国王陛下との芝居がかった出会いから、ひと月が経とうとしていた。
(あれから何もない……)
 私はベッドに寝転がったまま、胸に抱えた枕をぎゅっと抱きしめる。
 カイルは、陛下に名を聞かれても名乗らずすぐその場を離れろと言った。だから私もその指示に従ったけど。
(やっぱり名乗った方が良かったんじゃないかな?)
 名前を伝えていないのだから、陛下が私を王宮に呼ぶこともないだろう。と言うか、進展のしようがない。
(カイル、頭がいいと思って言われた通りにしたけど、これ失敗じゃない!? 貴重なチャンスをふいにしてしまったんじゃないかなぁあ~!?)

 ぎちぎちと枕を締め付けていると、ノックの音が耳に届いた。
「……何やってんだ、お前」
 ベッドの上で不貞腐れ、枕を締め上げている私を見て、カイルが呆れた表情となる。
「ねぇ、カイル。やっぱりあの時、名前を告げた方が良かったんじゃない?」
「湖の話か? いや、あれはあれで印象付けたはずだ」
「だってさー、国王陛下に名前聞かれて答えなかったとか、普通に失礼だよね? 水から上がって、ちゃんとした挨拶すべきだったんだよ」
 私の言葉に、カイルは小さなため息をつく。
「あそこで水から上がれば、お前はただの人間になってしまっていた。近くの別荘に来ている子爵家の人間と分かれば、ひょっとするとその日は一夜の甘い夢を見られたかもしれんが、な」
「甘い夢って……国王陛下のお手付きになるってこと!? じゃあ、チャンスだったんじゃない!」
「その一夜で飽きられる可能性が高い。ピクニック先で見つけた面白い女止まりだ」
「そんなのわからないじゃない! あぁ、勿体ない!」

 うーうー唸る私の頭に、カイルはペシペシと何かを当てる。
 受け取って見てみれば、それはウィヒッツ侯爵夫人からのサロンへの招待状だった。
「ウィヒッツ夫人と言えば、侯爵夫人でありながらご本人も作家をされている才女だ」
 招待状には、夫人のお抱えであり作家仲間でもあるアイダン・モヒャルの名が記されていた。この日は新作発表ではなく、彼と文学について意見交換する日とされていた。
「アイダン・モヒャルの小説は一冊だけ読んだかな。かなり甘めでロマンティック路線の作風だよね。ウィヒッツ夫人のは読んだことないな」
「俺が数冊持っているから、あとで貸す。主催者の作品を一冊も知らないというのは、さすがにまずい。アイダン・モヒャルは女性に人気の作家だな。すぐ数冊取り寄せる。当日までにしっかり目を通しておけ」
「……わかった」
 寝ころんだまま面倒くさそうにため息をついた私の側に、カイルが腰を下ろした。
「ミューリ、相手は侯爵夫人だ」
 カイルの手がくしゃりと私の頭を撫でる。子どもの頃、よくしてくれたように。
「しかも女流作家として、幅広い人気のある方だ。王妃様とも交流が深い」
「そうなんだ」
「上手くやれ。気に入られれば、王妃様付きの女官の道が開かれる可能性がある。国王陛下の褥へまた一歩近づくぞ」
「! そ、そうだよね!」
 湖の件は今更悔やんでもどうしようもない。
 ならば陛下の元へたどり着くために、これまで通りサロンで頑張るしかない。
「湖の一件は無駄になってないはずだ。いずれ大きな効果をもたらす」
(カイル……)
 私は頭に添えられたカイルの手に、自分の手を重ねる。
「カイルは、私に陛下の公妾になってほしいんだよね? そうすればカイルは、陛下から見返りがもらえて目標達成なんだよね」
「……そうだな」
 ふとカイルの目元が愁いを帯びる。
 だがすぐにそれは消え去り、その(おもて)にいつもの明るさが戻った。
「まぁ、精いっぱい頑張れ。お前が国王陛下と恋をするには、この方法しかないんだからな、ミューリ。お互い夢を叶えて、幸せになろうぜ」
「うん」


 ウィヒッツ夫人のサロンの日がやってきた。
 経験をそれなりに重ねた私は、挨拶からトークまでそつなくこなす。
 ウィヒッツ夫人の著作への感想を述べると、彼女は楽しそうに目を細めた。
「噂通りの方ね、ミューリ嬢。語彙と感性が豊かで、貴女の言葉は詩そのものだわ。貴女も何かお書きになればよいのに。きっと多くの方の心を震わせる作品を生み出せるわ。その時は私と作家友だちになってくださいましね」
「畏れ多いことです、ありがとうございます」
(うん、よし!)
 よくぞ自分でも、これだけ舌の回ることだと思う。けれどカイルに言われた通り、嘘は絶対に言っていない。花を束ねてラッピングして、ブーケにして渡すような感覚だ。

 やがて、アイダンの著作について語り合う時間が来た。だが、やはりここに招かれた人たちは文学に精通している。分析が鋭いし、着眼点もいい。誉め言葉の語彙も豊富だ。
(これは、普段通りにやると埋もれるな……)
 ウィヒッツ夫人の心に残るには、皆と同じことをしていても駄目だ。
(さて、どうするか……)