***
夢のなかで、私は旧校舎の教室の窓辺に立っていた。
青い月が見たこともないほど大きく、手が届きそうなほどの距離に浮かんでいる。
ブルーサファイアよりも輝く光から目を背けると、机の上にナイトが座っていた。
「君はなにをしてるの?」
最初はナイトが話していると思わなかった。
教室を見渡す私に、
「君に話しかけてるんだよ、実月」
ナイトは前足で私を指してくる。
「あ、これ夢だったね」
やけにリアルな夢だ。青い光がちゃんと青色に見えているし、開けた窓からの風も頬に感じられる。
「この世で起きることはぜんぶ夢さ」
想像していたよりも低い声でナイトは答えた。
「ぜんぶ?」
「今起きていることも、次の瞬間には過去になる。残るのは頼りない君の記憶だけ。つまり、なかったことと同じ」
「そんなことない。思い出に残ることが大事でしょ」
反論する私に、ナイトは白い毛を誇示するように胸を張った。
「記憶は君の主観で構成されているから、正しい情報とは言えない。それに記憶は美化されてしまうからね。それにしがみつくなんて、人間はやっぱりバカだ」
さすがにムッとしてしまう。
なんでナイトにそこまで言われなくちゃいけないのよ。
「君はなにをしているの?」
ナイトは冷たい目で私をじっと見つめている。
「それ、さっきも聞いたよね? 別にここにいるだけだし」
「ふうん」
興味なさげにナイトはジョリジョリと 、ざらつく舌で右足の毛づくろいをはじめた。
「それより、なんでこの間は幽霊に会えなかったの? もう旧校舎が取り壊されるまで時間がないのに、間に合わないよ」
「学校も休んでるしね」
「え?」
言われて思い出した。昨夜から頭痛がひどくなり、今日の終業式を休んでしまったんだった。
朝ご飯を食べてからベッドに戻って……。今は何時くらいなのだろう?
「ひょっとして青い月が出てるの?」
「出てると思う?」
「まさか……夢のなかまで呼びに来たってこと?」
「だったらどうする?」
質問だらけの会話じゃなんの答えも出ない。
「行かないよ」
「なんで?」
「だって……体調が悪いから」
ふん、と鼻から息を吐くナイト。
「正直、君が使者に選ばれたときは不満だし不安だった。でも、君はこれまで幽霊の思い残しを解決してくれた。かろうじて、ってレベルだけどね」
どうやらナイトは口が悪いらしい。騎士というよりは漫画に出てくるイヤミな上司みたい。
「体調は君の不安定な心を表わしている。それでも僕は使者に頼るしかない。痛みを和らげてあげるから、最後の役目をまっとうしてほしい」
たしかに前回、幽霊に会えなかったことは気になっていた。碧人ももうすぐいなくなるし、最後はふたりでがんばりたい気持ちがあるのはたしかなこと。
だけど……。
「どうして私たちが使者に選ばれたの? やっぱり青い月を見たから?」
「青い月を見られる人間は、自らも強い願いを抱えている。だけど、あの伝説に関わるにはカギが必要なんだ。君たちはあの日、カギを見つけたんだ」
「それって、『青い月の伝説』のこと?」
「そのとおり」
ふたりで絵本を見た日のことを、今でもリアルに思い出せる。静かな図書館、咳払いの音、本のにおい、碧人のはしゃぐ声。
「君が使者としておこなったことも、いつかは夢になる。だってこんな話、人間は信じないだろ?」
「うん……」
「現実世界は厳しいからね。人間は片目をつむって生きてるんだ。そのほうが傷ついたときに言い訳ができるから。でも、それじゃあ半分しか世界を見たことにならない」
「片目を……?」
「実月だって同じ。もっと現実世界を見る必要がある」
「ごめん。なにを言ってるのか――」
「わからない? 違う。わからないフリをしてるんだ」
キッパリ言い切るナイトに、眉をひそめてしまう。
私の複雑な気持ちを知らないからそんなことを言えるんだよ。言い返そうとしたけれど、なぜか口が開かなかった。
「だけど」とナイトが琥珀色の瞳を伏せた。
「君がしたことが夢だったとしても、僕だけは知ってる。君が必死で、幽霊たちの思い残しを解消したことを。そして、誰よりも碧人を好きなことを」
「え……」
体全体で伸びをしたナイトが、音もなく床に降り立った。
「あきらめようとするのもいいけど、一度閉じていた片目を開けてごらん。この世界の残酷さを知っても、君にはもうそれに耐えうる力があるはずだから」
「なにを――」と言いかける口を閉じた。
つい今、『わからないフリをしてる』って言われたばかりだ。
「自分の記憶を疑うなら、誰かに頼ってもいいんだよ。それが、君の世界の本当の色を教えてくれるはず」
ふり返りもせず、ナイトは教室から出て行ってしまった。
片目を閉じてみた。碧人への恋に似ていると思った。
幼なじみのフリをして、碧人のウソに合わせて、だけど苦しくって……。
あきらめようとすること自体、ナイトは反対していなかった。
「記憶……」
なにか私が忘れているってこと? 本当の色ってなんのこと?
今度は両目を閉じてみた。まぶたの裏にまだ青い光がちらついている。
静かな夢の終わりを、私は受け入れた。
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夢のなかで、私は旧校舎の教室の窓辺に立っていた。
青い月が見たこともないほど大きく、手が届きそうなほどの距離に浮かんでいる。
ブルーサファイアよりも輝く光から目を背けると、机の上にナイトが座っていた。
「君はなにをしてるの?」
最初はナイトが話していると思わなかった。
教室を見渡す私に、
「君に話しかけてるんだよ、実月」
ナイトは前足で私を指してくる。
「あ、これ夢だったね」
やけにリアルな夢だ。青い光がちゃんと青色に見えているし、開けた窓からの風も頬に感じられる。
「この世で起きることはぜんぶ夢さ」
想像していたよりも低い声でナイトは答えた。
「ぜんぶ?」
「今起きていることも、次の瞬間には過去になる。残るのは頼りない君の記憶だけ。つまり、なかったことと同じ」
「そんなことない。思い出に残ることが大事でしょ」
反論する私に、ナイトは白い毛を誇示するように胸を張った。
「記憶は君の主観で構成されているから、正しい情報とは言えない。それに記憶は美化されてしまうからね。それにしがみつくなんて、人間はやっぱりバカだ」
さすがにムッとしてしまう。
なんでナイトにそこまで言われなくちゃいけないのよ。
「君はなにをしているの?」
ナイトは冷たい目で私をじっと見つめている。
「それ、さっきも聞いたよね? 別にここにいるだけだし」
「ふうん」
興味なさげにナイトはジョリジョリと 、ざらつく舌で右足の毛づくろいをはじめた。
「それより、なんでこの間は幽霊に会えなかったの? もう旧校舎が取り壊されるまで時間がないのに、間に合わないよ」
「学校も休んでるしね」
「え?」
言われて思い出した。昨夜から頭痛がひどくなり、今日の終業式を休んでしまったんだった。
朝ご飯を食べてからベッドに戻って……。今は何時くらいなのだろう?
「ひょっとして青い月が出てるの?」
「出てると思う?」
「まさか……夢のなかまで呼びに来たってこと?」
「だったらどうする?」
質問だらけの会話じゃなんの答えも出ない。
「行かないよ」
「なんで?」
「だって……体調が悪いから」
ふん、と鼻から息を吐くナイト。
「正直、君が使者に選ばれたときは不満だし不安だった。でも、君はこれまで幽霊の思い残しを解決してくれた。かろうじて、ってレベルだけどね」
どうやらナイトは口が悪いらしい。騎士というよりは漫画に出てくるイヤミな上司みたい。
「体調は君の不安定な心を表わしている。それでも僕は使者に頼るしかない。痛みを和らげてあげるから、最後の役目をまっとうしてほしい」
たしかに前回、幽霊に会えなかったことは気になっていた。碧人ももうすぐいなくなるし、最後はふたりでがんばりたい気持ちがあるのはたしかなこと。
だけど……。
「どうして私たちが使者に選ばれたの? やっぱり青い月を見たから?」
「青い月を見られる人間は、自らも強い願いを抱えている。だけど、あの伝説に関わるにはカギが必要なんだ。君たちはあの日、カギを見つけたんだ」
「それって、『青い月の伝説』のこと?」
「そのとおり」
ふたりで絵本を見た日のことを、今でもリアルに思い出せる。静かな図書館、咳払いの音、本のにおい、碧人のはしゃぐ声。
「君が使者としておこなったことも、いつかは夢になる。だってこんな話、人間は信じないだろ?」
「うん……」
「現実世界は厳しいからね。人間は片目をつむって生きてるんだ。そのほうが傷ついたときに言い訳ができるから。でも、それじゃあ半分しか世界を見たことにならない」
「片目を……?」
「実月だって同じ。もっと現実世界を見る必要がある」
「ごめん。なにを言ってるのか――」
「わからない? 違う。わからないフリをしてるんだ」
キッパリ言い切るナイトに、眉をひそめてしまう。
私の複雑な気持ちを知らないからそんなことを言えるんだよ。言い返そうとしたけれど、なぜか口が開かなかった。
「だけど」とナイトが琥珀色の瞳を伏せた。
「君がしたことが夢だったとしても、僕だけは知ってる。君が必死で、幽霊たちの思い残しを解消したことを。そして、誰よりも碧人を好きなことを」
「え……」
体全体で伸びをしたナイトが、音もなく床に降り立った。
「あきらめようとするのもいいけど、一度閉じていた片目を開けてごらん。この世界の残酷さを知っても、君にはもうそれに耐えうる力があるはずだから」
「なにを――」と言いかける口を閉じた。
つい今、『わからないフリをしてる』って言われたばかりだ。
「自分の記憶を疑うなら、誰かに頼ってもいいんだよ。それが、君の世界の本当の色を教えてくれるはず」
ふり返りもせず、ナイトは教室から出て行ってしまった。
片目を閉じてみた。碧人への恋に似ていると思った。
幼なじみのフリをして、碧人のウソに合わせて、だけど苦しくって……。
あきらめようとすること自体、ナイトは反対していなかった。
「記憶……」
なにか私が忘れているってこと? 本当の色ってなんのこと?
今度は両目を閉じてみた。まぶたの裏にまだ青い光がちらついている。
静かな夢の終わりを、私は受け入れた。
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