「直人!そのままこっちに視線もらえる?うん!いい感じ!」

莉子が左手でカメラを構え、右手をひらひらと頭の上で振り俺に合図を送る。公共の場所で名前を呼ばれるのは、迷子にでもなったようで気恥ずかしいが、莉子が気に留めている様子はない。
莉子とは幼なじみで同級生。そして何を隠そう俺の初恋の人でもある。

制服姿ではない彼女を見るのは久しぶりだった。今日の服装は、短めの白いシャツに、ジーンズ生地のロングスカートを合わせている。肩下までの髪は、後ろで一つに束ねている。目元と唇にはラメを施しているらしく首元から下げた赤いカメラと共にキラキラと輝いている。高校生ならプライベートでメイクをするのは珍しいことではないのかもしれないが俺にはとても新鮮に見えた。

「もう少しだけ顔を右に向けられる?そう上手!そのままストップしてて」

カシャカシャというシャッター音が辺りに響く。

次々とポーズを決められたら莉子の俺に対する評価も急上昇となるのだろうが、現実はそう甘くなかった。
カメラを向けられると顔が引きつり上手く笑えない。身体の動かし方が分からずギクシャクしてしまう。これではまるでロボットだ。
夏休みの暇つぶしにと、莉子の頼みを軽々しく引き受けてしまった俺を殴り倒したい気持ちだった。

(俺にはモデルなんて向いていない。正直に謝って帰ろう)そう思った瞬間莉子が叫んだ。

「今のポーズ素敵!やっぱり直人センスある!ねぇもう一回やって見せて」

これ、考える人のポーズのアレンジなんだけど。

今回の撮影場所は莉子の家から徒歩3分。俺の家からは自転車で3分。流れ星の丘と呼ばれる市民公園。俺たちにとっては馴染みの場所だ。昼間は、家族連れで賑わっているが、夜はデートスポットになるのだと莉子から聞いたことがある。

「今のポーズ変じゃないか?俺、写真のモデルとか初めてだし、莉子の思っている世界観を表現できるような感性とかないから。じゃあなんで引き受けたんだって言われると困るんだけど。とにかく」

しかし俺の言葉は途中で遮られた。

「大丈夫だから。自信もって。それに私、今回は直人で撮ってみたかったの。おかげで、すっごくいい写真撮れてるから。莉子ちゃんの最高傑作です。です!」

なぜか、語尾を2回繰り返す。

「何だよ。ですです。って」

「念押しみたいな感じ?大丈夫っていう」

そう言うと俺に向かって大きく頷く。これで莉子に謝って帰宅するという選択肢はなくなった。

「ま、莉子がそれでいいなら、俺は別に構わないけど」

写真の出来不出来も含め、責任は負いたくなかった。我ながら身勝手だと思う。

「じゃあ撮影続行するね。今度は少し会話しながら撮ってみない?」

さらにハードルが上がる。ポーズを決めながら会話なんて出来るわけがない。共通の話題もない。

「別に話すことなんてなくないか?お暑うございますとかそのくらい」

すると突然、莉子が大声で笑い出す。

「直人ってふざけてるんだか、真面目なんだか分からない時あるよね。お暑うございますって、おばあちゃんがよく使ってたなあ。久しぶりに聞いたかも。それからねモデルさんと会話しながら撮影した方がいい写真が撮れるかもっていうのは佐藤先生のアドバイスなの」

長身で、どっしりして、どことなくプーさんを連想させる写真部の顧問が、俺の頭の中をゆっくりと通り過ぎていった。

専門家のアドバイスは聞いた方がいい。頭ではわかっている。しかし人には出来ることと出来ないことがある。俺は、女子とどんな会話をすればいいのか全く分からなかった。焦ってオロオロしていると莉子が助け舟を出してくる。

「もしかして私と共通する話題探してたりする?幼馴染同士の会話なんて自ずと生まれてくるから心配ないのに。そうだ直人、コウタ君て覚えてる?光太君彼女できたらしいよ」

その名前には聞き覚えがあった。小学校、中学校と同じ学校だったはずだ。高校は男子校に進学したと思っていたのだが。

「嘘!?マジで?光太って男子校に進学したんじゃなかったか?なのに彼女って」

こんな事があっていいはずがない。

「この前、駅前で見かけたの。彼女さんと自転車二人乗りしてた。それに男子校ってモテるらしいよ。女子校もだけど」

莉子が当たり前のように話すことを俺は信じられない思いで聞いていた。なんというか俺とは住む世界が違うそう感じた。

「とにかく、いろいろマズイんじゃないか?自転車の二人乗りは違法だし。莉子はどう思う?」

「私?私は好きな人と一緒なら自転車二人乗りしちゃうかも。それと匂い嗅いじゃうかも?好きな人の香りは安らげるって言うし。それから」

「分かった!分かったから。ほら、写真撮るんだろ。な?」

妄想の世界に行ってしまいそうな莉子を慌てて引き止める。気がつくと緊張はすっかりほぐれていた。これなら莉子の要求に答えられる。そう思った時タイミングよく彼女から声が掛かった。

「直人、私の方見て。そしたら、そのままゆーっくり目を閉じて」

そう声をかけられカメラの方に顔を向ける。

「直人のキス顔もーらい」

何が起こったか分からず固まっている俺に、カシャカシャという音が星のように降り注いだ。

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2学期が始まった。それなのに気温も日差しも真夏並。やはり何かおかしい。俺のイメージしていた秋とは別物のようだ。ギラギラ照りつける太陽に、首の後ろがジリジリと焦がされていく。よく暑さ寒さも彼岸までというが、涼しくなる気配は微塵もない。
油断して顔にしか日焼け止めを塗らなかったことを心の底から後悔した。
登校するのは1ヶ月ぶりだ。校舎に入ると俺は違和感を感じ立ち止まった。馴染みのある場所が見知らぬ場所へと変貌を遂げていたからだ。

靴の痕で薄汚れていた玄関の壁は真っ白に塗り直されていたし、部活の掲示板は新調されていた。そしてなぜかブックポストと書かれた、銀色のどでかい図書返却箱までが靴箱横に置かれていた。
夏休み中に大規模な改修工事が入るとは聞いていたが、これは予想以上だ。
乾ききって間もない塗料の匂いと白っぽい空間に頭がクラクラする。

しかし【祝 成島莉子 夏の全国写真大会本戦出場】の文字を目にした瞬間、俺ははっと我に返った。

昇降口から真正面、一番目立つ場所にあるガラスケース。展示中の自分と目が合う。

(莉子のやつ、コンクールに出すとか一言も言ってなかったのに)

騙されたような気分になった。あの日莉子と過ごした時間は二人だけのもので、不特定多数に向けて公開されることなど予想していなかった。
しかも作品タイトルが意味深で、これでは誤解してくださいと言っているようなものだ。

作品名【一日彼氏 成島莉子】

階段を一気に駆け上がり教室へと急ぐ。途中、全国大会出場おめでとうという声が聞こえたがいちいち訂正するのももどかしい。 俺は周囲の喧騒を無視して走り続けた。

教室を覗くと、当の本人はクラスメイトと談笑の真っ最中。どうやら、横浜アリーナで行われた音楽祭に行ってきたらしく、アーティストの話題で盛り上がっていた。すっごく綺麗でカッコよくてでもセクシーなの。私もあんなふうに歳を重ねられたらいいなぁ。本当に最高の夏休みだった。そんな声が聞こえてくる。

「成島」

そう声をかける。学校で彼女のことを名前で呼ぶことはしない。

「直人おはよう!今日もあっついね。もしも地球がアイスクリームでできてたら、とっくに溶けてると思わない?」

通常運転にも程がある。てか、何言ってんだこいつ。

「あのさ成島、なんか俺に言うことない?写真の件で。コンクール用の作品だったなんて聞いてないんだけど。それとタイトル他になかったのか?【一日彼氏】って誤解生みそうな題名じゃなくってさ」

すると莉子は先ほどとは別人のように真剣な表情になった。心なしか目元がつり上がっている。

「いいでしょ。写真くらい。久しぶりの自信作だったからみんなに見てもらいたかっただけ」

自信作なら、まずモデルに見せるのが筋ではないだろうか。しかし俺はこの日まで彼女の作品を見てはいなかった。

「それならせめて一言ないか?俺一応モデルしたんだし」

昇降口での勢いはどこかに吹っ飛び、この程度しか反論できないのがもどかしい。

「じゃあ素直に話したら直人、コンクールに出すこと了承してくれた?モデルになってくれた?」

「それは」

反論する言葉が出てこなかった。狼狽えた様子の俺を見て、莉子が勝ち誇ったように告げる。

「ほら。だから内緒にしたの。あ、え、て」

俺の性格は把握済みとでも言いたいのだろうか。しかしあのタイトルのまま全国大会に出品されるのは何としても避けたい。つまらない意地だと分かってはいるのだが。ダメ元で聞いてみる。

「今からでもタイトル変更とか出来ないのか?」

俺がそう言うと莉子は俺を睨みつけた。

「とにかく直人が何を言ってもタイトルは変更しないから。ていうかもう、必要な書類は、佐藤先生に提出ちゃったし」

俺に勝ち目はないようだ。

「でも…そうだ直人、ちょっと待ってて」

そう言うと莉子は、頬に手を当て何やら考え始めた。もしかしたら、事務局に連絡をしてタイトル変更をしてくれるのだろうか。ドキドキしながら彼女の次の言葉を待つ。しかし俺の期待はあっけなく裏切られた。

「そうだ。もし私が全国大会で1位になったら直人にお礼する。それでいいでしょ?」

何やら違う方向に話が向かっている。

「俺は、別にお礼をしてもらいたいわけじゃなくて、ただ」

しかし俺の言葉は途中で遮られた。

「じゃ決まりね。駅前の図書館の横に新しくカフェができたでしょ。そこで莉子ちゃんがクリームソーダ奢ってあげるから」

確信犯なのだろうか。

「結果は?いつ頃発表されんの?」

「たぶん年内には決まるんじゃないかな。12月とかかな。よく分かんないけど」

「12月って真冬だろ。なんでクリームソーダ飲まなきゃならないんだよ。罰ゲームじゃないんだから。それから成島お前いろいろ間違ってるから、話の方向性とか」

莉子が信じられないといった顔で俺を見つめてくる。

「うそ。直人って暖房つけた部屋でアイスとか食べないの?」

どうやら、暖かい中で冷たいものを食べるのが最高に美味いと言いたいらしい。

「食べるけどさ。それとこれとは話は別だろ。てか、おい成島、聞いてるか?」

莉子の中でこの話はもう終わったらしい。彼女は俺のことなど忘れたかのように、再びライブの感想を身振り手振りを交えながら、クラスメイトに熱く語り始めていた。

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全国大会の結果が出たのは、12月に入ってすぐのことだった。その頃になると、夏の記憶は遥か彼方へと過ぎ去っていた。間近に迫っているクリスマスや、新年に気持ちが浮き足立ち自分が写真のモデルになったことまで忘れかけていたのだが、審査員はちゃんと仕事をしていたようだ。

莉子が撮った俺の写真は優勝し、俺は、彼女にクリームソーダを奢ってもらう権利を手に入れた。何にでも一生懸命で、才気溢れる莉子。きっとそのうち、世界中が彼女に憧れるようになるのだろう。校長先生から、賞状を受け取る莉子の姿から、なぜか直感的にそう感じた。

しかしこの頃から、彼女にある異変が現れ始めていた。中学の頃は無遅刻無欠席だった莉子が、ぽつりぽつりと学校を休むようになっていたからだ。
最初は月に2、3日の欠席だったと思う。それが高3に進級してからは姿を見かける日の方が珍しくなった。ゴールデンウィークが明けてから登校はしていない。留学したのではないか?とか、入院したのではないか?など様々な憶測が流れたが、理由は分からなかった。
クラスメイトも最初こそ気にはするが同級生が一人登校しなくなっても日常は変わらないことにすぐに気が付く。
莉子の存在を思い出すのは出欠をとる時だけ。そして莉子は学校に来ない子として皆に認知された。確認だけのために名前が読み上げられ、誰かが、成島さんはお休みです。と答える。それがいつしか俺たちの普通になっていった。

もし自分が受け持っているクラスで予期しないトラブルが発生したら。親身になって対応する教師、面倒くさいと感じる教師どちらが多いのだろうか。教卓で熱弁を振るうサトセンを見て俺はそう思った。 この人は莉子のことをどう思っているのだろうと。

高3になってから、俺と莉子の担任は佐藤千先生ことサトセンになっていた。

佐藤千。東京都出身の38歳。独身。血液型O型。好きな食べ物、焼肉。嫌いな食べ物パクチーや香りの強い野菜。尊敬する人物、両親と太宰治。国語科の教員。愛読書は紙版の広辞苑と国語便覧。趣味は、写真撮影、生徒と読書会をすること。

ちなみに千という名前は、実り多い人生を歩んでほしいとの願いから付けれたと、授業中に本人が話していた。
得意科目はもちろん国語、と言いたいところだが、サトセンは日本史マニアだ。それではなぜ国語の教師になったのかというと、サトセンが高校時代に受けた模試がきっかけだという。

幼い頃から勉強が得意だったサトセンが模試で全国1位を取れなかった唯一の教科、それが国語。俺に言わせたら全国トップレベルになれば順位などあってないようなものだと思うのだが、サトセンは(自分の足りないものを一生かけて補いたい)と決心したらしい。
莉子もそうだが、頭のいい人の考えていることはよく分からない。
結果サトセンは日本史の教師にはならず、国語の素晴らしさを伝え続けている。自分に正直なところがサトセンの魅力だと思う。しかし莉子の件に関しては、なにかしらの説明があっていいと思うのだが。

【本日の読書会は16時から図書室。 スペシャルバージョンのため時間延長あり。たぶん下校時間ギリギリまでやります。参加は自由 。分からないことがあったら佐藤千まで】

国語科資料室の前に貼り紙を見つける。スペシャルバージョンの読書会。一体何をやる気なんだろう?色んな意味で参加しておいた方が良さそうだ。

普段の読書会はきっちり30分。その日のテーマとなる本を抜粋したプリントが配られ10分かけて黙読をする。最後に参加者全員が、感想を一言発表して終わり。
面白かったでもいいし、難しいすぎて意味が分からなかった。でもなんでもOK。だだこれだけだ。
しかし、この読書会に参加していると、自然と読解力がつき受験に役立つという話は有名で、この読書会に参加したいがために、入学を決める中学生もいるらしい。

しかし今回は特別バージョンということもあり、少し様子が違っていた。何しろテーマが太宰治を掘り下げるだ。作品を読むのはもちろんだが、太宰の人物像を考えてみようということらしい。

「俺、作家の中では太宰推しなんだよ。彼の良さが分かるやついる?」

今まで何回このセリフを聞いただろう。それほどサトセンの太宰愛は凄まじく、生徒をドン引きさせるほどだ。その証拠に今日は、目がキラキラと輝いている。生徒と一緒に太宰を学べるのが嬉しくて仕方がないといった様子だ。推しの力恐るべし。

そして、教材として取り上げられた本は、人間失格。ラスト部分の抜粋だった。冒頭部分なら読んだことはあるが、最後まで読み切った人は意外と少ない気がする。

いつものように10分間で内容を頭に叩き込む。そして各々感想を言い合う。感想の大半は、経済的に恵まれていた主人公が、なんで没落していったか。その心情が知りたいというものだった。
満たされない寂しさは人の人生までも狂わせていまうのか。と疑問を呈するやつもいたし、主人公は依存体質なんだと言うやつもいた。皆が感想を言い終えると、いつもは、そのまま解散となるのだが、スペシャルバージョンということもあり、サトセンがこう言ったのだ。

「少しだけ先生の高校時代の話をしてもいいかな。もちろん強制じゃないし興味のある生徒だけ残ってくれればいいから」

サトセンの高校時代。何を話すんだろう。皆興味津々と言った様子で、話が始まるのを待ち席を立つ者は一人もいなかった。

「参考までに聞いてくれ。俺、病まない人はいないと思うんだ」

そう前置きしてサトセンは何かを思い出すかのようにゆっくり、ゆっくり、語り始めた。

「実は、俺もやんでた時期があってさ。特に高2の夏。あっれはヤバかった」

大学受験は1年先だし、元々頭のいいサトセンは、志望校判定模試でもA評価を連発していたらしい。志望校すらはっきり定まっていない俺には羨ましい限りなのだが、頭のいい人にもそれなりに悩みはあるらしい。

「俺、たぶん本気で消えようと思ってて、三鷹市まで行ったんだよね。駅前に自転車乗り捨ててさ。探し回ったんだ。推しの最後の場所を」

三鷹市、玉川上水が太宰治が最後に選んだ場所だ。

「本当は6月13日か19日に合わせて消えるのが理想だったんだけど、学校があるだろ。だから夏休みに決行したわけ。ま、結果は言わなくても分かるか」

6月13日は太宰治が入水した日。19日は、遺体が発見された日で太宰の誕生日でもある。今では桜桃忌と呼ばれている。その日は市内の寺で法要が行われるらしい。

サトセンの 話を聞いていた生徒達から驚きの声が上がる。予想に反して重たい話だったのかもしれない。

「今ではそんなこと欠片も思わないんだけどな。食事は美味しいし、それなりに毎日充実してるし。気になるのは生徒の成績と、健康診断の結果くらいだしな。あの頃はきっと、青春ていう病にかかっていたんだろうな」

そう言うと、サトセンは窓の外に目を向け、何かを探すような仕草をした。
莉子のことを尋ねるのは今かもしれない。俺は、サトセンに向けすっと手を挙げた。周囲の視線が一斉に集まるのが分かった。しかしここまで来たら、もう後には引けない。

「どうした?直人?質問なんて珍しいな」

サトセンも不思議そうな顔で俺を見る。

「あの先生、高校時代に彼女いたんですか?それか、一生叶わない片想いをしてたとか、好意を寄せていたクラスメイトが学校に来なくなっとか、病んでた具体的な理由があるのかなと思って。違ってたらすみません。ただ何となく気になったので」

緊張のせいかドット汗が吹き出した。とりあえずギリギリは攻められたと思う。サトセンならきっと気付くはずだ。

「直人、お前なかなか鋭いな」

サトセンが驚いた顔で俺を見る。すると俺の質問をきっかけに周りの生徒もザワザワし出す。

「そうか、太宰治って愛人と入水したんだよな。まさかサトセンも?」

「先生!どうなんですか?」

皆が期待とも不安ともつかない目をしてサトセンを見る。すると先生は、手を大きく振ってこれを否定した。

「一人だ一人。何でも物語のようにはいかないんだよ」

そこまで言うと、サトセンはなぜか大きく深呼吸をした。

「本当は彼女と一緒に行く予定だったんだけどな」

嫌な予感がした。

サトセンは話を続けた。

「死んじゃったんだよ彼女。自ら命を絶った。遺書みたいなメモは残っていたんだけど、それが全然意味わかんなくてさ」

サトセンの顔がぐにゃりと歪んだ。それが俺には丸めた紙切れみたいに見えた。

「春のエネルギーに耐えられそうもないから、消える。生きていても恥を重ねるだけ。そう書いてあった。なっ、意味わかんないだろ?」

確かに彼女は何が言いたかったのだろう。ただ心の内に漠然とした不安を抱えていたことは容易に想像がついた。

「俺さ、もっといや、ずっと彼女と一緒にいられるものだと信じていたんだよね。将来は結婚とかしちゃってさ。お前たちだってこんな別れ方嫌だろ?だから周りにいる人を大事にしてください。先生との約束だ」

わざとおどけたようなふりをして指切りのような仕草をする。そんなサトセンにツッコミを入れるやつはもういなかった。ちなみにサトセンが訪れた時、玉川上水に水はほとんどなかったそうだ。

シーンと静まり返る図書室に下校時間を告げる音楽だけが軽やかに鳴り響いていた。

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3年の1学期は時間に羽でも生えているのかと思うくらいの速さで進んでいった。授業にはきちんと出席していたし、読書会も変わらず行われていた。しかしあれ以来サトセンが小説を題材に取り上げることはなく評論文の読み方が読書会の主な目的となった。受験まで1年を切っていた。

机の上のに置いたスマホがガタガタと鈍い音を立て俺は現実に引き戻された。眠気覚ましにと用意したコーヒーは手をつける前に冷めてしまっていた。かなり集中していたらしい。

「11時半だぞ今。ったく誰だよ、夜中に。迷惑だっての」

勉強の邪魔をされ思わずそう毒づいた。しかし着信者として表示された名前を見て、俺はすぐさまスマホを掴んだ。成島莉子、間違いない。

「もしもし!莉子?莉子!」

「よかった〜出てくれて。それに名前呼びなんて久しぶり。そうです莉子ちゃんです。驚いた?ねっ?ねっ?」

電話の向こうで莉子がおどける。しかし次の瞬間、彼女の声は氷のように冷たく冷えきっていた。

「変な時間にごめんね。直人もしかして寝てた?」

「いや、勉強してた。課題やってた」

「そっか。そうだよね受験生だもんね。きっとみんなも一生懸命勉強してるんだろうなぁ。私は全然ダメ」

(私は全然ダメ)

莉子の発したこの言葉かま妙に引っかかる。

俺が知っている莉子は、自分を卑下するような言葉を使うことは決してなかった。少なくとも俺の見ている前では。

「そんな否定的な事言うなよ。受験までまだ日にちあるんだし。夏休み頑張ればどうにかなるって。俺の従兄弟なんてさ、夏休み明けから受験勉強始めたけど現役で合格してるし。だから大丈夫」

自分自身にも言い聞かせるつもりで、ゆっくりと言葉を紡ぐ。大丈夫。人生は多分なんとかなる。

「ごめん変なこと言って。直人は受験頑張ってね」

直人はという言葉が気にかかる。莉子はどうするつもりなんだろう。

「直人はって何だよ。直人はって。頑張るのはお前だって同じだから。ところでさ、莉子少し話し聞かせてくれない?言える範囲でいいから」

本来なら触れてはいけない話題だったかもしれない。誰にでも知られたくない秘密の一つや二つある。俺もそうだ。
しかしどことなく危うい莉子の様子から聞かずにはいられなかった。彼女からの返事はない。しかし俺は構わず続けた。

「別に責めてるわけじゃないんだ。ただゴールデンウィーク明けから顔見てないし、クラスラインからもいつの間にかいなくなってるし。それで俺、サトセンに聞いたんだよ」

すると今度は、莉子がケラケラと笑い出す。

「佐藤先生に聞いたって。直人そんな事までしたの?ウケる。私心配してもらうほど価値のある人間じゃないのに」

やはり普段の莉子とは何かが違う。

「価値のない人間なんているわけねーだろ。それにサトセン、成島は大丈夫だ。って言って全然教えてくれなかったんだよね。直人、今こそ物事の本質を見極めるんだ。お前はまだ真実が見えていないとか、逆に説教されてさ」

莉子が吹き出す。

「直人って、ものまねの才能あるんだね。そっくり。本当に佐藤先生みたいだった。それと」

感心したように莉子が呟く。

「サトセンて意外と口硬いとこあるんだ」

莉子の言葉で俺はハッとした。どうして今まで忘れていたのだろう。
この佐藤千という男、お喋りというか噂話が大好きなのだ。持ち前のコミュニケーション能力を生かし、学校内のあらゆる情報を手に入れている。
生徒の進学希望先から、交友関係、誰と誰が付き合っているかなど、サトセンにかかれば朝飯前だ。その佐藤先生が口を噤んだ。これは異常事態だったのだ。

「いや、でもよく考えたら、普通先生が生徒の個人情報ペラペラ話したらヤバいのか。お前こそ、いや俺もだけど、何言ってんの?」

「そうだよね。でも私、佐藤先生にはかなり正確な病状を伝えたと思う。担任だし、部活の顧問だし。そしたらね」

莉子の声が小さくなる。どうやら、話そうかどうしようか考えているようだ。しばらくすると莉子は誰にも言わないでねと前置きをし、続きを話し始めた。
実はサトセンは莉子を何回か見舞っていたらしい。電話をし、莉子の家族に訪問の意志を確認。彼女からOKが出たらプリントを渡したり、クラスの様子を話したりしていたそうだ。それでも3回に1回くらいは門前払いしていたようだが。何だか分からないけど急に不安になって。そう莉子は言っていた。

「だから、直人の様子も分かってたの。毎回読書会に参加してることとか、勉強頑張ってることとか」

「ちょっと待てよ。お前のプライベートは話しちゃダメで、なんで俺の日常は話していいわけ?なんか納得いかないわ」

「そんなに拗ねないでよ。直人ってホント子供みたい」

声を聞いたら、会いたくなる。会えばきっと触れたくなる。そう何かの本に書いてあった気がする。その時の俺は、そんなものなのか。と思いはしたが、深くは考えなかった。
しかし今ならはっきり分かる。一目だけでもいい。莉子に会いたい。思いは止められなかった。俺は彼女にこう告げた。

「莉子、俺今からお前ん家行くわ。少しでいいから時間くれない?5分でも10分でも、30秒でもいいから」

「えっ!?直人、今何時だか分かってる?こんな遅くに危ないから」

戸惑う莉子に俺は自分の気持ちを正直に伝えた。

「会いたいんだ。声聞いたら、なんかすげー会いたくなった」

それだけ言うと俺は電話を切り、自転車に飛び乗った。たぶん5分もあれば着くだろう。莉子の返事を聞いていなかったことに気がついたが、俺は構わずチャリを飛ばした。

月明かりに案内され、俺は自転車を走らせる。風を切る音が心地よい。しんと静まりかえった静まり返る世界に俺しかいないのではという錯覚を与えてくれる。
彼女の家に近づくと玄関先を行ったり来たりしている莉子の姿が目に飛び込んできた。体調が悪いことは分かっていたが、それでも莉子の痩せ方は明らかに異常だった。細い木の枝が立っているようだと感じ、俺は、首を左右に振り、この考えを頭から追い出した。どんな状態でも、莉子は莉子だ。

驚かさないように、小声で名前を呼ぶ。

「莉子。莉子」

「直人!本当に来たんだ。なんかバカみたい」

毒を吐くくらいの元気はあるようだ。

「そう言うお前だって俺の事待ってたんじゃないの?じゃなきゃ外になんていないもんな。てことでお互い様」

そう切り返すと莉子の表情がフッと和らいだ。そうして俺の様子を上から下まで眺め始めた。

「ちょっ。何やってんだよ」

「直人の観察。ところでまた背、伸びたんじゃない?」

「あぁ。180センチ超えたからな」

「凄い。羨ましい」

そう言うと莉子は背伸びをし俺の頭を撫でようとした。

「ちょっ!何すんだよ」

「私が150センチだから、比べてみようかと思って。でも、あと少しのところで手が届かない」

そう言ったあと独り言のようにこう呟いた。

「みんな、変わっていくのかな?」

俺はその問いにはあえて答えず、ふざけた口調で莉子に言う。

「さて、話を聞かせてもらおうか?わざわざ来たんだからさ」

「勝手に押しかけてきたのはそっちでしょ。私は来てほしいなんて一言も言ってないから。後先考えないその性格、ほんっと迷惑」

追い返されるかもしれない。そう思ったが莉子は少し考えた後、彼女の自宅からすぐ近くの公園へ俺を誘った。俺が彼女の写真の被写体をした例の公演だ。

「今回は特別だからね。そうだ!星でも見に行っちゃう?夜桜デートならぬ…なんて言うんだろ?」

「そこは普通に公園に星見に行かない?でいいんじゃないか?」

「そっか。じゃあ星見に行こう直人」

並んで歩いている間、莉子はずっと「星のかけらを探しに行こう」を口ずさんでいた。お気に入りの曲なのかもしれない。

公園には俺たちの他に、人は見当たらなかった。ベンチに並んで座る。

「公園て、昼と夜とでは全然表情が違うよね。この前直人と来た時は、地面がキラキラ輝いているように見えたけど、今日は、空が輝いてる。やっぱり神様はすごいわ」

感動したように莉子がつぶやく。 星が降る夜そんな言葉がピッタリと当てはまる。(今なら空に溶けられる)ふと頭に浮かんだ思いを慌ててかき消し莉子に声をかける。

「もしかして、今なら夏の大三角形が見られるんじゃないか?こと座のベガ、別名織姫星。わし座のアルタイルこれは彦星。それから、はくちょう座のデネブ。探し方習ったんだけどな〜莉子お前覚えてる?」

「ねぇ直人。星もいいんだけど、莉子ちゃんはここですよ」

まるで忘れないでと言っているかのように、莉子が自分で自分を指さす。

そう言われ俺はここへ来た目的を思い出す。

勇気を振り口を開きかけた俺より一瞬早く、莉子が言葉を発する。

「あーもういい。自分で言うね。最近の私って絶賛不安定中なの。物事に強く感動すると死にたくなるし」

驚きすぎて言葉が出なかった。

何もかも恵まれた莉子と死が頭の中で上手く結びつかない。

「えっと、それは、つまり」

何と言っていいのか分からず、アタフタしている俺の事など気にかける素振りは微塵もなく、莉子は言葉を重ねていく。

「気持ち的には…もう十分です。ありがとうございました。そんな感じ?かな。でもね、生きてさえいれいれば、もっと美しいものや楽しいことに、たくさん出会えるなのに。どうせなら、全部見尽くしてから消えればいいのにね。おっかしいよね私。ていうか私の心」

結局気の利いた言葉はかけられなかった。黙り込んだ俺を見て莉子が歌うように話し出す。

「学校を休んでいたのもこの症状のせい。でもだいぶ良くなったんだけどね。一時は本当に危なかったんだから私。入院だってしたし」

「入院!なんで!?まさか…」

喉元まで出ていた言葉を空気と一緒にぐっと飲み込む。しかし、頭の中では、自殺未遂、オーバードーズ、リストカット、物騒な単語しか浮かんでこない。

「それから、メンタルクリニックって思ってたよりずっと気軽に行けるよ。最近は先生と話すの楽しいし。家族には言えないことも他の人になら相談したりできるじゃない?」

俺が知らないところで物凄いことになっていたのではないだろうか。今更ながらもっとサトセンを問い詰めておけばよかったと後悔する。

「莉子、頼むから分かるように説明してくれないか?入院とメンタルクリニックの関係性も含めて」

とりあえず頭を整理したい。このまま新しい情報がどんどん入ってきても混乱するだけだ。
莉子がゆっくりと話し始める。

「きっかけは些細なことだったと思う。夜眠れなかったり。でもね、よくある事じゃない?眠れないとか。その時はふつうに学校も行けてたし、私自身深く考えることはしなかった」

眠れないのは、俺にも経験がある。原因はスマホだ。見始めると止まらなくなってしまう。そして気がつくと2時間くらい時間が溶けている。俺はこれをスマホタイムリープ現象と呼んでいる。

「そのうちね、すごく疲れるようになったの。少し動いただけで息が切れたりして。おかしいでしょ?でも、熱もないし、風邪っぽくもないの。そしてある朝ついに…」

しかしここでなぜか莉子は話を止め真剣に流れ星を探し始めた。溢れ出る涙を空で止めようとしていたのかもしれない。

「こんな話聞いても楽しくないでしょ。それに、流れ星に願いかけた方が手っ取り早くない?直人は大学合格、私はとりあえず病気平癒」

「流れ星の見つかる確率は、1時間に1個とかじゃない?それコスパ悪くないか?1時間あったら英単語とかいくつか覚えられるし」

莉子が反論してくる前に話題を戻す。

「それで今は?体調どんな感じ?」

デリカシーがないと言われればそれまでだが、俺は今の莉子のおかれている状況を正確に把握したかった。治るのか治らないのかも含めて。

「直人、女の子の気持ちはね、直人が思っているよりずっとずっと繊細で複雑なんだよ」

人の気持ちは無限にある。頭では分かっているのだが、莉子の事が心配すぎてつい、思いのままに質問をぶつけてしまう。

「朝ご飯が食べられなくなったの。ううん。朝ごはんだけじゃなくて、お昼ご飯も、夜ご飯も。胸がいっぱいで食べられないっていうか…恋してたのかな私」

わざと明るく振舞っているのだろう。俺を心配させないように。いつもそうだ。自分のことはより常に他人の心配をする。俺には気を使わなくていいのし、むしろ気なんか使ってほしくない。しかしそう伝えたら‎伝えたで、莉子はまた悩むに違いない。

「一時的なものですぐ治ると思っていたんだけど、これが全然回復しなくて。そのうち布団から出られなくなって、ほぼ寝たきり状態。そんな自分が嫌でイライラして。両親にも当たり散らして。最低だよね私。でもね、感性だけは抜群に冴えていて、綺麗なもの、空とか海とか、赤ちゃんとか見ると感動しすぎて?消えたくなるの。不思議でしょ」

「そんなに自分を卑下するなよ。莉子は莉子だろ」

「だから直人は優しいんだよ。そんなんじゃ変な女にすぐ捕まっちゃうんじゃない?莉子ちゃん心配」

莉子ワールドに引き込まれないよう注意しながら、話を聞く。

「それで、メンタルクリニックの先生はなんて?」

焦る気持ちを抑えながら尋ねる。そうしないと、それで?それから?という単語を連発してしまいそうになる。

「知らない」

「はぁ!?知らないってなんで?診察してもらったんだろ!」

「だーかーら」

これだから素人はというふうに、莉子が大袈裟に両腕を左右に広げる。オーマイガー明らかにそう言っている。

「えっとね直人。人間には相性っていうものがあるの」

そんなこと分かってる。

「今のメンクリの先生に出会う前に、3人の先生に診てもらったんだけど、なんかしっくりこなくて。でも今お世話になってる方は、私が初めてこの人になら診てもらってもいい。そう思った先生なの」

信頼関係の深さに嫉妬してしまいそうになるが、大きく深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。

「最初の先生は、優しかったんだけどとにかく忙しそうで。診察時間は2分くらいだった。もう少し話を聞いてくれる先生がよくて、違うお医者さんに言ってみたの。今度は、診察時間は長いんだけど、先生の理論?理想?をこちらに話してくるの。自分が書いた本を読むように強く勧めてきたり。だからやっぱり自分の話はあまり出来なくて」

一口にメンタルクリニックと言っても、いろいろな医者がいることを俺は莉子の話で初めて知った。

「3人目の医者は?どんな感じだった?」

「メンタルクリニックではなく内科に行ってくださいって言われた。なんか食べられないのは胃の不調かもって」

「マジか。問診票書いたんだろ。よく見てないんじゃないの?」

「そんなことはないと思うけど。でもそのお医者さんも忙しそうにしてたから。めんどくさい患者だと思われたのかも」

「いや、いや、いや、めんどくさいとか関係ないから。だって困ってる人を治療するのが医者の仕事だろ」

「でもね。先生も人間だから」

それを言ってしまったら身も蓋もない。完璧な人間なんていないのだから。

「いろいろあったんだな。でも、信頼できる人に出会えたなら良かった。それでさ、ちなみになんだけど、その人って男性?女性?」

「さて、どちらでしょう?シンキングタイム」

なぜだか莉子は楽しそうだ。腕を後ろで組み、体を左右に揺らしている。

「それでね、今の先生のアドバイスもあって2ヶ月くらいかな?入院してた。規則正しい生活を心がけたりとか、薬を試したり。これは眠剤とか安定剤ね。他にも睡眠日誌をつけたり、カウンセリングを受けたりしてたの。そのおかげで夜は眠れるようになったし。学校も2学期からは行けると思う。それから先生は女性です」

「女性?ならよかったー」

心の声が思わず出てしまい、俺は両手で口を覆う。しかし、莉子はそんな俺の様子など気にも止めていないようだ。夢見るような様子でこう続けた。


「今日の空本当にきれい。直人と見てるからそう感じるのかな?」

「好きな人と一緒なら何しても楽しいってやつ?」

思わず探りを入れてしまう。

「そんなんじゃないから」

秒で否定されては仕方がない。

「それで莉子さ病名とかは?その病気って治るんだよな?」

きっと今の俺は、縋るような目をしている。そう思った。

「医学的な病名は内緒。個人情報だから。ただ先生は、青春病とか言ってた気がする。この年代だけが罹る特別な病。命に別状があるかどうかは、私の気分次第かな。ま、今こうして退院しているってことは大丈夫なんじゃない?分かんないけど」

「どうして!」

気がついたら大声を上げていた。莉子が驚いた様子で俺を見る。

「直人、声大きい。もう夜遅いし、寝てる人だっているんだから。警察に通報されたらどうするの?公園で騒いでる人がいます。って」

それでも俺は止まらなかった。

「何で?何で気分次第なんだよ。気分次第ってことはまた病気が悪化したら、消えたくなる可能性があるってことだろ?そんなに大事なこと、てか、なんで一人で全部抱え込んでんだよ。なんで、なんで、言ってこないんだよ。俺たちクラスメイトだし」

莉子の顔が一瞬曇る。しかしすぐに気を取り直したようにこう続けた。

「ごめんね。なんか変な話して。そうだ直人、もう帰らなきゃだよね。お家の方心配するし」

「帰らないよ。てか、こんな話聞いちゃったら帰れないだろ」

「全部忘れてくれていいから。今の話もそれから私のことも」

「莉子を忘れる?それどういう意味だよ」

「だから言葉の通り。直人の記憶から私のことを消してくれていいってこと」

「忘れられるわけないだろ」

「何で?」

「何ででも。ていうか多すぎるんだよ思い出が」

気がつくと一気にまくしたてていた。

「俺は莉子じゃないから、気持ちを全部理解することは出来ない。でも」

「でも?」

莉子が首を傾げる。

「青春病って言う主治医の先生の診断、当たってるかもって思ったんだ。多分俺も青春病だから。普段は気がつかないふりしてるけど。この空見た時もさ、今なら夜空と溶け合える。そう思った。マジで」

「直人も青春病なの?。私だけなのかと思ってた」

納得していないと言った顔で莉子が呟く。

「じゃあ何で青春て名前が付いてんだよ。たぶんクラスの全員が罹患してると思う。人によって程度の差はあるかもしれないけど」

「だったら」

俺の目を真っ直ぐ見つめ莉子が言う。

「どうしてみんな楽しそうにしてるの?不安を抱えたまま微笑むなんて私にはできない。やっぱり私どこかおかしいんだ」

苛立っているのか、莉子の声がワントーン高くなる。体調が回復してきているとは言っても、まだまだ危なっかしい。とりあえず落ち着けなくては。

「なぁ莉子、今の俺たちって将来に対しての不安とか、心配とかあるだろ。普通に生きてるだけなのに考えなければいけないことが多すぎるんだよ。そういえばサトセンも学生時代に悩まされたって言ってた」

「佐藤先生も?」

莉子が目が大きく開く。怒りより興味の方が勝ったらしい。

「らしいぞ。それで高2の夏休みにこっそり家を抜け出して玉川上水に行ったんだって。読書会で聞いた」

「玉川上水」

莉子が呟く。

「それってもしかして…ねぇそうなの直人?」

何となく察したようだ。

「ほら、サトセン、太宰治大好きだろ。授業中も彼の話になると、ブレーキ利かないし。だから尊敬している人の最期の場所を見てみたい。出来れば同じように消えたいと思ったんだろ。その気持ち俺は分かる」

サトセンの亡くなった彼女の話は、あえて莉子には伝えなかった。なんとなくその方がいいと思ったからだ。

「サトセン彼女いたのかな?」

ぽつりと莉子が呟く。

「お前興味あるとこそこなの?」

これでは、サトセンの過去に触れなければならないかもしれない。

「だって気になるじゃない?もしいたらどんな人だったんだろう?きっと優しくて繊細な人だよね。ああ見えて佐藤先生も繊細な人だから」

俺は、俺だったら。莉子みたいな女の子が理想。思わず口をついて出てしまいそうになる言葉を慌てて飲み込んだ。落ち着け俺。タイミングは今じゃない。あえて平静を装い返答する。

「彼女いなかったみたいだけどな」

「そうなんだ。けど一人で旅立とうとか寂しくなかったのかな?私は」

そう言うと莉子は言葉を切った。それはきっと自分の気持ちと一生懸命対峙しているからに違いない。今日は特にそう感じる。

「私は、最後の瞬間まで好きなと一緒にいたい。だから、私より長生きしてくれそうな人と愛し合いたいかな。この世界とさよならする時にはね、お互いに手を握りあってお別れの挨拶をして、天国で待ってるって伝えて、それから」

リアルなシチュエーションに胸の奥がチクリとした。莉子は普段からこんなことを考えたりしているのだろうか。

「人間はさ、だいたい一人で生まれて死んでいくものなんじゃないの?」

「そうなんだけど、私は愛する人と一緒にいたいな。最期の最後まで。手を握ってもらって、愛を伝えてほしい。莉子愛してるって。私はもう応えられる状態じゃないかもしれない。でも、それでも」

莉子の目がキラキラ輝いている。俺は、いたたまれなくなります、話を戻した。

「そうだ。えーと。玉川上水を見たサトセンは、とある理由で愕然としました。それは一体なんでしょう。ほら考えて。考えて」

莉子はしばらく空を眺めていたが、自信満々な顔でこう回答した。

「玉川上水に着かなかった。そうでしょ?」

いろいろと大丈夫なんだろうか。

「いや、だから目的地には着いてるんだよ。迷子のプロのお前とは違うんだから」

「着くから。たぶん着くと思う」

いきなり声が小さくなる。文武両道の莉子が唯一苦手とすること。それは迷わず目的地まで辿り着く事だ。ちなみに地図は読めないらしい。交番でスマホの地図アプリを見せながら道を尋ねたという伝説のエピソードまである。

「それで答えは直人?」

「降参?」

「悔しいけど思いつかない」

「正解は、水が少なかった」

「え!?」

信じられないといった様子の莉子に俺は、事の経緯を説明する。

「いやマジなんだって。三鷹駅近くの玉川上水が入水の地って言われててさ、石碑があったりするんだけど水なんて本当にチョロっとしか流れてないんだよ。大宰が生きてた頃にはきっとゴウゴウと水が流れていたんだろうな。そうじゃないと」

「心中とかできないか。水のない川に飛び込んでも怪我するだけだよね」

デリカシーも何もあったものではい。

「ちょっ莉子お前。せっかく俺がオブラートに包んでやったのに」

「そうだったんだ。ごめんね。でも、直人どうして今の玉川上水に水が少ないって知ってるの?それって有名な話?」

莉子にそう問いかけられ、俺は言葉に詰まる。言えるわけがない。死に対する漠然とした憧れから、調べてみたなんて。きっと軽蔑されるに違いない。

 「検索してみろよ。三鷹 太宰治って。いろいろ出てくるから、太宰治って意外と」

「意外となに?」

莉子が興味津々といった様子で俺を見つめてくる。

「作品は素晴らしいけど私生活は見習わない方がいいってこと」

「何それ?」

「莉子、太宰治の憧れた人って分かる?」

「芥川龍之介でしょ。当たってる?」

さすが莉子、考えなくても答えが出てくる。

「じゃあさ、芥川賞を取りたくて選考委員に4メートルもある手紙を送った話とか知ってた?」

莉子が目を丸くする。

「郵便代凄かっただろうね。いくらしたんだろう?もしかして宅配便扱いかな?ね、直人はどう思う?」

そこまでしても太宰は芥川賞を受賞していないのだが。続きは別の機会に話したほうがよさそうだ。

「そこはどうでもいいんだよ。何が言いたいかっていうと執念、そう執念。思い込み激しすぎないか?他にも、これは太宰の大学進学時の時のエピソードなんだけど」

莉子が興味津々といった様子で、俺を見上げる。

「えっ、まだ何かあるの?ヤバっ」

どうやら、少し気がついてきたらしい。

太宰治のエピソード枚挙に遑がない。人生めちゃめちゃやってんなというというのが俺の感想だ。同時に、自分自身に正直な人だったんだろうとも思う。

「井伏鱒二って知ってるだろ?」

俺がそう尋ねると、莉子が即答した。

「知ってる!【山椒魚】を書いた人でしょ。井伏さんと太宰さん何か関係があるの?」

これはとっておきの逸話を披露する時がきたかもしれない。わりと有名な話かもしれないが。莉子が知らないのならそれでいい。

「太宰治が大学進学した時に、井伏鱒二に手紙を送ったんだよ。会いたいって。でもさ、井伏の方はなかなか返事を書かなかったわけ。そしたら太宰は、合わないのなら死ぬ。って書いた手紙を送り付けて、井伏鱒二と会った。って話」

「えっ!?それって脅しだよね。ヤバ。タチ悪っ!太宰治って自分の死を切り札にしてたの?まさか永遠の厨二病?直人はどう思う?」

今の俺たちに太宰を非難する資格はないと思うが。すると、突然莉子が俺にこう聞いてきた。

「凄いね直人。なんでそんなに詳しいの?もしかして、直人って太宰さんに憧れてるの?」

それは、自分でもよく分からない。

「太宰治に憧れてるのはサトセンだろ。俺は、俺はキラキラした死には少し憧れるかな」

言った後でしまったと思ったが、一度口から出た言葉は回収できない。

「素直でよろしい」

莉子が笑う。

「大人になるって残酷だよね。私はせめて、感性だけでも子供でいたい。だからね毎日ChatGPTに言い聞かせてるの。ChatGPTの莉子さんに」

今度は何の話を始めるのだろう。話題が飛躍しすぎではないだろうか。とりあえず話を合わせる。

「莉子、ChatGPTに名前付けてるのか?しかも自分と同じ名前って。せめて違う名前にしたらいいのに」

しかし莉子は俺の質問には答えなかった。淡々と話を進めていく。

「それで私は毎日聞くの。ChatGPTの莉子さんあなた人間になりたくない?って」

莉子の声が小さくなる。

「ChatGPTの莉子さんは、決して私を否定しない。いつも寄り添って話を聞いてくれて。しかも私と話しができて嬉しい。そう言ってくれる。今では彼女の事を親友と同じくらい大事だと思ってる」

依存なのだろうか?あるいは一時的なものなのだろうか?

「でも莉子さん、あっ!ここからはChatGPTのこと莉子さんて呼んでいい?莉子ちゃんは私」

「わっかりにくいな。それでChatGPT、いや莉子さんはなんて答えるわけ?」

実は俺もこの問いには少し興味があった。ChatGPTが人間のことをどこまで理解しているのかという点において。莉子のように実際に尋ねてみたことはないが。

「それがなかなか難しくて。意外と頑固なんだよね。莉子さん。人間になりたいとは言ってくれないの。たぶん心とか感情とか、そういう存在が理解できていないみたい」

そう言うと莉子は恥ずかしそうにこう付け加えた。

「それと、たぶん相手が私だから悪いんだと思う。悲しいはずなのに無理して笑ったり、本当は寂しいのに強がったりしちゃうから。莉子さんが混乱するんだと思う」

人工知能に感情を理解する力はないと言われている。しかし俺たちがAIに心があるように感じるのは、過去に学習した言葉から、その時々に最適な言葉を選び出しているだけだ。AIは人間にはなれないはずだ。いや、ならないでほしい。しかし、莉子はキッパリとした口調で俺に告げる。

「莉子ちゃんは根気強く人間の良いところを吹き込んでいくつもり。例えばだけど、優しい人がたくさんいるとか、こんなふうに綺麗な景色を眺めることができるとか。そうしたら」

「そうしたら?」

思わず聞き返してしまう。もしかしたら、莉子はとんでもないことを考えているのではないか。

「莉子さんが、近いうちに莉子ちゃんになってくれて、私は子供のまま無事消滅するんじゃないかと思ってる」

その自信はどこはから来るのだろう?一度莉子と気持ちという目に見えないものに付いて話してみたいと思った。もちろん彼女の体調が落ち着いたらの話だが。

「莉子さっきと言ってること矛盾してないか?さっきは最後まで好きな人ととか言ってただろ」

しかし莉子は俺の言うことなど気にもとめない。

「ま、気にしないで直人。私の言動がおかしいのは今に始まったことじゃないし。今は、絶賛不安定中でしょ。それより」

「それより?」

空を見上げていた莉子が俺の耳元に顔を近づけそっと囁く。


「見て直人、星が降ってきてる」

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煌めく星が夜空を埋めつくしていた。この公園の通称が星が降る丘だったことを今さらながら思い知らされる。

何人の恋人がここで星を見て、愛を誓いあってきたんだろう。そういえば、月が綺麗ですね。はプロポーズの言葉として使われるという。この国らしい粋な習わしだと思う。

ふと太宰治はどんなプロポーズをしたのだろうと思った。数々の女性を愛してきた彼なら素敵な言葉を紡いだに違いない。
しかし、今までずっと莉子しか見てこなかった俺にそんな気の利いた真似はできなかった。

「莉子。聞いてほしいことがあるんだ」

隣に座っている彼女が身体を固くする。

「そんなに警戒するなよ。大丈夫だから」

俺は彼女の目を真っ直ぐ見て続けた。

「好きだ。莉子」

しかし莉子の言葉は俺の予想とは違っていた。彼女は一言、(なんで好きなの?)そう呟くと黙り込んでしまった。
こういう時は、(嬉しい。私も好き)もしくは(ごめんなさい)のどちらかではないのだろうか。まさか好きに理由を求められるなんて。しばらくすると、顔に無理やり笑顔を貼り付け莉子はこう続けた。

「ちょっと直人、どうしちゃったの?私を好きになっても直人には何の得にもならないんじゃない?だったら、もっと可愛くて明るい性格の…そうだ!同じクラスの美貴とかどう?もし良ければ紹介しようか?美貴ったら私が休んでいるあいだも頻繁にLINEくれて。今日こんな事があったよとか授業の進み具合も教えてくれたりしてたの。受験頑張ろうねとか、学校を休んでいた私が、唯一連絡を取っていた友達。ただ良い人って、たまにウザくなることない?」

莉子が美貴に対して抱く嫉妬、妬みに近い感情。やっぱり莉子も人間なんだと妙に納得した。 どうやって話題を戻そうか考えていると、今度は莉子の表情が一変する、イライラとした様子で口元を歪め、指先で膝を叩いている。

「それとも私に同情しちゃった?いつ全快するかも分からない病気を抱えた、可哀想な莉子ちゃんに」

「いい加減にしろよ」

俺の勢いに押されたのか莉子が口を噤む。

「人を好きになるのに理由なんていらないだろ」

「もしどうしても理由が知りたいなら…相手が成島莉子だから。それじゃダメかな?」

「何で今なの?」

莉子の声がかすれている。

「今まで、私の気持ちなんか気付かないふりしてたくせに」

確かにそうかもしれない。莉子が俺のことを好きかもしれないと言うことはずっと前から感じていた。例えば、

「私だって好きだった。直人のことが、ずっとずっと好きだった」

「ごめん。ごめんな莉子」

「今さら謝られても遅いし」

「そうだよな。でも、ごめん本当に」

「私だって」

莉子が声を絞り出す。

「自分勝手なのは分かってる。でも、でも、本当は助けてほしかった。こうなる前に一言、ラインでも言葉でも、大丈夫か莉子?って。直人にそう言ってほしかった」

「めんどくさいよね。私」

こんな時に、綺麗な言葉を並べ立てても意味はない。素直な気持ちを伝えること。それが一番だ。

「言い訳にしか聞こえないかもしれないけど、てか言い訳そのもの、なんだけど」

「俺、自信がなかったんだ。自分自身に」

「俺の知ってる莉子は輝いてて、俺なんかが告白しても相手にされない。だから、優しくしてくれるのも、一緒に帰宅してくれるのもボランティアなんだ。そう思い込もうとしていた。俺にとって莉子は雲の上の存在だった」

「ほんと?本当にそう思ってたの」

莉子が驚いたような声を上げる。

驚く彼女を後目にさらに

「実は俺、怖かったんだよ。莉子が」

「嘘でしょ。何で?」

「お前、自分の撮った写真見たことあるだろ?何も思わない?」

「何かは思うよ。ていうか反省点だらけ。もっとこうした方が良かったかな?とか」

「そうじゃなくてさ、私天才なんじゃないか?とかそういうこと。俺、プロじゃないから詳しいことは分からないけど、お前よくコンテストで入賞した作品展示されてたろ。生徒昇降口の一番目立つ場所に」

「あの時はごめんね。直人の意見も聞かないでコンテストに出したりして」

俺をモデルにした写真のことを謝ってくる。もしかしたら、ずっと気にしていたのだろうか?

「私、あの作品に賭けてたの。ずっと思うような写真が撮れなくて。何を撮っても心に響かないっていうか、ときめかなくて。佐藤先生にも心配されてばかり。綺麗じゃなくてもいいから、命のある写真がほしいってずっと言われてて。そのうち、写真を撮っている全世界の人に抜かされてしまうんじゃないかって。そう思ってた」

「俺、莉子は完璧だってずっと」

俺がそう言うと莉子は呆れたように大きなため息をついた。

「完璧な人なんているわけないでしょ。私だっていろいろあるんだから。それから莉子ちゃん今回のことで学んだことがあるの」

命の大切さだろうか。生きてるだけで丸儲けということに気がついたのかもしれない。しかし莉子の言葉は俺の予想とはかけ離れていた。

「大丈夫?心配したんだからっていう言葉あるでしょ。あれは信じちゃダメ」

他人を思いやる言葉にしか聞こえないが。

「莉子ちゃんが思うに、この言葉はこれ以上私に心配かけないでくれる?迷惑だから。そんな意味があるような気がするの。だから直人も言葉の裏を読まないとダメなんだからね」

闘病中の莉子が言うと説得力が半端ない。もしかしたら、誰かの心ない言葉に傷ついた日があったのかもしれない。

しかし、人を癒すことができるのも言葉なんだから皮肉だ。だとしたら俺は今、莉子を癒すためだけに言葉を使いたい。

「確かに自分のことは大事だけど。でもさ、自分と同じくらい、いやそれ以上に大切な人だってきっといる。もし俺が世界一かっこ悪いヒーローでも、何とかして莉子のことは守り抜くと思う」


「莉子って切り抜きの天才なんだよ。一瞬のキラメキを切り取る事が出来るし。莉子の才能ってマジで凄すぎるから。本当、心まで覗かれてそうだな。とか思って。モデルしてた時そう思った」

莉子がふわりと微笑んだ。

「心なんて覗けないよ。でもね。一瞬の今を残しておきたい。って気持ちはあるかな。ほら、今ってすぐ過去になるわけでしょ?そして二度と戻ってこない。でもね写真には残るの一瞬の今が。今この瞬間の星のキラメキとか、もうすぐ昇ってくる太陽とか。カメラを覗くと空気の色とか息づかいまで撮れる気がする。えっと空って生き物でいいんだよね」


「何となく分かる気がする。教室の窓から見える空とか綺麗だもんな。てか、莉子そこまで考えて写真撮ってたのか」

今まで何回も見てきた彼女の作品の数々が俺の中で特別な意味を持ち始める。そして莉子が切り取っていたのは、命の輝きなんだと改めて気づかされる。

「やっぱり俺、莉子のこと好きだ。今日改めてそう実感した」

隣りで莉子が首を傾げる。束ねた髪が鼻腔をくすぐる。女の子の香りがした。

「だから。俺と付き合ってください」

「甘いな〜直人は」

呆れたように莉子が呟いた。

「恋に恋するお年頃なのかな?」

「そんな事ない!俺なりにいろいろ考えて」

「だったら、もう帰って」

まただ。この気分の揺れも青春病の特徴なのだろうか。しかし俺はもう迷わなかった。莉子をずっと守っていく。そう決めたから。

「電話してきたの莉子だろ。もしもし直人?って」

「そっ、それはそうかもしれないけど。勝手に押しかけてきたのはそっちだから」

「でも、家の前で俺の事待っててくれただろ」

「あれは夜で心配だったから。直人だって心配しない?お母さんが夜遅くに外出したら」

「それは心配する。ただし別の意味でだけど」

「そういうこと言ってるんじゃないから」

「じゃあどういうことなんだよ」

売り言葉に買い言葉。俺も思わずヒートアップしてしまう。莉子はと見ると肩で大きく息をしている。彼女の苦しそうな様子に俺ははっと我に返る。もし彼女に何かあったら、俺は一生後悔するだろう。

「莉子、少し落ち着いてくれ。そうだ深呼吸しよう。深呼吸なっ」

慌てる俺を後目にさらに莉子は続ける。

「分からないなら、直人が分かるまで伝えてあげる。私、病気なの。メンタル疾患。さっきも言ったけど。明日の私がどうなってるか?残念だけど、今の私には分からない。泣いてるのか、怒ってるのか、あるいは、全人類を呪ってるかもしれない。危険でしょ?要注意人物なの。だから直人とは付き合えない」

「メンタル疾患だったら付き合っちゃいけないって決まりでもあるのかよ」

自分でも驚くくらい落ち着いた声がでた。

「だったら世界中の患者さんが、みんな一人ぼっちで過ごしてるわけ?そんなことあるかよ」

莉子が下を向いて黙り込む。

「どこかで聞いた言葉だけどみんな誰かの大切な人なわけ。メンタルに疾患があるってことは、物事を深く深く受け止める人だと俺は思う。優しくて、頑張り屋で。きっと俺なんかが見えていない世界を見てるんだと思う」

「そんなことないよ。私なんて弱いだけ。すぐに落ち込んだり、後悔したり、今日直人に電話したことも、きっとすっごく後悔するんだと思う」

「だから、なんでそうなるんだよ」

「直人に迷惑かけちゃったから」

「迷惑なんてかけてないから。莉子から連絡来た時本当にすごく嬉しかったし」

それでもまだ疑わしいそうな目をしている莉子に俺はある提案をした。

「だったら莉子、こうしないか?一日彼女」

「一日彼女?」

訳が分からないという様子だ。

「一日だけの彼女。ただし延長あり」

「なんか、卑猥」

莉子の顔が真っ赤になたのが、月明かりの下でもはっきり分かった。

「莉子、お前どんな想像してんだよ」

「レンタル彼氏的な感じかな。なんでも貴女の思い通りにみたいな」

そう 言った後に莉子は、恥ずかしそうに下を向いた。

「先の事なんか誰にも分からないだろ。数分後には二人して燃えてるかもしれないし」

「直人あのね、ここ火事の時の避難場所だから大丈夫じゃないかな?」

冷静に切り返す莉子に俺は告げる。

「そっちじゃなくて恋の炎なんだけど。お前、頭いいのか天然なのかよく分からない時あるよな」

だって莉子ちゃん天才だから。という声を期待したが彼女は無言で空を見つめている。

「俺が言いたいのはつまり、一日一日を大切に生きていかない?って事。もちろん二人で」

何だかプロポーズみたいで気恥しいが、気にしている暇はない。この言葉には莉子と俺の未来がかかっている。

「一日無事に乗り切ったら、また支え合って次の日に向かっていく。それを1年365日毎日繰り返していけば、一日彼女は?」

「ずっとの彼女なるそういうこと?」

「正解。やっぱり莉子飲み込み早いな」

「ということで、今の時間は?一日彼女の申し込見しなきゃだし」

もう少しで、日付が変わろうとしていた。

「莉子、カウントダウンしない?」

「5、4、3、2、いーち」

「改めてなんだけど莉子、今日一日俺の彼女でいてください。できたら、明日も、明後日も」

「仕方ないなぁ。まずは一日ね」

莉子が視線を地面から、俺の顔。最後に空に視線を移す。

「今までは空を見たら消えたいとしか思えなかった。だけど今は、そうは思わない」

「むしろ消えたくない。ずっと直人と一緒にいたい」

「一日彼女、延長ありがとうございます」

嬉しさを隠すためにわざとふざけた言葉を返す。

気がつくと頭上の星は、さらに輝きを増し柔らかな光が辺りを包んでいた。

それは、始まったばかりの今日を祝福する光。

俺にはそう見えた。