「ねえ、雨だから今日はやめない?」

薄暗い旧校舎をのぼりながら黒猫に尋ねるけれど、前回と同様にまるで無視。しなやかに屋上へ続く階段をのぼっていく。

「明日もテストなの。テストって言葉の意味、わかる?」

絶対にこの猫は人間の言葉がわかっているはず。なのに、ちっとも反応してくれない。呼びに来るなら、せめて碧人がいるときにしてくれればよかったのに。

とはいえ、きっと幽霊に会うことになるのだろう。今回は靴とカサを持ってきた。

屋上の扉の前で黒猫がやっと視線を合わせてくれた。黒いしっぽが遅れてピンと伸びた。胸元の毛が、薄暗いなかでも生クリームのように真っ白なのがわかる。

「君って、騎士みたい。ナイトって名前で呼んでもいい?」

ピクピクと鼻を動かした黒猫が、「にゃ」と短く鳴いた。

同意? 否定? わからないままカサを手に扉を開けると同時に、雨が顔にふりそそいだ。慌ててカサを広げていると、雨の音に負けそうなほど小さな音でチャイムが聞こえてくる。

屋上の景色は前回とはまるで違った。激しく降る雨が景色をけぶらせ、大きな海原に取り残された船にいるみたい。

月が顔を出すたびに、コンクリートの床に青い光がほのかにゆらめいている。

黒猫は水たまりを突っ切るようにスタスタ歩いていく。よく見ると、彼の毛はまったく()れていない。

「え、君も幽霊……なの?」

「にゃあ」

でも、クラスのみんなにも黒猫――ナイトは見えていたはず。人間と幽霊の中間みたいな存在なのかな……。

あの女性は前回と同じ場所に立っていた。彼女も雨に濡れることなく、美しい横顔で遠くを眺めている。

私に気づいた瞬間、彼女の髪がふわりと舞いあがった。

「来ないで、って言ったよね?」

鋭い視線に負けそうになりながら、なんとか手すりまでたどり着いた。

「すみません。どうしても気になってしまって……」

本当は黒猫に呼ばれたのだけど、正直に答えてしまったらどうなるかは想像がつく。

やはり、葉菜さんに似ていると思った。鼻の形や唇、醸し出す雰囲気までそっくりだ。

「なにが『気になってしまって』よ。ふざけないで」

「……はい」

体がすくむほどの鋭い視線に耐え切れず、雨が跳ねるコンクリートに目を落としてしまう。

なにか言いたいけれど、口が動いてくれない。

「見てわからないの? 私はもう生きてない。死んでるんだよ」

彼女だけでなく、雨にまで責められている気分になる。

やっぱり、私にできることなんてないのかもしれない。どうして来てしまったのだろう……。

「生きている人間はいいよね。自分に関係のないことならやさしくなれるから。親切そうな顔で、なんだって言える」

カサを持つ手に力を入れないと、雨に負けて落としてしまいそう。

「私の悲しみや苦しみは誰にもわかってもらえない。わかってもらいたくもない!」

青い光が、コンクリートに彼女の影を作った。炎のように髪の影がゆらめいている。

どんな言葉も彼女には届かない。でも、苦しんでいるのはたしかだと思った。

「正直、わからないです。ごめんなさい」

ふり絞った勇気で、なんとか言葉にした。

「……は?」

「だけど、わかりたいって思います。ここにいるっていうことは、なにかに苦しんでいるからですよね? きっと誰かに――」

「ふざけんな!」

爆発したかのような大声とともに、私の体はコンクリートにたたきつけられていた。

一瞬でびしょ濡れになり、数秒後に右肩に激痛が走った。

顔だけでなく口のなかにまで雨が入りこんでくる。

なんとか上半身を起こすと、ゆっくり女性が近づいてくるのが見えた。握りしめてる拳が震えていて、髪は嵐のなかにいるように踊り狂っている。

「みんなウソつき。家族も先生も医者も、誰も本当のことを言わなかった。聞いてもウソばっかり。もっと早く病気のことを知っていたら違ったのに。やりたいこともできたのに!」

手すりにつかまろうと手を伸ばす。あと少しで届きそうなところで、ふわりと体が浮いた感覚のあと、再度コンクリートにたたきつけられる。激しく舞い散る水しぶきに息ができない。

「あんたもウソをついてる。こんな場所に閉じこめられ た私のことをわかりたいなんてウソだ!」

絶叫しながら女性は泣いているように見えた。顔をゆがめ、憤りを体全部で表現している。

「ウソつき! ウソつき! ウソつき!」

手を伸ばしてくる女性の目は、怒りで赤く燃えている。

ああ、やっぱりダメだった。私にはなんにもできなかった。

「いい加減にしろ!」

突然の怒鳴り声にハッと顔をあげた。大きな背中が私の前に立ちふさがっている。

「大丈夫か?」

あごをこっちに向けて尋ねたのは――碧人だった。

助けに来てくれたんだ……。

「実月に手を出すな」

こんな怒った碧人は初めて見た。

「あ……」

ここからは見えないけれど、我に返ったような女性の声が聞こえた。

転がっていたカサを碧人が渡してくれたけれど、手が震えてうまく持てない。

カサを手にした碧人が私の肩を引き寄せた。

「碧人……」

「やっぱり気になって戻ってきた。実月なら、きっと行くだろうなって。それとも、こいつに無理やり連れてこられたのか?」

ギロッとナイトをにらむ碧人。澄ました顔でナイトはそっぽを向いている。

女性の目はもう赤くなかった。自分のしたことが信じられないような顔で、両手を見つめている。

「碧人、ありがとう。もう大丈夫だと思う。彼女とふたりで話をさせて」

そう言うが、碧人は抱きしめる腕を離さない。

「そんな簡単に幽霊を信用するな」

女性がチラッと碧人を見たが、言い返す気力もないのか、口をキュっと閉じてうつむいてしまう。

「本当に大丈夫だって。たぶん女子同士のほうが話しやすいと思うから、階段のところで待ってて」

不思議と怖さよりも、彼女を理解したい気持ちが勝っていた。

渋々碧人が去ったあと、今度こそ手すりにつかまって立ちあがった。

「あなたをわかりたい気持ちは本当のことです」

もう、怖くはなかった。

「最初は、使者として仕方なくやっていました。でも、今は違います。『青い月の伝説』は本当にあるんです。だから、あなたをしあわせにしたいんです」

「なに……それ。使者? 青い月?」

右肩は雨に打たれるだけでも 悲鳴をあげたいほどに痛い。それでも、ちゃんと伝えなくちゃ……。

「絵本に書いてありました。『黒猫がふたりを使者のもとへと導く。青い光のなかで手を握り合えば、永遠のしあわせがふたりに訪れる』って」

女性がうつろな瞳で黒猫を見た。

「知らない。私……そんなの知らない」

「話を聞かせてください。私にできることをさせてください」

「なにも言いたくないし、してもらいたくない。どうせ私は、死んでしまったのだから」

どれほどの期間、彼女はここにいるのだろう。ひとりぼっちで誰とも話せず、きっと心まで死にかけているんだ。

「お願いします。私に協力させてください!」

痛みに耐えながら叫んだ。 

女性はしばらくうつむいてから、首をゆるゆると横にふった。炎のような髪も重力に負け、左右に軽く揺れている。

「ムリだよ。この校舎、夏休みになったら取り壊されるんだって。そのときが、本当にこの世から消えるときだってわかってる。あと少しだから……もう平気」

「でも……」

「いいから私のことは忘れて」

はっきりとした口調で言ってから、女性が私の右手をチラッと見た。さっき擦りむいたのだろう、手首からわずかな血が雨に溶けていた。

「ケガをさせてごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの」

「大丈夫です。こんなの、かすり傷ですから」

「でも」と女性は恥じるように目を伏せた。

「お願いだからここへは来ないでほしい。これ以上、私の心を乱さないで」

背を向ける女性。激しく降る雨が、彼女の怒りと悲しみを表わしているように思える。

ナイトが私をチラッと見た。わかってるよ。このまま帰ることなんてできないってことは。

聞こえないように深呼吸をしてから、勇気を出して前に進んだ。

「持田葉菜さんを知っていますか?」

その名前を出すのと同時に、女性の体が大きく揺れた。

「あなたは、持田葉菜さんのお姉さんですか?」

信じられないような表情でふり向く彼女を見て確信した。やっぱり葉菜さんのお姉さんなんだ……。

「あなたは……葉菜と同じクラス……なの?」

「はい。二年一組の空野実月です」

「葉菜は……元気でいる……の?」

最後は聞き取れないほどの小さな声で、女性はその場に崩れるように座りこんだ。両手を顔に当てて、声を殺して泣いている。

まだ雨は、私たちを責めるように降っていた。