家に着くと、珍しくお母さんがキッチンに立っていた。
「今日は有給休暇を取ったんだっけ?」
ダボダボのトレーナー姿に、髪にはヘアバンド。おそらく一日中寝ていたのだろう。
「なによ。まずは『ただいま』からでしょ」
「ただいま」
「おかえりなさい。今度の日曜日、空けてるわよね?」
日曜日はお父さんの命日だ。墓参りに行くことは、スマホのスケジュールに登録してある。
五歳のときに亡くなったから、写真でしか顔は見られないし、はっきりと思い出せるエピソードも少ない。それでも、この家にはまだお父さんのにおいが残っている気がする。
「空けてるよ。お父さんが好きなお饅頭を買っていくんだよね」
手を洗ってから部屋で着替える。机の上に、お父さんと昔撮ったツーショットが飾られている。
「ただいま、お父さん」
私を膝に載せて笑う写真のなかのお父さん。顔をくしゃくしゃにして笑っているせいで、おじいちゃんっぽく見えるこの写真がいちばん好き。
お父さんは亡くなるとき、どんな気持ちだったのだろう。もし人が幽霊になるのだとしたら、どうしてお父さんは私の前に現れてくれないのだろう。
でも、使者としてお父さんに会うのは嫌かも。なにか頼まれても、それをすることでせっかく会えたのに消えてしまうなんて悲し過ぎる。
違う。お父さんに思い残しがあることのほうがもっと悲しい。
キッチンに戻ると、すでに夕食の準備が終わっていた。今夜は私の好きなハンバーグだ。
お父さんって、亡くなる前はどんなふうだったの?」
ハンバーグに箸を入れながら尋ねると、お母さんは目を丸くしたままフリーズした。
「え、なに?」
しばらくしてお母さんはゆっくり首を横にふった。
「実月がお父さんのことを聞くなんて珍しいからびっくりしちゃった。なにかあったの?」
「そうじゃないけど、最期、どうだったのかなって」
「うーん」
お母さんがお茶を両手で抱いた。
「ドラマみたいな感じじゃなくてね、意外とあっさり亡くなったの」
「そうなんだ」
「お父さん、昔から『人生会議』が好きだったから、覚悟はできてたんだろうね」
「なにそれ」
初めて聞く言葉だ。
「アドバンス・ケア・プランニングって言うんだけど、いざというときに困らないように、『自分の最期はどうしたいか』について普段から話し合うこと」
「へえ……って、ごめん。よくわからない」
普段から話し合うってどういうこと? そんな暗い話題、私ならしたくない。
「たぶんそのうち学校で習うわよ。介護とか医療の現場で使われてる言葉だし、お母さんたちの仕事でも最近よく出てくるから」
「お父さんはそういう話をよくしてたの?」
「たとえば、介護が必要になったらどうするか、病気になったらどんな医療を受けたいのか、最後の食事はなにがいいかとか。そういうことを常に話したがる人だった。今思えば、虫の知らせみたいなものがずっと あったのかも」
お父さんの病気は、予告もなく突然発症したと聞いている。たった数日で亡くなったとも。
「お父さん、どういう話をしてたの?」
「それがねえ」とお母さんは苦笑した。
「自分のことよりも、私と実月のことばかり話してた。でも、『自分がもし病気になっても、確実に治る見こみがなければ延命治療をしない』っていうのは、口ぐせのように言ってたの」
「そうなんだ……」
私ならどうするだろうか。自分が死ぬときのことなんてとても考えられない。
「最後の会話も『じゃあ、おやすみ』って、眠るように亡くなったのよ」
ふう、と息をついたお母さんが「でもね」とほほ笑んだ。
「すごく安らかな顔だったの。お父さんはノートに、人生会議で話したことをぜんぶ書いて残してたの。それこそ、お葬式で流す曲まで指定されてたのよ」
遠い記憶のなかにいるお父さんは、いつも冗談を言っては笑っていた。明るくて頼りがいがあって、やさしい人だった。
残された私たちも悲しいけれど、残すほうのお父さんはもっと悲しかっただろうな……。
「お父さんは、思い残しがあったと思う?」
「思い残し?」
サラダをほおばりながらお母さんが聞き返す。
「なんていうか……。たとえば幽霊になってでもこの世に残りたいような、そういうこと」
「それはあったんじゃないかな。お母さんや実月のことを心配してくれていたからね。でも、あれだけ人生会議をしてきたんだから、ほかの人よりはなかったと思うわよ」
自分の運命と向き合ったお父さんはすごい。
私は……まだムリ。少し先の未来さえ霧がかかっているみたいに見えないのに、いざというときのことを考える余裕なんてない。
それは、旧校舎にいる彼女も同じだったに違いない。誰だって、この世から自分が消えるときのことなんて考えられない。
きっと私だけじゃない。毎日テレビで流れる悲しいニュースだって、誰もが『自分には関係のないこと』と思いこんでいる。
夕食が終わっても、お母さんはお父さんの思い出話を次々に披露してくれた。
お父さんに会いたい気持ちはあるけれど、幽霊になっていたとしたら悲しいな。
だって、幽霊になるということは、この世に思い残しがあるということだから。
幽霊になったお父さんと会うくらいなら、その思い出とともに生きていきたい。そう思った 。
「じゃあ、私たちも人生会議をしましょうか」
お母さんがそんな提案をしてきたから、
「ごちそうさまでした」
と、部屋に逃げこんだ。
部屋に飾ったお父さんの写真が、苦笑しているように見えたのは気のせいだろう。
「今日は有給休暇を取ったんだっけ?」
ダボダボのトレーナー姿に、髪にはヘアバンド。おそらく一日中寝ていたのだろう。
「なによ。まずは『ただいま』からでしょ」
「ただいま」
「おかえりなさい。今度の日曜日、空けてるわよね?」
日曜日はお父さんの命日だ。墓参りに行くことは、スマホのスケジュールに登録してある。
五歳のときに亡くなったから、写真でしか顔は見られないし、はっきりと思い出せるエピソードも少ない。それでも、この家にはまだお父さんのにおいが残っている気がする。
「空けてるよ。お父さんが好きなお饅頭を買っていくんだよね」
手を洗ってから部屋で着替える。机の上に、お父さんと昔撮ったツーショットが飾られている。
「ただいま、お父さん」
私を膝に載せて笑う写真のなかのお父さん。顔をくしゃくしゃにして笑っているせいで、おじいちゃんっぽく見えるこの写真がいちばん好き。
お父さんは亡くなるとき、どんな気持ちだったのだろう。もし人が幽霊になるのだとしたら、どうしてお父さんは私の前に現れてくれないのだろう。
でも、使者としてお父さんに会うのは嫌かも。なにか頼まれても、それをすることでせっかく会えたのに消えてしまうなんて悲し過ぎる。
違う。お父さんに思い残しがあることのほうがもっと悲しい。
キッチンに戻ると、すでに夕食の準備が終わっていた。今夜は私の好きなハンバーグだ。
お父さんって、亡くなる前はどんなふうだったの?」
ハンバーグに箸を入れながら尋ねると、お母さんは目を丸くしたままフリーズした。
「え、なに?」
しばらくしてお母さんはゆっくり首を横にふった。
「実月がお父さんのことを聞くなんて珍しいからびっくりしちゃった。なにかあったの?」
「そうじゃないけど、最期、どうだったのかなって」
「うーん」
お母さんがお茶を両手で抱いた。
「ドラマみたいな感じじゃなくてね、意外とあっさり亡くなったの」
「そうなんだ」
「お父さん、昔から『人生会議』が好きだったから、覚悟はできてたんだろうね」
「なにそれ」
初めて聞く言葉だ。
「アドバンス・ケア・プランニングって言うんだけど、いざというときに困らないように、『自分の最期はどうしたいか』について普段から話し合うこと」
「へえ……って、ごめん。よくわからない」
普段から話し合うってどういうこと? そんな暗い話題、私ならしたくない。
「たぶんそのうち学校で習うわよ。介護とか医療の現場で使われてる言葉だし、お母さんたちの仕事でも最近よく出てくるから」
「お父さんはそういう話をよくしてたの?」
「たとえば、介護が必要になったらどうするか、病気になったらどんな医療を受けたいのか、最後の食事はなにがいいかとか。そういうことを常に話したがる人だった。今思えば、虫の知らせみたいなものがずっと あったのかも」
お父さんの病気は、予告もなく突然発症したと聞いている。たった数日で亡くなったとも。
「お父さん、どういう話をしてたの?」
「それがねえ」とお母さんは苦笑した。
「自分のことよりも、私と実月のことばかり話してた。でも、『自分がもし病気になっても、確実に治る見こみがなければ延命治療をしない』っていうのは、口ぐせのように言ってたの」
「そうなんだ……」
私ならどうするだろうか。自分が死ぬときのことなんてとても考えられない。
「最後の会話も『じゃあ、おやすみ』って、眠るように亡くなったのよ」
ふう、と息をついたお母さんが「でもね」とほほ笑んだ。
「すごく安らかな顔だったの。お父さんはノートに、人生会議で話したことをぜんぶ書いて残してたの。それこそ、お葬式で流す曲まで指定されてたのよ」
遠い記憶のなかにいるお父さんは、いつも冗談を言っては笑っていた。明るくて頼りがいがあって、やさしい人だった。
残された私たちも悲しいけれど、残すほうのお父さんはもっと悲しかっただろうな……。
「お父さんは、思い残しがあったと思う?」
「思い残し?」
サラダをほおばりながらお母さんが聞き返す。
「なんていうか……。たとえば幽霊になってでもこの世に残りたいような、そういうこと」
「それはあったんじゃないかな。お母さんや実月のことを心配してくれていたからね。でも、あれだけ人生会議をしてきたんだから、ほかの人よりはなかったと思うわよ」
自分の運命と向き合ったお父さんはすごい。
私は……まだムリ。少し先の未来さえ霧がかかっているみたいに見えないのに、いざというときのことを考える余裕なんてない。
それは、旧校舎にいる彼女も同じだったに違いない。誰だって、この世から自分が消えるときのことなんて考えられない。
きっと私だけじゃない。毎日テレビで流れる悲しいニュースだって、誰もが『自分には関係のないこと』と思いこんでいる。
夕食が終わっても、お母さんはお父さんの思い出話を次々に披露してくれた。
お父さんに会いたい気持ちはあるけれど、幽霊になっていたとしたら悲しいな。
だって、幽霊になるということは、この世に思い残しがあるということだから。
幽霊になったお父さんと会うくらいなら、その思い出とともに生きていきたい。そう思った 。
「じゃあ、私たちも人生会議をしましょうか」
お母さんがそんな提案をしてきたから、
「ごちそうさまでした」
と、部屋に逃げこんだ。
部屋に飾ったお父さんの写真が、苦笑しているように見えたのは気のせいだろう。