帰り道、碧人は青白い顔していた。
月のせいだけじゃない。初めて幽霊に会ってしまい、ショックを受けているのだろう。
夜道に私たちの足音だけが響いている。
月はさっきよりも青色を薄め、銀色に近くなっている。
マンションのそばまで来てからやっと碧人は足を止めた。
「さっきはごめん。なんか、驚いちゃってさ」
「私も最初に見たときはびっくりしたから」
「なんにも言えなかった。俺、情けないよな」
「そんなことないって。碧人がいてくれただけで、ずいぶん心強かったし」
最近は素直な感情を言葉にできるようになっている。もちろん、好きだとは言えないけれど、私にとっては大きな一歩だ。
「あの女性、すごく怒ってたよね」
世界のすべてが敵だ、というような顔をしていた。
「でも、悲しそうにも見えたよな」
「『青い月の伝説』だと、誰かと手をつながないとしあわせになれない。きっと、会いたい人がいるんだと思う」
もし私が突然、この世から消えることになったとしたら、お母さんに会ってお礼を言いたい。梨央奈にもさよならを言いたい。
でも、碧人には……どうだろう。会ってしまったら余計に悲しくなりそうで。
「俺はさ」と碧人があごをあげた。さっきまでの青色を忘れた月が、銀色の光をサラサラとこぼしている。
「人は死んだらそれで終わりだと思ってた。でも、違うんだな。幽霊になってこの世に残ることもある。旧校舎に閉じこめられて動けないとしたら、悲しいしムカつくと思う」
宙をにらむ碧人から目を逸らしたのは、彼女になにも言えなかったことが恥ずかしかったから。せめて名前だけでも聞けばよかった。
いつもこうだ。あとになって後悔ばかりしている。
「気にすんなよ」
「え?」
ニッと励ますように、碧人が笑みを作る。
「なんにもできなかった俺が言うことじゃないけど、気にすんな。いきなりあの態度はないし」
落ちこんでいることをわかってくれたんだ。たったひと言で、重くなっていた気持ちがふわりと軽くなった気がした。
好きだよ。言葉には絶対にできないけど、碧人のことが好きなんだよ。
「気にしちゃうけど、気にしないようにする」
あふれそうな感情にフタをして答えた。
もうすぐエントランスというところで、ふと、碧人が足を止めた。
「どうかした?」
「あのさ」と言う碧人の声が、さっきよりも低い。
「実月に言わなくちゃいけないことがあるんだ」
改まった口調で碧人は背筋を伸ばした。
「え……なに?」
「たいしたことじゃないんだけど、六月になったら引っ越しをすることになってさ」
マンションに目を向ける碧人。言葉の意味は数秒遅れで理解できた。
「引っ越すって……なんで?」
頭の奥のほうで頭痛が生まれるのがわかった。鈍い痛みが、思考を止めようとしているみたい。
碧人が引っ越しをする? ここからいなくなるってこと?
「親が転勤になってさ、じいちゃんが住んでる奈良県に行くことになったんだよ」
「奈良……」
潮が引くように、体から温度がなくなっていく。碧人は……なにを言ってるの?
「転勤先は大阪府だから、通勤は大変みたいだけどな」
「待ってよ。ぜんぜんたいしたことある話なんだけど 」
おかしな日本語になってしまう私に、慌てた様子で碧人が手を横にふった。
「違う違う。行くのは親だけだから。俺はこの街に残るってこと」
息をしていないことに気づき、大きく酸素を吸いこんだ。
「あ……おじさんとおばさんだけ? なんだ……びっくりした」
「ごめん。言い方が悪かった」
「私こそ、早とちりしちゃった。あ……でも、碧人もマンションから出るってこと?」
「うん」
最悪の想像をしていただけに、泣きそうなほどホッとしている。碧人はやさしく目を細めてから、今歩いてきた道を指さした。
「うちのマンションはひとりだと広過ぎるから誰かに貸すんだって。俺は駅前の安いアパートに住む予定」
「そうなんだ。じゃあ、来月は忙しいね」
「それより最悪なのは、六月の『研修旅行』だよ。なんたって行き先が奈良県だし」
「ああ」とやっと笑えた。
来月、専門学科のクラスを対象に、二泊三日で研修旅行が開催される。いくつかの班に分かれて、それぞれの専門分野の知識を深めるというもの。普通科の人は秋に修学旅行という名目で北海道へ行くそうだ。
「これから何度も奈良に行くことになるのに、学校でも行かなくちゃいけないなんて」
嘆く碧人に、クスクス笑ってしまう。碧人がいなくなるかも、と思った直後だから、いつも以上に楽しい気分。頭痛もどこかへ消えたみたい。
「笑うなよ。俺はかなりショックを受けてるんだから」
「でも、ひとり暮らしをするなんてすごいね」
「マジ勘弁だよ。幽霊が出たらどうすんだよ」
ふくれ面のまま再び歩き出そうとする碧人が、ふと足を止めた。
マンションの向かい側には、一軒家がいくつか並んでいる。私たちのそばに建つ二階建ての家から誰かが出てきた。私と同じ制服を着ている女性は、ポストのなかを確認している。その顔に見覚えがあった。
「え、葉菜さん?」
手紙を手にした葉菜さんが、ハッとふり返った。一瞬視線が合ったけれど、葉菜さんは急ぎ足で玄関のなかに消えてしまった。
「旧校舎にいたクラスメイト? 幽霊でも見たみたいな顔してたな」
碧人が呆れた顔でそう言った。
「こんな近所に住んでいたなんて知らなかった……」
「この家ができたのって三年くらい前じゃなかったっけ。それまでは空き地だったし」
新しい家ができたのは知っていたけれど、誰が住んでいるかは知らなかった。
「同じクラスなら聞いてみれば? それより腹減ったから帰ろう」
スタスタと歩きだす碧人。
今度会ったら聞いてみたいけれど、葉菜さんは誰とも話をしないから拒否される可能性は高い。そう……さっきの幽霊みたいに。
「あっ!」
うわん、とホールに私の声が響いた。
「なんだよ。びっくりさせんなよ」
碧人が目を見開いて文句を言うけれど、それどころじゃない。
さっきの幽霊と葉菜さんが似ていることに気づいたのだ。いや、似ているというレベルじゃない。髪型や見た目、雰囲気までなにもかも同じだ。
「あの、さ……さっき旧校舎で会った幽霊、葉菜さんに似てなかった?」
なんで気づかなかったのだろう。幽霊は葉菜さんより年上に見えたから、ひょっとして姉妹とか……?
だけど碧人は興味なさげに「さあ」と首をひねった。
「葉菜って子は一瞬しか見てないし、そもそも幽霊は怖くて直視してないからわからない。そんなに似てたっけ?」
「……どうだろう」
さっきまであったはずの確信がぼやけていく。
同じ制服を着て、同じような見た目だからそう思ったのかな……。
「それより引っ越しのことなんだけど、親とか友だちにはまだ内緒にしといてくれる?」
急カーブで話題を戻す碧人に、少し遅れてうなずく。
「でも、もう来月の話なんだよね?」
「いろいろ言われるの、苦手だから」
そう言うと、碧人は自分の棟のエレベーターへ向かった。ケガをしたときもそうだったから、すぐに理解できた。
「わかった。内緒にしとく」
「約束な」
私もエレベーターに乗りこむ。ふり向くと、碧人はまだその場で軽く手をふっていた。
ふたりだけの約束というのも悪くないな、と思った。
月のせいだけじゃない。初めて幽霊に会ってしまい、ショックを受けているのだろう。
夜道に私たちの足音だけが響いている。
月はさっきよりも青色を薄め、銀色に近くなっている。
マンションのそばまで来てからやっと碧人は足を止めた。
「さっきはごめん。なんか、驚いちゃってさ」
「私も最初に見たときはびっくりしたから」
「なんにも言えなかった。俺、情けないよな」
「そんなことないって。碧人がいてくれただけで、ずいぶん心強かったし」
最近は素直な感情を言葉にできるようになっている。もちろん、好きだとは言えないけれど、私にとっては大きな一歩だ。
「あの女性、すごく怒ってたよね」
世界のすべてが敵だ、というような顔をしていた。
「でも、悲しそうにも見えたよな」
「『青い月の伝説』だと、誰かと手をつながないとしあわせになれない。きっと、会いたい人がいるんだと思う」
もし私が突然、この世から消えることになったとしたら、お母さんに会ってお礼を言いたい。梨央奈にもさよならを言いたい。
でも、碧人には……どうだろう。会ってしまったら余計に悲しくなりそうで。
「俺はさ」と碧人があごをあげた。さっきまでの青色を忘れた月が、銀色の光をサラサラとこぼしている。
「人は死んだらそれで終わりだと思ってた。でも、違うんだな。幽霊になってこの世に残ることもある。旧校舎に閉じこめられて動けないとしたら、悲しいしムカつくと思う」
宙をにらむ碧人から目を逸らしたのは、彼女になにも言えなかったことが恥ずかしかったから。せめて名前だけでも聞けばよかった。
いつもこうだ。あとになって後悔ばかりしている。
「気にすんなよ」
「え?」
ニッと励ますように、碧人が笑みを作る。
「なんにもできなかった俺が言うことじゃないけど、気にすんな。いきなりあの態度はないし」
落ちこんでいることをわかってくれたんだ。たったひと言で、重くなっていた気持ちがふわりと軽くなった気がした。
好きだよ。言葉には絶対にできないけど、碧人のことが好きなんだよ。
「気にしちゃうけど、気にしないようにする」
あふれそうな感情にフタをして答えた。
もうすぐエントランスというところで、ふと、碧人が足を止めた。
「どうかした?」
「あのさ」と言う碧人の声が、さっきよりも低い。
「実月に言わなくちゃいけないことがあるんだ」
改まった口調で碧人は背筋を伸ばした。
「え……なに?」
「たいしたことじゃないんだけど、六月になったら引っ越しをすることになってさ」
マンションに目を向ける碧人。言葉の意味は数秒遅れで理解できた。
「引っ越すって……なんで?」
頭の奥のほうで頭痛が生まれるのがわかった。鈍い痛みが、思考を止めようとしているみたい。
碧人が引っ越しをする? ここからいなくなるってこと?
「親が転勤になってさ、じいちゃんが住んでる奈良県に行くことになったんだよ」
「奈良……」
潮が引くように、体から温度がなくなっていく。碧人は……なにを言ってるの?
「転勤先は大阪府だから、通勤は大変みたいだけどな」
「待ってよ。ぜんぜんたいしたことある話なんだけど 」
おかしな日本語になってしまう私に、慌てた様子で碧人が手を横にふった。
「違う違う。行くのは親だけだから。俺はこの街に残るってこと」
息をしていないことに気づき、大きく酸素を吸いこんだ。
「あ……おじさんとおばさんだけ? なんだ……びっくりした」
「ごめん。言い方が悪かった」
「私こそ、早とちりしちゃった。あ……でも、碧人もマンションから出るってこと?」
「うん」
最悪の想像をしていただけに、泣きそうなほどホッとしている。碧人はやさしく目を細めてから、今歩いてきた道を指さした。
「うちのマンションはひとりだと広過ぎるから誰かに貸すんだって。俺は駅前の安いアパートに住む予定」
「そうなんだ。じゃあ、来月は忙しいね」
「それより最悪なのは、六月の『研修旅行』だよ。なんたって行き先が奈良県だし」
「ああ」とやっと笑えた。
来月、専門学科のクラスを対象に、二泊三日で研修旅行が開催される。いくつかの班に分かれて、それぞれの専門分野の知識を深めるというもの。普通科の人は秋に修学旅行という名目で北海道へ行くそうだ。
「これから何度も奈良に行くことになるのに、学校でも行かなくちゃいけないなんて」
嘆く碧人に、クスクス笑ってしまう。碧人がいなくなるかも、と思った直後だから、いつも以上に楽しい気分。頭痛もどこかへ消えたみたい。
「笑うなよ。俺はかなりショックを受けてるんだから」
「でも、ひとり暮らしをするなんてすごいね」
「マジ勘弁だよ。幽霊が出たらどうすんだよ」
ふくれ面のまま再び歩き出そうとする碧人が、ふと足を止めた。
マンションの向かい側には、一軒家がいくつか並んでいる。私たちのそばに建つ二階建ての家から誰かが出てきた。私と同じ制服を着ている女性は、ポストのなかを確認している。その顔に見覚えがあった。
「え、葉菜さん?」
手紙を手にした葉菜さんが、ハッとふり返った。一瞬視線が合ったけれど、葉菜さんは急ぎ足で玄関のなかに消えてしまった。
「旧校舎にいたクラスメイト? 幽霊でも見たみたいな顔してたな」
碧人が呆れた顔でそう言った。
「こんな近所に住んでいたなんて知らなかった……」
「この家ができたのって三年くらい前じゃなかったっけ。それまでは空き地だったし」
新しい家ができたのは知っていたけれど、誰が住んでいるかは知らなかった。
「同じクラスなら聞いてみれば? それより腹減ったから帰ろう」
スタスタと歩きだす碧人。
今度会ったら聞いてみたいけれど、葉菜さんは誰とも話をしないから拒否される可能性は高い。そう……さっきの幽霊みたいに。
「あっ!」
うわん、とホールに私の声が響いた。
「なんだよ。びっくりさせんなよ」
碧人が目を見開いて文句を言うけれど、それどころじゃない。
さっきの幽霊と葉菜さんが似ていることに気づいたのだ。いや、似ているというレベルじゃない。髪型や見た目、雰囲気までなにもかも同じだ。
「あの、さ……さっき旧校舎で会った幽霊、葉菜さんに似てなかった?」
なんで気づかなかったのだろう。幽霊は葉菜さんより年上に見えたから、ひょっとして姉妹とか……?
だけど碧人は興味なさげに「さあ」と首をひねった。
「葉菜って子は一瞬しか見てないし、そもそも幽霊は怖くて直視してないからわからない。そんなに似てたっけ?」
「……どうだろう」
さっきまであったはずの確信がぼやけていく。
同じ制服を着て、同じような見た目だからそう思ったのかな……。
「それより引っ越しのことなんだけど、親とか友だちにはまだ内緒にしといてくれる?」
急カーブで話題を戻す碧人に、少し遅れてうなずく。
「でも、もう来月の話なんだよね?」
「いろいろ言われるの、苦手だから」
そう言うと、碧人は自分の棟のエレベーターへ向かった。ケガをしたときもそうだったから、すぐに理解できた。
「わかった。内緒にしとく」
「約束な」
私もエレベーターに乗りこむ。ふり向くと、碧人はまだその場で軽く手をふっていた。
ふたりだけの約束というのも悪くないな、と思った。