灰が私の前から姿を消して、初めての夏を迎えた。
亡くなってからは二度目の夏。
あの頃苦しさを覚えていた雲ひとつない青空や肌が痛くなるほどの暑さを、私の身体は受け入れ始めている。
灰の死に、本当の意味で向き合い始められている。
去年の今頃、私たちはもう一度出会って、そしてもう一度恋に落ちた。
高校生活最後の青春を私は確かに灰と掴んで、そして離れることを選んだ。
あの日、灰から最期に告げられた言葉を私はうまく聞き取れなかった。なにかが私たちを引き裂く感覚に包まれて、灰の声が遠のいてしまったから。
それでもなんとなくわかる。最期に渡してくれた言葉はきっと、私への別れの言葉だ。好き、や、愛してる、なんて離れたくなさが積もっていくような言葉を灰が置いていくわけがない。
なんて言ったの? なんて答え合わせはできないから、私はただ恋人の勘に従おうと思っている。
それからの私は学校へ通えていなかった期間分の授業や試験を受けて単位を取り戻し、無事高校を卒業した後、大学へ進学するために上京した。
環境も、生活も、対人関係も、全てが変わった私の生活はとても忙しいけれど、それでも不意に灰に偶然再開した時の最初のセリフを考えてしまっている。
「やっぱり見ると思い出しちゃうなぁ——素敵な想い出だらけだからいいんだけど」
久しぶりの田舎の景色を、電車から眺めている。今年の夏は、私一人で。
ただでさえ乗客がほぼいない電車を指定席で予約して、去年の灰が座っていた座席を取った。
数センチ開けられた車窓の隙間から早朝の冷たい風が吹き込む。これから暑くなるよ、なんて予告を含んだ夏の朝の風。車輪に弾かれる草木や、遠くの方に見える水平線。私が揺られて眠っている間、この景色を灰も見ていたのかな——なんて、つい、感傷的になってしまう。
『ご乗車ありがとうございました——まもなく終点——落とし物、お忘れ物ございませんよう、ご注意ください——』
一度来たことのある場所への到着は、やっぱり少し早く感じる。
去年の記憶を頼りに、歩いてもほとんど景色が変わらない自然に溢れた田舎道を歩き進める。
ただの一本道なのに、抱えきれないほどの記憶が蘇ってくる。
私は方向音痴だけど、あの古民家までの道がわからないフリをしたことはもう時効だろうか。大好きな恋人との旅行先までの行き方を私が調べていないわけがないのに、灰は疑うことなく必死に探してくれた。お別れを前に、素敵なところをひとつ増やされてしまった。ああ、どうしても思い出しちゃう。
忘れようとしても、前を向こうとしても、綺麗な想い出は捨てきれない。いや、綺麗なだけじゃない、どんな瞬間も私は抱きしめ続けてしまう。私にとって灰との想い出は一種の呪いなのかもしれない。
「確か、ここの角を右なんだよね——ほら、ついた」
瓦屋根の平屋、外には灰と満月を見つめて話をした縁側、古風な雰囲気が漂っていて『みんぱく』と、可愛らしい子どもの字で書かれた看板が立っている。
去年より身軽になった鞄の中から一枚のチケットを取り出す。使うわけではない、ただ記載された一年前の日付を見て懐かしさに浸りたいだけ。
「おかえり」
木の引き戸を開けた先の玄関で変わらない笑顔の女将が待ってくれていた。
いらっしゃいませ、でも、お待ちしておりました、でもない。私と、そして灰を去年の夏から心の中で見守ってくれていた人からの言葉。
「ただいま、ありがとうございます」
「生田さん、そして東雲さん——」
「彼は、今は一緒にいないんです」
「え——それじゃあ、どこへ——」
「今は離れたところにいるんです。そうですね、強いていうなら——“どこか“が一番似合う言葉だと思います」
灰がいった場所を想像でもわかってしまったら、私はきっとそこへいきたくなってしまう。だから、知らないままでいる。
天国でも、地獄でもない。私がまだいったことのない“どこか“に灰はいる。
「それなら、今年の夏のお供は私でどうかしら? ちょうど他のお客様からの予約もなくてね。楽しませられる自信は十分にありますから!」
私の言葉を汲み取ってくれた後、女将はそう言って去年の部屋とはまた違う部屋の鍵を手渡してくれた。
ここの廊下で、灰は私に「自信家なところの方が素敵だと思う」と褒めてくれた。恥ずかしかったけど、嬉しかった。
思い出してしまう、そして私の頭に鮮明に灰の影が映っていく。
「灰、私、今度はここにおひとりさまで来ちゃったよ」
たまに思う。
あの時、灰ともう一度離れた選択は、私たちの結末は、正しかったのか、と。
今の私にはまだわからない。
一年後の夏も、十年後の夏も、わからない。
その答えがわかるのはきっと、私が死んだ後、こことは違う“どこか“で灰と出会えた時だから。
灰が言ってくれたように、私はきっと八十、いや、百歳まで生きる。この超がつくほどの健康体のまま生き切ってみせる。
灰が経験できなかったこと、全部知り尽くして次に会った時に教えてあげたい。
一生でできた友達の数、飲みやすいお酒のランキング、担任の先生が進路指導のたびに言っていた“社会“がどんな場所か、百年かかった人生の終わりなにを思って、誰を最初に思い浮かべたか、全部全部。
だからすごく時間はかかるだろうけど、私のことを待っていてほしい。
その頃には私はおばあちゃんになってるだろうから、見た目も声も今とは全然違くなってるかもね。それでもひとつ変わらないものを、私は灰に聞くでしょう。
天国でも、地獄でもない、もう一度出会ったあの日のような綺麗な場所で——。
——「私の名前、知ってる?」って。
部屋に入って、私は迷わず縁側へ向かった。
青すぎる空を見上げると、真昼の白い月が浮かんでいた。
欠けた輪郭、三日月だ。
もし叶うのならもう一度、何周期かかってもいい、今はかけているこの月が満ちる頃に、私の名前を呼んでほしい。
灰がいる“どこか“から月が視えるかはわからないけれど、二人の再会に月は必要だと思う。
そこでもう一度、灰の名前を呼びたい。
そして灰も、もう一度「瞳月」と呼びたいと願っていてくれたら嬉しい。
「灰のこと、大切に抱えながら、私は私の人生を生きていくね」
だからそれまで灰には、二人のことを、私のことを、名前を、離すことなく覚えていてほしい。
亡くなってからは二度目の夏。
あの頃苦しさを覚えていた雲ひとつない青空や肌が痛くなるほどの暑さを、私の身体は受け入れ始めている。
灰の死に、本当の意味で向き合い始められている。
去年の今頃、私たちはもう一度出会って、そしてもう一度恋に落ちた。
高校生活最後の青春を私は確かに灰と掴んで、そして離れることを選んだ。
あの日、灰から最期に告げられた言葉を私はうまく聞き取れなかった。なにかが私たちを引き裂く感覚に包まれて、灰の声が遠のいてしまったから。
それでもなんとなくわかる。最期に渡してくれた言葉はきっと、私への別れの言葉だ。好き、や、愛してる、なんて離れたくなさが積もっていくような言葉を灰が置いていくわけがない。
なんて言ったの? なんて答え合わせはできないから、私はただ恋人の勘に従おうと思っている。
それからの私は学校へ通えていなかった期間分の授業や試験を受けて単位を取り戻し、無事高校を卒業した後、大学へ進学するために上京した。
環境も、生活も、対人関係も、全てが変わった私の生活はとても忙しいけれど、それでも不意に灰に偶然再開した時の最初のセリフを考えてしまっている。
「やっぱり見ると思い出しちゃうなぁ——素敵な想い出だらけだからいいんだけど」
久しぶりの田舎の景色を、電車から眺めている。今年の夏は、私一人で。
ただでさえ乗客がほぼいない電車を指定席で予約して、去年の灰が座っていた座席を取った。
数センチ開けられた車窓の隙間から早朝の冷たい風が吹き込む。これから暑くなるよ、なんて予告を含んだ夏の朝の風。車輪に弾かれる草木や、遠くの方に見える水平線。私が揺られて眠っている間、この景色を灰も見ていたのかな——なんて、つい、感傷的になってしまう。
『ご乗車ありがとうございました——まもなく終点——落とし物、お忘れ物ございませんよう、ご注意ください——』
一度来たことのある場所への到着は、やっぱり少し早く感じる。
去年の記憶を頼りに、歩いてもほとんど景色が変わらない自然に溢れた田舎道を歩き進める。
ただの一本道なのに、抱えきれないほどの記憶が蘇ってくる。
私は方向音痴だけど、あの古民家までの道がわからないフリをしたことはもう時効だろうか。大好きな恋人との旅行先までの行き方を私が調べていないわけがないのに、灰は疑うことなく必死に探してくれた。お別れを前に、素敵なところをひとつ増やされてしまった。ああ、どうしても思い出しちゃう。
忘れようとしても、前を向こうとしても、綺麗な想い出は捨てきれない。いや、綺麗なだけじゃない、どんな瞬間も私は抱きしめ続けてしまう。私にとって灰との想い出は一種の呪いなのかもしれない。
「確か、ここの角を右なんだよね——ほら、ついた」
瓦屋根の平屋、外には灰と満月を見つめて話をした縁側、古風な雰囲気が漂っていて『みんぱく』と、可愛らしい子どもの字で書かれた看板が立っている。
去年より身軽になった鞄の中から一枚のチケットを取り出す。使うわけではない、ただ記載された一年前の日付を見て懐かしさに浸りたいだけ。
「おかえり」
木の引き戸を開けた先の玄関で変わらない笑顔の女将が待ってくれていた。
いらっしゃいませ、でも、お待ちしておりました、でもない。私と、そして灰を去年の夏から心の中で見守ってくれていた人からの言葉。
「ただいま、ありがとうございます」
「生田さん、そして東雲さん——」
「彼は、今は一緒にいないんです」
「え——それじゃあ、どこへ——」
「今は離れたところにいるんです。そうですね、強いていうなら——“どこか“が一番似合う言葉だと思います」
灰がいった場所を想像でもわかってしまったら、私はきっとそこへいきたくなってしまう。だから、知らないままでいる。
天国でも、地獄でもない。私がまだいったことのない“どこか“に灰はいる。
「それなら、今年の夏のお供は私でどうかしら? ちょうど他のお客様からの予約もなくてね。楽しませられる自信は十分にありますから!」
私の言葉を汲み取ってくれた後、女将はそう言って去年の部屋とはまた違う部屋の鍵を手渡してくれた。
ここの廊下で、灰は私に「自信家なところの方が素敵だと思う」と褒めてくれた。恥ずかしかったけど、嬉しかった。
思い出してしまう、そして私の頭に鮮明に灰の影が映っていく。
「灰、私、今度はここにおひとりさまで来ちゃったよ」
たまに思う。
あの時、灰ともう一度離れた選択は、私たちの結末は、正しかったのか、と。
今の私にはまだわからない。
一年後の夏も、十年後の夏も、わからない。
その答えがわかるのはきっと、私が死んだ後、こことは違う“どこか“で灰と出会えた時だから。
灰が言ってくれたように、私はきっと八十、いや、百歳まで生きる。この超がつくほどの健康体のまま生き切ってみせる。
灰が経験できなかったこと、全部知り尽くして次に会った時に教えてあげたい。
一生でできた友達の数、飲みやすいお酒のランキング、担任の先生が進路指導のたびに言っていた“社会“がどんな場所か、百年かかった人生の終わりなにを思って、誰を最初に思い浮かべたか、全部全部。
だからすごく時間はかかるだろうけど、私のことを待っていてほしい。
その頃には私はおばあちゃんになってるだろうから、見た目も声も今とは全然違くなってるかもね。それでもひとつ変わらないものを、私は灰に聞くでしょう。
天国でも、地獄でもない、もう一度出会ったあの日のような綺麗な場所で——。
——「私の名前、知ってる?」って。
部屋に入って、私は迷わず縁側へ向かった。
青すぎる空を見上げると、真昼の白い月が浮かんでいた。
欠けた輪郭、三日月だ。
もし叶うのならもう一度、何周期かかってもいい、今はかけているこの月が満ちる頃に、私の名前を呼んでほしい。
灰がいる“どこか“から月が視えるかはわからないけれど、二人の再会に月は必要だと思う。
そこでもう一度、灰の名前を呼びたい。
そして灰も、もう一度「瞳月」と呼びたいと願っていてくれたら嬉しい。
「灰のこと、大切に抱えながら、私は私の人生を生きていくね」
だからそれまで灰には、二人のことを、私のことを、名前を、離すことなく覚えていてほしい。