学校から出られるのは最高だ。ナイトも現れないし、幽霊だって見なくて済む。

気分がいいと空気まで()()しく感じるから不思議。

今日から二泊三日で奈良県に研修旅行に来ている。奈良県には初めて来たけれど、想像していたとおりの街だった。

お寺や神社がいたるところにあり、景観を守るために高い建物があまりない。観光客よりも多いんじゃないかというくらい、たくさんの鹿が街を歩いている。

研修旅行という名前はついているものの、行程表に記載されている内容は、軽めの修学旅行というイメージ。介護施設での実習は今日の午後だけで、明日の午前は講演会を聴講し、午後は観光。最終日は京都を観光してから帰るというスケジュール。

私のいる福祉科と碧人のスポーツ科では、研修先は違うものの、ホテルや観光では一緒になる。

最近は碧人と会う機会がどんどん減っている。碧人が引っ越してしまってからは、帰り道も違うし、当たり前だけどマンションで会うこともない。

旅行中に少しでも話ができればいいな……。

私のグループの研修先は、『ならまち』と呼ばれる古い街にあるデイサービス。朝、利用する高齢者をお迎えに行き、お風呂や食事、運動をして夕方に家まで送る施設だ。

グループメンバーは梨央奈と、葉菜と小早川さんの四名。施設の担当者がつき、到着早々業務の手伝いをしている。

が、なぜか私の担当者だけはデイサービスの職員ではなく、芳賀先生だ。

スタッフの人数が足りないそうで、梨央奈からは『くじ運がないね』と同情されてしまった。人見知りな私だから、知らない人についてもらうよりはよっぽど気楽だ。

「空野さん、ここからのぼり坂だから(やま)(もと)さんの体を支えてもらえる?」

いつもの黒ジャージ姿の芳賀先生が、先を行く山本さんのほうを見た。

昼食後の運動を兼ね、利用者である山本さんとならまちを散歩している。山本さんは八十五歳のおじいさんで、そうとう頑固っぽい。

眉間には常に深いシワが刻まれていて、私が話しかけてもまるで無視。

この施設についたのはお昼前。山本さんがお風呂に入ることを拒否しているのに出くわした。昼食も『まずい』と言ってほとんど食べず。散歩に行く前も『(つえ)なんて持たん』と、ひとりで出ていこうとした。

「山本さん、危ないので腕を持ちますね」

「余計なことや」

関西弁でピシャリと言われたけれど、やはり年齢のせいか足元がふらついている。

「失礼します」

強引に脇に手を入れると、「離せ!」とふりほどこうとする。

「すみません。危ないので我慢してください」

「俺が転ぶと思ってんのか。バカにすんな!」

杖を渡すが、凶器代わりにふり回す山本さん。なにごとか、と道行く観光客が目を丸くしている。

困った。このままではふたりして転んでしまいそうで、仕方なく手を離した。

見かねた芳賀先生が、駆け寄ってきて山本さんに頭を下げた。

「山本さんがひとりで歩けることは見ていてわかりますが、空野さんの研修のためなんです。彼女が立派な介護員になれるよう、ご協力いただけないでしょうか?」

「なんで俺が協力せんとあかんのや」

「同じ教職者としてお願いしています。以前、教師をされていたんですよね?」

芳賀先生の言葉に、きょとんとしてしまった。

「山本さん、先生だったのですか?」

「昔のことや。中学校で四十年教えとった」

胸を反らす山本さんに、芳賀先生はホクホクとした笑みを浮かべた。

「私の大先輩ですね」

「あんたはまだ十年くらいか?」

「やだ。私、もっと歳取ってるんです。そんなに若く見えますか?」

「冗談に決まってるやろ。お世辞っちゅうやつや」

ニヤリと笑う山本さんに、

「ガハハ!」

芳賀先生はおかしそうにお腹を抱えた。

聞こえるように大きくため息をついてから、山本さんは私に左腕を差し出した。

「しょうがない。帰るまでやで」

「あ、はい」

おずおずと腕を持つと、

「持つならしっかり持たんかいな」

と、注意までしてくる。

なだらかな坂をゆっくりと歩く。電話がかかってきたらしく、芳賀先生は立ち止まってなにやら話しこんでいる。

「ここも変わってしもうた」

山本さんがボソッと言った。

「奈良県は観光の街やけど、ならまちに人はおらんかった。商人の街として栄えとったが、今じゃこじゃれた店ばっかりや。おまけにデイサービスまであるしな」

ならまちは初めて来たけれど、古い町並みのなかに新しい店が混在しているイメージ。長屋と呼ばれる古い家の隣にかわいい雑貨屋さんがあったりして、平日なのに観光客でにぎわっている。

どう答えていいのかわからないでいると、山本さんは「ふん」と鼻を鳴らした。

「古いものは(とう)()されていくんやろうな。俺も同じや。デイサービスなんか行きたくないのに、家におられちゃ邪魔なんだとよ」

『淘汰』の意味はわからないけれど、言いたいことはなんとなく理解できた。

「デイサービスが嫌いですか?」

「大嫌いや。そやけど、『デイサービスに行かへんかったら施設に入れるで』って息子が脅してくるから、しょうがなく来てやってる。こうなったら家出するしかないな」

「…………」

「そこは笑うとこやで。ま、関西人やないからしゃーないな」

さっきよりも表情も言葉もやわらかくなっている。芳賀先生が山本さんの怒りを収めてくれたおかげだろう。

「受け入れるしかないんや。人も街も、時代とともに変わっていくからな」

山本さんは、さみしさをごまかすために強気でいるしかなかった。自分はほかの人とは違う、と思いたいのにどんどん体は動きづらくなって……。

「堂々としていればいいと思います」

気づけば勝手に言葉になっていた。

「山本さんもこの街も、古くなんかありません。時代を作ってきた大切な存在です。でも、堂々とするためにも、デイサービスで運動は続けてほしいです。あと、キレイでいるためにはお風呂も――」

そこまで言ってハッと口を閉じた。なにを偉そうに言ってるんだろう。

気分を悪くしたかもしれない。いや、しただろう。

「すみませんでした」

シュンとする私に、山本さんが「ほら」と細い道の先にある一軒の店を指さした。

見た感じは古い町屋の建物だけど、のれんに『()(おん)食堂』と書かれている。

「あそこは朝食専門の店やで。おもろい店主がいてな、たまに息子に連れて来てもらってる。最近、店の子と結婚したんやって」

その横顔がやさしく見えた。

「町家の見た目はそのままに、中身だけ改装してる。俺ら老人も中身を変えていかんとあかんのやろうな」

そう言ったあと、山本さんは私をチラッと見た。

「誰かさんが余計なことを言うから風呂に入りたくなったわ。今から戻っても、間に合うもんやろか?」

「きっと大丈夫ですよ。なんなら私が手伝います」

「研修生になにができるんや」

言葉は厳しいけれど、シワだらけの顔をくしゃっとして笑っている。

歩きだすと、遠くの空に真昼の月が見えた。

そっか、今日は青い月が出るんだった。あの旧校舎に取り残された人が待っているかもしれないと思うと胸が痛んだ。同時に頭痛も少し顔を出している。

罪悪感を持っても、さすがにここから旧校舎に行くことはできないけれど。