ひょっとして……と思うのと同時に、体が揺れるほどの頭痛に襲われ悲鳴をあげてしまった。
梨央奈が椅子ごと隣の席に移動し、私の肩を抱き寄せた。
「こんな話をしてごめん。でも、みんな、実月に助けられたんだよ。あたしだってそう、たくさんの友だちがいることを教えてもらった」
鼻声の梨央奈。瞳も葉菜も顔をゆがませている。芳賀先生は、じっと私の顔を観察している。
「……私は」カラカラの声がこぼれた。
「ひょっとして……私も、なにかを夢だったことにしているの?」
思い出そうとしても、頭痛はどんどん激しくなっている。
だけど、だけど――みんながそうしたように私も自分の記憶と向き合いたい。
ギュッと目を閉じると、この数カ月間の出来事が脳裏に流れた。
交わす会話のなかに違和感がなかったといえばウソになる。引っかかることがあっても、見ないフリをしてきた。
閉じていた心の目を開けよう。
私が見ようとしなかった現実をしっかりと見つめたい。
頭のなかにふわりと映像が浮かぶのと同時に席から立ちあがっていた。
「ウソ……」
その映像は消えることなく、次の場面を映し出す。
「え、ウソでしょう。なにこれ……」
ぐらんと床が揺れた気がした。違う、自分の体から力が抜けているんだ。
足を踏ん張って耐えた。けれど、私が見ようとしてこなかった現実は、ダムが決壊したように次々に押し寄せてくる。
「実月!」
梨央奈が私の手をつかんだ。
「梨央奈……瞳、葉菜」
その名をうわごとのように呼ぶ。みんなは知っていたんだ。私が見てこなかった世界をとっくに知ってたんだ。
「思い出した?」
芳賀先生の言葉にうなずきながら、指先がおもしろいくらい震えていることに気づいた。手のひらがいつの間にか、窓からの青い光でキラキラ輝いている。
「私……行かなくちゃ」
「一緒に行きます」「私も」
やさしい瞳と葉菜に首を横にふった。
「大丈夫。ひとりで行く。ちゃんと向き合わなくちゃ」
「そうだね」
梨央奈が静かに言った。
「あたしたち、ここで待ってるよ。だから、行っておいで」
梨央奈がトンと背中を押してくれた。中腰だったふたりもゆっくり席につく。
芳賀先生はなにも言わず、力強くうなずいてくれた。
教室を飛び出すと、窓の向こうに落ちそうなほど大きな満月が青く光っていた。
旧校舎に飛びこみ、四階まで一気に駆けあがった。
全速力で走ってきたせいで、頭痛はさらにひどくなっている。呼吸のたびに頭がしめつけられ、めまいのような症状も起きている。
歯を喰いしばってゆっくり廊下を進むと、教室の前にナイトがいた。
「ナイト……」
荒い息を整えながら、その名を呼んだ。なにもかもを見透かした顔のナイト。
「思い出した。ぜんぶ、思い出したよ」
「にゃお」
ナイトについて教室に入ると、窓側に碧人が立っていた。
窓に背中を預け腕を組む碧人に、青い光がスポットライトのように当たっている。
「碧人」
「実月」
お互いの名前を呼び合い、そして沈黙。教壇に飛び乗ったナイトが、その場で体を丸くした。
碧人に近づくと、彼はバツの悪い顔になった。昔からそうだった。ウソがバレたときや、ケンカになったときはこういう表情をしていたね。
「わかったよ。碧人、ぜんぶわかった」
「……なにを?」
「ずっと不思議だった。この一年……碧人が部活でケガをしてから、小さな違和感ばかり覚えていたから」
「違和感って?」
碧人はもう目を伏せてしまっている。
「去年の二学期に『あまり話しかけないで』って言ったよね? 急に暑がりになって、ジャージじゃなく夏服しか着なくなった。スマホも解約したって言われた」
「ああ、たしかに」
「帰り道やマンションでは話してくれたけど、引っ越しとか転校とか、段階をつけて私から離れようとしていた。でも、ぜんぶウソだよね?」
もう碧人は、口をギュッと結んで微動だにしない。
「梨央奈は何度も会ったはずの碧人のことを忘れていたし、葉菜は『つき合ってたの?』って過去形で聞いてきた」
それだけじゃない。お母さんも前までは碧人の話を出すたびに、違う話題に変えてきた。あんなに仲がよかった碧人のおばさんの話もしなくなった。
「みんなも碧人の話を避けていた。まるでいない人のように……」
「小早川さんとは普通に話をしているけど?」
「瞳は霊感が強いから。きっと、どこかのタイミングで碧人が私にバレないようにお願いしたんじゃないかな。『普通に接してほしい』って」
碧人が顔をあげた。その瞳までもが、青く染まっている。
「本当にぜんぶ思い出したのなら、言ってみて。ぜんぶの答えを」
「碧人は……」
こみあげてくる涙をこらえて、私は言う。
「碧人は……去年の夏、事故で亡くなった。そして、幽霊になってしまったんだよね?」
景色が波のように揺れてももう迷わない。
心の目を開いて過去を見つめると、あの悲しい夏が音もなくよみがえった。
***
八月二日、晴れ。
うだるような暑さのなか、梨央奈と並んで歩いている。頭上から照りつける太陽に、梨央奈はさっきから不満ばっかり言っている。
「なんでこんな真夏にテニスの試合があるわけ? これじゃあメイクが崩れちゃう」
「会場は屋内だから涼しいと思うよ」
「にしても遠過ぎ。選手はいいよね。学校のバスで会場入りできるんだから」
三つ離れた駅にある県営の競技場はアクセスが悪い。市営のバスを降りてからもう十分は歩いている。遠くに見える建物がちっとも近づかない。
「でも碧人、一年生なのにすごいよね。今日の試合にぜんぶ勝てば、県の代表になるんだって」
「そりゃすごいけどさ、あたしまだほとんどしゃべったことないし」
「これを機会に仲良くなるといいよ」
「これを機会に、ねぇ」
梨央奈が急にニヤニヤし出した。
「前から思ってたんだけど、実月って碧人さんと幼なじみの関係だけじゃないでしょ? 本当は好きだって認めちゃいなよ」
こういう質問には慣れっこだ。
「碧人はただの幼なじみ。それ以上でもそれ以下でもないから。つき合ったりしたらいつか終わりが来るでしょ? 友情のほうが長く続くんだから」
まるで自分に言い聞かせているみたい。
「それってさ、長く続くのならば恋人同士のほうがいい、ってふうにも聞こえるけど?」
「違うって。そうじゃなくて――」
反論を途中で止めたのは、うしろからすごい勢いで救急車が音をかき鳴らして追い抜いていったから。一台だけじゃない。遅れて二台の救急車とパトカーまで。
なにか事故でもあったのかな。そう尋ねたいのに、なぜか言葉が出てこなかった。
足元から悪い予感が這いあがってくる気がして、歩幅を大きくする。
「待ってよ。あたし、走れないって」
梨央奈の文句もかまわず、競技場へ急ぐ。
会場の建物の前にある大きな交差点。さっきの救急車やパトカーが停まっている向こう側に、街路樹をなぎ倒して停車しているトラックが見えた。
その手前、横向きに倒れているバスが見えた。
あれは……うちの高校のバスだ!
悲鳴が聞こえる。救助されているのは、碧人と同じテニス部の男子生徒だった。
「え……ウソ」
目の前に立ち入り禁止のロープが設置された。
「入らないでください。下がってください!」
警察官の声が頭を素通りしていく。割れたガラスや、バスの部品が散らばっている。
事故だ……。バスが事故に遭ったんだ。
「碧人……」
その名前をつぶやき、ロープをくぐってなかへ。
バスから出ている黒煙にむせながら、碧人を探した。
そんなはずはない。こんなこと、起きるはずがない……!
誰かが私の肩をつかんできたけれど、無理やり引きはがした。
「碧人……碧人っ!」
バスが青いシートに覆われていく。隙間から、担架に乗せられる人が見えた。
シーツのようなものに覆われていて誰かわからない。
と、シーツから覗いている左の足首に、あの色が見えた。
赤色と青色と黄色の丸い輪っか。勝負に勝てるように、と願いをこめて作ったあのミサンガが――。
「心拍反応なし!」
救急車に乗りこむのと同時に、救急隊員のひとりが碧人に馬乗りになるのが見えた。人工呼吸をする姿を呆然と見ているうちに、ドアが閉められる。
梨央奈が駆けつけてくれたとき、私はその場所に座りこんでいた。
そこから先は、なにも覚えていない。
八月十日、曇り。
碧人のいない世界にひとり。
おばさんは泣きはらした顔で、さっき部屋までお礼を言いに来てくれた。
私は……なんて答えたのだろう。覚えていない、なにも覚えていない。
葬儀に参列できず、初七日法要にも顔を出せなかった。おばさんが涙ながらにお母さんと話す横で、私は夢を見ているような気分だった。
目を閉じれば碧人がまだいて、目を開けるといない。こっちが夢で、あっちが現実だと思った。
碧人はケガをしただけ。だってそうでしょう?
ほかの部員は無事だったんだから。
ねえ、そうでしょう?
今日が何日かわからない。
夏休みがもうすぐ終わることだけはわかっている。
みんな私にやさしい言葉をかけてくれる。今日は芳賀先生が家に来てくれた。
そんなことしなくてもいいのに。
二学期になれば、碧人は「よう」ってなにも変わらずに声をかけてくれるはずだから。
九月八日、雨。
『学校では話しかけないで』と言われてしまった。
だけど、平気だよ。碧人が無事でいてくれただけでいいの。
碧人がこの世にいてくれれば、私は生きていけるから。
***
まるで海のなかにいるみたい。
教室ごと深海に沈んだなか、取り残されたふたりぼっち。
あの事故は夢だと思って生きてきた。目の前にいる碧人は、現実に耐えられなかった私が見ていた幻だったの?
「ごめん」と、碧人が言った。
「実月の言うとおりだよ。俺はあの事故で死んでしまって、幽霊になったんだ」
「碧人……」
彼のうしろにある満月はあまりにも大きい。ゆっくり碧人が私に近づき、やっとその表情が見られた。
小さなころからいつも一緒にいたよね。恋を知ったあの日から、世界は碧人を中心に回り、それがもっと大きなよろこびを教えてくれた。
「幽霊になってすぐのころは、この教室から一歩も出られなかった。でも、死んで一週間が過ぎたくらいのころに、急に自由に動けるようになったんだ」
やさしく目を細める碧人。こんなにリアルなのに、碧人はもうこの世にいない。
そう考えると、さらに頭がしめつけられるように痛んだ。
「ひょっとして『青い月の伝説』を知っていた人の特典なのかも、って思ったけど違った。青い月が出てなくても好きな場所に行けたし」
学校帰りにいろんな話をしたよね。マンションのロビーでも。ぜんぶ、覚えているよ。私の思い出には碧人がいつもいた。だから、生きてこられたの。
だからこそ、幽霊になってしまったなんて信じたくないよ。
「幽霊は自分の強い願いや思いだけじゃ存在できない。実月が俺の死を受け入れなかったから、存在できたんだ。でも、俺の姿は実月や、霊感の強い人にしか見えない」
「うん」
「だから『話しかけないで』って言ってしまった。実月がおかしな人に思われたくなくてさ……」
「うん」
涙が視界をにじませていく。青い光がイルミネーションのようにキラキラ輝いている。
「実月は俺の死をなかったことにした。誰かが現実を諭そうとすると、パニックになり泣き叫んだ。だから……周りの人が実月の世界を壊さないようにしてくれたんだ」
ああ、そうだったんだ……。
夏休みの間、私は碧人が生きていると思いこんだ。
いろんな人が慰 めてくれた記憶がかすかに残っている。そのたびに部屋に閉じこもったことも思い出した。
最初のうちは真実を告げようと努力した人たちも、碧人のことに触れないルールを作ることで見守ってくれていたんだ……。
「誰からも俺の姿は見えないのに、実月には普通に見えていた。俺に教室で話しかけてきたときはアセった。周りのヤツら、ギョッとしてたから」
「ああ……だから、あんなこと言ったんだね」
「そして青い月が出た。思い残しを解消して消えるんだな、と覚悟したよ。でも、なぜか実月は使者になった。だから、実月が連れてくる人間とは会わないようにしてた。彼らから俺の姿は見えないから」
「……でも、小早川さんは?」
「小早川さんだけは俺の姿が見えていたから、あとでこっそりお願いをしたんだ。最初に見たときは震えてただろ?」
いろんなことが解決していく。すとんと胸に落ちる真実は、まるで碧人とのラストシーンみたい。
私たちの物語は終わりに向かって進んでいる。悲しくても前向きな完結に向けて一歩ずつ。
だけど、だけど……!
「私はこのままがいい。碧人といられるなら、なんでもやる。だから、どこにも行かないで」
碧人は「うん」とうなずいてくれた。
「いつまでも実月のそばにいようと思った。現実が受け入れられるまで、心配で仕方なかった」
「うん、うん……」
こらえていた涙がついに頬にこぼれた。
「でも、実月は変わった。幽霊の思い残しを解消していくうちに、強くなったんだよ」
「そんなことない。ダメなの。碧人がいないと、ダメ……」
嗚咽を漏らす私の肩を碧人がつかんだ。強い力を感じるのに、現実には存在していないなんて、やっぱり信じたくないよ。
「実月が成長していくたびに、俺の力は弱まっていった。今ではこの教室から出られなくなった」
「じゃあもう使者になんてならない。碧人のそばにいられるなら、ほかにはなんにもいらない」
「バカ」
そう言うと、碧人は肩に置いた手を背中に回し抱きしめてくれた。碧人のにおいに、涙がもっと止まらなくなる。
「実月はもう大丈夫。これからは、きちんとこの世界を生きていってほしい」
碧人のいない世界になんの意味があるのだろう。『青い月の伝説』は、永遠のしあわせをもたらしてくれるんじゃなかったの?
胸に顔をうずめたまま、何度も首を横にふった。
「そばにいたい。ひとりじゃなんにもできないよ……」
「ひとりじゃない。実月の世界を守ってくれた人がたくさんいるだろ? みんな実月がいつか乗り越えられるように連絡を取り合ってくれていた。その人たちを安心させてあげないと」
「でも……!」
顔をあげると、碧人の瞳から月色の涙がひとつ落ちた。
「俺だって悲しい。でも、これが俺たちのためなんだよ」
「碧人は、幽霊でいることが苦しいの?」
そう尋ねた私に、
「そうそう」
と、碧人は答えた。
「ウソついてる。幽霊でいるのは大丈夫ってこと?」
しまった、という顔で碧人は私の体からパッと離れ、手の甲で涙を拭う。
「心が穏やかなんだ。だから幽霊でいることはできる。でも、もうすぐこの校舎は取り壊されてしまう。そうなったら、俺は消えることになる」
「ほかの場所に移動するんじゃないの? どこでも行くよ。会えるんなら、私、どこでも行くから……」
だけど、碧人はスッと目を逸らしてしまった。
「これから先、また新しい場所に幽霊たちは集まるだろう。でも、この校舎に居ついた幽霊は、建物がなくなったら消えてしまうんだ。実際、商店街にいた霊たちは建物と一緒に消えていったから」
「そんな……」
どうしよう。どうしたらいいのかわからない。
ふと、教室に満ちていた光が弱まっていることに気づいた。
「今回、実月は使者だけじゃなく、あの伝説の主人公になった。ほかに幽霊はいないだろう?」
「あ……」
「俺の願いはたったひとつ。実月に、俺のいない世界を生きてほしいってこと」
私の願いも同じ。碧人に生きていてほしい。一緒に同じ時間を過ごしたい。
碧人がポケットからなにかを取り出し、私に握らせた。
それは――碧人にあげたミサンガだった。
「ついに切れたんだよ。つまり、俺の願いは叶うってことだろ?」
「碧人……」
嫌だよ、碧人のいない世界を生きていくなんてできない。
碧人の体を縁取る輪郭がぼやけだしている。もう、時間がないんだ……。
「幽霊になった人と関わるなかで、強くなれた気はしてる。だけど……」
「『だけど』は禁止」
「でも……」
「それも禁止」
ニッと笑う碧人に、思わず唇を尖らせてから少し笑った。
ああ、そうだった。私たちはいつもこんな感じだったよね。
「ほら」碧人が両手を差し出した。
「伝説では手をつなぐことになってるだろ?」
永遠のしあわせ……。私たちはもうすぐ離れてしまう。
もっと早く伝えるべきだった言葉を、今こそ伝えよう。そう自然に思えた。
「碧人、あなたのことが好きでした」
「え?」
戸惑う碧人の手を自分から握る。
「ずっと碧人のことが好きだった。関係を壊すのが怖くて言えなかったけれど、やっぱりちゃんと伝えたかった」
こんな状況で言われても困るのはわかるけれど、これまでたくさんの幽霊に会ってわかった。思い残しを手放していく ことが、毎日のなかで必要だということを。
眉間にシワを寄せた碧人。私を握る手の力が弱くなっている。
どんな答えでもいい、と思った。それは、告白をした瞬間、あんなにあった頭痛がウソのように消えていたから。
自分をだまして生きていたから、体が悲鳴をあげたのかもしれない。
「あーあ」
急に碧人が天井に顔を向けて嘆いた。
「俺のほうが先に言うつもりだったのに」
「え?」
「最後に告白してから消えるつもりだった。まさか、先に言われるなんて」
「そうだった……の?」
思わぬ展開に唖然としてしまう。
握られた手に、再び力がこめられた。
「ふたりで青い月を見た日から、実月を意識した。ううん、きっと前から好きだった。ずっとあった感情が、月の光に照らされたような感じがした。死んで最初に思ったのは、『実月に伝えるべきだった』ってこと。こういうのを、思い残しって言うんだろうな」
そうだったんだ……。うれしさに胸が熱くなったかと思った次の瞬間、さっきよりも熱い涙が頬を伝っていた。
碧人の姿がどんどん薄くなっていく。思い残しを解消できた今、彼は旅立とうとしている。
笑って見送らなくちゃ。碧人と私のために、青い月が用意してくれたラストシーンを演じなくちゃ……。
だけど――。
「納得できない」
はっきりそう言うと、碧人がびっくりしたように目を大きく開いた。
「だってそうでしょう?『永遠のしあわせがふたりに訪れる』という伝説がこのことなの? やっと想いを伝え合えたのにさよならするなんて、そんなの永遠じゃない」
「実月?」
話しているうちにモヤモヤが大きくなっていくのがわかる。
「碧人との思い出なんていらない。私は、碧人がこの世界からいなくなることが悲しいの。同じ気持ちだとわかったなら、なおさらそうだよ」
困ったように碧人はうつむいてしまう。
本当はわかっている。伝えられなかったのは私たちの強さであり弱さだということを。そっくりな私たちに、青い月がくれた最後の勇気だったということも。
「ナイト、最後のお願いを聞いてくれる?」
うずくまっていたナイトが耳だけをこっちに向けた。
「ちゃんとお別れするって約束するから。今日で最後にはしないで」
意外な提案だったのだろう、ナイトはひょいと顔をあげた。呆れた顔に見えるのは気のせいじゃない。
「この校舎が取り壊される日まで、碧人に会いたい。恋人として過ごせる時間がほしいの」
ナイトはなにも答えない。
「俺からもお願いするよ。旧校舎の工事がはじまったらちゃんと消える。それまでは実月のそばにいさせてほしい」
穏やかな顔で碧人はほほ笑んでくれた。
「……にゃん」
低い声でナイトが答えた。渋々納得してくれたことが伝わり、ふたりで思わず笑った。
明日からの夏休み。毎日ここに来よう。本当のさよならを伝える日に備えよう。
私なりにきちんと受け入れられるように強くなるから。
月が銀色の光に戻った。あんなに大きかった月は、はるか彼方で小さな円になっている。
碧人の手を強く握りしめれば、遠くからチャイムの音が聞こえてくる。
それはまるで、祝福の鐘のように耳に届いた。
真夏の空に、レモン型の月が見える。
青色の空に負け、今にも消えてしまいそうなほど薄い光をにじませている。
夏休み中でも、登校するときは制服を着なくてはならない。
「これじゃあ、帰りにどこにも寄れないじゃん」
旧校舎と新校舎の間にあるベンチに座る梨央奈は、さっきから不満を並べている。
「そう言いながら、前はファミレスに行きましたよね?」
横に座る瞳が葉菜に同意を求めた。
「プリも撮りにいったし、カラオケにも行ったよね」
ニコニコと答える葉菜は最近髪を切った。肩までの髪が、通り抜ける風に泳いでいる。
「クーポンの期限が近かったからしょうがないじゃん。それに、新しい実月ともっと遊びたかったんだもん」
「実月は前からずっと実月ですけど?」
瞳のツッコミに、梨央奈はぶうと頬をふくらませた。
「たしかにそうだけどさー」
三人の前に立つ私に、視線が向けられた。どの顔も穏やかで、これまで見たことのないスッキリした笑みを浮かべている。私にとっても、新しい梨央奈であり新しい瞳、新しい葉菜だ。
碧人に想いを伝えたあの日から、世界は輝いている。晴れた日だけじゃなく、曇りや雨の日、夜に包まれた風景ですら宝物のようにキラキラと輝いている。
碧人が、友だちが、そして幽霊たちが教えてくれたことなんだね。
「たくさん迷惑をかけてごめんね」
「それはもういいって。ちっとも迷惑じゃ……いや、少しは大変だったけどさ」
肩をすくめる梨央奈に、瞳が口元に笑みを浮かべた。
「私は霊感があることに感謝しました。実月の見えている世界を共有できたから」
「私も」とやさしく葉菜も笑う。
「実月がいなかったら、今の毎日はなかった。だから、本当にありがとう」
首を横にふってから旧校舎に目を向ける。
「同じだよ。私だってみんながいなかったら、現実に向き合えないままだったと思う」
去年、碧人が亡くなったあとのことをみんなは話してくれた。お母さんなんて、泣き過ぎて話がちっとも進まなかった。
それくらい、たくさんの人に迷惑をかけてきたんだな、と思う。
「で、碧人さんにはいつ会わせてくれるわけ?」
梨央奈は立ちあがると、あたりをキョロキョロ見回した。幽霊が苦手な梨央奈が、急に集合をかけたのだ。
ファストフード店で会うつもりだったらしいが、碧人は旧校舎からは出られない。渋々、ここで待ち合わせをした。
「前の教室にいるよ。でも、梨央奈、幽霊に会っても平気なの?」
「平気じゃない」
「じゃあ、中止にする?」
「それはダメ」
梨央奈が旧校舎に向かって歩きだしたので、みんなであとを追った。
あれから毎日、旧校舎に通っている。夏休みの課題を解いたり、碧人と屋上で寝転んだり。かけがえのない時間が愛おしくて、前以上に碧人のことが好きになっている。
そのうち工事がはじまってしまう。別れの準備をするつもりが、どんどん離れがたくなっているようだ。
「うわ、黒猫だ!」
ナイトがいつものように出迎えてくれた。
梨央奈のダッシュに驚いたのだろう、ナイトはするりと旧校舎のなかに消えてしまった。梨央奈はそのまま追いかけて行った。
「それにしても、もう八月なのにね」
廊下を歩きながら葉菜がつぶやいた。
「夏休み前はけっこう工事の人を見かけましたが、どこにも見当たりませんね」
瞳が私に問いかけた。七月末を最後に、この数日間、工事関係と思われる人の姿を見ていない。
教室の前にナイトがいた。梨央奈をギロッとけん制するようににらんでから、教室に入っていく。
碧人は、いつものように窓の前に立っていた。
夏服の白が、青い風景によく似合う。うれしそうにほほ笑んだ碧人が、遅れて教室に足を踏み入れる三人を見て、困ったように顔をしかめた。
「お久しぶりです」
律儀に頭を下げる瞳に、碧人は「どうも」と軽く頭を下げた。
「へ? どこ? 碧人さん、どこにいるの?」
「私も見えないです」
梨央奈と葉菜に、瞳が碧人のいる場所をおずおずと指さした。
「いることはたしかなんだね。じゃあ、いいや」
そう言うと、梨央奈は教室の中央に足を進めてゴホンと咳払いをした。
「今日はみんなに話があって集まってもらいました」
改まった口調の梨央奈に、思わず碧人と目を合わせた。
「うちのパパの話なんだけどね。とにかくあたしを溺愛してるわけ。あたしが頼めばなんでも買ってくれるくらいにベタぼれしてるの」
話の意図がわからず戸惑ってしまう。瞳と葉菜もどんな話か聞いてないのだろう、双子のように同じ角度で首をかしげている。
梨央奈が「実月」と私を呼んだ。
「碧人さんとのお別れは、この校舎が取り壊される日なんでしょう? もう、覚悟はできてるの?」
さっきまでの冗談交じりではなく、真剣な顔で私を見つめている。
「……まだ。でも、しなくちゃいけないと思ってる」
「碧人さんは?」
「そっちじゃないです」
瞳が改めて窓辺を指さし、梨央奈は体の向きを変えた。しばらく考えるようにうつむいた碧人が、「俺も」と言った。
「もう少し実月のそばにいたいと思ってる。でも、その日が来たらちゃんと受け入れるつもり」
碧人が悲しい瞳で私を見つめた。同じ気持ちでいることがうれしくて、だけどやっぱり悲しくて。
「なんて言ったの?」
と尋ねる梨央奈に、瞳は碧人が言ったままの言葉を伝えている。
聞き終わると梨央奈は、なぜかうれしそうに笑みを浮かべた。
「ところで最近、工事の人を見かけないって気づいてた?」
「あ、うん。さっき話してたところ」
私がそう言うと、瞳と葉菜がうなずいた。
「倒産したんだって」
あっさりと言う梨央奈に、しんとした沈黙が訪れた。
え、とうさんって……倒産のこと?
「もっと驚いてよ」
不満げな梨央奈に思わず駆け寄っていた。
「どういうこと? 倒産って……」
「解体を依頼してた会社と連絡が取れなくなったんだって。学校の人が会社に行ってみたら、夜逃げ同然にいなくなってたみたい」
「どうしてそんなことがわかるんですか?」
瞳も信じられないように目を見開いている。
「ほら、うちって不動産やってるじゃん? 『裁判とかになるけど、戻ってこないだろうなあ』ってパパが言ってた」
「え、じゃあ……」
旧校舎が解体されない、ということは――。
「いや」と碧人が芽生えかけた希望を摘み取った。
「解体業者はほかにもあるだろうし、このままってことはないはず」
瞳がそのまま伝えると、
「そういうこと」
梨央奈が、右手の人差し指を立てた。
「でも、ここからが朗報なのです」
「ろうほう」と、葉菜がつぶやく。
「実はここの土地はうちが学校に貸してるんだよね。経営状況の悪い会社の唯一の財産ってやつ。計画では第二グラウンドを作る予定だったけど、あたし的にはこれ以上、運動をさせられたくないわけ」
誰もが梨央奈に注目をしている。碧人も口をぽかんと開けたままだ。
「だからパパにお願いして、あたしたちが卒業するまでは第二グラウンドは作らないことにしてもらったの。もちろん、取り壊しは三年生の途中からされると思うけど、あと一年くらいは大丈夫じゃないかな」
ふふん、と自慢げにあごをあげる梨央奈。瞳と葉菜は無意識に手を握り合っている。
私は……もう泣く寸前だ。
「だけど」と梨央奈が碧人の横あたりをビシッと指さした。
「あくまでこれは予定だから。ふたりが納得したら、ちゃんとお別れをすること。自分たちで終わりの日を決めてほしいから」
「梨央奈……」
ツンと鼻が痛くなり、視界が海のなかにいるようにゆがみだす。まるで青い月の光に満たされているときみたい。
「これがあたしからのプレゼント。お礼はカラオケ代ね。先に行ってるから、あとで合流しなさいよ」
そう言うと、梨央奈は「ほら行くよ」と瞳と葉菜に声をかけた。
「七瀬さん、ありがとう」
碧人が背中に声をかけた。
「碧人が『ありがとう』って言ってる。私も、ありがとう」
右指を立てたまま、梨央奈は教室を出て行った。
まだ信じられない。明日にでも別れなくちゃいけないと思ってたから、体中の力が抜けてしまう。
「すごいプレゼントをもらった気分だ」
碧人が私の前に立ち、こぼれそうな涙を拭ってくれた。
「うん。うん……」
うなずきながら、思った。
「碧人は平気なの? まだここにいても大丈夫なの?」
「もちろん。夏休みが続くことを、よろこばない人はいないだろ?」
「うん」
碧人が体をかがめ、そっとキスをしてくれた。唇に碧人の温度を感じるのが不思議。
照れたように碧人は窓の外へ目を向けた。
碧人とまだ一緒にいられるんだ……。そのことがうれしくてたまらない。
「青い月がくれたプレゼントみたいだね」
「そうかもな。実月はずいぶんがんばってたし」
碧人がポケットからなにかを取り出した。それは、私があげたミサンガだった。
私の左手に碧人がミサンガを結んでくれた。さっきのキスのときよりも、碧人を近くに感じる。
「俺の願いもこめるよ」
「うん」
「実月がしあわせになれますように。実月もミサンガに願ってみて」
碧人がやさしく目じりを下げた。同じように私も笑っているのだろう。
目を閉じて私は願う。
いつか来る碧人との別れの日、笑ってさよならを言えますように、と。
そういう自分になるためにも、毎日をきちんと生きられますように、と。
「ほら、見て」
碧人が窓の外を指さした。遠くに消えそうな真昼の月が顔を出している。
「『青い月の伝説』は本当にあった。だからこそ、いつか離れてしまっても、永遠のしあわせが訪れるようにしような」
「うん。私たちならできるはず」
碧人が私の手を握ってくれた。彼のやさしさが伝わってくる。
いつか月が世界から消える日が来ても、この気持ちを忘れないでいるよ。
遠くでチャイムの音が聞こえた気がした。
完