旧校舎に着くころには、満月は真上で青く輝いていた。青空に空いた丸い穴からふる光が、世界を青色に染めている。

これも今日が最後になるのかな……。

碧人とふたりで会うのもこれが最後かもしれない。

ううん、違う。これからも幼なじみとしてなら会えるはず。

旧校舎の手前にある桜の木が、青色の葉を揺らしている。セミが一匹、鳴きながら逃げていった。

生命の輝きさえ悲しい色で瞳に映る。くじけそうな決心を抱えたまま、扉のほうへ進むと、ナイトがいつものように堂々と胸を張って座っていた。

「久しぶりだね」

なにも答えず、ナイトはゆっくりまばたきで返してくる。

「もうすぐこの建物、取り壊されるんだって。そうしたら、ナイトは違う場所へ行くの? 今日会う幽霊が最後のひとりなの?」

言いながら気づいた。前回は奈良の神社で幽霊に会った。佳代さんは、亡くなった場所から神社に引き寄せられた、と言っていたはず。

ということは、ここがなくなったとしても、違う場所に幽霊は集まるのかもしれない。

「あのね、ナイト……話したいことがあるの。これが私の使者として最後の役目なんだよね?」

楕円形の目に見つめられ、思わず目線を逸らした。

「伝説に参加できてうれしかった。でも、私は『使者』になれても、願いを叶えてもらう『ふたり』にはなれなかった。だから、ちゃんと区切りをつけなくちゃいけなくて……」

「いいんじゃない」

「え⁉」

ナイトがしゃべったのかと思ってギョッとしたけれど、すぐに碧人の声だとわかった。いつの間に か旧校舎のなかに立っている。

「碧人。え、先に入ってたの?」

「とっくにいた。こいつが入れってうるさいからさ」

あごでナイトを指す碧人。ナイトはツンと澄ました顔でさっさとなかに入っていく。

ひとりと一匹のあとを追いながら、頭のなかで自分が言ったことをくり返す。おかしなことを――碧人への気持ちを言葉にしてないよね?

碧人の背中を見つめながらのぼっていく。今までもそうだった。私がじっと見つめていられるのはいつもうしろ姿だけ。

この想いが消えたなら、碧人の顔をちゃんと見られるようになるはず……。

ナイトは四階へ着くと、トイレの横にある教室へ入っていく。

「え、ここって……」

去年まで私たちがいた一組の教室だ。

久しぶりに足を踏み入れると、懐かしいにおいに包まれた。今と比べると机も椅子も、床も天井だって古ぼけて見える。

「福祉科ってこんな感じなんだ」

「スポーツ科と一緒じゃないの?」

「いや」と碧人は空いている席に腰をおろした。

「うちのクラスにこんなモニターなかったし、ロッカーに扉もなかった」

「そういえばそうだね 」

夏休み前まではよく碧人の教室にも顔を出していた。あの日、『学校では話しかけないでほしい』と言われるまで、私の恋は順調だった。

今ならわかること。二学期になり、碧人は私を拒否した。友だちにからかわれたくないから、という理由はきっとウソだろう。

――最初からフラれていたんだ。

気づきたくなくて、私はずっと碧人にすがりついていた。一緒の帰り道やマンションで会うことが、切れそうな糸をかろうじてつないでくれていた。

でも、もうそれさえなくなった。

告白することはできなくても、ただの幼なじみに戻ることは表明しておきたい。

「あのね……」

口を開くと同時に、ぐわんと頭が揺れた気がした。激しい頭痛が一気に押し寄せてくる。空いている席に倒れこむように腰をおろした。

碧人は気づかずに、教壇へ足を進めると先生みたいに両手を置いた。

青い光がサラサラと碧人の顔をなでている。これがちゃんと会える最後になるのなら、その姿を目に焼きつけたかった。

なのに、碧人はヘンな顔をしている。

「幽霊、どこにいんの?」

言われて気づいた。そういえば、ここにいるはずの幽霊の姿が見えない。

「去年ここで亡くなった生徒っていないよな?」

「これまでのことを考えると場所は関係ないのかも。亡くなった時期がずっと前ってこともあるよね?」

「たしかに。せっかくだから俺、自分のクラス、見に行ってくる」

私の机にひょいとナイトが飛び乗ってきた。

「ナイト。ここで合ってるんだよね?」

「にゃん」

珍しく喉をゴロゴロ鳴らしている。触ろうとすると、隣の机に逃げてしまった。

少し離れた場所から見つめる視線が、いつもよりやさしく見えた。なにもかも見透かされている気がして、空に視線を逃がした。

青空に青い月が輝いていて、見えるものすべてをその色に染めている。

それはまるで、恋に似ている。好きな人は青い月のように、見える世界をその人の色に変えていく。

また碧人のことを考えていることに気づき、机に頬をつけた。ひんやりとした感覚が生きていることを実感させてくる。

「なあ」

碧人の声にゆるゆると顔をあげた。

「ぜんぶの教室を見たけど、どこにもいないんだけど」

教室の前の扉にもたれ、碧人は不満げに腕を組んだ。

「ひょっとしたら私のせいかもしれない」

「え、なんで?」

「……体調がよくなくって。勉強のし過ぎかも」

「それはないな。一夜漬けが(たた)ったんだろ?」

ニヤリと笑う碧人に、わざとらしくため息をついてみせた。

「うるさいな。碧人だってどうせ勉強してなかったんでしょ?」

「やってもやらなくても結果が同じなら、遊んでたほうがいいし」

そうそう、私たちはこんな感じだった。お互いをからかって、最後はふたりで大笑いしていた。

……きっと大丈夫。碧人と幼なじみに戻れるはず。

「とりあえず今日は帰ろうか。寝不足だし」

椅子から立ちあがる私に、碧人が「あのさ」と声のトーンを低くした。

碧人が『あのさ』と口にするときは、悪いニュースの前兆なことが多い。部活を辞めることも引っ越しをすることも、同じ言葉からはじまっていた。

思わず身構える私に、碧人は言った。

「二学期から奈良の高校に編入することになったんだ」

ニガッキカラ ナラノ コウコウニ――。

「……え、なんで?」

「どっちにしても二学期からは普通科に変わることになるし、それなら学校ごと変えちゃったほうがいいかも、って。親に言ったら大賛成でさ」

「そう、なんだ。でも……編入試験とかどうするの?」

「ないない。定員割れしてるとこみたいで、内申書だけでOKもらってる」

しん、とした教室にチャイムの音が聞こえた。

そういえば今日はチャイムが鳴っていなかったことを思い出す。これから幽霊が出てくるのかも……。

でも、もう帰りたくて仕方ない。

「いつ……引っ越すの?」

「今のアパートに引っ越してから日が経ってないだろ? 実は荷物、あんまり開けてなくてほとんど段ボールに入れたままでさ」
 
早めに引っ越しをするということなのだろう。

泣きたい。泣きたい。泣きたくてたまらない。

胸にこみあげてくるせつなさを無理やり押しこむと、また頭痛が視界を揺らした。

「……仕方ないよね」

そう言うと碧人はホッとしたような顔で笑う。

「いいタイミングだよな。ちょうどここも取り壊されるし」

旧校舎が壊されることは、碧人の引っ越しとは関係ないことでしょう? どうしてこんな悲しい話なのに笑っていられるの?

たくさんの疑問を吞みこんで、私も笑う。

「使者としての役割、ちゃんと手伝ってからにしてよね」

「もちろん。明日また出直すか」

外に出ると、青い月はもう見えなかった。引っ越しの準備があるのだろう、碧人はバス停へ走っていく。その背中を見送ってから、私も歩きだした。

頭のなかがぐちゃぐちゃ。心までぐにゃりとねじ曲がっている気がする。こんなに悲しいのに、涙が出てくれない。

どんどん私から離れていく碧人。一年かけて長い予告編を見せられた気分。ついに、本当に消えてしまうんだね。

幼なじみの関係に戻るとしても、まさか距離まで離れてしまうなんて。

でも、私は平気だよ。最初からずっとひとりぼっちだったから。