テストが終わると同時に、教室の空気が一気に動き出す。
雄たけびをあげる男子、教科書をめくる音、椅子を引く音。たくさんの音が、波のように押し寄せてくる。
「もう最悪。苦労して覚え たところが一問も出なかった~」
しょげる梨央奈を慰めながら、葉菜さんの席をさりげなく見ると、席を立つところだった。
このあとは研修旅行の打ち合わせがあり、半分のグループが教室に残る。私と梨央奈、葉菜さんのグループの説明は明日の放課後におこなわれる。
「今日はスーパーに寄ってくの?」
「もちろん行く。こうなったら、やけ買いしちゃうんだから」
乱暴に荷物をバッグに詰めこむ梨央奈に笑ってしまう。
「笑わないでよ。これでも落ちこんで――」
私に視線を戻したとたん、梨央奈が動きを止めた。気づくとクラスメイトもなぜか私のほうを見ている。
え、なに……?
横を見ると、いつの間にいたのか葉菜さんが立っていた。
「あ、葉菜さん」
「ちょっと職員室に呼ばれちゃって。少し遅れちゃうかも」
「わかった。じゃあ、先に行って待ってるね」
小さくうなずくと、葉菜さんは急ぎ足で教室を出て行った。
とりあえず約束は守ってくれるみたいでホッとした。
「ちょっと!」
梨央奈が私の肩をつかんで激しく揺さぶってきた。
「どういうこと? なんでモッチとしゃべってるの?」
「モッチ?」
「持田さんのこと。勝手にあだ名つけてんの。って、そんなことはどうでもいいんだって。いつの間に知り合いになったのよ」
周りのみんなも気になるようで、特に三井くんは顔を近づけて私の返事を聞こうとしている。
「まあ、クラスメイトだし……。家が近いのもあって、ね」
あいまいに答えつつ廊下に目を向けると、ちょうど碧人が通りかかったところだった。目が合うと、バイバイと手をふって帰って行く。
絶対に幽霊に会わずに済んでホッとしているに決まっている。今朝、マンションの前で会ったときに、ふたりきりで会うことになったと伝えたところ、碧人は『残念残念』とウソをついていた。
「いいなあ」梨央奈の声に視線を戻した。
「あたしもモッチと仲良くなりたい。声、すっごくかわいかったね」
「うん」
「じゃあ、僕も」
三井くんがそう言うと、「あんたはダメ」とすかさず梨央奈が言った。
「こういうのはまず女子同士から。研修旅行が同じグループだから話しかけたかったんだよね」
普通科に変わることを知ったら驚くだろうな。ひょっとしたら梨央奈なら、葉菜さんを説得できるかもしれない。
「今度一緒にしゃべろうよ。葉菜さんのことを知れば、絶対に好きになるから」
「もちろん」
そううなずいてから、なぜか梨央奈は三井くんに目で合図を送った。三井くんもなぜかうなずいている。
「え、なに?」
違和感にそう尋ねると、梨央奈は肩をすくめた。
「こないだ、ひでじいと話してたんだよ。『最近の実月、前と違うよね』って。いい意味でだよ」
「そうそう」と三井くんも同意した。
「進化したっていうか、なにかを乗り越えたっていうか。そんな感じ」
そんな話をしていたなんて驚いてしまうけれど、身に覚えがないわけじゃない。
幽霊との出会いによって、考え方が変わったのは自覚している。ううん、幽霊だけじゃない。葉菜さんと話せたことも大きな一因だ。
みんな言葉にできないなにかを抱えている。重荷を取り除くことはできないけれど、一緒に支えられる私になりたい。そう思える自分になれた。
「褒め言葉だと受けとって おくね」
いつか梨央奈に、今起きていることを話したい。幽霊を信じない梨央奈だけど、真剣に話せば理解してくれるかもしれない。
「好きな人ができたとか言わないでよ。そういう話はごめんだからね」
釘を刺してくる梨央奈に、「まさか」と笑ってみせる。
碧人への想いを話せる日はくるのかな。恋愛の話になるたびに、『言ってはいけない』と心の声が聞こえてくる。
そして、また頭痛が音もなく顔を出す。
「恋なんてするわけないでしょ。梨央奈こそ、抜けがけしないでよね」
「恋はお金がかかるからしないの」
堂々と宣言する梨央奈に三井くんは呆れ顔だ。
廊下へ出て階段をおりる。踊り場でふり返る。下駄箱で見渡す。
いなくて当たり前だけど、つい碧人の姿を探してしまう。いつも、『よう』って突然声をかけてくる彼だからいるような気がした。
旧校舎に向かっていると、満月が真上に浮かんでいた。少しずつ青色になるにつれ、周りの景色も同じ色に変わっていく。
「集中しないと……」
今は葉菜さんと葵さんのことを考えよう。
旧校舎の裏手に回ると、葉菜さんが心細げに立っていた。ナイトも私を待ち構えている。
「待たせてごめんね」
「ううん。思ったよりも早く終わったから……。あの、ここでなにをするの?」
本当は屋上に着いてから話をしたかったけれど、さすがにこれ以上は引っ張れないだろう。
「葉菜さん、あの月が見える?」
頭上を指さすと、葉菜さんは小さくうなずいてくれた。
「昼間なのにはっきり見える。今日は満月なんだね」
「じゃあ、青色に見える?」
校舎も木も地面も、青い光に浸され ていく。
葉菜さんは戸惑いを浮かべた表情のまま、首をかしげた。
「青色? え、どうして?」
きっと青い月が見えないと、葵さんの姿も瞳に映らないだろう。でもどうやって、信じてもらえばいいのだろう。
「『青い月の伝説』という絵本があるの。『黒猫がふたりを使者のもとへと導く。青い光のなかで手を握り合えば、永遠のしあわせがふたりに訪れる』っていう話でね」
「黒猫って……」
葉菜さんがハッとしたようにナイトに視線を向けた。
「伝説でいうところの『使者』が私なの。これから一緒に屋上に行ってほしいんだ」
「え……冗談だよね?」
顔をこわばらせる葉菜さんの気持ちはわかる。いきなりこんなことを言われても戸惑うだけだろう。
「信じてもらえなくて当然だと思う。でも、本気で言ってる」
「どうして屋上に行かなくちゃいけないの? 実月さん、なんか怖い」
話すほどに葉菜さんの表情がどんどん乏しくなっていく。
「伝説は本当のことだから。今の葉菜さんにとって必要なことだから」
「言ってる意味がわからない。そんな話をするためにここに呼んだの?」
疑うような目が突き刺ささる。
「会ってほしい人がいるの。葉菜さんのお姉さん……葵さんが屋上で待ってるから」
「は?」
葵さんも最初同じ反応だった。怒りに身をまかせた葵さんと違い、葉菜さんは笑ったかと思った次の瞬間、泣きそうな顔になった。
「なんでお姉ちゃんのこと……。ひどいよ、なんでそんなウソがつけるの? お姉ちゃんは亡くなったんだよ」
どういう反応をしたらいいのかわからない。『受容』『共感』『傾聴』、授業で習ったどれも、この場にふさわしくない気がした。
「葉菜さん――」
「すごくつらくて悲しくて、いつも死にたいって思ってた。実月さんに声をかけられてうれしかったのに、うれしかったのに……」
水色の涙が葉菜さんの頬にこぼれた。
私が傷つけたんだ……。
「葉菜さん、あの――」
「こういうオカルトが嫌いなの。だから……ごめん」
踵を返した葉菜さんの前に、いつの間にかナイトが回りこんでいた。三日月のような瞳で葉菜さんをじっと見つめている。
「え……」
「お願いします」
フリーズしたように動かない葉菜さんの背中に頭を下げた。
「会えなかったら、二度と私と話をしてくれなくていい。だから、一度だけ、私を信じてください」
「……なんのために?」
青い光が濃くなるなかで、葉菜さんの声がした。
「葉菜さんの『死にたがり』を変えたいから。『生きたがり』にするって約束したから」
チャイムが鳴り響く。葵さんが葉菜さんを呼んでいるように思える。
信じていない葉菜さんには聞こえないのか、反応がなかった。
どれくらい黙っていただろう、葉菜さんがゆっくりとふり向いた。唇を噛みしめ、ハンカチで目を拭っている。
「にゃあ」
短く鳴いたナイトが、旧校舎の扉の前に進んだ。
「一度だけ……」
自分に言い聞かせるようにつぶやいた葉菜さんに、もう一度頭を下げた。
「葵さんに会いたい、って心から願って。そうすればきっと会えるはずだから」
「そんなの……ずっと思ってる。毎日毎日、そう思ってるから」
「わかった。じゃあ、行こう」
靴を手にして旧校舎に入ると、少し遅れて葉菜さんもついて来てくれた。
階段をのぼりながら葉菜さんをふり返ったけれど、目を合わせてくれない。静かな怒りと戸惑い、悲しみが伝わってくる。
屋上の扉を開けると、青い光で世界は満ちていた。
「え……なにこれ」
靴を履くのも忘れ、葉菜さんがふらふらと外に出た。
「どうなって……るの?」
あたりを見回していた葉菜さんが、満月と目を合わせた。『青い』と口が動くのが見えた。
「『青い月の伝説』が本当だったってこと? じゃあ……お姉ちゃんが……」
屋上のはしっこに立つ葵さんが見える。ここからでも、すでに泣いているのがわかった。
「あそこで葵さんが待ってるよ」
「え?」
ふり返った葉菜さんが短く悲鳴をあげ、
「お姉ちゃん!」
と、大声で叫びながら駆けだした。
両手を広げる葵さんの胸に飛びこむと、ふたりはその場に倒れながら強く抱き合った。
「お姉ちゃん。お姉ちゃん……!」
「葉菜!」
青一色に染まる世界のなか、ふたりの泣き声が聞こえる。その光景は、まるで絵画のように美しかった。
体を離した葉菜さんが、確かめるように葵さんの頬に触れる。
「信じられない。お姉ちゃんに会えるなんて。私、私……」
声にならずに泣く葉菜さんを、葵さんはやさしい目で見つめている。葵さんの願いが叶ったことがうれしくて、気づけば私も唇を噛んでいた。
「実月さん、ありがとう」
葵さんがそう言い、
「ほら、葉菜もお礼を言って」
お姉さんらしく促した。
「ありが……とう。ごめん……なさい。あり、がとう」
鼻声でくり返す葉菜さんに、首を横にふる。
「私こそ、強引に連れてきてごめん。でも、よかったね」
「うん、うん……!」
力強くうなずく葉菜さんが、また涙に崩れた。
葵さんがふと空を見あげた。
「そっか……青い月ってこういうことだったんだね。私、世界に色があることも忘れちゃってたみたい」
「お姉ちゃん……」
「葉菜に会いたかった。三年間、ずっとそればっかり考えてた」
「私もだよ」
胸で泣く葉菜さんをやさしい瞳で見つめていた葵さんが、私に視線を移し大きくうなずいた。
すう、と息を吸うようなしぐさをしたあと、葉菜さんの体を引きはがした。
「会いたかったのは、葉菜に言いたいことがあったから」
戸惑う葉菜さんを残し、葵さんは立ちあがる。葉菜さんも手すりにつかまり、腰をあげた。
「私に病名を告げられなかったこと、ずっと後悔してるでしょう?」
「あ……」
「お見舞いにももっと行けばよかった、ってことも思ってるはず」
そのとおりだったのだろう、言葉に詰まった葉菜さんは花がしおれたようにうつむいてしまう。
葵さんが「やっぱりね」といたずらっぽく葉菜さんの顔を覗きこんだ。
「きっと後悔してるんだろうな、って。昔から、なにかあるたびに後悔ばっかりしてたもんね」
「だって、だって……」
「正しかったんだよ。葉菜がしたことは正しかった。だって、早い段階で病名を聞かされていたら、私のことだから怒り狂ってたと思うもん。ね?」
私に尋ねられても、身に覚えがあるぶん答えようがない。
葵さんは、葉菜さんの頬を両手で挟むように包み、強引に顔を上にあげさせた。
「お見舞いだって同じ。毎日のようにLINEくれたよね? あれでじゅうぶんだったよ」
「でも……」
「でも、じゃない。お姉ちゃんがそう言ってるんだからそうなの。弱っている姿を見られたくなかったし、葉菜の前では最後までお姉ちゃんでいたかったから。わかった?」
「……わかった」
うなずく葉菜さんを見て、「よし」と葵さんは笑った。
私にはわかる。葵さんは、これが最後だって知っている。
だからこそ、必死でお姉さんらしくふるまっているんだ……。葉菜さんがこれ以上後悔しないように。
葉菜さんがすがるように葵さんの制服をつかんだ。
「お姉ちゃんに会いたかった。これからはここで会えるんだよね?」
一瞬、葵さんの顔がゆがむのがわかった。すぐに真顔に戻し、「見て」と真上の月を指さした。
「どんどん月の色が戻っていくのがわかる? もう、行かないといけないの」
間もなく『青い月の伝説』の時間が 終わろうとしている。薄くなっていく青色の向こうに、うっすらと周りの景色が姿を見せはじめていた。
「嫌……そんなの嫌だよ。お姉ちゃんといたい。ずっと一緒にいたい」
「私はもう死んでるんだからムリ」
「だったら私も死ぬ。お姉ちゃんと一緒にいられるなら――」
「バカ!」
葵さんがひときわ大きな声で叫んだ。ビクッと体を震わせた葉菜さんの肩を、葵さんはギュッとつかんだ。
「なんのために三年間もこんな場所にいたと思ってんの? あんたに生きてほしいからに決まってるじゃない!」
強い口調で言ったあと、葵さんは校門のほうに視線を移した。
「ここでいつも葉菜のことを見てたよ」
「え……?」
「いつもひとりぼっちだった。ほとんど遅刻してきて、帰りも早退ばっかり。学習室で勉強してたんだよね?」
答えられない葉菜さんの髪を、葵さんがやさしくなでた。
「いつも死にたそうな顔をしてた。見るたびに思ったよ。お姉ちゃんのせいだ、って」
「違うよ。お姉ちゃんのせいじゃない」
「だったら、ちゃんと生きるって約束しなさい」
葵さんの願いが届くといいな……。けれど、葉菜さんは涙をポロポロこぼしながら、首を横にふるだけ。
困った顔の葵さん。もう月はほとんど青色を手放してしまっている。
葵さんの体が徐々に薄くなっているのがわかった。
「そんな……」と、葉菜さんが嗚咽を漏らした。
「嫌だよ。ずっとそばにいてよ。お願いだからどこへも行かないで……」
「葉菜さん」
そう呼びかけるのに勇気はいらなかった。
「うちの父も亡くなってるの。したいことがまだたくさんあったはず。だから私は、父の思いを引き継いで生きていこうって思ってる」
「……でも」
「葵さんも同じですよね?」
「そうだよ」と葵さんはうなずいた。
「福祉の道に進みたかった。誰かを支えたかった。誰かを支える家族のことも支えたかった」
ハッと顔をあげた葉菜さんに、葵さんはさみしそうにほほ笑んだ。
「それだけじゃない。お父さんやお母さんのことも支えたかった。もちろん葉菜のこともね」
「お姉ちゃん……」
「弱くてもいいんだよ。誰かを支えるのに強さなんて必要ない。同じ痛みを味わいながら、たくさんの人の味方になってほし……い」
こらえていた涙がこぼれ、葵さんが「ああ」とうつむいた。
「最後までお姉ちゃんらしくいたかったのに、やっぱりダメだ」
葵さんは洟をすすったあと、右手を差し出した。
「ほら、手をつなごう。私の勇気を葉菜にあげるから」
葉菜さんが右手を持ちあげかけて、力尽きたようにもとの位置に戻した。
時間がない。
「後悔したっていいんだよ。後悔は弱さじゃない。誰かの痛みがわかることで、強さとやさしさに変わるはず」
「お姉ちゃん……」
葉菜さんが右手を差し出した。葵さんがその手を両手で包むように握りしめた。
「葉菜、ありがとう。会いに来てくれてありがとう」
透けていく体に、葉菜さんは「私」と声をふり絞った。
「がんばる。お姉ちゃんと私の夢を叶えられるようにがんばるから」
「がんばり過ぎない程度にね。葉菜は真面目過ぎるから」
いたずらっぽく笑う葵さんに、葉菜さんは頬をふくらませた。
屋上に光が戻ると同時に、葵さんの姿は溶けるように消えた。
その場でしゃがみこむ葉菜さんを、やわらかい光が包みこんだ。
雄たけびをあげる男子、教科書をめくる音、椅子を引く音。たくさんの音が、波のように押し寄せてくる。
「もう最悪。苦労して覚え たところが一問も出なかった~」
しょげる梨央奈を慰めながら、葉菜さんの席をさりげなく見ると、席を立つところだった。
このあとは研修旅行の打ち合わせがあり、半分のグループが教室に残る。私と梨央奈、葉菜さんのグループの説明は明日の放課後におこなわれる。
「今日はスーパーに寄ってくの?」
「もちろん行く。こうなったら、やけ買いしちゃうんだから」
乱暴に荷物をバッグに詰めこむ梨央奈に笑ってしまう。
「笑わないでよ。これでも落ちこんで――」
私に視線を戻したとたん、梨央奈が動きを止めた。気づくとクラスメイトもなぜか私のほうを見ている。
え、なに……?
横を見ると、いつの間にいたのか葉菜さんが立っていた。
「あ、葉菜さん」
「ちょっと職員室に呼ばれちゃって。少し遅れちゃうかも」
「わかった。じゃあ、先に行って待ってるね」
小さくうなずくと、葉菜さんは急ぎ足で教室を出て行った。
とりあえず約束は守ってくれるみたいでホッとした。
「ちょっと!」
梨央奈が私の肩をつかんで激しく揺さぶってきた。
「どういうこと? なんでモッチとしゃべってるの?」
「モッチ?」
「持田さんのこと。勝手にあだ名つけてんの。って、そんなことはどうでもいいんだって。いつの間に知り合いになったのよ」
周りのみんなも気になるようで、特に三井くんは顔を近づけて私の返事を聞こうとしている。
「まあ、クラスメイトだし……。家が近いのもあって、ね」
あいまいに答えつつ廊下に目を向けると、ちょうど碧人が通りかかったところだった。目が合うと、バイバイと手をふって帰って行く。
絶対に幽霊に会わずに済んでホッとしているに決まっている。今朝、マンションの前で会ったときに、ふたりきりで会うことになったと伝えたところ、碧人は『残念残念』とウソをついていた。
「いいなあ」梨央奈の声に視線を戻した。
「あたしもモッチと仲良くなりたい。声、すっごくかわいかったね」
「うん」
「じゃあ、僕も」
三井くんがそう言うと、「あんたはダメ」とすかさず梨央奈が言った。
「こういうのはまず女子同士から。研修旅行が同じグループだから話しかけたかったんだよね」
普通科に変わることを知ったら驚くだろうな。ひょっとしたら梨央奈なら、葉菜さんを説得できるかもしれない。
「今度一緒にしゃべろうよ。葉菜さんのことを知れば、絶対に好きになるから」
「もちろん」
そううなずいてから、なぜか梨央奈は三井くんに目で合図を送った。三井くんもなぜかうなずいている。
「え、なに?」
違和感にそう尋ねると、梨央奈は肩をすくめた。
「こないだ、ひでじいと話してたんだよ。『最近の実月、前と違うよね』って。いい意味でだよ」
「そうそう」と三井くんも同意した。
「進化したっていうか、なにかを乗り越えたっていうか。そんな感じ」
そんな話をしていたなんて驚いてしまうけれど、身に覚えがないわけじゃない。
幽霊との出会いによって、考え方が変わったのは自覚している。ううん、幽霊だけじゃない。葉菜さんと話せたことも大きな一因だ。
みんな言葉にできないなにかを抱えている。重荷を取り除くことはできないけれど、一緒に支えられる私になりたい。そう思える自分になれた。
「褒め言葉だと受けとって おくね」
いつか梨央奈に、今起きていることを話したい。幽霊を信じない梨央奈だけど、真剣に話せば理解してくれるかもしれない。
「好きな人ができたとか言わないでよ。そういう話はごめんだからね」
釘を刺してくる梨央奈に、「まさか」と笑ってみせる。
碧人への想いを話せる日はくるのかな。恋愛の話になるたびに、『言ってはいけない』と心の声が聞こえてくる。
そして、また頭痛が音もなく顔を出す。
「恋なんてするわけないでしょ。梨央奈こそ、抜けがけしないでよね」
「恋はお金がかかるからしないの」
堂々と宣言する梨央奈に三井くんは呆れ顔だ。
廊下へ出て階段をおりる。踊り場でふり返る。下駄箱で見渡す。
いなくて当たり前だけど、つい碧人の姿を探してしまう。いつも、『よう』って突然声をかけてくる彼だからいるような気がした。
旧校舎に向かっていると、満月が真上に浮かんでいた。少しずつ青色になるにつれ、周りの景色も同じ色に変わっていく。
「集中しないと……」
今は葉菜さんと葵さんのことを考えよう。
旧校舎の裏手に回ると、葉菜さんが心細げに立っていた。ナイトも私を待ち構えている。
「待たせてごめんね」
「ううん。思ったよりも早く終わったから……。あの、ここでなにをするの?」
本当は屋上に着いてから話をしたかったけれど、さすがにこれ以上は引っ張れないだろう。
「葉菜さん、あの月が見える?」
頭上を指さすと、葉菜さんは小さくうなずいてくれた。
「昼間なのにはっきり見える。今日は満月なんだね」
「じゃあ、青色に見える?」
校舎も木も地面も、青い光に浸され ていく。
葉菜さんは戸惑いを浮かべた表情のまま、首をかしげた。
「青色? え、どうして?」
きっと青い月が見えないと、葵さんの姿も瞳に映らないだろう。でもどうやって、信じてもらえばいいのだろう。
「『青い月の伝説』という絵本があるの。『黒猫がふたりを使者のもとへと導く。青い光のなかで手を握り合えば、永遠のしあわせがふたりに訪れる』っていう話でね」
「黒猫って……」
葉菜さんがハッとしたようにナイトに視線を向けた。
「伝説でいうところの『使者』が私なの。これから一緒に屋上に行ってほしいんだ」
「え……冗談だよね?」
顔をこわばらせる葉菜さんの気持ちはわかる。いきなりこんなことを言われても戸惑うだけだろう。
「信じてもらえなくて当然だと思う。でも、本気で言ってる」
「どうして屋上に行かなくちゃいけないの? 実月さん、なんか怖い」
話すほどに葉菜さんの表情がどんどん乏しくなっていく。
「伝説は本当のことだから。今の葉菜さんにとって必要なことだから」
「言ってる意味がわからない。そんな話をするためにここに呼んだの?」
疑うような目が突き刺ささる。
「会ってほしい人がいるの。葉菜さんのお姉さん……葵さんが屋上で待ってるから」
「は?」
葵さんも最初同じ反応だった。怒りに身をまかせた葵さんと違い、葉菜さんは笑ったかと思った次の瞬間、泣きそうな顔になった。
「なんでお姉ちゃんのこと……。ひどいよ、なんでそんなウソがつけるの? お姉ちゃんは亡くなったんだよ」
どういう反応をしたらいいのかわからない。『受容』『共感』『傾聴』、授業で習ったどれも、この場にふさわしくない気がした。
「葉菜さん――」
「すごくつらくて悲しくて、いつも死にたいって思ってた。実月さんに声をかけられてうれしかったのに、うれしかったのに……」
水色の涙が葉菜さんの頬にこぼれた。
私が傷つけたんだ……。
「葉菜さん、あの――」
「こういうオカルトが嫌いなの。だから……ごめん」
踵を返した葉菜さんの前に、いつの間にかナイトが回りこんでいた。三日月のような瞳で葉菜さんをじっと見つめている。
「え……」
「お願いします」
フリーズしたように動かない葉菜さんの背中に頭を下げた。
「会えなかったら、二度と私と話をしてくれなくていい。だから、一度だけ、私を信じてください」
「……なんのために?」
青い光が濃くなるなかで、葉菜さんの声がした。
「葉菜さんの『死にたがり』を変えたいから。『生きたがり』にするって約束したから」
チャイムが鳴り響く。葵さんが葉菜さんを呼んでいるように思える。
信じていない葉菜さんには聞こえないのか、反応がなかった。
どれくらい黙っていただろう、葉菜さんがゆっくりとふり向いた。唇を噛みしめ、ハンカチで目を拭っている。
「にゃあ」
短く鳴いたナイトが、旧校舎の扉の前に進んだ。
「一度だけ……」
自分に言い聞かせるようにつぶやいた葉菜さんに、もう一度頭を下げた。
「葵さんに会いたい、って心から願って。そうすればきっと会えるはずだから」
「そんなの……ずっと思ってる。毎日毎日、そう思ってるから」
「わかった。じゃあ、行こう」
靴を手にして旧校舎に入ると、少し遅れて葉菜さんもついて来てくれた。
階段をのぼりながら葉菜さんをふり返ったけれど、目を合わせてくれない。静かな怒りと戸惑い、悲しみが伝わってくる。
屋上の扉を開けると、青い光で世界は満ちていた。
「え……なにこれ」
靴を履くのも忘れ、葉菜さんがふらふらと外に出た。
「どうなって……るの?」
あたりを見回していた葉菜さんが、満月と目を合わせた。『青い』と口が動くのが見えた。
「『青い月の伝説』が本当だったってこと? じゃあ……お姉ちゃんが……」
屋上のはしっこに立つ葵さんが見える。ここからでも、すでに泣いているのがわかった。
「あそこで葵さんが待ってるよ」
「え?」
ふり返った葉菜さんが短く悲鳴をあげ、
「お姉ちゃん!」
と、大声で叫びながら駆けだした。
両手を広げる葵さんの胸に飛びこむと、ふたりはその場に倒れながら強く抱き合った。
「お姉ちゃん。お姉ちゃん……!」
「葉菜!」
青一色に染まる世界のなか、ふたりの泣き声が聞こえる。その光景は、まるで絵画のように美しかった。
体を離した葉菜さんが、確かめるように葵さんの頬に触れる。
「信じられない。お姉ちゃんに会えるなんて。私、私……」
声にならずに泣く葉菜さんを、葵さんはやさしい目で見つめている。葵さんの願いが叶ったことがうれしくて、気づけば私も唇を噛んでいた。
「実月さん、ありがとう」
葵さんがそう言い、
「ほら、葉菜もお礼を言って」
お姉さんらしく促した。
「ありが……とう。ごめん……なさい。あり、がとう」
鼻声でくり返す葉菜さんに、首を横にふる。
「私こそ、強引に連れてきてごめん。でも、よかったね」
「うん、うん……!」
力強くうなずく葉菜さんが、また涙に崩れた。
葵さんがふと空を見あげた。
「そっか……青い月ってこういうことだったんだね。私、世界に色があることも忘れちゃってたみたい」
「お姉ちゃん……」
「葉菜に会いたかった。三年間、ずっとそればっかり考えてた」
「私もだよ」
胸で泣く葉菜さんをやさしい瞳で見つめていた葵さんが、私に視線を移し大きくうなずいた。
すう、と息を吸うようなしぐさをしたあと、葉菜さんの体を引きはがした。
「会いたかったのは、葉菜に言いたいことがあったから」
戸惑う葉菜さんを残し、葵さんは立ちあがる。葉菜さんも手すりにつかまり、腰をあげた。
「私に病名を告げられなかったこと、ずっと後悔してるでしょう?」
「あ……」
「お見舞いにももっと行けばよかった、ってことも思ってるはず」
そのとおりだったのだろう、言葉に詰まった葉菜さんは花がしおれたようにうつむいてしまう。
葵さんが「やっぱりね」といたずらっぽく葉菜さんの顔を覗きこんだ。
「きっと後悔してるんだろうな、って。昔から、なにかあるたびに後悔ばっかりしてたもんね」
「だって、だって……」
「正しかったんだよ。葉菜がしたことは正しかった。だって、早い段階で病名を聞かされていたら、私のことだから怒り狂ってたと思うもん。ね?」
私に尋ねられても、身に覚えがあるぶん答えようがない。
葵さんは、葉菜さんの頬を両手で挟むように包み、強引に顔を上にあげさせた。
「お見舞いだって同じ。毎日のようにLINEくれたよね? あれでじゅうぶんだったよ」
「でも……」
「でも、じゃない。お姉ちゃんがそう言ってるんだからそうなの。弱っている姿を見られたくなかったし、葉菜の前では最後までお姉ちゃんでいたかったから。わかった?」
「……わかった」
うなずく葉菜さんを見て、「よし」と葵さんは笑った。
私にはわかる。葵さんは、これが最後だって知っている。
だからこそ、必死でお姉さんらしくふるまっているんだ……。葉菜さんがこれ以上後悔しないように。
葉菜さんがすがるように葵さんの制服をつかんだ。
「お姉ちゃんに会いたかった。これからはここで会えるんだよね?」
一瞬、葵さんの顔がゆがむのがわかった。すぐに真顔に戻し、「見て」と真上の月を指さした。
「どんどん月の色が戻っていくのがわかる? もう、行かないといけないの」
間もなく『青い月の伝説』の時間が 終わろうとしている。薄くなっていく青色の向こうに、うっすらと周りの景色が姿を見せはじめていた。
「嫌……そんなの嫌だよ。お姉ちゃんといたい。ずっと一緒にいたい」
「私はもう死んでるんだからムリ」
「だったら私も死ぬ。お姉ちゃんと一緒にいられるなら――」
「バカ!」
葵さんがひときわ大きな声で叫んだ。ビクッと体を震わせた葉菜さんの肩を、葵さんはギュッとつかんだ。
「なんのために三年間もこんな場所にいたと思ってんの? あんたに生きてほしいからに決まってるじゃない!」
強い口調で言ったあと、葵さんは校門のほうに視線を移した。
「ここでいつも葉菜のことを見てたよ」
「え……?」
「いつもひとりぼっちだった。ほとんど遅刻してきて、帰りも早退ばっかり。学習室で勉強してたんだよね?」
答えられない葉菜さんの髪を、葵さんがやさしくなでた。
「いつも死にたそうな顔をしてた。見るたびに思ったよ。お姉ちゃんのせいだ、って」
「違うよ。お姉ちゃんのせいじゃない」
「だったら、ちゃんと生きるって約束しなさい」
葵さんの願いが届くといいな……。けれど、葉菜さんは涙をポロポロこぼしながら、首を横にふるだけ。
困った顔の葵さん。もう月はほとんど青色を手放してしまっている。
葵さんの体が徐々に薄くなっているのがわかった。
「そんな……」と、葉菜さんが嗚咽を漏らした。
「嫌だよ。ずっとそばにいてよ。お願いだからどこへも行かないで……」
「葉菜さん」
そう呼びかけるのに勇気はいらなかった。
「うちの父も亡くなってるの。したいことがまだたくさんあったはず。だから私は、父の思いを引き継いで生きていこうって思ってる」
「……でも」
「葵さんも同じですよね?」
「そうだよ」と葵さんはうなずいた。
「福祉の道に進みたかった。誰かを支えたかった。誰かを支える家族のことも支えたかった」
ハッと顔をあげた葉菜さんに、葵さんはさみしそうにほほ笑んだ。
「それだけじゃない。お父さんやお母さんのことも支えたかった。もちろん葉菜のこともね」
「お姉ちゃん……」
「弱くてもいいんだよ。誰かを支えるのに強さなんて必要ない。同じ痛みを味わいながら、たくさんの人の味方になってほし……い」
こらえていた涙がこぼれ、葵さんが「ああ」とうつむいた。
「最後までお姉ちゃんらしくいたかったのに、やっぱりダメだ」
葵さんは洟をすすったあと、右手を差し出した。
「ほら、手をつなごう。私の勇気を葉菜にあげるから」
葉菜さんが右手を持ちあげかけて、力尽きたようにもとの位置に戻した。
時間がない。
「後悔したっていいんだよ。後悔は弱さじゃない。誰かの痛みがわかることで、強さとやさしさに変わるはず」
「お姉ちゃん……」
葉菜さんが右手を差し出した。葵さんがその手を両手で包むように握りしめた。
「葉菜、ありがとう。会いに来てくれてありがとう」
透けていく体に、葉菜さんは「私」と声をふり絞った。
「がんばる。お姉ちゃんと私の夢を叶えられるようにがんばるから」
「がんばり過ぎない程度にね。葉菜は真面目過ぎるから」
いたずらっぽく笑う葵さんに、葉菜さんは頬をふくらませた。
屋上に光が戻ると同時に、葵さんの姿は溶けるように消えた。
その場でしゃがみこむ葉菜さんを、やわらかい光が包みこんだ。