──与えられたフィールドで何をするかは自分次第だよ。それは現実でも仮想空間でも変わらないとわたしは思うんだよね。

──しっかし君、変わってるね、何をしても犯罪になることもない仮想空間にまできて河川敷で読書、なんて、しかも初期アバ。

──今どきそんな格好してるユーザーいないって、それでも初期アバでも好青年って感じはこのアプリのいいとこでもあるけどね。

そういうお姉さんこそかなりシンプルめな格好だけど、と僕は思ったが口にしなかった。ゲーテの詩集を畳んで、ぼーっと彼女を見つめてみる。

こんな姿をしてオッサンということもあるのかと思う。
ボイス入力にしろ、チャットタイピングにしろ、彼女の言葉が僕に届くころには、そのすべては設定された内容どおり僕に届いてしまうだろうし。

僕が【女】だということが隠せてしまうように、彼女が【オッサン】であってもそのすべてを見抜くすべはない。
それだけ仮想空間の世界はクオリティが高くなった。
注意深く意識を向けていても、そのほとんどが高度な技術に阻まれて迷宮入りとなる。

それでも、僕の顔は赤くなった。
設定とは別に、純粋に体温の上昇を伴ったからだろう。
なぜだか今日にかぎってバイタル計の感知がいいのだろうか。
いいや、原因はわかりきっている。
人と話すのももうどれくらいひさしぶりのことか、僕はわからなかったのだから。

──あ、ごめんちょっと食いつきすぎた?

僕の反応がよほどおかしかったのか、彼女は川のほうへ顔をいったん逸らしてから爆笑しはじめた。

──ごめんごめん、ひー、あー、そんな純粋な反応ってある? アハハハ、君どんだけ意識してるの、くくくくっ、いやいやごめんごめん、照れたっていうかびっくりしたんだよね、それがアバターに反映されただけだよね。

アゴにかかる毛先を揺らしながら彼女はいつまでも笑っていた。
空間も背景もすべて作り物であっても、彼女とそれら環境のすべてが一つに重なり合った美しさは、プロのカメラマンが撮った奇跡の一枚といって良かったと思う。

細いゆびを涙袋にあてて笑い涙をぬぐった。
彼女は呼吸を整えなおす。
それからおもむろに、それにしても良い天気──、と余韻をのこすように口走った。
それはまるで嫌なことでもあったかのような雰囲気をかもすようだった。

──そういうお姉さんこそなんでこんなところにいるんですか? って、顔してるね君。

僕のこころのなかまで読み取って、彼女は一方的な展開を繰り返す。
試すような態度といってさしつかえない、片手に小さなアゴを乗せた状態で、かつ、うつむき加減の僕の顔をのぞきこむように訊ねる。

またその顔が女からしても可愛らしく映った。
僕は生唾を飲み込むだけで何も言えなかった。
なぜなら今、僕のヘッドゴーグルには彼女のそんな可愛らしい顔がドアップで映し出されているからだ。
視点を全体が見渡せる第三者視点的なオーバーモードに切り変えるにしても、情けない自分のアバターを視界にいれるのにためらいがあった。

──まあいいわ。生きてればいろいろあるもの。わざわざ仮想空間にログインして読書に浸りたいこともあるでしょうし。それに、肉体があるってだけで面倒もあるものね。それでもお腹が減ったらけっきょくは現実に戻らなきゃいけないけどね、でも一つだけ便利なことがあるわ。

僕はキョトンとした顔をした。

──どんだけ人と話したって、酒くさくないってことよ。

nonderundesuka パッ 飲んでるんですか?
僕はすぐにキーボードを叩いた。
入力された僕の言葉はすぐにアバターへ伝達され、言葉として彼女に伝わる手筈だ。
彼女はうんざりするような表情で一回だけうなずいてみせた。やるせない事情でもあるのだろう。しかし詮索はしなかった。

すると急に、行き止まりを迎えた円形掃除機のように、彼女は座ったままグルグルとあたりを見渡しはじめた。

──手頃な石がないわ。ちょっとショップで買ってくるね。水切りようの平たい石。──(15秒ほどの沈黙)。あったあった。

転送されてきた【手頃な石】が石段の上に山積みになってあらわれた。

──川と言ったらこれよね。さあ、そんな小難しそうな本は置いて、一緒に水切りでもしましょう。

仮想空間に来てまで水切りってww──

──あ、笑った。君も笑えるんだね。良かった良かった。ぶっちゃけ怖い人だったらわたしから話しかけてはいるけどサヨナラするつもりだったんだよね。

ひどいですね──

──そんなことないでしょ、みんな【そういう場所】だと思って利用してるんだし。いまどき、仮想空間のなかでモラルやマナーを求めるほうが異常でしょ。それがいつしか病みつきになって、抜け出せなくなって、現実でも抑制が効かなくなって、いろんな事件が起きてるの知ってるでしょ?

まあ── 

僕の両親もたぶんそんな悪い人たちの部類に含まれるんだろう、とぼんやりと思った。
すぐに吐き出せてしまえる欲望の手軽さに支配されて、肉体的な繋がりの世界と、こうしたデータやプログラムの世界とをきちんと区別できない人間が増えている。
だから僕の両親は、自分の言葉がそのままプログラムになると信じて疑っていないのだ。自分が口にしたとおり、僕が成長すると思っているのだ。僕は機械じゃないし、ましてやデータでもないというのに。

──便利は便利でいいけどね、でも便利になりすぎるのは考えもの。社会のルールや法律が意味をなさなくなったら、それこそ仮想現実と現実とのちがいなんてなくなっちゃうんだし。

ですね、僕もそう思います──

──それで、君の読んでたゲーテはどんなことを君に教えてくれたの?

見てたんですか?──

──うん、わたし読書も好きだし、読書してる人も好きだしね。どんな本を読んでるかも気になるし、盗みみるのも上手いの。

屈託なく笑う。それでも僕はそんな彼女の明るい部分よりも、どこか断片的に漂ってくる彼女のなかで汚れのようにこびりついてしまっている憂いのようなものに気持ちがいってしまうのだった。

本当は手放したくなかった大切なものを手放してしまったときのような寂しい感情が、なんとなく僕のなかに流れ込んできていた。

じかに接していないのに、言葉や雰囲気だけでそれらを読み取ってしまう人間の感性も異常なものだと思うけれど、ついさっきまで互いに誰ともしらない間柄だったのに、ここまで親身になれてしまう心境こそ普通じゃないような気がした。

それが本来的に人間に備わっている愛なんだろうか。それとも、今回がたまたまそういう出会いだっただけなんだろうか。

ゲーテはこういっていますよ、節度を持った人だけが豊かさを感じることができるんだ、と──

──節度、ね。だから君はこうして何でもできる空間にいながら節度をもって河川敷で読書なんてしてるんだ。

そういうわけじゃありませんよ──

──じゃあ、どー!ゆー!わけっ!

力を込められた平たい石は、晴天を反射する川面を何度も跳ねて、それであるところでチュン……と沈んでいった。

彼女は振り返って歯茎をみせた。

──七回、まあまあね、物理演算の詳細こそわからないけど、ゲージタイミングさえ間違えなければ問題なさそう。昔やったゴルフゲームみたいなものかな。ねえ君もやってみなよ?

彼女に言われたとおり立ち上がって平たい石を掴んでみる。川べりのギリギリに立ってエンターキーを押す。
とつじょ目の前にあらわれたスロウゲージ。ショットポイントだろう赤い点が左右に激しく移動しはじめた。タイミング良くまたエンターキーを押す。

指先から放たれた平たい石がなんの面白みもなく川に沈んでいった。

──下手くそ。

腹を抱えて爆笑する。僕はムッとした。きびすを返して元の位置にもどる。
それからゲーテの詩集を手に取るとつづきから読みはじめた。

──こら、そこ、すねない! 一回失敗したくらいで諦めちゃダメだよ。人から笑われることも別に悪いことじゃないし、むしろ誰かを笑わせてやったって自信持っちゃっても良いとおもうし。人を笑顔にできるってすごい才能だよ!

フォローが下手くそか。それでもそんな悪意のない彼女の声に癒やされてしまう。
また本を置いて、今度は彼女にリズムゲーの極意を伝授してもらった。

画面を共有し、どのタイミングで押せばいいか声で合図してもらう。
タン、タン、タン、とタイミングを取る彼女の声が、何度もヘッドセットの奥から聴こえてくる。
耳の産毛を揺らすような音声。
調教(アバターの声の作り)の仕方が上手いんだろう。同性といえど照れくさくなる、そんな声だった。

──そこ!

タイミングがばっちりあったのだろうか。画面いっぱいに虹色のフォントがあらわれる。NICESHOTの文字。

平たい石はカミナリのエフェクトをまとい水面をチリチリとかけていく。
そんなくだらない演出に僕らは思わず笑い声をあげてしまった。

互いに素の笑い声が入ってしまってちょっと気まずい空気になったが。
それでも彼女はみせたくない部分をみせあうことで人と人は距離を縮めると思うし、と恥ずかしそうにつけくわえた。

たしかにそうかもしれないですね──

泣き笑いのスタンプを足して、僕もそんな彼女の考えにこころよく同意した。

それから僕らはまた暇になって、どちらかが仮想空間から出るまでサイクリングでもしようという流れになった。

延々、風を感じた気になりながら、その嘘くさく揺れる夏草などを視界にいれながら、僕らはときおり奇声を発したり、また前後を入れ替えたりしながら、そればかりでなく、おもむろに自転車から降りてそこから見える景色などを共有したりした。

──なんだかこんなふうに誰かと時間を気兼ねなく過ごすことを忘れていた気がする。ずっと人の目を気にしながら生きてきたのかもしれないわ。人の記憶に残ってしまうことを恐れてきたのかもしれない。小さな環境のなかで誰かがわたしを気にしてるって、ずっと思っていたのかも。
人の目が怖い。人の目が怖い。
心の奥に沈んだままのかつてのわたしがそう言ってるのかもな、とか。
そういうのが一気に押し寄せてくる夜とかがあって、それで深酒をね。
悪い癖とは思ってるんだけど、ネットに入り浸ってストレス発散するよりかは自虐的で孤立的で健全かなって思ったり思わなかったり、わっかんないけど。それでも人の目があるところで自分の欲望を見せびらかすのに抵抗があるのよ。良くも悪くも表現っていうのはぜんぜん知らない他人を刺激してしまうしね。そういう連鎖に自分がくわわるのが好きじゃないっていうか。まあそんな感じ。

偉いと思いますよ、僕もあなたのいうことわからなくもないので。自分を見せるとか見せないとか以前に、言葉や態度は誰かを圧迫してしまうものだと思うし、それこそ僕らは人間で、機械じゃないから、言葉や態度で出されても、それをプログラムとしてすんなり受け入れることができないし、なんなら拒否したくもなるし、そう考えれば、自分もそうして言葉や態度、つまり思っていることや欲望を吐き出さないようにしようと思うし。それなら少なくとも自分だけの世界のなかで自由を感じながら、仮にそれがみじめでも、幸せに生きられると思うし、そしてそれがいくら時代に取り残されてしまう行為で、またそういう結論に導かれてしまうにしても、それはそれで、価値観なんて決まったかたちのない風潮でしかないと思うし、時代や背景によって変遷していくものだと思いますから、なら、そんな不完全なものに縛られなくてもいいような気がするし──

──だから君はこんな場所で読書なんてしてたんだね。

ええ、まあ、ある意味では反抗期みたいなものでしかありませんけど──

──どこまでも自由なフィールドで、あえて不自由や非合理性を選ぶって?

そんな感じです、でも逆を言えば──

──現実でこそ自由になるべきだって話。

率直にいえば、彼女はあたまが良かった。
自分なりの哲学性をもった人をこういう場でみたことがなかった僕としてはおどろきの一言につきた。
哲学者は河川敷にいる、自然風景とともにいる、それはどんな本にも書かれているわかりきった事象だ。

自然という言葉や概念をどこまでも追求する姿勢と、その自然性にヒトの生涯や命を重ねている。
その研究や再確認のために、哲学者たちはそうして自然と向き合う時間を無意識のうちに捻出してしまうのだという。

あなたって男の人ですよね?──

そこで僕はとうとつな質問をした。

──それを聞いて君はどうするの?

いままでとは打って変わって、殺気さえ含まれる鋭い双眸がそこにあった。
彼女は誤魔化すつもりはなさそうだった。その真剣なまなざしが僕の視界にはっきりとあらわれている。

いえ、軽率でした、すみません、訂正します。あなたがどっちの性別でもかまいません。ただ、ふと、寂しくなったので、つい。
もしあなたが男の人だったらいいなとそう思ってしまったもので。それならもっと仲良くかもしれないとか、あるいは一つになれたかもしれないと思えたから──

──やたらと面倒に思うのよね。男とか女、とか。だってわたしはわたしだし。もし仮にわたしがわたしじゃなくなる時があるとすれば、それって誰かのなかでだけでしょ。誰かのなかでわたしは男にも女にもなる。好きにも嫌いにもなる。そういうのが面倒だから出さないでいるのに、みんなカテゴリーがないと不安なのね。そして、君も。

ちがいます。僕はカテゴリーなんて気にしません。ただ単純に男女には凸凹の役割がありますから。ただその合致性についてのみ憧れを感じているんです。
このパズル的な生物学的構造をこの身体をもってして感じてみたいだけなんです。それは人によっては嫌悪感や気味悪さを覚えるかも知れませんが、せっかくこの身体に生まれてきたのにこの謎と向き合わないのはウソだと思うんです。もしかしたらその達成感は思考を凌駕するかもしれませんし、本当にただそれを証明したいだけなんです。
そしてせっかくそういうことができるのなら、少なくともこうして互いに理解し合える関係のほうがいいと思えたし、なにより僕はこうしてめんどくさく考えてしまう自分をいつかどこかで手放したいと思っているんです──

──セックスはそんな神秘的なものじゃないと思うけど。そして君は女の人なんだね。いまさらキャラを変えてこのOL系アバターのまま会話するのは忍びないけれど、それでもわたしは君の要望には答えてあげられないと思うよ。

いいんです、むしろ現実では言えないことを言えてスッキリしました。こんなこと誰にも言えなかったし、こんなことを口にすれば大抵のばあい変態に思われるか、頭がおかしいやつ認定されるだけですから。でもいつか誰かに受け止めてもらいたかったのは事実なので、うん、はい、スッキリしました。
そしてたしかにあなたのいうとおり、セックスはそんな神秘的なものじゃないのかもしれません。ペニスもヴァギナもクリトリスも、ただ人の部品としてついているのみで、何か大切な宝箱を開ける鍵としての役割なんて持ってはいないんでしょうし、だから僕みたいなのが生まれてきてしまったんだろうし、そういう神秘性に欠けたただの工場生産様式の一端でしかないんでしょうし──

──それでもあなたがセックスは神秘的なものだと思うなら、それを突き詰めるべきだと思うよ。人生はそのためにあるんだし。つまり、君が謎だと思うことを解明するために人生はあるんだし。

そう言ってくれた人、はじめてです。すごく元気がでました。今日どうして僕がここにこうして存在していたのかわかる気がしました。それはきっとあなたに会うためだったんでしょうね。今ならその奇跡が手に取るように理解できます──

僕がそう言い切ってしまうと彼女はおもむろに立ち上がって僕の手を引いた。
川沿いの土手を一気に駆け抜けていく。そして僕らはそのまま川にダイブした。

濡れない水に入り、冷たくもない飛沫を浴び、重力もない川底に不安定さを感じる。
感触のない水を両手ですくいあげて、いたずらっ子のように掛け合いがはじまれば、音だけが想像を支配し、すべてが錯覚のたぐいだと知るのだ。

熱くない太陽は煌々とかがやき、風は演算にとどまり木々を揺らすばかり。
本来あるべきものが何もない世界でも、一つだけウソがないものがあるとすれば、この目の前のお姉さんの躍動感だけだ。
いやもう一つある、それはこの楽しくて楽しくて仕方がない僕の感性だ。
それだけはウソじゃなかった。

あるいは現実世界でさえ、その法則は変わらないのかもしれなかった。
要は、狭い世界のなかで、誰にも見られることなく、また見せることなく、楽しんだもん勝ちだってこと。

──じゃあそろそろ行くわね。

黄色いカーディガンを肩に乗せて彼女は満面の笑みをかまえていた。
ちょうどバックに夕焼け空が映えていた。背景はいうまでもなく現実世界の時間とリンクしている。
この世界のどこかにそうして僕の前から去ろうとする一人の人間がいる。
その事だけは本物なのだ。

だからか、心がズキッとした。

もう一度会いたいといえばわがままだろうか。離れたくないと叫べば傲慢だろうか。そのカーディガンの裾にしがみついてあと一時間だけ、それがダメなら10分でいいとか、そんなふうに彼女、いや、彼を困らせたら、それこそ面倒な女だろうか。

そうして僕はさんざん迷った挙げ句──、
ある日を境に、絶対に解かないと決めていたその魔法を解いてしまうのだった──。

今、彼の目の前には、たぶん、ひねくれた制服姿の女子高生がいることだろう。





離れたくないよ──

──あらー、可愛らしい。

育てに育てあげた一張羅たるアバターを褒められることは嬉しかったが、これは手段であって目的じゃなかった。
この姿なら目の前のお姉さんを引き止められると思ったのだ。
じゃなきゃ、その向こうの彼の心を奪えるかも知れないと思ったのだ。

ねえ、離れたくないってば──

──だめよ、お姉さんだってすごく忙しいんだから。

わかってるよそんなこと、でも仕方ないんだ、本能がこうしろっていってて、僕はもう制御不能なんだよ──

身振り手振り激しく、僕はひっしに伝えるに努めていた。
感情のあまり涙がこぼれてもここで引き返したりもしない。

──ほら泣いてるよ。泣かなくてもいいのに。まあそれだけいろんなことを抱えながら生きてきたってことよね。じゃあこういってあげるね。


『たくさん辛いことあってたいへんだったと思うけど、生きててくれてありがとう』


その言葉のせいで、とうとう目の前が何も見えなくなった。
横隔膜が痙攣をおこして、僕はずっと嗚咽を繰り返していた。

それでも自分の人生が世界一不幸だと思ったことはない。ただ、自分より不幸そうな人たちに目を向けて、僕はまだまだ不幸じゃないだとか、言い聞かせてきたのは事実としてある。

そして、ものの程度を測るものさしがどんな形状をしていれば適切なのかも知りはしないけど、少なくとも僕の不幸は僕にしかわかり得ない。

だとすればこういってしまってもいいのだと思う。

僕(私)の不幸が僕にしかわかり得ないのなら、そんな誰にも測り得ない不幸を僕が所持しているのなら、そしてそれを僕自身が手放せないのなら、僕は世界一不幸な人間の一人だということだ。そして誰もがそうなのだ。

それなら、すくなくともたった一日くらいはそんな乱暴な定義を許すべきだ。
たった一日くらいなら、そういう権利があるべきだ。
たった一日くらいなら、その権利を行使して優しくされたっていいだろう。

僕は心からそう思った。だからここまで激しく号泣してしまったんだろう。
そして彼女あらため彼は、そうして僕が泣き止むまで、だまって一緒にいてくれたのだった。





汚れも知らない川の何がキレイか、疲れを知らない人間のなにが美しいか。

正気をとりもどした僕に彼はやさしく語りかけていた。

すでに日は沈み、群青の世界と、街灯のない河川敷に、たぶんはじめてみるだろう男の影が、まるでホタルのやわらかな光のように、僕のヘッドゴーグルに映っていた。

今まで何一つ変わらない一人ぼっちの部屋のなかにいるというのに、心だけが熱を帯びて、僕は説明しがたい安心とやらに浸っていたのだった。

マウスを握る手が静かに震えていた。
ディスプレイのなかで揺れる矢印のカーソルが、じょじょに彼に近づこうとしていた。
止まり木を見つけて喜ぶ、まるで小さな夏虫のように。