小早川さんは不思議な人。

教室ではほとんどしゃべらないし、長い前髪に隠れるようにうつむいていることが多い。

けれど、今日の実習ではぜんぜん違った。前髪を耳にかけ、ニコニコと元気よくデイサービスを利用している人と話をしていた。

「コバヤンって二重人格なわけ?」

ホテルの部屋で梨央奈が急に尋ねた。どうやらあだ名をつけたらしい。

ちなみに梨央奈は私と知り合って早々に『ミッツ』と呼んできたけれど、すぐに却下している。あきらめずに何度もその名前で呼んできたけれど、根気よく修正したことで今では普通に名前で呼んでくれている。

お風呂も終わり、明日の研修報告会での資料をまとめている最中だった。

部屋は広い和室で、窓からは猿沢池が見下ろせる。足の短いテーブルの向こうには布団が四組敷かれている。

「いえ……そんなことはありません」

向かい側に座る小早川さんがおずおずと答えた。もう前髪はおりてしまっている。

テーブルの上には今日のレポートが置かれていて、私たちの倍以上の文字で埋まっている。

「だって教室にいるときとぜんぜん違うし。双子の妹とすり替わってんのか、って思ったくらい。めっちゃ利用者さんとしゃべってたじゃん」

ね、と梨央奈が私に同意を求めてきた。

「すごく楽しそうだったし、頼りがいがあったよ。私がおやつの介助の仕方を迷っていたときも助けてくれたよね?」

小早川さんはもう、うつむいてしまっている。

浴衣が気になるのか、斜め前に座る葉菜は胸元をたぐり寄せつつ、

「あのね」

と隣の小早川さんに体ごと向いた。

「小早川さんの気持ちが少しわかるよ。私も、本当に心を許した人としか話せなかったから」

葉菜はお姉さんと旧校舎で話をしてから変わった。教室に来るようになったし、クラスメイトとも今までがウソのように話をしている。

私との距離も近づき、今では呼び捨てで名前を呼び合う仲になった。

「それくらい、介護が好きなんだよね?」

葉菜がそう言うと、少し遅れて小早川さんはうなずく。

「好き、というか……それしかないから」

「初めて会った人にあんなににこやかに接することができてすごいと思った。私も見習わなくちゃ、って反省してたところ」

葉菜の言葉に、小早川さんは恥ずかしそうに首を何度も横にふった。

梨央奈が手鏡をテーブルに置いた。梨央奈は明日の準備よりも、肌の手入れが大事な様子。テーブルの上に化粧水や美容液、クリームを販売でもしそうなくらいたくさん並べている。

「あたしもコバヤンを見てたら、介護っていいかもって思っちゃった」

「私の話はもういいです。逃げ出したくなります」

顔を真っ赤に染める小早川さんにみんなで笑った。少しだけ距離が近づいた気がした。

「ご飯はイマイチだったね。デザートもなかったし」

夕食が不満だったらしく、梨央奈はずっとぼやいている。

「売店に なにか買いに行く?」

葉菜の提案を、「まさか」と秒で梨央奈は却下した。

「こういうところは法外な料金設定なんだよ。モッチも絶対に買っちゃダメだからね」

法外ではないと思うけれど、普段から節約している梨央奈には耐えがたいのだろう。

「チョコレートなら持ってるけど食べる?」

小型のトランクには、それ以外にも(あめ)やガムを忍ばせている。

「さすが実月。お願い、あたしに糖分を補給して」

「了解」

部屋の隅にまとめてあるトランクへ向かう。あれ、リュックのほうに入れたような気もする。リュックのなかを先に探してみるが、甘いものは入ってなかった。

「やっぱりトランクか」

ジッパー式のトランクはこの研修旅行のために買ってもらった。小型なのに容量が大きくてお気に入りだ。

トランクを開けると、なにか黒いものが目に飛びこんできた。

こんな色の洋服なんて入れたっけ……。

触ってみると、やわらかくて温かい。

「……え?」

「にゃお」

ぐいんと背伸びをしたのは――ナイトだった。

「ウソでしょ⁉」

大声で叫ぶ私に、なにごとかと梨央奈が首を伸ばした。

「え、猫? まさか、実月連れてきちゃったの?」

「うちの猫じゃないし。でも、なんでナイトがここにいるのよ」

荷物を詰めたのは家でだから、入ることはできなかったはず。学校に集合したときだって開けていないし、そもそも実習先で何度か荷物の出し入れをしたときだって……。

そこで考えることをあきらめた。雨だってすり抜けられるナイトだから、忍びこむことだって簡単にできたはず。

ナイトはテーブルにひょい、と乗るとみんなに愛想をふりまいている。

「えー、ナイトくんついてきちゃったんだ。この間はありがとうね」

葉菜が頭をなでると、気持ちよさそうに目を閉じるナイト。

ペットが荷物に入ってた、という話は聞いたことがあるけれど、研修旅行先でというのはかなりまずい。しかもあと二日間もあるし。

「しょうがない。とりあえず芳賀先生に言ってくる」

立ちあがると同時に、ナイトが部屋のドアの前に先回りして立ちふさがった。

「ちょっと通してよ」

「シャーッ!」

毛を逆立てるナイトに、がっかりする。

ああ、最悪だ……。せっかくのいい一日が台無しになってしまった。それどころか、この先の二日間も悪い展開しか予想できない。

「あの」

それまで黙っていた小早川さんが口を開いた。

「たぶん意味があるんだと思います」

「意味?」

「ナイトさんは、空野さんに頼みたいことがあってついてきたんです」

机とにらめっこしながら言う小早川さんに、梨央奈がクスクス笑った。

「コバヤン、ウケる。そんなわけないでしょ」

「それがあるんです」

小早川さんはスッと立ちあがったと思ったら、窓のカーテンを開いた。

「空野さんには見えていますよね? 空に青い月が出ています」

まさか青い月の話が小早川さんから出ると思っていなかったから絶句してしまう。

「青い月?」と梨央奈が空を見あげてから首をひねった。

「どこが青いのよ。普通のお月さまじゃん」

「今回は私も見えないみたい」

葉菜も同じ反応だ。

「まだ薄いですが、これからどんどん青色が濃くなると思います」

さっきまでの小声ではなく、はっきりと小早川さんは言う。

「これまでも青い月が見えていたの?」

まさかの発言に、おそるおそる尋ねた。

「数年前から見えるようになりました。おそらく明日は朝から青い月が空に浮かぶのでしょう。この街のどこかに使者を待つ人がいるという証拠です」

「え……なんで知っているの?」

質問しか出てこない私に、小早川さんはうなずいた。

「『青い月の伝説』に出てくる使者のことです」

「うん……」

カラカラに乾いた声でうなずくと、小早川さんはナイトの頭をそっとなでた。

「この黒猫は幽霊です。おそらく強い力を持っているから、私たちにも見えるのでしょう。そして、使者は空野さん、あなたですよね?」

前髪の間にある瞳が、まっすぐに私を見つめている。

「にゃん」

と、代わりにナイトが答えた。