ホテルにつくころには、奈良の街は夕闇に包まれていた。

(さる)(さわ)(いけ)と呼ばれる大きな池のほとりに建つホテルに私たちは泊まるそうだ。

今は班ごとに部屋のカギをもらっていて、私のグループは梨央奈が代表。ほかのメンバーはお客さんの邪魔にならないよう旅館の外で待機している。

猿沢池のほとりにあるベンチに座っていると、誰かが隣に座った。一瞬、碧人かもと期待してしまったけれど、違った。

「お疲れさん」

芳賀先生は座るなり、足をガバッと開いた。黒ジャージのせいで、散歩にでも来たみたいに見える。

「今日はありがとうございました」

「どうなるかと思ったけど、山本さんとけっこう仲良くしてたね。お風呂も入ってくれたし」

口からあくびを逃がしながら芳賀先生が言った。

「芳賀先生のおかげです。山本さんから教師をしていたころの話、たくさん聞かせてもらいました」

「急に来た人に介助されて、怒っちゃう気持ちもわかるよね。明日からはもう会わないわけだし」

幽霊との出会いによく似ている。長い時間あの場所に捕らわれた人の心をほどくには、誠心誠意対応しないと。

いや、もう六月だから会えるチャンスはないのかもしれない。夏休みになったら旧校舎は取り壊されてしまう。

「生きている人にちゃんと接しようと思いました」

「生きている人?」

きょとんとする芳賀先生に、なんでもない、と急いで首を横にふった。

「すべての人に、しっかり接します」

「いい心がけね。ほかにも反省点はある?」

顔を向けてくる芳賀先生。

「山本さんの個人ファイルをしっかり見ていませんでした。あとで見たら、教師だったことも、お風呂嫌いなことも書いてありました」

ファイルには山本さんの情報が詰まっていた。仕事のことや病気のことだけじゃなく、家族関係や好きな食べものまで。

「まずは情報が大事。そこから援助する方法を見つけるの」

「はい」

芳賀先生がじゃれ合っている男子に「こら!」と注意しに行った。スポーツ科の生徒が制服を着ているのは珍しい。

碧人はどこにいるんだろう。会う機会が減ってからは、前よりもずっと碧人のことを考えている。廊下に、校門に、帰り道にその背中を探してしまう。

幼なじみとしての会話が歯がゆかったけれど、今となってはかけがえのない時間だったとわかる。宝物のようにキラキラした時間は、もう戻らない。

あきらめたほうがいいのかな……。

これまでも何度もあきらめようとしたけれど、そのたびにあきらめることをあきらめてきた。

今、心のなかで小さな決心が生まれている。

碧人への気持ちを、手放すときが来たのかもしれない。

幽霊になった人は、思い残しに苦しんでいた。私だって今、死んでしまったら確実に幽霊になるだろう。それよりも、恋のフィルターをはずし、昔みたいに碧人となんでもないことで笑い転げたい。

でも…… ずっと覚えていたい自分もいる。ああ、なんてややこしい感情なのだろう。

「ため息なんかついて、どうかした?」

「ひゃあ!」

思わず悲鳴をあげてしまった。目の前にいつの間にか碧人が立っていた。

「え、いつの間に?」

「声かけたのにボーッとしてるから。てか、みんな見てる」

悲鳴をあげたせいで注目を集めたらしい。碧人がホテルの裏側へ向かったのでついていくことにした。

白いシャツがまぶしくて、背の高い碧人によく似合っている。

碧人の存在はどんどん大きくなって、逆に自分はちっぽけだと思ってしまう。そんな恋を、ずっとしてきた。

あきらめようという決意が早くも揺れている。

「ここなら誰にも見られないはず」

碧人が足を止めた。誰かに見られたって、私はかまわないのに。

「そっちの研修はどうだったの?」

だけど、私はなんでもないように尋ねるの。好き、の気持ちが漏れないように。碧人にだけはバレてしまわないように。

「部活によって違って、テニス部と野球部は最新のAI技術について勉強しに行った。でかい会社でさ、設備がすごかったよ。ま、俺は元テニス部って立場だから、居心地が悪かったけどな。福祉科は実習だっけ?」

「すごく勉強になったよ。梨央奈なんて、最後の挨拶のときに号泣してた」

そう言ってから、梨央奈が碧人のことを覚えていなかったことを思い出した。

「あ、梨央奈っていうのはクラスメイトで――」

「七瀬梨央奈さん。実月の親友だろ? それよりさ、気づいてた?」

碧人が人差し指を上に向けた。

空には()(えん)(けい)の月が浮かんでいて……。

「あっ!」

気づかなかった。月がほのかな青色に変化している。

「俺もさっき気づいたとこ。こんな場所でも青い月が見られるんだな」

「じゃあ、今ごろ旧校舎に誰かいるんだね」

「さすがに行ってやることはできないけどな」

碧人は腕を組み、残念そうに言っている。

「どっちにしても碧人は幽霊が怖いからムリだもんね?」

「ないない。怖いと思ったことは一度もない」

言葉をくり返すのは、ウソをついている合図。自分でも気づいたのだろう、碧人は「いや」と首を横にふった。

「幽霊を手伝いたい気持ちはあるけど、俺も余裕なくってさ」

「普通科に変わるのはいつから?」

碧人は、テニス部を辞めてしまった。先週、『普通科に移る』と言われたけれど、それも決定してから報告された。

「今、担任と話し合ってるところ」

「ケガの後遺症、ひどいの?」

「平気平気」

また、ウソをついている。

やっぱり私には相談はしてくれないんだ……。落ちこみそうになるけれど、こうして話ができただけでもうれしいと思わなくちゃ。

そろそろうちのグループが部屋のカギをもらう時間だ。

「じゃあ、またね」

いつものように軽い口調で言った。

やっぱり碧人をあきらめることなんてできない。そんな自分が、少しかわいそうに思えた。