放課後、いつもとは別のスーパーの特売セールに急ぐ梨央奈を見送り、窓越しの空を眺めていた。
夕焼けが満ちていく空に、青い月が光っている。半月の形に青空を閉じこめ たような不思議な月。
五時間目の途中に顔を出したこの月は、私以外の人には 見えていない。梨央奈にさりげなく尋ねてみたけれど、『月なんて出てないじゃない』と笑っていた。
泣いたせいでさっきからやけに眠い。頭痛もしていて、本当ならこのまま帰りたい。
でも……陸さんに会いに行かないと。私では役に立てないことを伝えなくちゃ。
席を立ちバッグを手にしたときだった。ふたつ隣の席に居残っていた 小早川さんが意を決したように急に立ちあがりこっちに歩いてきた。
「……さん」
すぐそばで小さな声が聞こえる。私を呼んでいるの?
「あ、うん」
小早川さんに話しかけられたことがなかったから戸惑ってしまう。
小柄な小早川さんは、前髪の壁で自分の表情をいつも隠している。想像よりもかわいらしい目が前髪のすき間から見えたけれど、視線が合うと同時にうつむいてしまった。
そして、沈黙。
「あの……なにかあった?」
尋ねても、勇気が出ないのか小早川さんはうつむいたままだ。
どうしよう。早く陸さんに会いに行かないと、せっかくの勇気がしぼんでしまいそう。
「ひとつだけ、いいですか?」
やっと聞こえた声は、想像よりも高くて丸かった。
「あ、うん」
たっぷり時間を空けてから、ようやく小早川さんは口を開いた。
「違っていたらごめんなさい。空野さんって……霊感がありますか?」
「レイカン……?」
「幽霊が視えたりしますか?」
今度は私が黙る番だ。ひょっとしたら梨央奈との会話を聞かれたのかもしれない。
「ううん、そういうのは、ない、よ」
驚きのあまり、おかしな言い方になってしまった。
「……幽霊と話をしたとか、そういうのないんですか?」
「ないない」
碧人と同じく、私もウソをつくときにこの言葉を口にするクセがある。
張りつめていた糸が切れるように、小早川さんはガクンと肩を落とした。
「そうでしたか。失礼しました」
丁寧に頭を下げ、教室から出て行ってしまった。
……どうしたんだろう。ひょっとして小早川さんは霊感があるのだろうか。陸さんのことを話せばよかったのに、これ以上いろんな人に迷惑をかけたくなかった。
それよりも、早く旧校舎に向かわないと夜になってしまう。
幽霊でも出たらどうしよう。違う、その幽霊に会いに行くんだ……。
靴を履き替えると、グラウンドから部活動の声が風に乗って聞こえてくる。空はどんどん紅茶色に染まっていく。
急いで旧校舎の裏手へ向かうと、あの黒猫のしっぽが見えた。やっぱり待っていたんだ。
近づくと、黒猫のそばにしゃがんでいる人がいるのがわかった。目を線にしてうれしそうに黒猫の頭をなでているのは――碧人だった。
「え……」
立ち止まった私に気づくと、碧人はバツが悪そうに立ちあがった。
生ぬるい風が私たちの間をすり抜けていく。
「にゃー」
黒猫の声に我に返り、碧人に近づいた。
「なんでここにいるの?」
金曜日のことを謝りたかったのに、責めるような言葉を投げてしまった。
「だって、ほら」
碧人が人差し指で月を指した。
「碧人も見えてるの?」
「すげえ青いよな。中二んときと同じくらい、いやそれ以上かも」
「うん」
同じ月が見えていたことがうれしくて、思わず笑みを浮かべてしまった。
「これから陸ってヤツに会いに行くの?」
「陸さんが会いたがっている涼音さんに会えたの。でも、なにも言えなかった」
それだけで私の気持ちを理解してくれたのか、
「言えないよな。一年しか経ってないし」
碧人はやさしくうなずいてくれた。
「碧人も一緒について来てくれるの?」
「いや、俺は今回呼ばれてないから」
「え?」
「あの本に書いてあったろ。黒猫に導かれた人だけが使者になれる。ほら、見て」
碧人が校舎に入ろうとすると、さっきまでなついていたはずの黒猫が碧人の前に立ちふさがった。ふくらんだしっぽを立て、碧人を追い払おうと牙をむいている。
「今回の使者は実月だけってことだろうな。俺もなりたかったけど今回はあきらめる。ここで待ってるよ」
「……わかった。あの……この間はヘンにつっかかってごめんね」
そう言うと、碧人はホッとしたように表情を緩めた。
「俺のほうこそ。自分から言い出しておいて、あれはないよな。猛烈に反省してたところ」
「うん」
「実月と話したくないわけじゃないんだ。うちのクラスのヤツら、マジでしつこくてさ。実月に迷惑をかけたくなかった」
私のことを考えて言ってくれてたんだね。前にも説明してくれたのに、あのときは素直に受け入れることができなかった。
胸にたまっていた重りが取れたみたい。こんなに心が軽くなっている。
「じゃあ、行ってくるね」
「なんかあったら大声で呼んで。引っかかれても駆けつけるから」
「にゃん」
言葉がわかるかのように黒猫が反応した。
旧校舎に入るときにふり向くと、碧人は軽く手をあげていた。上空から彼に、青い光がふりそそいでいた。
夕焼けが満ちていく空に、青い月が光っている。半月の形に青空を閉じこめ たような不思議な月。
五時間目の途中に顔を出したこの月は、私以外の人には 見えていない。梨央奈にさりげなく尋ねてみたけれど、『月なんて出てないじゃない』と笑っていた。
泣いたせいでさっきからやけに眠い。頭痛もしていて、本当ならこのまま帰りたい。
でも……陸さんに会いに行かないと。私では役に立てないことを伝えなくちゃ。
席を立ちバッグを手にしたときだった。ふたつ隣の席に居残っていた 小早川さんが意を決したように急に立ちあがりこっちに歩いてきた。
「……さん」
すぐそばで小さな声が聞こえる。私を呼んでいるの?
「あ、うん」
小早川さんに話しかけられたことがなかったから戸惑ってしまう。
小柄な小早川さんは、前髪の壁で自分の表情をいつも隠している。想像よりもかわいらしい目が前髪のすき間から見えたけれど、視線が合うと同時にうつむいてしまった。
そして、沈黙。
「あの……なにかあった?」
尋ねても、勇気が出ないのか小早川さんはうつむいたままだ。
どうしよう。早く陸さんに会いに行かないと、せっかくの勇気がしぼんでしまいそう。
「ひとつだけ、いいですか?」
やっと聞こえた声は、想像よりも高くて丸かった。
「あ、うん」
たっぷり時間を空けてから、ようやく小早川さんは口を開いた。
「違っていたらごめんなさい。空野さんって……霊感がありますか?」
「レイカン……?」
「幽霊が視えたりしますか?」
今度は私が黙る番だ。ひょっとしたら梨央奈との会話を聞かれたのかもしれない。
「ううん、そういうのは、ない、よ」
驚きのあまり、おかしな言い方になってしまった。
「……幽霊と話をしたとか、そういうのないんですか?」
「ないない」
碧人と同じく、私もウソをつくときにこの言葉を口にするクセがある。
張りつめていた糸が切れるように、小早川さんはガクンと肩を落とした。
「そうでしたか。失礼しました」
丁寧に頭を下げ、教室から出て行ってしまった。
……どうしたんだろう。ひょっとして小早川さんは霊感があるのだろうか。陸さんのことを話せばよかったのに、これ以上いろんな人に迷惑をかけたくなかった。
それよりも、早く旧校舎に向かわないと夜になってしまう。
幽霊でも出たらどうしよう。違う、その幽霊に会いに行くんだ……。
靴を履き替えると、グラウンドから部活動の声が風に乗って聞こえてくる。空はどんどん紅茶色に染まっていく。
急いで旧校舎の裏手へ向かうと、あの黒猫のしっぽが見えた。やっぱり待っていたんだ。
近づくと、黒猫のそばにしゃがんでいる人がいるのがわかった。目を線にしてうれしそうに黒猫の頭をなでているのは――碧人だった。
「え……」
立ち止まった私に気づくと、碧人はバツが悪そうに立ちあがった。
生ぬるい風が私たちの間をすり抜けていく。
「にゃー」
黒猫の声に我に返り、碧人に近づいた。
「なんでここにいるの?」
金曜日のことを謝りたかったのに、責めるような言葉を投げてしまった。
「だって、ほら」
碧人が人差し指で月を指した。
「碧人も見えてるの?」
「すげえ青いよな。中二んときと同じくらい、いやそれ以上かも」
「うん」
同じ月が見えていたことがうれしくて、思わず笑みを浮かべてしまった。
「これから陸ってヤツに会いに行くの?」
「陸さんが会いたがっている涼音さんに会えたの。でも、なにも言えなかった」
それだけで私の気持ちを理解してくれたのか、
「言えないよな。一年しか経ってないし」
碧人はやさしくうなずいてくれた。
「碧人も一緒について来てくれるの?」
「いや、俺は今回呼ばれてないから」
「え?」
「あの本に書いてあったろ。黒猫に導かれた人だけが使者になれる。ほら、見て」
碧人が校舎に入ろうとすると、さっきまでなついていたはずの黒猫が碧人の前に立ちふさがった。ふくらんだしっぽを立て、碧人を追い払おうと牙をむいている。
「今回の使者は実月だけってことだろうな。俺もなりたかったけど今回はあきらめる。ここで待ってるよ」
「……わかった。あの……この間はヘンにつっかかってごめんね」
そう言うと、碧人はホッとしたように表情を緩めた。
「俺のほうこそ。自分から言い出しておいて、あれはないよな。猛烈に反省してたところ」
「うん」
「実月と話したくないわけじゃないんだ。うちのクラスのヤツら、マジでしつこくてさ。実月に迷惑をかけたくなかった」
私のことを考えて言ってくれてたんだね。前にも説明してくれたのに、あのときは素直に受け入れることができなかった。
胸にたまっていた重りが取れたみたい。こんなに心が軽くなっている。
「じゃあ、行ってくるね」
「なんかあったら大声で呼んで。引っかかれても駆けつけるから」
「にゃん」
言葉がわかるかのように黒猫が反応した。
旧校舎に入るときにふり向くと、碧人は軽く手をあげていた。上空から彼に、青い光がふりそそいでいた。