悩みのない人間なんていない。
それを表に出すか出さないか。違いはそれだけ。
あなたは笑顔のまま泣いていませんか。
私のように。

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机の上のスマホが鈍い音を立て、俺は現実に引き戻された。時計を確認するとちょうど23時。数Ⅲの問題を解き始めたのが20時だから、かなり集中していたことになる。

「誰だよこんなビミョーな時間に。迷惑だっての」

しかしそこに表示されていた名前を見て、俺はすぐさまスマホを掴んだ。

「もしもし!莉子?莉子なんだろ?」

「よかった〜出てくれて。それに名前呼びなんて久しぶり」


電話の向こうで莉子が安堵のため息を着くのが聞こえる。

「変な時間にごめんね。もしかして寝てた?」

「いや、勉強してた」

「そうだよね。私たち受験生だし」

「ところでさ…」

「ん?」

触れてはいけない話題かもしれないが、聞かずにはいられなかった。

「お前、学校辞めたの?」

電話の向こうで莉子が黙り込む。

「別に責めてるわけじゃないんだ。ただゴールデンウィーク明けから顔見てないし、クラスラインもいつの間にか退会してるし」

「しかもサトセンに聞いても大丈夫だから心配するなだけ。信じられるか?噂話大好き。歩くスピーカーのような、あの佐藤がだぞ」

電話の向こうで莉子が笑い出す。気でも狂ったか。

「あーおっかしい」

俺は、ちっとも楽しくないんだが。

「ホントに言わなかったんだ佐藤先生。意外に真面目」

「いや、でもよく考えたら、先生が生徒の個人情報ペラペラ話したらヤバいのか。お前こそ、いや俺もだけど、何言ってんの?」

「そうか。そうだよね」

話すだけでは物足りない。一目でもいい莉子に会いたい。

思い立ったら行動あるのみ。俺は彼女にこう告げた。

「今からお前ん家行くわ。少しでいいから時間くれない?5分でも10分でもいいから」

それだけ言うと電話を切り、俺は外に飛び出した。
そういえば、莉子の返事を聞いていなかったが、まぁ何とかなるだろう。

彼女の家に近づくと見慣れた姿が目に飛び込んできた。その姿は小柄でどこか小動物を連想させる。美人と言うより可愛い感じの莉子。片方が一重でもう片方が二重の目。その瞳に今は憂が深く刻まれている。
(目は心を映す鏡)そんな言葉が脳裏をよぎる。

中学生の頃は写真部に所属し数々のコンテストで入賞していた彼女をふと思い出した。

あのころの莉子は、ハツラツとして、自信に溢れていた。勉強もスポーツも常にトップクラス。驕ったところもなく、誰とでも分け隔てなく接する。そんな性格も相まって彼女の周りには常に人の輪ができていた。

今とは違っていた。話し方、雰囲気、何もかもが。

彼女を驚かさないように、小声で名前を呼ぶ。

「莉子。莉子」

「直人!本当に来たんだ。バカみたい」

毒を吐くくらいの元気はあるようだ。

「お前だって俺の事待ってたんだろ。お互い様」

そう切り返すと莉子の表情がフッと和らいだ。そうして俺の様子を上から下まで眺め始めた。

「ちょっ。何やってんだよ」

「直人の観察。ところでまた背、伸びたんじゃない?」

「あぁ。180超えたからな」

「凄い。羨ましい」

そう言ったあと独り言のようにこう呟いた。

「みんな、変わっていくのかな?」

俺はその問いには答えず、あえてふざけた口調で声をかける。

「さて、話を聞かせてもらおうか?わざわざ来たんだからさ」

少し考えたあと彼女は自宅からすぐ近くの公園へ俺を誘った。

【憩いの丘公園】通称【星が見える丘公園】

街灯が少ないせいなのか、あるいは公園の位置自体が高台だからか、ここに来れば頭上にたくさんの星が煌めく。知る人ぞ知るデートスポットだ。

ベンチに並んで座る。

「今日の空もすっごく綺麗。カメラ持ってくればよかった」

感動したように莉子がつぶやく。

「満天の星空だな」

本当に吸い込まれそうな美しさだった。(今なら空に溶けられる)ふと頭に浮かんだ思いを慌ててかき消し莉子に声をかける。

「もしかして、今なら夏の大三角形が見られるんじゃないか」

「こと座のベガ、別名織姫星。わし座のアルタイルこれは彦星。それから、はくちょう座のデネブ。探し方習ったんだけどな〜忘れた」

「莉子お前覚えてる?」

そう言って、ふと横を見ると彼女は泣いていた。声も立てず静かに。溢れる涙が頬を濡らし、星の光で銀色に輝く。

その様子が俺はとても綺麗だと思った。

「ねぇ直人。星じゃなくて、私の事を見に来たんじゃないの?」

そう言われ俺はここへ来た目的を思い出す。

勇気を振り口を開きかけた俺より一瞬早く、莉子が言葉を発する。

「私、物事に強く感動したりすると死にたくなるの」

驚きすぎて言葉が出なかった。

何もかも恵まれた莉子と死が頭の中で上手く結びつかない。

「えっと、それは、つまり」

何と言っていいのか分からず、アタフタしている俺の事など気にかける素振りは微塵もなく、莉子は言葉を重ねていく。

「気持ち的には…もう十分です。ありがとうございました。そんな感じ?かな」

「でもね、生きてさえいれいれば、もっと美しいものや楽しいことに、たくさん出会えるなのに。どうせなら、全部見尽くしてから消えればいいのにね。おっかしいよね私。ていうか私の心」

「最近は朝起きられなくなったり、ご飯が食べられなくなったり、自分が自分じゃないみたいなの。いつもフワフワしてる。それで心配した両親が私を病院に連れて行ったってわけ」

「それでね、3ヶ月くらいかな?入院してた。学校に行かなかったのもそういう理由」

「それで病名は?治るのか?助かるのか?」

「医学的な病名は内緒。個人情報です。ただ先生は、青春病とか言ってたな。命に別状があるかどうかは、私の気分次第」

「どうして!」

気がついたら大声を上げていた。莉子が驚いた様子で俺を見る。

「ごめんね。なんか変な話して。直人、もう帰らなきゃだよね。お家の方心配するし」

「帰らないよ」

「てか、こんな話聞いちゃったら帰れないだろ」

「俺は莉子じょないからお前の気持ちを全部理解することは出来ない。でも」

「青春病って言う主治医の先生の診断、当たってるかも。って思ったんだ」

「多分俺も青春病だから。普段は気がつかないふりしてるけど。この空見た時もさ、今なら夜空と溶け合える。そう思った。マジで」

「それにクラスメイトもほとんどかかってるんじゃないかな?青春病、発症率高そうだし」

「先が見えない不安、人からどう思われているかの心配、今の俺達には考えなければいけないことが多すぎる。そうは思わないか?」

「そういえばサトセンも学生時代に悩まされたって言ってたな」

「そうなの?」

莉子が目が大きく開く。興味を持った時の彼女の癖だ。

「らしいぞ。それで夏休み中にこっそり家を抜け出して玉川上水に行ったんだって。高三の夏休みって言ってたな」

「玉川上水」

「入水…」

何となく察したようだ。

「ほら、サトセン、太宰治大好きだろ。授業中も彼の話になると、ブレーキ利かないし。だから尊敬している人の最期の場所を見てみたい。出来れば同じように消えたいと思ったんだろ。その気持ち俺は分かる」

「サトセン彼女いたんだ」

感心したように莉子が呟く。

「お前興味あるとこそこなの?」

「気になるじゃない?どんな女の子だったのかな?って」

「一人だったみたいだけどな」

「そうなんだ。ちょっと安心した」

「お前、サトセンと張り合ってどうすんだよ」

「そうだよね。続き教えて。直人」

「玉川上水を見たサトセンは、とある理由で愕然としました。それは一体なんでしょう。ほら考えて」

「玉川上水に着かなかった」

「いや、だから目的地には着いてるんだよ」

「迷子のプロのお前とは違うんだから」

「着くから。たぶん着くと思う」

いきなり声が小さくなる。文武両道の莉子が唯一苦手とすること。それは迷わず目的地まで辿り着く事だ。

「それで答えは直人?」

「降参?」

「悔しいけど思いつかない」

「正解は、水が少なかった」

「は!?」

「大宰が生きてた頃にはきっとゴウゴウと水が流れていたんだろうな。そうでなきゃ…な。」

変わっていく、景色も人の心も。

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「莉子。聞いてほしいことがあるんだ」

隣に座っている彼女が身体を固くする。

「そんなに警戒するなよ。大丈夫だから」

俺は彼女の目を真っ直ぐ見て続けた。

「好きだ。莉子」

「なんで?」

そう言ったきり固まっている。カップ麺なら出来上がってしまいそうだ。しばらくすると、顔に無理やり笑顔を貼り付け莉子はこう続けた。

「ちょっと直人、どうしちゃったの?私を好きになっても直人には何の得にもならないんじゃない?」

「だったら、もっと可愛くて明るい性格の…そうだ!同じクラスの美貴とかどう?もし良ければ紹介しようか?」

「それとも私に同情しちゃった?いつ治るかも分からない病気を抱えた、可哀想な莉子ちゃんに」

「いい加減にしろよ」

俺の勢いに押されたのか莉子が口を噤む。

「人を好きになるのに理由なんていらないだろ」

「もしどうしても理由が知りたいなら…相手が成島莉子だから。それじゃダメかな?」

「何で今なの?」

莉子の声がかすれている。

「今まで、私の気持ちなんか気付かないふりしてたくせに」

「私だって好きだった。直人のことが、ずっとずっと好きだった」

「ごめん。ごめんな莉子」

「今さら謝られても遅いし」

「そうだよな。でも、ごめん本当に」

「私だって」

莉子が声を絞り出す。

「自分勝手なのは分かってる。でも、でも、本当は助けてほしかった。こうなる前に一言、ラインでも言葉でも、大丈夫か莉子?って。直人にそう言ってほしかった」

「めんどくさいよね。私」

こんな時に、綺麗な言葉を並べ立てても意味はない。素直な気持ちを伝えること。それが一番だ。

「言い訳にしか聞こえないかもしれないけど、てか言い訳そのもの、なんだけど」

「俺、自信がなかったんだ。自分自身に」

「俺の知ってる莉子は輝いてて、俺なんかが告白しても相手にされない。だから、優しくしてくれるのも、一緒に帰宅してくれるのもボランティアなんだ。そう思い込もうとしていた」

「俺にとって莉子は雲の上の存在だった」

「それからもう一つ」

「なに?もう何でも話していいよ。莉子ちゃんが聞いてあげる」

「これじゃ俺、何しに来たのか分からないな。ミイラ取りがミイラになる。ってこういうことなのか」

「直人はことわざを一つ覚えた」

笑いながら莉子が続ける。どうやら機嫌は直ったようだ。そして俺は彼女に伝えた。

「実は俺、怖かったんだよ。莉子が」

「嘘でしょ。何で?」

「お前、自分の撮った写真見たことあるだろ?何も思わない?」

「何かは思うよ。ていうか反省点だらけ。もっとこうした方が良かったかな?とか」

「俺、プロじゃないから詳しいことは分からないけど、お前よくコンテストで入賞した作品展示されてたろ。生徒昇降口の一番目立つ場所に」

「うん」

「それ見て一瞬のキラメキを切り取る事が出来る莉子の才能が凄すぎて」

「心まで覗かれてそうだな。とか思って」

「怖かったです。はい」

「でも、今はお前の気持ちを受け止められるくらいには成長したと思ってる」

「その理由話してもいいかな?」

隣りで莉子が首を傾げる。束ねた髪が鼻腔をくすぐる。女の子の香りがした。

「それは愛について俺なりに理解したから」

「愛ってさ、見返りはいらないんだよな。俺にとっては、莉子が生きていてくれたら、それで十分なわけ」

「だから。俺と付き合ってください」

「甘いな〜直人は」

呆れたように莉子が呟いた。

「恋に恋するお年頃なのかな?」

「そんな事ない!俺なりにいろいろ考えて」

「だったら、もう帰って」

「酷くないか?電話してきたのお前だろ」

「勝手に押しかけてきたのは直人」

「でも、俺の事待ってただろ」

「それは。心配だったから」

「とにかく帰って。もう連絡はしません。ごめんなさい」

「莉子、少し落ち着いてくれ。な」

「分からないなら、分かるまで伝えてあげる。私、病気なの。メンタル疾患。さっきも言ったけど」

「明日の私がどうなってるか?残念だけど、今の私には分からない。泣いてるのか、怒ってるのか、あるいは、全人類を呪ってるかもしれない。危険でしょ?要注意人物なの。だから直人とは付き合えない」

「だったら莉子、こうしないか?一日彼女」

「一日彼女?」

「一日だけの彼女。ただし延長あり」

「なんか、直人が言うと卑猥」

「お前こそどんな想像してんだよ」

「レンタル彼氏みたいな感じ?」

そう 言った後に莉子は、恥ずかしそうに下を向いた。

「先の事なんか誰にも分からないだろ。数分後には二人して燃えてるかもしれないし」

「直人あのね、ここ火事の時の避難場所だから大丈夫じゃないかな?」

冷静に切り返す莉子に俺は告げる。

「そっちじゃなくて恋の炎なんだけど。お前、頭いいのか天然なのかよく分からない時あるよな」

「俺が言いたいのはつまり、一日一日を大切に生きていかない?って事。もちろん二人で」

「一日無事に乗り切ったら、また支え合って次の日に向かっていく」

「それを繰り返していけば、一日彼女は?」

「ずっとの彼女なる。そういうこと?」

「正解」

「ということで、今の時間は?」

もう少しで、日付が変わろうとしていた。

「莉子、カウントダウンしない?」

「5、4、3、2、いーち」

「改めてなんだけど莉子、今日一日俺の彼女でいてください。できたら、明日も、明後日も」

「仕方ないなぁ。まずは一日ね」

莉子が視線を地面から、俺の顔。最後に空に視線を移す。

「今までは空を見たら消えたいとしか思えなかった。だけど今は、そうは思わない」

「むしろ消えたくない。ずっと直人と一緒にいたい」

「一日彼女、延長ありがとうございます」

「だから、言い方よ。言い方。何とかならないの?」

気がつくと頭上の星は、さらに輝きを増し柔らかな光が辺りを包んでいた。

それは、始まったばかりの今日を祝福する光。

俺にはそう見えた。