講演会を抜けるのは意外に簡単だった。
小早川さんの具合が悪くなったことにして、私が部屋までつきそうという作戦で、考案者は葉菜。
先生にも余裕がないのだろう、あっさりと解放され、ふたりでホテルの部屋に戻った。
聞きたいことがたくさんあったけれど、ゆうべは梨央奈が『幽霊の話はやめて!』と拒否したのでできなかった。
部屋に戻ると、ナイトが布団で丸くなって寝ていた。
「昨日は突然あんな話題を出してしまい、申し訳ありませんでした」
テーブルを挟んで座り、すぐに小早川さんは口を開いた。
「すごく驚いちゃった。私と碧人以外――スポーツ科の幼なじみなんだけど、ふたり以外の人には見えてないと思ってたから……」
「葉菜さんからも話を伺いました。彼女が教室に通えるようになったのは、お姉さんに会わせることができたからだそうですね」
「葉菜はあの日、青い月が見えたの。てことは、小早川さんも会いたい人がいる、ってこと?」
「いえ」
短く答えてから、小早川さんは言葉を探すように天井に目を向けた。髪で隠れていたかわいらしい瞳が見える。
「祖母が亡くなったときは病室で見送ることができましたし、ほかには身近で幽霊になったと思われる人はいません」
「じゃあ……」
「亡くなった祖母は霊感の強い人でした。その影響でしょうか、私も小さいころからたまに幽霊らしきものが視えてしまうんです」
指先で前髪を何度もなでたあと、小早川さんは肩で息をついた。
「道を歩いていても、駅前にいても学校にいても、うっすらとした影のようなものが視えてしまいます。強い思い残しがあった人にいたっては、生きている人と見た目も変わらず、話までしてくる人も。でも、祖母以外、誰も信じてくれませんでした」
「そうだったんだ……」
小早川さんが布団の上で伸びをするナイトに顔を向けた。悲しそうな瞳が前髪の間にあった。
「祖母が『青い月の伝説』の話をしてくれました。『瞳は――』、あ……私の名前です。『瞳は使者になる役割があるんだよ』と。でも、私は拒否しました。幽霊なんて見たくないし、自分のことで精一杯だから、そんなことできないって」
青い月が出る日だけじゃなく、普段から視えているとしたらそういう気持ちにもなるだろう。
「でも、それ以来、青い月が見えるようになったんです。これまで以上に幽霊もはっきりと視えるようになりました」
なんと言えばいいか迷っていると、小早川さんは自分の前髪を指さした。
「だから、なるべく周りが見えないように壁を作ることにしたんです」
「そうだったんだ……。気づいてあげられなくてごめんね」
「言ってなかったから当然です」
深いため息をつき、小早川さんは窓辺に移動した。
真昼の月は青く、奈良の街を薄青に染めている。
「黒猫……ナイトさんは空野さんを導く役割。おそらく、この街にいる誰かに会ってほしいのでしょう」
「にゃん」
そうだ、とナイトが同意した。
「困るよ。研修旅行中に抜けることなんてできないし」
「今だって抜けてきたじゃないですか。やろうと思えば不可能じゃないです」
そんなことを言う小早川さんに顔をしかめてしまう。思ったよりも積極的な性格らしい。
「でも、この街のどこに幽霊がいるのかはわからないし、それに、幽霊が 会いたい人だって見つけなくちゃいけないでしょう?」
「え?」
きょとんと小早川さんが首をひねった。
「ご存じないのですか? 青い月の真下に幽霊が現れるって祖母は言ってましたが」
「真下? あ、ほんとだ」
言われてみれば、幽霊に会う日の月は、毎回真上で輝いていた。
そうだったんだ……。
ナイトの前に膝をつくと、彼は優雅に毛づくろいをしている。
「そもそもなんで私なの? もっと時間とか余裕のある人を使者にしたほうが効率的だと思うよ」
いつものように無視を決めこむナイト。小早川さんが「私も」と、隣に座った。
「使者の役割はずっと続くのですか? 何回かこなしたら、幽霊そのものを視えなくしてもらうことはできませんか?」
「にゃん」
それには答えるんだ……。
「え、何回か使者をすれば視えなくしてくれるってことですか? 一回ですか?」
ナイトが琥珀色の目で小早川さんを見つめている。
「じゃあ、二回?」
まだ動かない。
「三回? え、もっと? それじゃあ四回ですか?」
「にゃん」
ゆっくりまばたきをしたナイトに、小早川さんは「本当に?」とかすれた声になる。
「四回使者になれば、幽霊そのものが視えなくなる? ウソじゃないよね?」
いつもの敬語も忘れ、小早川さんは興奮した様子で頬を赤らめている。
「でも」と、私はふたりの――ひとりと一匹の会話に割りこんだ。
「旧校舎は夏休みに取り壊されるんだよね? ひょっとして、旧校舎がなくなっても、使者をしなくちゃいけないの?」
ナイトは『当たり前だ』と言いたげに、ゆっくりまばたきで返してきた。
そんな……。てっきり逃れられるとばかり思ってきた。
「きっとそうですよ。幽霊はどこにでもいます。奈良までついてきたということは 、、そういうことなのでしょうね」
感心したように小早川さんは何度もうなずいている。
「ナイト、私は? 私も四回で使者としての役割は終わるの?」
「にゃん」
ふたりで顔を見合わせた。
「私は今、二回使者になったよね? じゃあ、今回を入れてあと二回でいいんだ……」
「私も」と小早川さんはつぶやいた。
「今から使者の役割をすれば残り三回。それで解放されるんです」
だとしたらやるしかない。
無意識にお互いの手を握り合い、うなずき合った。
小早川さんの具合が悪くなったことにして、私が部屋までつきそうという作戦で、考案者は葉菜。
先生にも余裕がないのだろう、あっさりと解放され、ふたりでホテルの部屋に戻った。
聞きたいことがたくさんあったけれど、ゆうべは梨央奈が『幽霊の話はやめて!』と拒否したのでできなかった。
部屋に戻ると、ナイトが布団で丸くなって寝ていた。
「昨日は突然あんな話題を出してしまい、申し訳ありませんでした」
テーブルを挟んで座り、すぐに小早川さんは口を開いた。
「すごく驚いちゃった。私と碧人以外――スポーツ科の幼なじみなんだけど、ふたり以外の人には見えてないと思ってたから……」
「葉菜さんからも話を伺いました。彼女が教室に通えるようになったのは、お姉さんに会わせることができたからだそうですね」
「葉菜はあの日、青い月が見えたの。てことは、小早川さんも会いたい人がいる、ってこと?」
「いえ」
短く答えてから、小早川さんは言葉を探すように天井に目を向けた。髪で隠れていたかわいらしい瞳が見える。
「祖母が亡くなったときは病室で見送ることができましたし、ほかには身近で幽霊になったと思われる人はいません」
「じゃあ……」
「亡くなった祖母は霊感の強い人でした。その影響でしょうか、私も小さいころからたまに幽霊らしきものが視えてしまうんです」
指先で前髪を何度もなでたあと、小早川さんは肩で息をついた。
「道を歩いていても、駅前にいても学校にいても、うっすらとした影のようなものが視えてしまいます。強い思い残しがあった人にいたっては、生きている人と見た目も変わらず、話までしてくる人も。でも、祖母以外、誰も信じてくれませんでした」
「そうだったんだ……」
小早川さんが布団の上で伸びをするナイトに顔を向けた。悲しそうな瞳が前髪の間にあった。
「祖母が『青い月の伝説』の話をしてくれました。『瞳は――』、あ……私の名前です。『瞳は使者になる役割があるんだよ』と。でも、私は拒否しました。幽霊なんて見たくないし、自分のことで精一杯だから、そんなことできないって」
青い月が出る日だけじゃなく、普段から視えているとしたらそういう気持ちにもなるだろう。
「でも、それ以来、青い月が見えるようになったんです。これまで以上に幽霊もはっきりと視えるようになりました」
なんと言えばいいか迷っていると、小早川さんは自分の前髪を指さした。
「だから、なるべく周りが見えないように壁を作ることにしたんです」
「そうだったんだ……。気づいてあげられなくてごめんね」
「言ってなかったから当然です」
深いため息をつき、小早川さんは窓辺に移動した。
真昼の月は青く、奈良の街を薄青に染めている。
「黒猫……ナイトさんは空野さんを導く役割。おそらく、この街にいる誰かに会ってほしいのでしょう」
「にゃん」
そうだ、とナイトが同意した。
「困るよ。研修旅行中に抜けることなんてできないし」
「今だって抜けてきたじゃないですか。やろうと思えば不可能じゃないです」
そんなことを言う小早川さんに顔をしかめてしまう。思ったよりも積極的な性格らしい。
「でも、この街のどこに幽霊がいるのかはわからないし、それに、幽霊が 会いたい人だって見つけなくちゃいけないでしょう?」
「え?」
きょとんと小早川さんが首をひねった。
「ご存じないのですか? 青い月の真下に幽霊が現れるって祖母は言ってましたが」
「真下? あ、ほんとだ」
言われてみれば、幽霊に会う日の月は、毎回真上で輝いていた。
そうだったんだ……。
ナイトの前に膝をつくと、彼は優雅に毛づくろいをしている。
「そもそもなんで私なの? もっと時間とか余裕のある人を使者にしたほうが効率的だと思うよ」
いつものように無視を決めこむナイト。小早川さんが「私も」と、隣に座った。
「使者の役割はずっと続くのですか? 何回かこなしたら、幽霊そのものを視えなくしてもらうことはできませんか?」
「にゃん」
それには答えるんだ……。
「え、何回か使者をすれば視えなくしてくれるってことですか? 一回ですか?」
ナイトが琥珀色の目で小早川さんを見つめている。
「じゃあ、二回?」
まだ動かない。
「三回? え、もっと? それじゃあ四回ですか?」
「にゃん」
ゆっくりまばたきをしたナイトに、小早川さんは「本当に?」とかすれた声になる。
「四回使者になれば、幽霊そのものが視えなくなる? ウソじゃないよね?」
いつもの敬語も忘れ、小早川さんは興奮した様子で頬を赤らめている。
「でも」と、私はふたりの――ひとりと一匹の会話に割りこんだ。
「旧校舎は夏休みに取り壊されるんだよね? ひょっとして、旧校舎がなくなっても、使者をしなくちゃいけないの?」
ナイトは『当たり前だ』と言いたげに、ゆっくりまばたきで返してきた。
そんな……。てっきり逃れられるとばかり思ってきた。
「きっとそうですよ。幽霊はどこにでもいます。奈良までついてきたということは 、、そういうことなのでしょうね」
感心したように小早川さんは何度もうなずいている。
「ナイト、私は? 私も四回で使者としての役割は終わるの?」
「にゃん」
ふたりで顔を見合わせた。
「私は今、二回使者になったよね? じゃあ、今回を入れてあと二回でいいんだ……」
「私も」と小早川さんはつぶやいた。
「今から使者の役割をすれば残り三回。それで解放されるんです」
だとしたらやるしかない。
無意識にお互いの手を握り合い、うなずき合った。