「ああ……だから、あんなこと言ったんだね」

「そして青い月が出た。思い残しを解消して消えるんだな、と覚悟したよ。でも、なぜか実月は使者になった。だから、実月が連れてくる人間とは会わないようにしてた。彼らから俺の姿は見えないから」

「……でも、小早川さんは?」

「小早川さんだけは俺の姿が見えていたから、あとでこっそりお願いをしたんだ。最初に見たときは震えてただろ?」

いろんなことが解決していく。すとんと胸に落ちる真実は、まるで碧人とのラストシーンみたい。

私たちの物語は終わりに向かって進んでいる。悲しくても前向きな完結に向けて一歩ずつ。

だけど、だけど……!

「私はこのままがいい。碧人といられるなら、なんでもやる。だから、どこにも行かないで」

碧人は「うん」とうなずいてくれた。

「いつまでも実月のそばにいようと思った。現実が受け入れられるまで、心配で仕方なかった」

「うん、うん……」

こらえていた涙がついに頬にこぼれた。

「でも、実月は変わった。幽霊の思い残しを解消していくうちに、強くなったんだよ」

「そんなことない。ダメなの。碧人がいないと、ダメ……」

嗚咽を漏らす私の肩を碧人がつかんだ。強い力を感じるのに、現実には存在していないなんて、やっぱり信じたくないよ。

「実月が成長していくたびに、俺の力は弱まっていった。今ではこの教室から出られなくなった」

「じゃあもう使者になんてならない。碧人のそばにいられるなら、ほかにはなんにもいらない」

「バカ」

そう言うと、碧人は肩に置いた手を背中に回し抱きしめてくれた。碧人のにおいに、涙がもっと止まらなくなる。

「実月はもう大丈夫。これからは、きちんとこの世界を生きていってほしい」

碧人のいない世界になんの意味があるのだろう。『青い月の伝説』は、永遠のしあわせをもたらしてくれるんじゃなかったの?

胸に顔をうずめたまま、何度も首を横にふった。

「そばにいたい。ひとりじゃなんにもできないよ……」

「ひとりじゃない。実月の世界を守ってくれた人がたくさんいるだろ? みんな実月がいつか乗り越えられるように連絡を取り合ってくれていた。その人たちを安心させてあげないと」

「でも……!」

顔をあげると、碧人の瞳から月色の涙がひとつ落ちた。

「俺だって悲しい。でも、これが俺たちのためなんだよ」

「碧人は、幽霊でいることが苦しいの?」

そう尋ねた私に、

「そうそう」

と、碧人は答えた。
「ウソついてる。幽霊でいるのは大丈夫ってこと?」

しまった、という顔で碧人は私の体からパッと離れ、手の甲で涙を拭う。

「心が穏やかなんだ。だから幽霊でいることはできる。でも、もうすぐこの校舎は取り壊されてしまう。そうなったら、俺は消えることになる」

「ほかの場所に移動するんじゃないの? どこでも行くよ。会えるんなら、私、どこでも行くから……」

だけど、碧人はスッと目を逸らしてしまった。

「これから先、また新しい場所に幽霊たちは集まるだろう。でも、この校舎に居ついた幽霊は、建物がなくなったら消えてしまうんだ。実際、商店街にいた霊たちは建物と一緒に消えていったから」

「そんな……」

どうしよう。どうしたらいいのかわからない。

ふと、教室に満ちていた光が弱まっていることに気づいた。

「今回、実月は使者だけじゃなく、あの伝説の主人公になった。ほかに幽霊はいないだろう?」

「あ……」

「俺の願いはたったひとつ。実月に、俺のいない世界を生きてほしいってこと」

私の願いも同じ。碧人に生きていてほしい。一緒に同じ時間を過ごしたい。

碧人がポケットからなにかを取り出し、私に握らせた。

それは――碧人にあげたミサンガだった。

「ついに切れたんだよ。つまり、俺の願いは叶うってことだろ?」

「碧人……」

嫌だよ、碧人のいない世界を生きていくなんてできない。

碧人の体を縁取る輪郭がぼやけだしている。もう、時間がないんだ……。

「幽霊になった人と関わるなかで、強くなれた気はしてる。だけど……」

「『だけど』は禁止」

「でも……」

「それも禁止」

ニッと笑う碧人に、思わず唇を尖らせてから少し笑った。

ああ、そうだった。私たちはいつもこんな感じだったよね。

「ほら」碧人が両手を差し出した。

「伝説では手をつなぐことになってるだろ?」

永遠のしあわせ……。私たちはもうすぐ離れてしまう。

もっと早く伝えるべきだった言葉を、今こそ伝えよう。そう自然に思えた。

「碧人、あなたのことが好きでした」

「え?」

戸惑う碧人の手を自分から握る。

「ずっと碧人のことが好きだった。関係を壊すのが怖くて言えなかったけれど、やっぱりちゃんと伝えたかった」

こんな状況で言われても困るのはわかるけれど、これまでたくさんの幽霊に会ってわかった。思い残しを手放していく ことが、毎日のなかで必要だということを。

眉間にシワを寄せた碧人。私を握る手の力が弱くなっている。

どんな答えでもいい、と思った。それは、告白をした瞬間、あんなにあった頭痛がウソのように消えていたから。

自分をだまして生きていたから、体が悲鳴をあげたのかもしれない。

「あーあ」

急に碧人が天井に顔を向けて嘆いた。

「俺のほうが先に言うつもりだったのに」

「え?」

「最後に告白してから消えるつもりだった。まさか、先に言われるなんて」

「そうだった……の?」

思わぬ展開に()(ぜん)としてしまう。

握られた手に、再び力がこめられた。

「ふたりで青い月を見た日から、実月を意識した。ううん、きっと前から好きだった。ずっとあった感情が、月の光に照らされたような感じがした。死んで最初に思ったのは、『実月に伝えるべきだった』ってこと。こういうのを、思い残しって言うんだろうな」

そうだったんだ……。うれしさに胸が熱くなったかと思った次の瞬間、さっきよりも熱い涙が頬を伝っていた。

碧人の姿がどんどん薄くなっていく。思い残しを解消できた今、彼は旅立とうとしている。

笑って見送らなくちゃ。碧人と私のために、青い月が用意してくれたラストシーンを演じなくちゃ……。

だけど――。

「納得できない」

はっきりそう言うと、碧人がびっくりしたように目を大きく開いた。

「だってそうでしょう?『永遠のしあわせがふたりに訪れる』という伝説がこのことなの? やっと想いを伝え合えたのにさよならするなんて、そんなの永遠じゃない」

「実月?」

話しているうちにモヤモヤが大きくなっていくのがわかる。

「碧人との思い出なんていらない。私は、碧人がこの世界からいなくなることが悲しいの。同じ気持ちだとわかったなら、なおさらそうだよ」

困ったように碧人はうつむいてしまう。

本当はわかっている。伝えられなかったのは私たちの強さであり弱さだということを。そっくりな私たちに、青い月がくれた最後の勇気だったということも。

「ナイト、最後のお願いを聞いてくれる?」
 
うずくまっていたナイトが耳だけをこっちに向けた。

「ちゃんとお別れするって約束するから。今日で最後にはしないで」

意外な提案だったのだろう、ナイトはひょいと顔をあげた。呆れた顔に見えるのは気のせいじゃない。

「この校舎が取り壊される日まで、碧人に会いたい。恋人として過ごせる時間がほしいの」
 
ナイトはなにも答えない。

「俺からもお願いするよ。旧校舎の工事がはじまったらちゃんと消える。それまでは実月のそばにいさせてほしい」

穏やかな顔で碧人はほほ笑んでくれた。

「……にゃん」

低い声でナイトが答えた。渋々納得してくれたことが伝わり、ふたりで思わず笑った。

明日からの夏休み。毎日ここに来よう。本当のさよならを伝える日に備えよう。

私なりにきちんと受け入れられるように強くなるから。

月が銀色の光に戻った。あんなに大きかった月は、はるか彼方で小さな円になっている。

碧人の手を強く握りしめれば、遠くからチャイムの音が聞こえてくる。

それはまるで、祝福の鐘のように耳に届いた。