舞踏会の夜から数日が経過したが、私は未だ夢を見ているような心持ちだった。
 十二年もの間、恋焦がれていた相手と直接言葉を交わし、見つめ合い、ダンスに誘われたのだ。
 布越しとはいえ、陛下の手がこの体に触れたのだ。
(ガレマ11世国王陛下……)
 ベッドの上で身悶えする。思い出すほどに、胸が切なく締め付けられる。頭はシャンパンにすっかり酔わされたように、うまく回らなかった。
「ミューリ」
 ノックの音と共に、カイルの私を呼ぶ声が聞こえて来た。
 部屋に入って来たカイルは、一つの封筒を手にしていた。
「王宮から、お前にだ」
 ベッドの上で身を起こし、受け取って中身を確認する。
 王妃から、女官として王宮に入るようにとの、正式な要請だった。
「やったな、ミューリ」
 カイルもベッドに腰かけ、私の髪を撫でる。
「ついにここまで来たぞ。王宮に入れば、陛下が部屋を訪れることもある。つまり、お前は陛下と恋ができるんだ」
(陛下と、恋が……)
 カイルは歯を見せて笑い、私の顔をのぞき込む。
「どうした、もっと喜べよ。お前の夢だったんだろう?」
「う、うん。でも……」
「でも?」
「なんだか、怖くて……」
「アホ」
 カイルは私の額を軽く小突く。
「怖気づくなよ。お前は陛下からダンスに誘われた、王妃様から気に入られもした。あとは飛び込むだけなんだ。ここまで来て尻尾巻いて逃げるなんてありえないだろう?」
「そう、だけど……」
 長年の恋が実るかもしれない、それは本当に嬉しい。
 だがそれ以上に、何か大きなものを失う気がしてならないのだ。
「カイル、私、やっぱり……」
「行けよ、ミューリ」
 その声の思わぬ固さに、瞬時に頭の奥が冷える。
 だが目を上げた先にあったのは、カイルのいつもの明るい笑顔だった。
「気を抜くな、ミューリ。公妾候補者はお前以外にもいる。絶対に勝ちあがれ。そして」
 カイルの大きな手が、そっと私の頬に触れた。
「俺を出世させてくれ」
「……うん」
 私はカイルの手に自分の手を重ねる。
「その約束で結婚したんだもの。わかってる」


 夜が訪れた。
 すっかり眠る準備を整え、ベッドに入ろうとした時、控えめなノックの音が聞こえて来た。
「誰?」
 扉が開くと、カイルが滑り込んでくる。
 カイルは慎重に扉を閉めると、歩み寄ってきた。
「何? こんな夜更けに」
 カイルは怖いほど真剣な眼差しをしていた。
「ミューリ、俺はお前を抱く」
「!?」
 私は息を飲み、飛び退る。
「急に何を?」
「王宮に入るのに、処女のままだとまずいだろう」
(あ……!)
 この国では、既婚者同士であれば『大人の自由恋愛』とされるが、未婚のものに手を出せば国王とはいえ罪になる。
「俺たちは結婚をしているから、お前は人妻で間違いない。ただ、そうなるとお前が処女であることを王が不審がるだろう。それにお忙しい身の上の方だ。初めての女を一から手ほどきするのは面倒に思うかもしれない。ついでに言えば、技巧に優れている他の愛妾たちから後れを取る可能性がある」
「そ、そうね……」
 カイルに返事をしながらも、声が上ずる。
 そういうことを全く考えなかったわけじゃない。
 ただ、ロマンティックな恋を夢見ていたら、突然生々しい男女の現実を突きつけられ、落差に軽いショックを受けたのだ。
「……急に言われても、心の準備が必要だよな」
 カイルは頭をバリバリと掻くと背を向けた。
「まぁ、今すぐって話じゃない。王宮に上がるまで、まだ少し日がある。心の準備が出来たら言え」
 立ち去ろうとするカイルのシャツを、私は掴んだ。
「なんだ」
「お願いします」
「え?」
「今から、その、(ねや)のレッスンをお願いします」
 カイルが僅かに息を飲んだ。
 シャツを掴んだ私の手に、カイルはそっと触れる。
「……無理するな、ミューリ。指先、冷たいぞ」
「大丈夫」
「それに震えている」
「大丈夫、だから!」
 私は叫ぶように伝える。
「……カイルなら、信頼して身を任せられるから」
「……」
 カイルがベッドに腰を下ろす。
 そして身を寄せると私の唇をそっと奪った。
「無理ならすぐ言えよ、ミューリ」
「……わかった」
 カイルの掠れた低い声に、私はうなずいた。


 その夜、私はカイルのしるしを刻まれ、カイルに満たされる幸せを知ったのだ。