愛と欲望の成り上がり夫婦大作戦

 他の人と感想や発言がかぶらないよう、しっかりと耳を傾けつつ考える。
(そうだ)
 ふと、先日身に着けた技術が生かせるのではないかと気づいた。
(下手をすれば顰蹙(ひんしゅく)を買うかもしれないけど)
 私は手にしていたアイダンの著作の、目をつけていたページを開いた。

「ミューリ嬢」
 やがて私の名をウィヒッツ夫人が呼んだ。
「貴女のご意見も聞かせてほしいわ」
「はい、私は……」
 私は作品名と、お気に入りのシーンを挙げる。
「特にここの台詞ですが、恋する乙女の気持ちがとても細やかに表現されていて、胸に染みました。私自身の心がそのまま本になり、一枚一枚ページをめくって確かめていくような、そんな心持ちになりました」
「あら素敵。心が本になって、そのページをめくるだなんて」
「はい。そして何より心に響いたのはこのセリフです」
 私はソファから立ち上がり、胸を張る。そして中性的に聞こえるよう低い声で語り始めた。

「あぁ、なんと愛らしい方だろう。貴女の噂を耳にするたび、僕の心にはひとひら、またひとひらと恋が降り積もっていきました。会いたい気持ちが募り、その甘い胸苦しさに幸せと苦しみを味わい続けてきました。しかし今宵、ついに貴女とこうしてお会いできたのです。僕の心に降り積もった恋心はあなたの眼差しの前に全て溶け、今や奔流となって僕を飲み込まんとしています」

 女主人公(ヒロイン)ではなく、あえてその恋のお相手役のセリフを私は演じてみせる。
 先日演技指導のワッザーから、どこをどうすればどんな役どころを演じられるか、ポイントを教わった。その中の一つに『男らしい演技』があったのだ。
 ひとしきり演じた後、私は元のミューリに戻りにっこりと微笑む。
「このセリフが本当に素敵で。私自身がこんな風に言われたらどれだけ幸せだろうと思いつつ何度も読み返し、ついに暗記してしまいました」
 静まり返る室内。私は恥じらうように微笑んで見せつつも、内心「どっちだ!?」と冷汗をかきつつ結果を待つ。

 やがてぱちぱちぱちと拍手が聞こえて来た。
 作者のアイダンだった。
「いや、素晴らしい」
 ロマンティックな作風とは裏腹に、やや厳めしい顔つきの中年男性が、口元を緩め、歩み寄ってきた。そしてスマートに私の手を取る。
「今のは、エゥトーゴのセリフですね。こんなにも愛らしい方が演じたというのに、先ほどの貴女の姿は麗しい好青年に見えましたよ。僕の書いたものがこんな素晴らしい芝居になるとは」
 アイダンが言葉を終えると、女性陣の間から、ほーっと息が漏れた。
「えぇ、本当に。私自身がエゥトーゴから愛を囁かれているようでドキドキしてしまいました」
「この作品、ぜひとも王立の大劇場で見てみたくなりましたわ」
「女性が演じる男性と言うのは、何とも言えない魅力があるものですのね」
(よし、好感触!)
 少なくとも、作者自身と客からは好意的に受け止められた。あとは……。
「ミューリ嬢」
 背後から聞こえて来たウィヒッツ夫人の声には、咎めるような響きがあった。
(う!?)
 サロンの主には不評だったか。
「はい」
 私は恐る恐る、ウィヒッツ夫人をふり返る。彼女は少し面白くなさそうな顔つきをしていた。
 しかし次にその口から飛び出したのは、思いも寄らない言葉だった。
「ずるいですわ、アイダンばかり! 私の作品の中に、演じてみたくなる台詞はございませんでしたの?」
「え? あ、とんでもないことです!」
 私はソファに置いていた彼女の著作を手に取る。そして、しおりを挟んでおいたページをさっと開き彼女へ示した。
「このセリフ、私に演じる許可をいただけますか?」
「許可など必要ありません」
 ウィヒッツ夫人がフッと微笑む。
「そのセリフ、私にとっても思い入れのあるものですのよ。さぁ、早く見せてくださいまし」
「はい! では」

 ■□■

 サロンの客を全て送り出すと、ウィヒッツ夫人は満足気に微笑んだ。
「今日はとても面白いものが見られましたわね」
「えぇ」
 アイダンは楽し気にうなずく。
「僕は今、次の作品に男装の麗人を登場させようかと考えております」
「まぁ、アイダン、ずるいわ。私も同じことを考えておりましたのよ!」
「ではともに書きましょう。どちらがより、ご婦人方の心を掴むか勝負です」
「いいでしょう、受けて立ちますわ」
 二人の作家は顔を見合わせ笑う。
 ミューリの評判が作家界隈に広まり、そして王妃の元へ届くのに、そう時間はかからなかった。
――あたしは、国王陛下のお嫁さんになるの!
 幼い私が、うっとりとコインを胸に抱く。
――無理だよ、ミューリ。だって陛下はもう結婚してしまわれたじゃないか。
 私より少し年かさのカイルが現実を見せる。
――するもん! 陛下のお嫁さんになるんだもん! もし出来なきゃ……
 幼い私は癇癪を起こす。
――悲しくて、死んじゃう!
 私の言葉に、少年のカイルは息を飲む。そして泣きじゃくる私を優しく宥めた。
――死んじゃだめだ、ミューリ。俺が君の夢をかなえてあげるから。


「ミューリ」
 私の名を呼ぶカイルの声に、はっと目を覚ます。
 見回せば辺りは真っ暗。
 私は書斎で読書しながら眠ってしまっていたようだ。
「大丈夫か?」
「うん。ちょっと転寝(うたたね)しちゃっただけ」
 カイルの手にした灯りが目に眩しい。
 私は目をこすり、伸びをした。
(なんか、懐かしい夢を見ていたような……)
 お腹が、クゥと鳴った。
「晩餐の時刻?」
「あぁ。いつまでも来ないから迎えに来た。義父さんも待ちくたびれてるぞ」
「いけない、急がなきゃ」
 立ち上がった瞬間、軽い眩暈を起こす。
「わわっ」
「ミューリ!」
 カイルが灯りを持ったのと逆の腕で、私を支えた。
「ごめん、ありがとう。ちょっと頭使いすぎたみたい」
「……」
 カイルは机の上に積み上げた本に目をやった。
「ウィヒッツ夫人のサロン以降、急に増えたもんな。作家関連のサロンへの招待が」
「うん。おかげで、読まなきゃいけない本が山ほど」
 作家関連のサロンに参加して、作者を前に「読んだことありません」はご法度だ。
「読書は嫌いじゃないけど、中には相性の良くないのもあるからね。そういうのは義務感で読むことになるから、どうしても眠くなっちゃうね」
「別に、全部のサロンに行かなきゃいいだろ。最近は招待の数も多いし、少し絞ったらどうだ?」
「そうね」
 私はカイルの肩に頭を持たせかける。
「でも、私の名が陛下の元へ届かなきゃ、カイルは出世できないでしょ?」
「え……」
「だったら、頑張るしかないよ。特に、位の高い方のサロンには絶対行かなきゃ」
「ミューリ」
 カイルの指が私の髪を優しく梳く。子どもの頃のように。
「明日、時間取れるか?」
「明日? うん、予定と言えば読書くらいかな」
「よし。なら俺と出かけるぞ」
 出かける?


「おお、カイル様だ!」
「カイル様、こんにちは!」
 翌日、私はカイルと共に馬車で出かけた。カイルが窓から顔をのぞかせると、領民は嬉しそうに声をかけてくる。しかもずいぶんフランクに。
「止めてくれ」
 カイルは御者にそう言って、馬車を止めさせた。
「来いよ、ミューリ」
「えっ、何?」
 カイルは私の手を取り、共に馬車から降りる。
「おや、今日はミューリ様もご一緒でいらっしゃいましたか」
「あぁ、デートだ」
 カイルの言葉に、領民たちは微笑ましい顔つきになる。
「まぁ、仲のおよろしいことで」
「昔から、睦まじくていらっしゃいましたものね」
(えぇ……)
 領民たちの言葉に、なぜか頬が熱くなる。
(仲がいいって言っても、兄と妹みたいなものだったし。今だって、互いの目的のために手を組んでるだけだし)
 そんな私の気も知らず、カイルはグッと私の肩を抱く。
「長年の想いが通じたってやつだな!」
「ちょ、ちょっとカイル!」
「ははは、照れる顔も可愛いな」
「人前でこういうのは……」
「ん? なら二人きりの時にするとしよう」
 そう言いながら、カイルは私の額にキスを落とす。
「カイルー!」
 私たちのやりとりに、領民たちの間から好意的な笑いが起こった。
「あのっ、カイル様!」
 若い娘がオレンジを入れたかごを持って近づいてきた。
「カイル様の指示通りやり方を変えてみたら、こんなに大きく実りました。ありがとうございます!」
「おぉ、見事なオレンジだな。一つもらっていいか?」
「はい、どうぞお好きなだけ」
 カイルはかごからオレンジを取ると、器用に皮をむく。そして房を分け、その一つを口に運んだ。
「うん、美味い。口に入れた瞬間、甘い汁があふれてくる。実にみずみずしいな、これは」
「ありがとうございます」
「ほら、ミューリ」
 カイルはオレンジの一つを指先で摘まみ、私の口元へ持ってくる。
「口開けろ、美味いぞ」
「えっ、えっ?」
「うちの領民が精魂込めて作ったオレンジだ」
 見回せば、期待の眼差しが私に集中している。気圧されるように私は口を開け、それを受け入れた。
「美味しい!」
 思わず声を上げてしまう。甘く程よくすっぱい果汁が、口の中を優しく潤す。
「だろ?」
 カイルが得意げに笑う。
「採りたてのオレンジのおいしさは、やっぱ館では味わえないからな」
「こんなに香り豊かでみずみずしいオレンジ初めて」
 私はカイルの手にあるオレンジの房に目をやる。
「それ、半分ちょうだい」
「わかった、口開けろ」
「自分で食べるから」
「口開けないんなら、俺が全部食おーっと」
「あーっ、意地悪! ケチ!」
 私たちが子どものようにじゃれ合うのを、領民たちは笑って見ていた。

 私たちはその後、屋台をめぐり、農家でミルクをもらい、花の咲く丘へと足を運んだ。
「ふぅ」
 わたしは下草の生い茂る丘に、行儀悪く大の字になって寝ころぶ。マナーを忘れ、パンやチーズや果物をかじり、牛乳でのどを潤して。
「なんだか子どもの頃に戻ったみたい」
「こういうのもたまにはいいだろ」
「うん。……あっ!」
 私はガバッと身を起こす。
「どうした」
「もしかして、今日のこれもレッスンだった? こう、新しいものに触れて感性を磨けとかそう言う? 私、何も考えず満喫しちゃったんだけど」
「それでいいんだよ」
 カイルが私の手を引き、やや強引に隣に寝ころばせる。
「お前、最近ちょっと頑張りすぎてたからな。外の空気吸わせなきゃと思ったんだ」
「カイル……」
 私は空を見上げる。
「青いね、すごくきれい」
「あぁ」
「風も、気持ちいい」
「だな」
「カイル」
 私はそっと手を伸ばし、カイルの指先に触れる。ごく自然な動きでカイルは私の手を取った。
「カイル、領民のみんなに慕われてるんだね。どこに行っても大歓迎だった」
「まぁ、何かを決める際には必ず現場に足を運んでいたからな。直接顔を合わせて何度か話をすれば、親しみも持ってくれるさ」
 私はカイルの指を弄ぶ。
「カイルだって、頑張りすぎじゃない? 私のお父さん、そこまでしてないと思うよ。もう少し手を抜いても……」
「俺は、そのうちもっとでかい領地の主人になるつもりだから」
 カイルの言葉に、胸の奥にすき間風が一筋流れ込んだ。
 それは私を陛下に差し出した後、見返りとして手に入れる土地のことを言っているのだろう。
 私はカイルの掌から、自分の手をそっと抜く。カイルがこちらを見た気がしたが、私は空を見上げたまま言った。
「二人で、それぞれの目標達成して幸せになろうね」
「そうだな」
 カイルは一つ息をつく。
「王宮によく出入りしている兄から聞いたが、最近、お前の名が王宮でもたびたび上がるようになったらしいぞ」
「本当に?」
「あぁ。ダンサーのように軽やかに舞い、詩人のように巧みに言葉を駆使し、女優のように表情を変える。そして数多の芸術家にインスピレーションを与える、女神のようでもあると」
「……ちょっと話が大袈裟に伝わってない? 実物が顔を出しにくいんだけど」
「きっともう少しだ。お前の夢は、もうじき叶う」
 カイルの手が、ふいに私の手をやや強引に掴んだ。引き抜こうとしたものの、しばらくの間カイルはそのまま手を離してくれなかった。


(ついに来た……!)
 ある日私の元へ届いたサロンの招待状、送り主はショーアイ公爵夫人だった。
 公爵、つまり爵位の中でのトップ。

 ――いずれ評判が公爵夫人の耳に届けば、陛下の元まであと少しだ

 かつてカイルはそう言っていた。ついに目標の近くまで手が届いたのだ。
 固唾を飲みつつ、私は招待状に目を通す。
 作家の間で評判になっている私を、ショーアイ夫人お抱えの作家であるコダール・ジャノーメが、会うことを熱望している、とのことだった。
(また、作家のサロンか)
 事前に本を読んでおかなくてはならないのは、少し面倒だが。
(でも、公爵夫人開催のサロンなら断るわけにはいかないよね!)
「コダール・ジャノーメか」
 いつの間に入って来たのか、カイルが私の背後から招待状をのぞき込んだ。
「脅かさないでよ、カイル」
「コダールは超有名作家だ。ショーアイ夫人お抱えの作家でありながら、国王陛下も彼を大いに支援している」
「そうなんだ」
「あぁ。毎年かなりの金額が陛下からコダールに流れてるぞ。それにコダールは庶民出身でありながら、国王陛下とは親友のようにふるまうことを許されている」
「つまり、絶対に敵に回しちゃいけない人ってことね」
「そうだ。ただ……」
 カイルが不快そうに眉をしかめた」
「何よ」
「コダールと言う作家、かなりの毒舌家でな。正直、直接言葉を交わして愉快になったことは一度もない。しかも女性に対しては恨みでもあるかのように辛辣だ」
「えぇ……。そんなのを陛下は支援してるの?」
「作品は素晴らしいからだそうだ」
 サロンに行く前から気が滅入る。
 そんな私の肩を、カイルはポンと叩いた。
「耐えろ、ミューリ」
「うぅ」
「奴に何を言われても笑って聞き流せ。奴に気に入られれば、陛下は必ずお前に強い興味を持つ」
「……わかった」
「コダールの著書はいくつか部屋にあるから持ってこよう。正直、見るたびにやつの言動を思い出して焼き捨てたくなったが、持っていて良かった」
 なんか、そんな人の本を読むのは嫌だなぁ……。


(想像していた以上だった!)
 ショーアイ公爵夫人のサロンに足を踏み入れた瞬間、耳に入って来たのは下品な胴間声だった。招待客の女性を捕まえては、一人一人に胸のサイズや形がどうの、腰つきがどうのと品評し、相手が顔を赤らめ唇を噛み涙を浮かべるのを見て、ゲラゲラ笑っている。
 小一時間も経たぬうち、私のフラストレーションは限界に達しつつあった。
 ストレスをためているのは当然私だけではない。他の招待客たちも、ショーアイ夫人の顔を立て不満を口にはしないものの、鼻白み不快そうに眉を顰めて彼を睨んでいる。
 私がここへ招待されたのは、コダールが私に会いたがっているという理由のはずだった。
 しかし彼は、私を見るなり吐き捨てるように言ったのだ。
「なんだ、ただのちんちくりんだな。噂とはあてにならんもんだ」
 いきなり!
 初対面から、これ!
「ダンサーのように軽やかで? 詩人のように言葉が巧みで? 女優のようで? 女神のようでもある? ギャッハッハッハ! これが? ウァッハッハッハ!!」
 腹を揺すって笑うな、オッサン!!
 いや、私だってその噂は大袈裟と思うよ? けど、本人目の前にそれはなくない?
 けれど私も大人だ。目的のためには自分を抑えられる。
 私は奥歯を噛みしめ、コダールにただにっこりと微笑みを返した。
「そういえばミューリ嬢、私の著作は読んでおられますかな?」
「えぇ、勿論」
 事前に数冊読んだが、確かに彼の作品は素晴らしいものだった。こんな奴が書いたとは到底思えないほどに。ただ、全く心に響いては来なかったが。
「貴方の作品は……」
 苛立ちを抑え込み、彼の作品を賛美する言葉を並べようとした時だった。
「いや、結構! 私の崇高なる作品が、女の頭で理解できようはずもありませんからな!」
 は?
 あまりの言葉に、一瞬頭の中が真っ白になる。
 今、なんて? は?
「貴女にはあれだ、子どもの妄言のようなシュージンあたりのフワフワした空っぽ作品が丁度いい」
 なんて?
「もしくはぺらっぺらの言葉を並べ立て、ろくな思想もないクァンズなどがピッタリだ」
 はい?
「そういえばアイダンがお気に入りでしたかな? 女に都合のいい妄想そのものの奴の作品は、夫に愛されぬ女が一人寂しく我が身を慰めるのに良さそうですなぁ」
 おぉおん!?
「ウィヒッツ夫人の作品は、まぁ、女が書いたにしては読めなくもないが、所詮は女の作品。生意気にも小説らしきものの形にだけはなっているが、我らの手慰みの落書きにも劣る」
 あぁあぁああぁあ!?
「おや、気を悪くされましたかな?」
 私の顔が強張っているのに気づいたのだろう、コダールは楽しそうにニッタリと笑った。
「ははは、仕方ないですなぁ! まぁ、男は理性の生き物、女は感情の生き物と言いますからなぁ! 男のように頭でちょっと考えれば理解できようものが、女はお気持ちだけですぐにキーキーとわめきたてる」
 キレた。
 ブチ切れた。
「まぁ、面白いことをおっしゃる方」
 私は扇で口元を覆い、目を細める。
「確かに私は心で考える傾向にあるかもしれませんわ。でも、貴方は頭で考える方でしたのね? てっきり下半身で考えているお方だと思いましたわ」
 私の言葉に、コダールが固まった。
 招待客たちも皆、毒気を抜かれて私たちを見ている。
 やがて徐々にコダールの顔が赤く染まり、顔つきはガーゴイルのごとき醜悪なものとなった。
「き、貴様ぁ!!」
 唾を飛ばしながら、コダールが私に掴みかかろうとした。私は幼少期からカイルと繰り返していた剣戟ごっこの際の足取りで、さっとそれを躱す。
 目標を失ったコダールは、バランスを崩したたらを踏む。
 その瞬間、招待客の間から「ぷっ」と吹き出す声が聞こえて来た。
「誰だ?」
 コダールは招待客をふり返り、肩を怒らせる。
「今笑った奴は誰だ!?」
 だが、彼に辟易していたサロンの女性陣は、もう彼の機嫌を取る気になれなかったのだろう。くすくすという笑いはさざ波のように部屋中に広がった。
「くっ、ぐぅう……っ」
 コダールは悪鬼の形相で私を睨む。やがて
「不愉快だ!!」
 そう言い捨てると、足を踏み鳴らしながら部屋から出て行ってしまった。
 扉が派手な音を立てて閉まる。
 その瞬間、私は我に返った。
(やってしまった……!!)
 公爵夫人お抱えの作家を。
 国王陛下お気に入りの作家を。
(怒らせてしまった……!!)
 蒼ざめる私に、一つの足音が近づく。振り返れば、そこに立っていたのはショーアイ夫人だった。

「も、申し訳ございません!」
 私は慌てて(ひざまず)き許しを請おうとした。しかし彼女は私の腕を掴み、それを止めた。
「ショーアイ公爵夫人?」
「く……くくく……」
 ショーアイ夫人は口を押さえて笑っていた。
「お、おかしくって……」
 公爵夫人は扇で顔を覆う。
「あの傲慢な男が、あんなに取り乱して……ぷっ、くくく……」
「あ、あの……」
「ごめんなさいね、不愉快な思いをさせてしまって」
「い、いえ、こちらこそ」
 ショーアイ夫人の反応に、私は戸惑う。
「その、怒っておられないのですか?」
「いいえ、胸のすく思いがいたしましたわ」
 ショーアイ夫人は肩をすくめる。
「確かに私は彼の支援者です。けれどあの男は年を経るごとに増長し、もううんざりしていましたの。何かと言えば、女、女と下に見て、私にまで暴言を吐く始末。支援を切ろうと思いましたけど、国王陛下のお気に入り故、それも簡単ではなくて」
「あ……」
「貴女をサロンへ招待するよう私に強く勧めたのも、近頃評判の高い貴女を皆の前でこき下ろすことで、優越感を得たかっただけなのでしょう。嫌な思いをさせてごめんなさいね」
「いえ、そんな」
「今日のことは、あの男にもいい薬になったでしょう。あなたは何も気になさらなくていいわ」
「は、はい、すみませんでした」
「ねぇ、皆様もそう思いましたでしょ?」
 ショーアイ夫人が私と腕を組み、招待客へと向き直る。すると彼女らからは大きな拍手が沸き起こった。
(た、助かった……)
 足の力が抜けそうになるのを、何とか耐える。
(公爵夫人の機嫌を損ねることは免れたけれど)
 コダールは、国王陛下のお気に入りだ。
(悪い評判、陛下に届いちゃうだろうなぁ……)

 ■□■

 ミューリの公爵家での一件は、貴族の間で面白おかしく語られた。元々庶民出身のコダールが不遜な態度で王宮を闊歩していることを、面白く思わない貴族も大勢いたのだ。特に夫人方に対して、不愉快な発言の多い男だったのもあった。
 噂はガレマ11世の元へも届いていた。
「全くけしからんことですぞ!」
 コダールはガレマ11世の執務室に乗り込み、大いに毒づいていた。
「頭空っぽの女が、この私を! 陛下の朋輩たるこの私を! 虚仮にしたのですぞ! 確か、そう、キサット、ミューリ・キサット! たかだか子爵家の女風情が生意気な!!」
 憤るコダールの言葉を半分聞き流しつつ、ガレマ11世は執務を続ける。
「聞いておられるのですか、陛下! あの女は何と、男は下半身で物を考える生き物だと言い放ったのですぞ!? 男を見下しているのです! つまり陛下、貴殿もそこに含まれておるのですぞ!」
「噓はいけないな、コダール」
 ガレマ11世が、仕事の手を止める。
「余の耳には、彼女は『男は』ではなく『貴方は』と言ったと届いておるぞ」
「ぐっ、で、ですが!」
「すまないな、我が朋輩コダール。余は仕事中なのだ。退出してもらえぬだろうか」
 ガレマ11世の思いがけぬ素っ気ない態度に、コダールは不承不承と言った風で部屋を後にする。
 部屋に一人となったガレマ11世は、目を細め楽し気に呟いた。
「中々に興味深い女であることだな。ミューリ・キサットなる者は」
 コダールとの諍いの件を報告すると、カイルは額に手をやりため息をついた。
 しかし、すぐにカイルは喉の奥でクックッと笑い出す。
「まぁ、無理もないよなぁ。腹立つもんなぁアイツ。俺だって目の前で身内をそんな風に言われたら、黙っていられたかどうか」
「咎めないの?」
 カイルは大きく息をつきながら、椅子にドスンと腰を下ろした。
「確かに陛下と親交の深い人間を怒らせてしまったのは悪手だが、同時に公爵夫人を含む女性陣からすれば痛快な出来事だったわけだからな」
 カイルの青い瞳が私を見る。
「五分五分ってところか」
「つまり?」
「分からん」
 カイルが首を横に振ると、栗色の前髪がさらりと揺れた。
「吉と出るか凶と出るか。それはもうじき開催される、王妃タバフ=エッダカッハの生誕を祝う舞踏会に招待されるかどうかでわかるだろう」
「……招待されなかった場合は?」
「残念ながら、王の褥への道は絶たれたことになる」
「そんなぁ」
 王妃様の生誕を祝うパーティーには、国中のありとあらゆる貴族が招待される。私も社交界デビュー以来毎年招かれている、盛大な舞踏会だ。
 それに招待されないのは、王家からよほどの不興を買ったという証明に他ならない。当然ながら、他の貴族たちからもあまりいい目では見られなくなる。ここまで積み上げて来たものが水の泡だ。
「ど、どうしよう! もしも招待状が届かなかったら」
「今更じたばたしても始まらん」
 カイルは立ち上がると、すり抜けざまに私の頭をそっと撫でる。
「祈りながら待つとしようぜ」
 部屋を出ていくカイルののんきな後姿を見送りながら、私は少し不思議に思う。
(カイル、怒らないの? 私が陛下に嫌われれば、カイルの夢も断たれるのに)


 王宮から舞踏会への招待状が無事届いたのは、それから二週間ほど経った日のことだった。


 舞踏会当日、私はカイルとともに王宮へと参じた。
 今日の私は、碧いドレスを着ている。カイルの見立てだ。
「ミューリ嬢」
 フロアに足を踏み入れた私に声をかけてきたのは、女流作家のウィヒッツ侯爵夫人だった。
 型通りのあいさつを交わしながらも、私の心はフワフワと浮き立つ。社交界では、目下から声をかけることは許されない。目上の人間から話しかけられ、初めて会話をすることが許されるのだ。今までこういった場で侯爵夫人クラスから話しかけられることがなかったため、サロンに参加したことの意味を改めて思い知った。
「さぁ、こちらにいらして。王妃様が貴女に会いたがっているわ」
「お、王ヒッ!? さま!?」
 いきなりトップに君臨する女性からのご指名とあり、声がひっくり返る。
 隣をふり返ると、カイルは満足気にうなずいた。
 ウィヒッツ夫人に誘導され、私たちは会場内を進む。
 途中、聞き覚えのあるがなり耳に飛び込みふり返る。予想過たず、そこに立っていたのは作家のコダールだった。気づかれぬよう、さっさとそこを通り過ぎる、刺すような視線が背中に飛んできた気がしたが、気のせいだと思うことにした。

 やがてひときわ典雅な輝きを放つ一団のところへと辿り着く。
 その中央に立っていたのは、本日の主役である王妃タバフ=エッダカッハであった。
(女神……!)
 間近に見る王妃陛下の放つ圧倒的存在感に私は息を飲む。
 慌てて頭を下げたものの、心臓は激しく鼓動を打っていた。
(格が違う……)
 自分はこの人の夫からの寵愛を望んでいる。それを思うと、今更ながらひどく罰当たりで畏れ多い気持ちがしてきた。
「ミューリ嬢、並びにロード・カイル、私の生誕の宴によく来てくださいましたね」
 柔らかで高貴な声。顔を上げると神々しい眼差しが私を見下ろしていた。
「本日はお招きにあずかり、光栄に存じます」
「ふふふ、そう固くならないで、ミューリ嬢。あなたの評判は私の耳に届いておりますわよ」
(評判!)
 なんとなくギクリとなる。私が『陛下と結婚する』と言っていたことは、カイルしか知らないはずだ。けれど、天上の存在であるかのような王妃に言われると、全てを見透かされているような気持ちになってしまった。
 私はカイルを盗み見る。カイルは涼しい顔で、静かに隣に控えていた。
 ふいに、私の両手が優美な掌に包まれる。
「っ!」
 王妃に手を取られたことに、私は息を飲んだ。
「貴女の唇はとても豊かな言葉を紡ぎ出すそうね。数多の芸術家が、貴女からインスピレーションを得ているともっぱらの評判よ。この国の芸術の発展のために、これからもよろしくお願いするわね」
「は、はい!」
「それから」
 王妃はウィヒッツ夫人を一度見やる。それに対し侯爵夫人は口端を上げうなずいた。
「ウィヒッツ夫人からの推薦なのだけど、貴女さえよければ私の側に仕えてくれると嬉しいわ。一度考えておいてくださいましね」
 側に仕える、つまり王妃の侍女となるよう直々に言われたのだ。
「勿体なきお言葉」
 膝が震える。
「感謝に堪えません」
 王妃の元を離れ、私とカイルはバルコニーへと移動する。
 人目の届かない場所まで来ると、私はへなへなと手すりへ崩れ落ちた。
「緊張した~……」
「お疲れ」
 カイルは私の頭に軽くぽんぽんと触れる。
「漏らすかと思った」
「漏らすな」
「いやだって、王妃陛下は人間じゃないよ、女神だよ」
「確かにオーラ凄かったな」
 ピクニックの時は距離があったため、そこまで委縮することはなかったが。
「……あの人に並び立とうとしてるんだ、私」
 ぶるぶるっと身震いをする。
「私ごときが」
「まぁ、そう卑下するな。大勢の貴族が集うこの宴の席でも、お前はしっかりと輝いているぞ」
「カイルはそうやってすぐ適当なことを言う」
「適当じゃないさ」
 カイルの唇が、私の耳元に寄せられた。
「俺は嘘は言わん。ミューリ、お前は魅力的だ。自信を持て」
「っ!」
 カイルの低い声に背筋が甘く痺れる。反射的に跳ね起きた私にカイルはいたずらっぽく歯を見せ、室内へと戻っていった。「シャンパンを取ってくる」とだけ言い残して。

「ふぅ」
 私はバルコニーに肘をつき夜空を眺める。
(よく分からない……)
 それはカイルのことであり、自分のことでもあった。
 カイルは私を褒めてくれる。それはカイルが私に教えてくれた、『褒め方』に添った言葉に過ぎないのかもしれない。それでもたまに思うのだ。もしかしてカイルは私に愛情を注いでくれているのではないかと。
 一方の私も、カイルの言葉に心を乱されることが増えた。
(私が好きなのは、国王陛下なのに……)
 一つため息をつき睫毛を伏せた時だった。
「そこにいるのはいつぞやの湖の精霊ではないか?」
(え?)

 心臓が大きく跳ねた。背後から飛んで来たその声に、聞き覚えがありすぎた。
(まさか……)
 私はおずおずと振り返る。
「へい、か……」
「地上は息苦しいか? 湖に戻りたくなってしまったか?」
 子どもの頃から憧れ続けてきた人、結ばれたいと願っていた人が、今、目の前に立っていた。
(あ……)
 私は慌てて膝を曲げ、頭を下げる。
「よい、顔を上げよ」
 ふいに顎を捕らえられ、やや強引に仰向かせられる。目の前には整った顔があった。
「そなた、名を何と申す」
「ミューリ・キサットと申します」
 夢を見ているようだ。
 今、陛下の指が私に触れ、その瞳の中に私が映っている。
「ミューリ・キサット」
 低く甘い声が、私の名を呼ぶ。魔法にかけられたように、心が絡め取られたのを感じた。
「やはりそうであったか。近頃、芸術家の間で名高い子爵令嬢ミューリ・キサット」
「お、畏れ多いことでございます」
「ははは、どうしたミューリ嬢。湖でのそなたは余を翻弄する堂々たる振る舞いであったに。今はまるで子リスのように震えているではないか」
「も、申し訳……」
「だが、そこもまた初々しくて良い」
 陛下は背後をふり返ると、軽く手を振る。すぐに二つのシャンパンが運ばれてきて、一つを手渡された。
「再会を祝おうではないか」
 そう言うと陛下は中身をぐっと飲み干す。私もそれに倣いグラスを空にした。

「さぁ、噂のその唇で紡いでくれぬか。余を讃える言葉を」
(陛下を讃える言葉?)
 咄嗟のことで何も思いつかない。
(陛下は、月? ううん、太陽? それとも、世界?)
 どれもぴったり来ず、私はうつむく。
「どうした? 芸術家に恩恵を与える妖精、ミューリ・キサットよ」
「……いのち」
「うん?」
「我が命、そして我が愛、私を動かす力そのもの。それが陛下でございます」
「おぉ」
「尊きその声が、愛の深いその眼差しが、私の中に染み入り、指の先まで行き渡る。私を動かす熱い生命と力、それこそが私にとっての陛下でございます」
 この言葉は嘘じゃない。私の中で12年もの間抱き続けていた気持ちだった。
「なるほど、心地よい」
 陛下は目を細め、フッと笑う。そして流れるような動きで私の手を取った。
「一曲相手をしてもらおうか。ミューリ・キサット。シラーヴにインスピレーションを与えた軽やかな足取りを、余にも見せてくれ」
「お、仰せのままに」
「そのドレス、あの日の湖を思い出す色だな」
(え……)
このドレスはカイルが用意したものだ。カイルはそこまで考えてこの色を選んだのだろう。

 陛下に手を取られ、私は再び室内へと戻される。
(あ……)
 柱の陰にシャンパンを二つ持って立つカイルの姿が見えた。
 目が合うとカイルはにっこりと笑う。
(カイル……)
 妻を奪われた夫の表情としては不自然だが、カイルに関しては何も不思議ではない。私が陛下に気に入られれば、カイルは出世の夢が叶うのだから。
 陛下の手が私の腰にかかる。曲に合わせ、私は大きく一歩足を踏み出した。
 舞踏会の夜から数日が経過したが、私は未だ夢を見ているような心持ちだった。
 十二年もの間、恋焦がれていた相手と直接言葉を交わし、見つめ合い、ダンスに誘われたのだ。
 布越しとはいえ、陛下の手がこの体に触れたのだ。
(ガレマ11世国王陛下……)
 ベッドの上で身悶えする。思い出すほどに、胸が切なく締め付けられる。頭はシャンパンにすっかり酔わされたように、うまく回らなかった。
「ミューリ」
 ノックの音と共に、カイルの私を呼ぶ声が聞こえて来た。
 部屋に入って来たカイルは、一つの封筒を手にしていた。
「王宮から、お前にだ」
 ベッドの上で身を起こし、受け取って中身を確認する。
 王妃から、女官として王宮に入るようにとの、正式な要請だった。
「やったな、ミューリ」
 カイルもベッドに腰かけ、私の髪を撫でる。
「ついにここまで来たぞ。王宮に入れば、陛下が部屋を訪れることもある。つまり、お前は陛下と恋ができるんだ」
(陛下と、恋が……)
 カイルは歯を見せて笑い、私の顔をのぞき込む。
「どうした、もっと喜べよ。お前の夢だったんだろう?」
「う、うん。でも……」
「でも?」
「なんだか、怖くて……」
「アホ」
 カイルは私の額を軽く小突く。
「怖気づくなよ。お前は陛下からダンスに誘われた、王妃様から気に入られもした。あとは飛び込むだけなんだ。ここまで来て尻尾巻いて逃げるなんてありえないだろう?」
「そう、だけど……」
 長年の恋が実るかもしれない、それは本当に嬉しい。
 だがそれ以上に、何か大きなものを失う気がしてならないのだ。
「カイル、私、やっぱり……」
「行けよ、ミューリ」
 その声の思わぬ固さに、瞬時に頭の奥が冷える。
 だが目を上げた先にあったのは、カイルのいつもの明るい笑顔だった。
「気を抜くな、ミューリ。公妾候補者はお前以外にもいる。絶対に勝ちあがれ。そして」
 カイルの大きな手が、そっと私の頬に触れた。
「俺を出世させてくれ」
「……うん」
 私はカイルの手に自分の手を重ねる。
「その約束で結婚したんだもの。わかってる」


 夜が訪れた。
 すっかり眠る準備を整え、ベッドに入ろうとした時、控えめなノックの音が聞こえて来た。
「誰?」
 扉が開くと、カイルが滑り込んでくる。
 カイルは慎重に扉を閉めると、歩み寄ってきた。
「何? こんな夜更けに」
 カイルは怖いほど真剣な眼差しをしていた。
「ミューリ、俺はお前を抱く」
「!?」
 私は息を飲み、飛び退る。
「急に何を?」
「王宮に入るのに、処女のままだとまずいだろう」
(あ……!)
 この国では、既婚者同士であれば『大人の自由恋愛』とされるが、未婚のものに手を出せば国王とはいえ罪になる。
「俺たちは結婚をしているから、お前は人妻で間違いない。ただ、そうなるとお前が処女であることを王が不審がるだろう。それにお忙しい身の上の方だ。初めての女を一から手ほどきするのは面倒に思うかもしれない。ついでに言えば、技巧に優れている他の愛妾たちから後れを取る可能性がある」
「そ、そうね……」
 カイルに返事をしながらも、声が上ずる。
 そういうことを全く考えなかったわけじゃない。
 ただ、ロマンティックな恋を夢見ていたら、突然生々しい男女の現実を突きつけられ、落差に軽いショックを受けたのだ。
「……急に言われても、心の準備が必要だよな」
 カイルは頭をバリバリと掻くと背を向けた。
「まぁ、今すぐって話じゃない。王宮に上がるまで、まだ少し日がある。心の準備が出来たら言え」
 立ち去ろうとするカイルのシャツを、私は掴んだ。
「なんだ」
「お願いします」
「え?」
「今から、その、(ねや)のレッスンをお願いします」
 カイルが僅かに息を飲んだ。
 シャツを掴んだ私の手に、カイルはそっと触れる。
「……無理するな、ミューリ。指先、冷たいぞ」
「大丈夫」
「それに震えている」
「大丈夫、だから!」
 私は叫ぶように伝える。
「……カイルなら、信頼して身を任せられるから」
「……」
 カイルがベッドに腰を下ろす。
 そして身を寄せると私の唇をそっと奪った。
「無理ならすぐ言えよ、ミューリ」
「……わかった」
 カイルの掠れた低い声に、私はうなずいた。


 その夜、私はカイルのしるしを刻まれ、カイルに満たされる幸せを知ったのだ。
 王宮内に部屋をあてがわれた私は、王妃付きの女官として働くことになった。
「ミューリ」
 読書好きな王妃は、身の回りの世話をしている間にも、最近読んだ本や好きな作家についての話を振ってくる。私の女官への起用は、ここで気の利いた返しができることを期待されてのことだった。
(ふぅ……)
 部屋に戻ると、私はベッドに倒れ込む。けれど、このまま寝ることはできない。王妃の話について行けるだけの知識を取り入れるべく、勉強をする必要があった。
(カイルのレッスンを受けていた頃よりハードじゃない?)
 専門スキルを期待されての起用には、こういった苦労がつきまとう。
 同じく女官仲間の1人も、ファッションセンスを期待されてここに入ったため、常に流行の最先端を見逃すまいと神経をとがらせている。そちらはそちらで大変そうだった。

 女官の仕事は思ったよりハードだ。ここへ来て数日間は仕事を覚えるのに必死で、それ以外のことを考えることがほとんどなかった。
 仕事を終え、読書をして布団に入る。
 目を閉じると、カイルと結婚してからの日々が懐かしく思い出された。
「寂しいな……」
 無意識のうちに口から零れた言葉に、自分で驚く。
 何を言っているのだろう。私は国王陛下の恋人となるため、カイルは見返りで出世するために結婚したのだ。目標達成まであと少し。私は陛下の愛を勝ち取ることだけを考えて頑張らなければならないのだ。

(今日もくたくた……)
 一日の仕事を終え、私は部屋に戻る。寝る前の準備を整えると、私は椅子に座り本を取り出した。
(最近ペースが落ちているから、ちょっとは読み進めないと……)
 そう思うのに上下の瞼がくっつきそうになる。文字を目で追おうとしても二重にぶれて見えるうえ、内容が頭に入ってこない。
(勉強、しなきゃ、いけないのに……)
 ふっと意識が遠ざかる。それに気づいて慌てて姿勢を正す。幾度それを繰り返したのだろうか。いつの間にか私は眠りに落ちてしまっていた。


 遠くでノックの音がした気がした。
(ん……)
 身を起こして確認しなくてはいけない、そう思うのに体が動かない。
 扉の閉じる音、空気の揺れる気配、衣擦れの音。
(誰か、入って来た?)
 やがてベッドのきしむ音が耳に届く。
 続いて聞こえてきたのは、低く甘い声だった。
「ミューリ・キサット」
 そのたった一言で、私の意識は眠りの世界から引きずり出された。
「へ、陛下!?」
 いつの間にか部屋の明かりは消え、月の光が憧れの人の姿を蒼白く浮かび上がらせていた。
「随分と疲れているようだな、ミューリ嬢」
「いえ、滅相もございません」
 陛下がいる、私の部屋に、こんな夜更けに。
 私のベットに。
 その意味が分からないほど子どもではない。
 一方で「まさか」「嘘でしょ」という思いがぬぐえない。
 十二年もの間、恋焦がれつつもほとんど接点のなかった雲上人が、私を求めるはずなどない。
「驚かせてしまったようだな」
「えぇ、驚きました」
 訓練しつくした表情筋が、慣れた笑顔を作り上げる。
「月の明かりが人の姿を持って、私の前に現れたのかと」
 頭にしみ込んだ言葉が、なめらかに舌を動かす。
「ふふ、なるほどな」
 言ったかと思うと、陛下は私の手を取り、強引に自分の方へと引き寄せた。
「っ!」
 雄の匂いの立ち上る逞しい胸。衣服の胸元がはだけ、その肌が直に私の頬に触れる。
「陛下……」
「月の明かりが人の姿を取りし者の相手として、湖の精霊は実に相応しい、そう思わんか」
「え、えぇ……」
 戸惑いながらも私はうなずく。
 そんな私の様子に、陛下は楽しげな声を上げた。
「落ち着いた物言いをしておるが、これだけ肌を触れ合わせていれば、速い鼓動が直に聞こえてくる。……そなた、怖いのか?」
「……はい」
 カイルは言っていた。嘘は言うなと。本当の気持ちを最大限に飾って伝えろと。
(カイル……)