人は慣れる生き物らしく、チャイムが鳴らない学校生活にもみんな順応している。

お互いに『そろそろ座る?』と声をかけ合ったり、授業中に先生が熱弁していても、『あと一分です』と日直が時間を告げたりするようになった。

昼休みと同時に席を立ち、二階に向かった。梨央奈に話すと怖がるだろうし、ひとりで行く覚悟はできていた。

私が青い月に選ばれた使者なら、やれることはやろう、と。

三年一組の教室は、私の教室の真下に位置する。

二階におりて涼音さんのいる教室に向かうと、廊下の窓側に立っている人に気づいた。

――海弥さんだ。

腕を組み、まるで門番のように立ちふさがっている。教室のほうを見ていた海弥さんの表情が、私に気づくと同時に怒りの顔に変わった。

これは……まずい。

「またお前か」

(いら)()ちを声ににじませて近づいてくる。

「まさか、涼音に会いに来たのか?」

「あ……すみません」

たまたま通りかかったというのはムリがある。

「実はそうなんです。陸さんが伝えたいことがある、って……」

正直に答えると、さらに海弥さんは眉の角度を大きくした。

「ふざけんなよ。涼音に幽霊の話をするつもりなのか。陸が亡くなって、まだ一年しか経ってないんだぞ」

「あ……」

そのときになってやっとわかった。私がしようとしていることは、生きている人にとってはつらいこと。

『亡くなった陸さんの霊を見た』なんて言われたら誰だって困惑するだろう。

それだけじゃない。悲しみや怒りを覚えるに決まっている。恋人だった人ならなおさらだ。

「人の死を遊び道具にして、涼音がどんな気持ちになるのか考えたことあるのか?」

考えていなかった。ただ、使命を果たすことばかり考えてしまっていた。

「ごめんなさい」

「謝って済む問題かよ。だいたいお前は――」

怒りを(あら)わにした海弥さんが、今度は驚いた顔 に変わった。

その表情がぐにゃりと曲がったかと思った瞬間、私の頬に涙がこぼれていた。

「え……マジで?」

「ごめんなさい。あの、すみません」
 
頭を下げると、廊下にも涙が落ちた。

私、なにやってるんだろう。突然押しかけてきて勝手に泣くなんて、海弥さんが怒るのも当然だ。

こんなんだから、碧人にだって嫌われるんだ……。

「悪かった。泣かせるつもりはなかった」

動揺したように視線をさまよわせる海弥さん。

「ごめんなさい。私が悪いんです」  

かっこ悪過ぎて消えてしまいたくなる。廊下を歩く生徒の興味深げな視線を感じながら、必死で涙を拭った。

「あのさ」とさっきよりやわらかい声で海弥さんが言った。

「俺と陸と涼音は中学んときからの仲でさ、あいつらはつき合っててさ……」

「はい」

「だから俺よりも涼音のほうがつらいんだよ。よくわかんねえ話で会わせるわけにはいかない」

そうだろうな、と思う。自分が情けなくてたまらない。

「わかりました」
 
教室に戻ろうと、もう一度頭を下げたときだった。

「ちょっと海弥!」

教室から出てきた女子生徒が私を体ごと包んだ。

「あんたなにやってんのよ。下級生を泣かせるなんてどういうつもり⁉」

「ちが……。こいつが悪いんだよ。だってわけのわかんねえことを――」

「そういうことを言ってるんじゃない。泣かせたことが問題なの」

きっぱりと言うと、その女性が私を覗きこんできた。

「大丈夫? なにか言われたんだね。口が悪いのよ、こいつ」

肩までの髪に白い肌。ほとんどメイクをしてないのに大きな瞳が目立っている。でも、どこかさみしそうな印象を受けた。

ああ、わかる。きっと彼女が立花涼音さん。陸さんの彼女だ。

「違うんです。私が……私が悪いんです」

「そうだよ」

同意する海弥さんをにらみつけると、女性は私を抱いたまま歩きだす。

「あんたはついてこないで!」

海弥さんをけん制して、踊り場まで来ると女性は「ごめんね」と謝ってくれた。

「いえ……」

目の前に涼音さんと思われる人がいる。

どうしよう……。涙は引っこみ、恐れていたはずの海弥さんに助けを求めたくなる。

海弥さんはさっきの場所から『待て』と言われた犬みたいに、うらめしそうににらんでくる。

「あの、すみません。大丈夫です」

「大丈夫じゃないでしょう? あいつ、ほんとぶっきらぼうなんだよ。私から注意しておくから、なにがあったか話してくれる?」

涼音さんは親切な人だ。恋人を一年前に亡くして苦しいのに、私にまでやさしくしてくれる。

だからこそ、陸さんの話をするわけにはいかない。

「違うんです。私が泣いていたのを海弥さんが助けてくれたんです」

「……あいつが? そういうタイプじゃないけど」

いぶかしげに眉をひそめる涼音さんに、大きく首を縦にふってみせた。

「本当にそうなんです。あの、なにがあったか海弥さんには聞かないでください。私の勘違いだったんです」

思いっきり頭を下げてから、逃げるように階段を駆けあがった。

女子トイレで涙を拭ってから廊下へ出ると、向こうから碧人が歩いて来るのがわかった。私に気づき、なにか言いたげに口を開いた。

だけど、今はとても話せない。学校では話せない。こんな気持ちでは――。

顔を伏せ、教室に入る。

逃げてばかりの自分が情けなくて、拭ったはずの涙がまたこみあげてきた。