テストが終わると同時に、教室の空気が一気に動き出す。

雄たけびをあげる男子、教科書をめくる音、椅子を引く音。たくさんの音が、波のように押し寄せてくる。

「もう最悪。苦労して覚え たところが一問も出なかった~」

しょげる梨央奈を慰めながら、葉菜さんの席をさりげなく見ると、席を立つところだった。

このあとは研修旅行の打ち合わせがあり、半分のグループが教室に残る。私と梨央奈、葉菜さんのグループの説明は明日の放課後におこなわれる。

「今日はスーパーに寄ってくの?」

「もちろん行く。こうなったら、やけ買いしちゃうんだから」

乱暴に荷物をバッグに詰めこむ梨央奈に笑ってしまう。

「笑わないでよ。これでも落ちこんで――」

私に視線を戻したとたん、梨央奈が動きを止めた。気づくとクラスメイトもなぜか私のほうを見ている。

え、なに……?

横を見ると、いつの間にいたのか葉菜さんが立っていた。

「あ、葉菜さん」

「ちょっと職員室に呼ばれちゃって。少し遅れちゃうかも」

「わかった。じゃあ、先に行って待ってるね」

小さくうなずくと、葉菜さんは急ぎ足で教室を出て行った。

とりあえず約束は守ってくれるみたいでホッとした。

「ちょっと!」

梨央奈が私の肩をつかんで激しく揺さぶってきた。

「どういうこと? なんでモッチとしゃべってるの?」

「モッチ?」

「持田さんのこと。勝手にあだ名つけてんの。って、そんなことはどうでもいいんだって。いつの間に知り合いになったのよ」

周りのみんなも気になるようで、特に三井くんは顔を近づけて私の返事を聞こうとしている。

「まあ、クラスメイトだし……。家が近いのもあって、ね」

あいまいに答えつつ廊下に目を向けると、ちょうど碧人が通りかかったところだった。目が合うと、バイバイと手をふって帰って行く。

絶対に幽霊に会わずに済んでホッとしているに決まっている。今朝、マンションの前で会ったときに、ふたりきりで会うことになったと伝えたところ、碧人は『残念残念』とウソをついていた。

「いいなあ」梨央奈の声に視線を戻した。

「あたしもモッチと仲良くなりたい。声、すっごくかわいかったね」

「うん」

「じゃあ、僕も」

三井くんがそう言うと、「あんたはダメ」とすかさず梨央奈が言った。

「こういうのはまず女子同士から。研修旅行が同じグループだから話しかけたかったんだよね」

普通科に変わることを知ったら驚くだろうな。ひょっとしたら梨央奈なら、葉菜さんを説得できるかもしれない。

「今度一緒にしゃべろうよ。葉菜さんのことを知れば、絶対に好きになるから」

「もちろん」

そううなずいてから、なぜか梨央奈は三井くんに目で合図を送った。三井くんもなぜかうなずいている。

「え、なに?」

違和感にそう尋ねると、梨央奈は肩をすくめた。

「こないだ、ひでじいと話してたんだよ。『最近の実月、前と違うよね』って。いい意味でだよ」

「そうそう」と三井くんも同意した。

「進化したっていうか、なにかを乗り越えたっていうか。そんな感じ」

そんな話をしていたなんて驚いてしまうけれど、身に覚えがないわけじゃない。

幽霊との出会いによって、考え方が変わったのは自覚している。ううん、幽霊だけじゃない。葉菜さんと話せたことも大きな一因だ。

みんな言葉にできないなにかを抱えている。重荷を取り除くことはできないけれど、一緒に支えられる私になりたい。そう思える自分になれた。

「褒め言葉だと受けとって おくね」

いつか梨央奈に、今起きていることを話したい。幽霊を信じない梨央奈だけど、真剣に話せば理解してくれるかもしれない。

「好きな人ができたとか言わないでよ。そういう話はごめんだからね」

(くぎ)を刺してくる梨央奈に、「まさか」と笑ってみせる。

碧人への想いを話せる日はくるのかな。恋愛の話になるたびに、『言ってはいけない』と心の声が聞こえてくる。

そして、また頭痛が音もなく顔を出す。

「恋なんてするわけないでしょ。梨央奈こそ、抜けがけしないでよね」

「恋はお金がかかるからしないの」

堂々と宣言する梨央奈に三井くんは呆れ顔だ。

廊下へ出て階段をおりる。踊り場でふり返る。下駄箱で見渡す。

いなくて当たり前だけど、つい碧人の姿を探してしまう。いつも、『よう』って突然声をかけてくる彼だからいるような気がした。

旧校舎に向かっていると、満月が真上に浮かんでいた。少しずつ青色になるにつれ、周りの景色も同じ色に変わっていく。

「集中しないと……」

今は葉菜さんと葵さんのことを考えよう。

旧校舎の裏手に回ると、葉菜さんが心細げに立っていた。ナイトも私を待ち構えている。

「待たせてごめんね」

「ううん。思ったよりも早く終わったから……。あの、ここでなにをするの?」

本当は屋上に着いてから話をしたかったけれど、さすがにこれ以上は引っ張れないだろう。

「葉菜さん、あの月が見える?」

頭上を指さすと、葉菜さんは小さくうなずいてくれた。

「昼間なのにはっきり見える。今日は満月なんだね」

「じゃあ、青色に見える?」

校舎も木も地面も、青い光に浸され ていく。

葉菜さんは戸惑いを浮かべた表情のまま、首をかしげた。

「青色? え、どうして?」

きっと青い月が見えないと、葵さんの姿も瞳に映らないだろう。でもどうやって、信じてもらえばいいのだろう。

「『青い月の伝説』という絵本があるの。『黒猫がふたりを使者のもとへと導く。青い光のなかで手を握り合えば、永遠のしあわせがふたりに訪れる』っていう話でね」

「黒猫って……」

葉菜さんがハッとしたようにナイトに視線を向けた。

「伝説でいうところの『使者』が私なの。これから一緒に屋上に行ってほしいんだ」

「え……冗談だよね?」

顔をこわばらせる葉菜さんの気持ちはわかる。いきなりこんなことを言われても戸惑うだけだろう。

「信じてもらえなくて当然だと思う。でも、本気で言ってる」

「どうして屋上に行かなくちゃいけないの? 実月さん、なんか怖い」

話すほどに葉菜さんの表情がどんどん乏しくなっていく。

「伝説は本当のことだから。今の葉菜さんにとって必要なことだから」

「言ってる意味がわからない。そんな話をするためにここに呼んだの?」

疑うような目が突き刺ささる。

「会ってほしい人がいるの。葉菜さんのお姉さん……葵さんが屋上で待ってるから」

「は?」

葵さんも最初同じ反応だった。怒りに身をまかせた葵さんと違い、葉菜さんは笑ったかと思った次の瞬間、泣きそうな顔になった。

「なんでお姉ちゃんのこと……。ひどいよ、なんでそんなウソがつけるの? お姉ちゃんは亡くなったんだよ」

どういう反応をしたらいいのかわからない。『受容』『共感』『傾聴』、授業で習ったどれも、この場にふさわしくない気がした。

「葉菜さん――」

「すごくつらくて悲しくて、いつも死にたいって思ってた。実月さんに声をかけられてうれしかったのに、うれしかったのに……」

水色の涙が葉菜さんの頬にこぼれた。

私が傷つけたんだ……。

「葉菜さん、あの――」

「こういうオカルトが嫌いなの。だから……ごめん」

踵を返した葉菜さんの前に、いつの間にかナイトが回りこんでいた。三日月のような瞳で葉菜さんをじっと見つめている。

「え……」

「お願いします」

フリーズしたように動かない葉菜さんの背中に頭を下げた。

「会えなかったら、二度と私と話をしてくれなくていい。だから、一度だけ、私を信じてください」

「……なんのために?」

青い光が濃くなるなかで、葉菜さんの声がした。

「葉菜さんの『死にたがり』を変えたいから。『生きたがり』にするって約束したから」

チャイムが鳴り響く。葵さんが葉菜さんを呼んでいるように思える。

信じていない葉菜さんには聞こえないのか、反応がなかった。

どれくらい黙っていただろう、葉菜さんがゆっくりとふり向いた。唇を噛みしめ、ハンカチで目を拭っている。

「にゃあ」

短く鳴いたナイトが、旧校舎の扉の前に進んだ。

「一度だけ……」

自分に言い聞かせるようにつぶやいた葉菜さんに、もう一度頭を下げた。

「葵さんに会いたい、って心から願って。そうすればきっと会えるはずだから」

「そんなの……ずっと思ってる。毎日毎日、そう思ってるから」

「わかった。じゃあ、行こう」

靴を手にして旧校舎に入ると、少し遅れて葉菜さんもついて来てくれた。

階段をのぼりながら葉菜さんをふり返ったけれど、目を合わせてくれない。静かな怒りと戸惑い、悲しみが伝わってくる。

屋上の扉を開けると、青い光で世界は満ちていた。

「え……なにこれ」

靴を履くのも忘れ、葉菜さんがふらふらと外に出た。

「どうなって……るの?」

あたりを見回していた葉菜さんが、満月と目を合わせた。『青い』と口が動くのが見えた。

「『青い月の伝説』が本当だったってこと? じゃあ……お姉ちゃんが……」

屋上のはしっこに立つ葵さんが見える。ここからでも、すでに泣いているのがわかった。

「あそこで葵さんが待ってるよ」

「え?」

ふり返った葉菜さんが短く悲鳴をあげ、

「お姉ちゃん!」

と、大声で叫びながら駆けだした。

両手を広げる葵さんの胸に飛びこむと、ふたりはその場に倒れながら強く抱き合った。

「お姉ちゃん。お姉ちゃん……!」

「葉菜!」

青一色に染まる世界のなか、ふたりの泣き声が聞こえる。その光景は、まるで絵画のように美しかった。

体を離した葉菜さんが、確かめるように葵さんの頬に触れる。

「信じられない。お姉ちゃんに会えるなんて。私、私……」

声にならずに泣く葉菜さんを、葵さんはやさしい目で見つめている。葵さんの願いが叶ったことがうれしくて、気づけば私も唇を噛んでいた。

「実月さん、ありがとう」

葵さんがそう言い、

「ほら、葉菜もお礼を言って」

お姉さんらしく促した。

「ありが……とう。ごめん……なさい。あり、がとう」

鼻声でくり返す葉菜さんに、首を横にふる。

「私こそ、強引に連れてきてごめん。でも、よかったね」

「うん、うん……!」

力強くうなずく葉菜さんが、また涙に崩れた。

葵さんがふと空を見あげた。

「そっか……青い月ってこういうことだったんだね。私、世界に色があることも忘れちゃってたみたい」

「お姉ちゃん……」

「葉菜に会いたかった。三年間、ずっとそればっかり考えてた」

「私もだよ」

胸で泣く葉菜さんをやさしい瞳で見つめていた葵さんが、私に視線を移し大きくうなずいた。

すう、と息を吸うようなしぐさをしたあと、葉菜さんの体を引きはがした。

「会いたかったのは、葉菜に言いたいことがあったから」

戸惑う葉菜さんを残し、葵さんは立ちあがる。葉菜さんも手すりにつかまり、腰をあげた。

「私に病名を告げられなかったこと、ずっと後悔してるでしょう?」

「あ……」

「お見舞いにももっと行けばよかった、ってことも思ってるはず」

そのとおりだったのだろう、言葉に詰まった葉菜さんは花がしおれたようにうつむいてしまう。

葵さんが「やっぱりね」といたずらっぽく葉菜さんの顔を覗きこんだ。

「きっと後悔してるんだろうな、って。昔から、なにかあるたびに後悔ばっかりしてたもんね」

「だって、だって……」

「正しかったんだよ。葉菜がしたことは正しかった。だって、早い段階で病名を聞かされていたら、私のことだから怒り狂ってたと思うもん。ね?」

私に尋ねられても、身に覚えがあるぶん答えようがない。

葵さんは、葉菜さんの頬を両手で挟むように包み、強引に顔を上にあげさせた。

「お見舞いだって同じ。毎日のようにLINEくれたよね? あれでじゅうぶんだったよ」

「でも……」

「でも、じゃない。お姉ちゃんがそう言ってるんだからそうなの。弱っている姿を見られたくなかったし、葉菜の前では最後までお姉ちゃんでいたかったから。わかった?」

「……わかった」

うなずく葉菜さんを見て、「よし」と葵さんは笑った。

私にはわかる。葵さんは、これが最後だって知っている。

だからこそ、必死でお姉さんらしくふるまっているんだ……。葉菜さんがこれ以上後悔しないように。

葉菜さんがすがるように葵さんの制服をつかんだ。

「お姉ちゃんに会いたかった。これからはここで会えるんだよね?」

一瞬、葵さんの顔がゆがむのがわかった。すぐに真顔に戻し、「見て」と真上の月を指さした。

「どんどん月の色が戻っていくのがわかる? もう、行かないといけないの」

間もなく『青い月の伝説』の時間が 終わろうとしている。薄くなっていく青色の向こうに、うっすらと周りの景色が姿を見せはじめていた。

「嫌……そんなの嫌だよ。お姉ちゃんといたい。ずっと一緒にいたい」

「私はもう死んでるんだからムリ」

「だったら私も死ぬ。お姉ちゃんと一緒にいられるなら――」

「バカ!」

葵さんがひときわ大きな声で叫んだ。ビクッと体を震わせた葉菜さんの肩を、葵さんはギュッとつかんだ。

「なんのために三年間もこんな場所にいたと思ってんの? あんたに生きてほしいからに決まってるじゃない!」

強い口調で言ったあと、葵さんは校門のほうに視線を移した。

「ここでいつも葉菜のことを見てたよ」

「え……?」

「いつもひとりぼっちだった。ほとんど遅刻してきて、帰りも早退ばっかり。学習室で勉強してたんだよね?」

答えられない葉菜さんの髪を、葵さんがやさしくなでた。

「いつも死にたそうな顔をしてた。見るたびに思ったよ。お姉ちゃんのせいだ、って」

「違うよ。お姉ちゃんのせいじゃない」

「だったら、ちゃんと生きるって約束しなさい」

葵さんの願いが届くといいな……。けれど、葉菜さんは涙をポロポロこぼしながら、首を横にふるだけ。

困った顔の葵さん。もう月はほとんど青色を手放してしまっている。

葵さんの体が徐々に薄くなっているのがわかった。

「そんな……」と、葉菜さんが()(えつ)を漏らした。

「嫌だよ。ずっとそばにいてよ。お願いだからどこへも行かないで……」

「葉菜さん」 

そう呼びかけるのに勇気はいらなかった。

「うちの父も亡くなってるの。したいことがまだたくさんあったはず。だから私は、父の思いを引き継いで生きていこうって思ってる」

「……でも」

「葵さんも同じですよね?」

「そうだよ」と葵さんはうなずいた。

「福祉の道に進みたかった。誰かを支えたかった。誰かを支える家族のことも支えたかった」

ハッと顔をあげた葉菜さんに、葵さんはさみしそうにほほ笑んだ。

「それだけじゃない。お父さんやお母さんのことも支えたかった。もちろん葉菜のこともね」

「お姉ちゃん……」

「弱くてもいいんだよ。誰かを支えるのに強さなんて必要ない。同じ痛みを味わいながら、たくさんの人の味方になってほし……い」

こらえていた涙がこぼれ、葵さんが「ああ」とうつむいた。

「最後までお姉ちゃんらしくいたかったのに、やっぱりダメだ」

葵さんは洟をすすったあと、右手を差し出した。

「ほら、手をつなごう。私の勇気を葉菜にあげるから」

葉菜さんが右手を持ちあげかけて、力尽きたようにもとの位置に戻した。

時間がない。

「後悔したっていいんだよ。後悔は弱さじゃない。誰かの痛みがわかることで、強さとやさしさに変わるはず」

「お姉ちゃん……」

葉菜さんが右手を差し出した。葵さんがその手を両手で包むように握りしめた。

「葉菜、ありがとう。会いに来てくれてありがとう」

透けていく体に、葉菜さんは「私」と声をふり絞った。

「がんばる。お姉ちゃんと私の夢を叶えられるようにがんばるから」

「がんばり過ぎない程度にね。葉菜は真面目過ぎるから」

いたずらっぽく笑う葵さんに、葉菜さんは頬をふくらませた。

屋上に光が戻ると同時に、葵さんの姿は溶けるように消えた。

その場でしゃがみこむ葉菜さんを、やわらかい光が包みこんだ。