――あたしは、国王陛下のお嫁さんになるの!
 幼い私が、うっとりとコインを胸に抱く。
――無理だよ、ミューリ。だって陛下はもう結婚してしまわれたじゃないか。
 私より少し年かさのカイルが現実を見せる。
――するもん! 陛下のお嫁さんになるんだもん! もし出来なきゃ……
 幼い私は癇癪を起こす。
――悲しくて、死んじゃう!
 私の言葉に、少年のカイルは息を飲む。そして泣きじゃくる私を優しく宥めた。
――死んじゃだめだ、ミューリ。俺が君の夢をかなえてあげるから。


「ミューリ」
 私の名を呼ぶカイルの声に、はっと目を覚ます。
 見回せば辺りは真っ暗。
 私は書斎で読書しながら眠ってしまっていたようだ。
「大丈夫か?」
「うん。ちょっと転寝(うたたね)しちゃっただけ」
 カイルの手にした灯りが目に眩しい。
 私は目をこすり、伸びをした。
(なんか、懐かしい夢を見ていたような……)
 お腹が、クゥと鳴った。
「晩餐の時刻?」
「あぁ。いつまでも来ないから迎えに来た。義父さんも待ちくたびれてるぞ」
「いけない、急がなきゃ」
 立ち上がった瞬間、軽い眩暈を起こす。
「わわっ」
「ミューリ!」
 カイルが灯りを持ったのと逆の腕で、私を支えた。
「ごめん、ありがとう。ちょっと頭使いすぎたみたい」
「……」
 カイルは机の上に積み上げた本に目をやった。
「ウィヒッツ夫人のサロン以降、急に増えたもんな。作家関連のサロンへの招待が」
「うん。おかげで、読まなきゃいけない本が山ほど」
 作家関連のサロンに参加して、作者を前に「読んだことありません」はご法度だ。
「読書は嫌いじゃないけど、中には相性の良くないのもあるからね。そういうのは義務感で読むことになるから、どうしても眠くなっちゃうね」
「別に、全部のサロンに行かなきゃいいだろ。最近は招待の数も多いし、少し絞ったらどうだ?」
「そうね」
 私はカイルの肩に頭を持たせかける。
「でも、私の名が陛下の元へ届かなきゃ、カイルは出世できないでしょ?」
「え……」
「だったら、頑張るしかないよ。特に、位の高い方のサロンには絶対行かなきゃ」
「ミューリ」
 カイルの指が私の髪を優しく梳く。子どもの頃のように。
「明日、時間取れるか?」
「明日? うん、予定と言えば読書くらいかな」
「よし。なら俺と出かけるぞ」
 出かける?


「おお、カイル様だ!」
「カイル様、こんにちは!」
 翌日、私はカイルと共に馬車で出かけた。カイルが窓から顔をのぞかせると、領民は嬉しそうに声をかけてくる。しかもずいぶんフランクに。
「止めてくれ」
 カイルは御者にそう言って、馬車を止めさせた。
「来いよ、ミューリ」
「えっ、何?」
 カイルは私の手を取り、共に馬車から降りる。
「おや、今日はミューリ様もご一緒でいらっしゃいましたか」
「あぁ、デートだ」
 カイルの言葉に、領民たちは微笑ましい顔つきになる。
「まぁ、仲のおよろしいことで」
「昔から、睦まじくていらっしゃいましたものね」
(えぇ……)
 領民たちの言葉に、なぜか頬が熱くなる。
(仲がいいって言っても、兄と妹みたいなものだったし。今だって、互いの目的のために手を組んでるだけだし)
 そんな私の気も知らず、カイルはグッと私の肩を抱く。
「長年の想いが通じたってやつだな!」
「ちょ、ちょっとカイル!」
「ははは、照れる顔も可愛いな」
「人前でこういうのは……」
「ん? なら二人きりの時にするとしよう」
 そう言いながら、カイルは私の額にキスを落とす。
「カイルー!」
 私たちのやりとりに、領民たちの間から好意的な笑いが起こった。
「あのっ、カイル様!」
 若い娘がオレンジを入れたかごを持って近づいてきた。
「カイル様の指示通りやり方を変えてみたら、こんなに大きく実りました。ありがとうございます!」
「おぉ、見事なオレンジだな。一つもらっていいか?」
「はい、どうぞお好きなだけ」
 カイルはかごからオレンジを取ると、器用に皮をむく。そして房を分け、その一つを口に運んだ。
「うん、美味い。口に入れた瞬間、甘い汁があふれてくる。実にみずみずしいな、これは」
「ありがとうございます」
「ほら、ミューリ」
 カイルはオレンジの一つを指先で摘まみ、私の口元へ持ってくる。
「口開けろ、美味いぞ」
「えっ、えっ?」
「うちの領民が精魂込めて作ったオレンジだ」
 見回せば、期待の眼差しが私に集中している。気圧されるように私は口を開け、それを受け入れた。
「美味しい!」
 思わず声を上げてしまう。甘く程よくすっぱい果汁が、口の中を優しく潤す。
「だろ?」
 カイルが得意げに笑う。
「採りたてのオレンジのおいしさは、やっぱ館では味わえないからな」
「こんなに香り豊かでみずみずしいオレンジ初めて」
 私はカイルの手にあるオレンジの房に目をやる。
「それ、半分ちょうだい」
「わかった、口開けろ」
「自分で食べるから」
「口開けないんなら、俺が全部食おーっと」
「あーっ、意地悪! ケチ!」
 私たちが子どものようにじゃれ合うのを、領民たちは笑って見ていた。