中間テスト三日目は、朝から雨が降っている。
午後になり小降りになったけれど、雨は明日の昼まで続くという予報。新しい校舎は前よりも壁が厚いらしく、雨の音はほとんど耳に届かない。
「てことで、最終日もがんばってね。明日は午後に研修旅行の説明会もあるからね」
芳賀先生がそう言った。
みんなが帰って行くのをぼんやりと見る。
あの日以来、青い月は姿を見せていない。もう五月も月末に近い。
ホッとしているのが半分、もどかしい気持ちも半分。関わらないほうがいいと思っていても、あの女性に会った日、久しぶりにお父さんの話ができた。
お父さんの話題を避けてきた私にとってはすごいことだと思う。
使者としての役割を与えられたのなら、私にできることをしたい。彼女の苦しみや悲しみを癒してあげたかった。
でも、な……。この雨で当分の間、青い月は姿を見せないだろう。それに明日は満月。
ネットで調べたところ、実際に青い月が観測されるのは満月の日以外のことらしい。月と地球の位置関係上、とか書いてあったけれど、詳しいことはわからない。
葉菜さんはこの三日間、テストを受けるために登校している。朝は私よりもギリギリだし、休み時間は机に突っ伏していて、テストが終わるとホームルームを待たずに帰ってしまう。
あの女性がお姉さんかどうかを聞くことができないまま、今日も終わろうとしている。
誰もいなくなった教室の窓から、線のように細い雨が見える。
「実月」
急に名前を呼ばれ、驚きのあまり体ごと飛び跳ねてしまった。
教室のうしろの戸から現れたのは碧人だった。
「テストお疲れさん」
教室に入ってきた碧人が、隣の席にひょいと腰かけた。
「福祉科はテスト科目が多くて大変だよな」
「スポーツ科だって同じでしょ」
「うちはそこまで多くないし、筆記の科目は点数取れなくても平気。実技テストの結果が大事だからな」
気持ちよさそうに伸びをする碧人を見ていたら、重い気持ちが少しだけ軽くなった気がした。
「実技っていえば、足のほうは大丈夫なの?」
「現状維持ってところ。生きている間はつき合うしかないんだろうな」
「そう……」
声のトーンが落ちてしまった。元気づけなくちゃ、と顔をあげれば碧人が笑いを噛み殺している。
「なんか『しまった』って顔してる」
「そ、そんなこと……」
思いっきり動揺してしまった。
「心配してくれてありがとう」
ひょいと左足をあげ、私があげたミサンガを指さす碧人。
「このお守りがあるから大丈夫」
私を見つめる碧人の瞳がやさしい。そうだよね、昔からお互いの気持ちを言葉にしなくてもわかり合えていたから。
碧人を好きになってしまったことに、罪悪感ばかり覚えていた。ルールを破ったのは私なのに、碧人の言葉や態度にふり回される自分が嫌いになった。
でも、不思議。最近では、告白はできなくても、碧人を好きになったことを後悔しなくなった。むしろ、必然だったとさえ思えている。
どれくらい見つめ合っていたのだろう、碧人が先に視線を逸らした。
「引っ越しの準備が大変過ぎて、そのせいで体が痛い。なんたって二カ所に荷物を送らなくちゃいけないから」
冗談っぽく笑うから、私も同じように目じりを下げるの。
「引っ越しって経験ないけど、そうとう大変なんだってね」
「やってもやっても終わらない。こんなに荷物あったっけ?って、毎日発掘作業してる」
「碧人の部屋、昔はすごかったもんね」
なんでもかんでも集めるクセはあいかわらずらしい。
「思い出がたくさん詰まってるから、どれも捨てられないんだろうな」
「だろうなって、なんで他人事なの?」
「俺じゃなくて母親の話だから。俺がものを捨てられないのは遺伝で間違いない」
と、碧人はおどけている。
「おばさん、腰痛あったよね? テスト終わったら手伝いに行こうか?」
おばさんにもずいぶん会ってないな……。昔は気軽に遊びに行けたけれど、高校生になってからはさすがに恥ずかしくて。
「俺もそう言ったんだけど、私物を見られるのが嫌なんだってさ。放置しといていいから」
「そのぶん碧人ががんばらないとね」
まかせとけ、と言う代わりに、碧人は胸をドンとたたいてみ せたあと、「あ」と短く声を発した。目線が窓の外に向いている。
「見て」
碧人の指す空には、灰色の雨雲が広がっている。上空は風が強いらしく、すごい速さで雲が流れている。
「え、どこ?」
「あの雲の間をしばらく見てて」
やがて、碧人の言おうとしていることがわかった。雲の切れ間から、時折、うっすらと月が顔を出している。
「こんな雨の日に月が見えるなんて……」
「たぶん俺たちにだけ見えてるんだと思う。ほら、薄い青色で光ってる」
言われて気づいた。満月に近い形の月が顔を出すたびに、そこだけ青空みたいな色になっている。 実際に観測される青い月と、この月は関係がないみたいだ。
ということは、あの女性が旧校舎に現れているということ?
「まいったな」と、困ったように碧人はハの字に眉を下げた。
「今日は旧校舎に行けないわ。明日もテストだし、引っ越しの準備もあるし」
立ちあがると同時に碧人は歩きだした。
「あ、うん」
「実月も今回はスルーしたほうがいい。じゃあ、またな」
最後のほうの言葉は、ほとんど聞こえなかった。それくらい急いでいるのだろう。
でも、碧人と教室で話ができたなんてうれしいな。先月までは学校では視線すら合わせてくれなかったから……。
ひょっとしたら碧人も私のことを――。
ふわりと浮かぶ空想、いや、妄想を打ち消す。いくらなんでも飛躍し過ぎだろう。
話ができるだけでもうれしいのだから、次を求めちゃダメ。欲張りになる自分を戒めながら教室を出た。
雨のなか、旧校舎は灰色にくすんでいる。さみしそうに、悲しそうに。
あの女性もきっと、誰かに会いたい。こんな天気でも青い月が出ているのは、彼女が助けを求めているからかも……。
「行っちゃダメ」
揺らぐ気持ちに言い聞かせる。『二度とここへは来ないで』と、言われたばかりじゃない。あんな冷たく言われたのに、どうして気になってしまうんだろう。
ふん、と鼻から息を吐き、階段をおりる。いつも以上に足を強く踏みしめて。
一階で靴を履き替えていると、開きっぱなしの昇降口の向こうで雨がさわいでいる。まるで家に帰ろうとする私を非難するように。
迷う気持ちはある。でも、ひとりで行ってもできることなんてないし……。
ふと、なにか声が聞こえた気がしてあたりを見回す。昇降口に目を向ければ、あの黒猫が、雨をバックに座っていた。
「にゃあ」
まるで『迎えに来た』と言っているように、彼は鳴いた。
午後になり小降りになったけれど、雨は明日の昼まで続くという予報。新しい校舎は前よりも壁が厚いらしく、雨の音はほとんど耳に届かない。
「てことで、最終日もがんばってね。明日は午後に研修旅行の説明会もあるからね」
芳賀先生がそう言った。
みんなが帰って行くのをぼんやりと見る。
あの日以来、青い月は姿を見せていない。もう五月も月末に近い。
ホッとしているのが半分、もどかしい気持ちも半分。関わらないほうがいいと思っていても、あの女性に会った日、久しぶりにお父さんの話ができた。
お父さんの話題を避けてきた私にとってはすごいことだと思う。
使者としての役割を与えられたのなら、私にできることをしたい。彼女の苦しみや悲しみを癒してあげたかった。
でも、な……。この雨で当分の間、青い月は姿を見せないだろう。それに明日は満月。
ネットで調べたところ、実際に青い月が観測されるのは満月の日以外のことらしい。月と地球の位置関係上、とか書いてあったけれど、詳しいことはわからない。
葉菜さんはこの三日間、テストを受けるために登校している。朝は私よりもギリギリだし、休み時間は机に突っ伏していて、テストが終わるとホームルームを待たずに帰ってしまう。
あの女性がお姉さんかどうかを聞くことができないまま、今日も終わろうとしている。
誰もいなくなった教室の窓から、線のように細い雨が見える。
「実月」
急に名前を呼ばれ、驚きのあまり体ごと飛び跳ねてしまった。
教室のうしろの戸から現れたのは碧人だった。
「テストお疲れさん」
教室に入ってきた碧人が、隣の席にひょいと腰かけた。
「福祉科はテスト科目が多くて大変だよな」
「スポーツ科だって同じでしょ」
「うちはそこまで多くないし、筆記の科目は点数取れなくても平気。実技テストの結果が大事だからな」
気持ちよさそうに伸びをする碧人を見ていたら、重い気持ちが少しだけ軽くなった気がした。
「実技っていえば、足のほうは大丈夫なの?」
「現状維持ってところ。生きている間はつき合うしかないんだろうな」
「そう……」
声のトーンが落ちてしまった。元気づけなくちゃ、と顔をあげれば碧人が笑いを噛み殺している。
「なんか『しまった』って顔してる」
「そ、そんなこと……」
思いっきり動揺してしまった。
「心配してくれてありがとう」
ひょいと左足をあげ、私があげたミサンガを指さす碧人。
「このお守りがあるから大丈夫」
私を見つめる碧人の瞳がやさしい。そうだよね、昔からお互いの気持ちを言葉にしなくてもわかり合えていたから。
碧人を好きになってしまったことに、罪悪感ばかり覚えていた。ルールを破ったのは私なのに、碧人の言葉や態度にふり回される自分が嫌いになった。
でも、不思議。最近では、告白はできなくても、碧人を好きになったことを後悔しなくなった。むしろ、必然だったとさえ思えている。
どれくらい見つめ合っていたのだろう、碧人が先に視線を逸らした。
「引っ越しの準備が大変過ぎて、そのせいで体が痛い。なんたって二カ所に荷物を送らなくちゃいけないから」
冗談っぽく笑うから、私も同じように目じりを下げるの。
「引っ越しって経験ないけど、そうとう大変なんだってね」
「やってもやっても終わらない。こんなに荷物あったっけ?って、毎日発掘作業してる」
「碧人の部屋、昔はすごかったもんね」
なんでもかんでも集めるクセはあいかわらずらしい。
「思い出がたくさん詰まってるから、どれも捨てられないんだろうな」
「だろうなって、なんで他人事なの?」
「俺じゃなくて母親の話だから。俺がものを捨てられないのは遺伝で間違いない」
と、碧人はおどけている。
「おばさん、腰痛あったよね? テスト終わったら手伝いに行こうか?」
おばさんにもずいぶん会ってないな……。昔は気軽に遊びに行けたけれど、高校生になってからはさすがに恥ずかしくて。
「俺もそう言ったんだけど、私物を見られるのが嫌なんだってさ。放置しといていいから」
「そのぶん碧人ががんばらないとね」
まかせとけ、と言う代わりに、碧人は胸をドンとたたいてみ せたあと、「あ」と短く声を発した。目線が窓の外に向いている。
「見て」
碧人の指す空には、灰色の雨雲が広がっている。上空は風が強いらしく、すごい速さで雲が流れている。
「え、どこ?」
「あの雲の間をしばらく見てて」
やがて、碧人の言おうとしていることがわかった。雲の切れ間から、時折、うっすらと月が顔を出している。
「こんな雨の日に月が見えるなんて……」
「たぶん俺たちにだけ見えてるんだと思う。ほら、薄い青色で光ってる」
言われて気づいた。満月に近い形の月が顔を出すたびに、そこだけ青空みたいな色になっている。 実際に観測される青い月と、この月は関係がないみたいだ。
ということは、あの女性が旧校舎に現れているということ?
「まいったな」と、困ったように碧人はハの字に眉を下げた。
「今日は旧校舎に行けないわ。明日もテストだし、引っ越しの準備もあるし」
立ちあがると同時に碧人は歩きだした。
「あ、うん」
「実月も今回はスルーしたほうがいい。じゃあ、またな」
最後のほうの言葉は、ほとんど聞こえなかった。それくらい急いでいるのだろう。
でも、碧人と教室で話ができたなんてうれしいな。先月までは学校では視線すら合わせてくれなかったから……。
ひょっとしたら碧人も私のことを――。
ふわりと浮かぶ空想、いや、妄想を打ち消す。いくらなんでも飛躍し過ぎだろう。
話ができるだけでもうれしいのだから、次を求めちゃダメ。欲張りになる自分を戒めながら教室を出た。
雨のなか、旧校舎は灰色にくすんでいる。さみしそうに、悲しそうに。
あの女性もきっと、誰かに会いたい。こんな天気でも青い月が出ているのは、彼女が助けを求めているからかも……。
「行っちゃダメ」
揺らぐ気持ちに言い聞かせる。『二度とここへは来ないで』と、言われたばかりじゃない。あんな冷たく言われたのに、どうして気になってしまうんだろう。
ふん、と鼻から息を吐き、階段をおりる。いつも以上に足を強く踏みしめて。
一階で靴を履き替えていると、開きっぱなしの昇降口の向こうで雨がさわいでいる。まるで家に帰ろうとする私を非難するように。
迷う気持ちはある。でも、ひとりで行ってもできることなんてないし……。
ふと、なにか声が聞こえた気がしてあたりを見回す。昇降口に目を向ければ、あの黒猫が、雨をバックに座っていた。
「にゃあ」
まるで『迎えに来た』と言っているように、彼は鳴いた。