「お墓についてきて、ってどういう意味……? 確かに寝る前、明日の予定は起きてから決めようって言ったけど——でも、お墓って、そんな急にどうしたの——」
微かに開いていた目が、大きく、丸く開いて僕に方に向いている。
小さな手には力が入っていて、身体を覆っていた薄いタオルケットの裾をすがりつくように掴んでいる。
安らかな寝顔を、目覚めた時の柔らかな笑顔を、崩してしまったことへの悲しさが積もっていく。崩してしまったのは僕なのに。
二人で迎える初めての朝を、素敵なものにできなくてごめん。そんな身勝手な謝罪が頭を埋め尽くしていく。
でも僕は、この決断を曲げるわけにはいかない。だから——。
「そこでちゃんと、お別れしよう。恋人としてじゃなくて、一人の人間として」
そう、はっきり言い切ることしかできない。
瞳月は拒むように首を横に振りながら慌てて身体を起こした。
僕だって嫌だ。瞳月へ特別な感情を抱いてしまったんだ、お別れなんてしたくない。
寝起きで話すことじゃない、そんなことはわかっているし、申し訳ないとも思ってる。
でも今しかなかったんだ。
このまま一緒に笑い合う時間をでも過ごしてしまったら、少しでも“今が楽しい“と“一緒にいれる時間が幸せだ“と思ってしまったら、僕の決意は揺らいでしまう。そしてまた、消えきれずに終わってしまう。
「灰、なんかおかしいよ。嫌な夢でも見た? それとも——」
「僕の未練について、一晩ずっと考えてたんだ。眠れたなんて嘘ついてごめん、でも瞳月の隣で考えてみてわかったよ。僕が今なにをするべきか、答えがわかった気がしたんだ」
突然のことに瞳月はまだ信じきっていない様子のまま、僕の話を聴いてくれている。
頷きながら、否定しないように、それでも引き止めるような瞳を僕に向ける。
のどかな朝には似合わない緊張感が漂っている。
「どうしてわざわざお墓に行くの? これは私のわがままだけど、灰がいなくなること、実感しちゃって悲しいよ」
「きっとそう実感しないと、僕たちはいつまでも離れられないと思うから——だからお墓で、ちゃんと現実として受け入れたいって思ったんだ」
まだ離れなくていいじゃん、そう瞳月は力のない声で僕へこぼした後、俯いたまま固まってしまった。ちゃんと現実として受け入れたい、なんてあまりにも逃げ場がなさすぎることを言ってしまったことに少し反省する。
「瞳月、ごめ——」
「謝らないで——その代わり、ちょっと待ってね。私、ちゃんと灰が言ってくれたこと受け入れるから。受け入れられないまま行くなんて絶対に嫌だから」
珍しく瞳月の顔に笑顔がない。本心で笑っていないのは当然だけど誤魔化してすら笑わない。その姿に少し安心した。こんな時まで笑顔を張り付けられてしまったら、きっと苦しくて本当の笑顔すら純粋な心で受け取れなくなってしまう。
柱に吊るされている時計が数分遅れて進んでいることに今更気づく。それほど、僕たちは時間も気にせず二人の空間に浸っていた。その代償のように、今は最期までの時間に急かされている。
残りの命を気にして生きていた頃よりもずっと、苦しくて寂しい。
「灰」
落ち着いた声が響く、きっとそういうことだ。
言葉を発さないまま目を合わせる。ここで気の利いた言葉の一つも言えないのは、僕にもまだ怖さや名残惜しさがあるからだ。
「荷物まとめたら行こっか、だからそれまでは楽しい私たちのままでいたい」
そう言う瞳月の顔には緊張も恐怖もない、僕によく見せてくれる心からの笑いだけが浮かんでいた。
楽しいままで。確かに、二人にとって最後の記憶が楽しいものなら互いに後悔なく違う道へ行ける。まとめる荷物も少なく、僕たちは最後までの時間を引き延ばすように過剰に丁寧に布団を畳んだり、何度も忘れ物の確認をしたりした。そして名残惜しく扉を閉めて、受付口のある玄関へ向かった。
料金は先に瞳月が去年二人で集めていたものを支払ってくれていたらしく、チェックアウトの時は宿泊部屋の鍵をフックにかけるだけでいいと昨日説明を受けたのだが——。
「ちょっと待って! これ、渡しておこうと思うの——」
庭で作業をしていた女将から声がかかり引き止められた。日焼け防止のアームカバーをつけたまま駆けてくる様子から相当慌てているのが伝わる。
女将は上がった息を鎮めた後、ポケットから一枚のチケットを取り出し、それを瞳月へ手渡した。
「これ、よかったら来年の夏もまたここへ来てくれたら嬉しいなと思って——私ね、本当は子供がいたの、双子の娘と息子、ちょうど生田さんや東雲さんと同い年くらいのね」
「お子さんが——」
「でも息子は三歳の頃に川の事故、娘は五歳の頃に病気で亡くなちゃった。楽しい思い出のあとにこんな話してごめんなさいね、でも、どうしても瞳月さんの姿を見てると思い出しちゃったの——楽しそうに野菜を収穫する姿とか、縁側で二人でお話ししてる姿とかみてると「ああ、あの子たちももしかしたらこうやって笑ってる未来があったのかな」って、寂しくないのよ、ただ純粋に嬉しくなったの」
話を聞いて、ひらがなで書かれた看板と畑にあった文字のないイラストだけの目印が頭によぎった。ここを“宿泊施設“ではなく“実家“のように思えたのは、単なる演出や雰囲気によるものじゃなくて、女将の母親としての暖かさが詰まっていたからなのかもしれない。
僕の最後の思い出の場所が、ここになって本当によかった。
「生きてるって不思議で、でもそれが終わることってもっと不思議なの。悲しいし、寂しいし、受け入れたくないし——でもね、意味がないことじゃない。こうやって形として遺り続けて、初めて出会う人の生きた時間の思い出になっていくことだってある。だから生田さんも、そして東雲さんも、ちゃんと自分の道を歩んでそしてまたここに帰ってきてくれたら私は嬉しい」
生田さんも、東雲さんも、か。
昨日、ここを訪れた最初の瞳月の言葉をすぐに察して受け取ってくれた理由が、今になって分かった気がした。
瞳月の手が震えている、そして泣かないように必死に顔を上げている。
一枚のチケットを握っている親指の先が白くなっているのが見えた。
「大丈夫、私は二人に「おかえり」って言うためにここで待ってるから」
二人、という言葉に瞳月の手の震えが止まる。
「チケット、一枚——」
「二人は、必ず一緒にきてくれるって思ったから。だから勝手にだけど、一枚だけにしてみたの」
女将はそうお茶目に笑って見せた。そして——。
「引き止めちゃってごめんなさい! ここは田舎だから帰る電車、一本逃したら次に来るまで時間がかかっちゃうわね![#「!」は縦中横] 気をつけていってらっしゃい! 素敵な夏の思い出をありがとう!」
そう言って寂しさなんて一切ない表情で、僕たちを送り出した。
大丈夫よ、楽しんで。と、女将は瞳月の肩に手を置き励ますように力を込めて、そっと手を離した。
きっと僕の姿は視えていないけれど、その言葉は確かに僕たち二人に届けられているように感じた。
来年の僕は、どこから瞳月を見ているのだろう。まず、瞳月のことが見える場所にいられるだろうか。そんな不安を隠しながら、僕も瞳月に笑って見せた。
◇
「この電車、始発じゃないのに誰もいないね」
「本当だね、僕たちだけだ。駅までの道にも人は数えるほどしかいなかったし」
あんなに迷って探した駅から古民家までの道も、あっという間に通り過ぎて僕たちは帰りの電車に揺られている。
なんだか全てが終わりに向かうための手順のように思えて、寂しさが拭いきれない。瞳月の言う通り、最後の瞬間以外は心の底から楽しんでいたいのに。
「灰」
「どうしたの?」
「ううん、やっぱりなんでもない。ただ、灰がここにいるって実感したくて名前呼んじゃっただけ」
誤魔化されてしまった、目なんて合わせられない。
この距離で一緒にいられるのは、あと一時間と少ししかなくて、もう今後二人で電車に乗れることなんてないのに寂しさが僕と瞳月を邪魔してる。幸せなはずな今を見つめきれていない。
あれだけ元気を装える瞳月がそんな顔をしてしまうなら、もう今更なにも考えずに笑いあう会話なんて難しい。それなら、ちょっと深い話でもしてみよう。
突然なんの話? と思わせてしまうくら突拍子もない話題を投げ込んでみよう。
「瞳月」
「ん?」
「小説を書いてみたいって、人生で一度でも思ったことある?」
わかりやすく戸惑った表情が返ってきた。
この質問に深い意味はない。ただ旅が終わった今、父が言っていた“もし瞳月が小説を書いたら“の話を不意に思い出したのだ。
「小説、ずっと読んでばっかりだったからね——それに小説を書けるほどの語彙力も文章力も私にはないだろうし」
「そっか、まぁちょっと敷居高い感じあるよね。わかる」
「灰のお父さんは小説家だもんね、私も本当に最近知ったんだけどさ」
「えっ、ずっと前から知ってたんじゃないの? だってこの間お墓で会ったときにはすでに知ってたじゃん」
「あれはねぇ……私が海岸で灰に会った日、速達でファンレターを送ったの。そしたらちょうどお墓に着く数分前に灰のお父さんからメッセージが届いて、そこで知ったんだ。「二人で一緒にびっくりされると緊張するから、初めから知っていた設定にしてほしい」って言われて——だからあれは、ちょっと演技」
そう言うことだったのか、瞳月の立ち回りが完璧すぎて全く気づかなかった。
納得している僕にすかさず「なかなか自然な演技だったでしょ? どう? 主演女優賞とか受賞しちゃう?」と冗談を切り込む。僕はやっぱり、突然垣間見える瞳月の自信家なところも好きだ。
「でも私、灰のお父さんみたいに遭遇した奇跡を物語にして残したいってこの数日間で思ったよ」
瞳月、それはつまり——。
「いや、小説家になるとかは今のところ予定にないよ? なりかたも、書き方もわからないし——でも、忘れないでいたいんだ。私が忘れることはないだろうけど、私が死んだとき、私と灰が一緒に生きていたことをなかったことにはしたくない。変わらない形で、消えないもので残っていてくれたら嬉しいなって思うから」
瞳月らしい、優しくて綺麗な理由だ。
押し付けるようになってしまいそうで言葉にはできないけれど、僕は純粋に瞳月から見たこの数日間を綴った物語を読んでみたい。
どんな言葉で、表現で、文体で、紡がれていくのか僕の目で見てみたい。
瞳月から見た僕はどう映っているのか、言葉にできなかった心の奥底でなにを思っていたのか、そして最後にはどんな結末を作中の二人に与えるのか、それを物語として受け取ってみたい。
「灰は?」
「え?」
「灰は、小説書きたいなって思ったことある?」
僕から始めた話だけど、考えたこともなかった。
小説は、好きも嫌いもない僕にとって無関心なものの一つだったから。
でも、もし今、僕に原稿用紙が渡されたら、書き出しの四枚くらいはすぐに書けてしまうような気がする。
「考えたこともなかったけど、書きたいヒロイン像だけはパッと思いつくよ。それにすぐ書き起こせるような気がする」
興味深そうに頷いて、瞳月は僕へ続きを急かす。
「華奢で、髪は肩にかかるくらいの艶のある黒髪で、小さな顔にそれぞれのパーツが綺麗に収まっているんだ——とんでもなく綺麗で美人なんだけど、言動と寝顔はとっても可愛らしくてね。よく笑って、明るい子なのに繊細で、嘘が下手で、でもそこも可愛くて。出会って数日の異性を別れが惜しくなるくらい惚れさせちゃう、そんなヒロインを描こうと思ってるんだ」
もし僕が小説を書くとしたらね、と付け加えてみる。
途中から瞳月は僕が語るヒロイン像の正体を察したのか、頬を赤く染めた後、口元を嬉しそうに緩ませた。そういう細かに表情が変わる瞬間も、僕の言葉で描いてみたい。
そうだ、来世の夢は小説家にしよう。それか僕には老後というものがないから、その代わりに死後の趣味として小説を書いてもいいかもしれない。
「ねぇ、勘違いだったらすっごく恥ずかしいんだけど、そのヒロインって——」
「勘違いなんかじゃない、僕が描くヒロインのモデルは瞳月だよ」
いつかの機会に、僕が小説を書くとしたら間違いなくこの数日間を書き起こすだろう。そして父と同じように一つのフィクションとして、最愛の人との記憶を綴って残すんだ。
『ご乗車ありがとうございました——まもなく終点——落とし物、お忘れ物ございませんよう、ご注意ください——』
なんだかすごくロマンチックなことを考えている僕たちを、終点のアナウンスが現実へ引き戻す。瞳月は忘れ物の確認をしながら、僕からのヒロイン宣告に幸せに満ちた顔をしている。口角が上がっているせいで頬が可愛らしく丸くなっている、幸せに満ちた丸い頬——瞳月の顔に二つ満月がある、本人に言ったら怒られてしまいそうだけど。
最後までそんなことを考えながら電車を降りて、旅が始まった駅へ足を着けた。
この駅から少し歩けば、僕の墓に着く。
お別れに、確実に近づいているのがわかる。
◇
山道を辿っている、二人の間の空気は少しだけ重い。
初めてこの道を二人で歩いた時は途方もなく感じていたのに、今はもう、あとどれくらいで着いてしまうかまでわかってしまう。
今はちょうど、父が最後に僕を視たベンチを通り過ぎた。
「もうすぐ着いちゃうね」
「だね、何回もここに来てる私が選び抜いた最高に遠回りな道なのに——どうしてこんなに、早く着いちゃうんだろうねぇ」
だらしなく語尾を伸ばしてくれているのに、全然空気の重さは変わらない。それどころか余計に寂しさへ意識が向いてしまっている。
そっか、何回も来てくれていたんだ。僕が死んで家から出られなくなって、死のうとして、辛かっただろうにそれでも僕のところには来てくれていたのか——そう思うとより、僕はなにも言えなくなってしまう。
「離ればなれになんてなりたくないなぁ、私も隣にお墓建てちゃおっかなぁ……。それでその中に住んで、いつでも会いに行けるようにしちゃおうかな!」
「それ、瞳月が言うと本当にしそうで怖いから冗談でも言わないで?」
「恋人のための行動力がある彼女なんて最高じゃん! まぁ、しないから安心してよ。言ったでしょ? 私、灰が悲しむようなことをしたくないから踏みとどまったって」
安心感のある言葉の後には「心配性だねぇ、私のこと好きすぎるねぇ」と瞳月らしいからかいが添えられた。
景色が開けてきた、陽の光が眩しすぎる。あと少しまっすぐ進んで、そして曲がれば僕が帰るべき場所に着く。
瞳月の足が進むのがやけに遅い、わざとらしく迷うそぶりをしている。そして時々僕の顔色を伺うように「ちょっと待ってね」と、呟いてくる。そして——。
「いやぁ私、お葬式にすら行けない弱虫だからさ。だからちょっと今、お墓に着くの嫌だなって思っちゃってる」
それでいいよ、その方が僕も安心する。足早にたどり着かれてしまったら、なんとも言えない気持ちになってしまうだろうし。
「それに私、お墓についてもきっと時間取らせちゃう。私はなかなか灰を離そうとしないからね」
「いいと思うよ、恋人なんだし」
「そう言ってくれてよかった。でももしそれが鬱陶しくなったら私のこと振り払ってね。灰が私のこと嫌いになる前に。ほら、弱虫だから振り払ったらすぐ落ちちゃいそうだし!」
なかなか上手いことを言ったと思っているのか、寂しくも少し自慢げな表情を僕に見せてくる。瞳月が本当に想像しているような小さくて弱い虫なら、振り払っても気づかれないように服の隙間に引っ付いていそう、なんてくだらないことを考えてみる。
そうならそうでいてほしいなと、名残惜しくなってしまった。
だめだ、やっぱり急ごう。僕の覚悟が揺らいでしまう——。
「ここ、曲がるね。ついちゃうけど、私の中での覚悟は一旦決まったから」
頷いて、言葉を返すこともなく僕は角を曲がる瞳月の一歩後ろについていく。
思い出す。瞳月の恋人の話を他人事として聞いていた時のことと、僕と同じ苗字が刻まれた墓石を目の前にした瞬間の衝撃。
あの時、確かに僕は怖かったし、信じられなかった。だから嘘であってくれと瞳月からのドッキリであることを期待したけど、僕は最初から、瞳月のことを疑ってなんかいなかった。僕には記憶すらなかったけど、それは今思うと恋人だった、愛し合っていた名残なのかもしれない。そんなことを今になって気づく。海岸で出会った瞳月と会話を続けたことも、翌日の口約束を守ったことも、今なら瞳月との全ての偶然を運命と思えてしまう。
「ついちゃったね、早かったなぁ」
僕の墓石の前で、瞳月は立ち尽くしてそう言った。
もともと華奢な背中がより小さく、弱々しく見えた。笑顔に力なんてなくて、口角は下げらないことに必死だった。
なにか、少しでも笑わせられることを言いたい。そんなことを考えている間に瞳月の表情に光が戻った、そして——。
「綺麗にするよ! これから灰が住む場所、まぁそんなに目立った汚れはないけど——気持ち的にも綺麗な方がいいでしょ?」
時間を取らせちゃう、と言っていたのはこのことか。
一泊分にしては大きいと思っていた瞳月の鞄からタオルと折りたたみ式のほうきが取り出された。
「ほら! 最後の共同作業だよ?」
最後か、最期か。
そのどちらにも結びつかないほど眩しい笑顔で、瞳月は僕にタオルを手渡した。
僕の家から少し遠かったことと、なにより僕が母の死を実感したくなかったことから僕自身、瞳月に連れられるまでここを訪れたことはなかった。なんとなく、場所を知っているだけだった。
初めて墓石に触れる、なんだか不思議な感じがした。そして慣れた様子で掃除を進めていく瞳月の姿を見て複雑な気持ちになる。その手に迷いはないけれど、一つ一つの動作は過剰にゆっくりで、時々手を止めたりしている。
瞳月が一人でここを訪れてくれていた時も、こんな感じだったのかな。
「辛くなったらいいからね、僕はそんなに綺麗好きじゃないし」
「知ってる、だって灰の学校の机の中いつも散らかってたもん」
「そんなに登校できてなかったし、いつ行けなくなっても困らないように教科書は持ち帰ってたから散らかってはないはずだけど——それにいくら恋人だったとしても机の中を覗くのはあんまりじゃない?」
「散らかってたんだよ、授業中に二人で回しあってた手紙、ノートの切れ端でね」
青春要素の強いエピソードだ。
でもそれすら、どこか切なく感じてしまう。
恋人と授業中に手紙を回していた、それで机が散らかっている。そんな可愛らしいだけの話なのに、その片方はすでに死んでいて、記憶もない。
サイダーの話だって、屋上で観た瞳月の話だってそうだ。僕たちの記憶にはいつでも切なさが付きまとってくる。瞳月の笑顔や口調が振り払ってくれているはずなのに。 僕が死んでいるだけで、僕たちの楽しかった過去が変わるわけじゃないのに。
「その手紙、今、どこにある?」
「私の部屋の小さい引き出しの一つにしまってあるよ。大切な思い出だもん」
その言葉に、なんだか安心した。
僕との記憶が瞳月にとって触れることすら辛い過去じゃなくて、思い出になってくれていてよかった。
そうして、僕たちの最後の共同作業は終わった。
あとは僕が、帰るべき場所へ帰るだけ——。
「灰、ごめん、やっぱりいっちゃだめ」
もうなにを言われても、僕は最期を受け入れたつもりだった。
そんな僕へ、瞳月の声だけが刺さる。
不思議だ、あれだけ固まっていた覚悟が一瞬にして崩れてしまう気がした。
「未練を晴らせないなら、ずっとここにいればいいのに——灰だって、死にたくないでしょ? いや、消えたくない、か。周りの人から視えなくたって、私は視えるから。私はずっと好きでいるし、実体があってもなくても灰が灰であることに変わりはないでしょ?」
瞳月の言う通り。僕の未練探しには期限なんてない。
だからずっとここにい続けることだってできる、瞳月の隣にだっていられるし、それこそ瞳月の命が尽きるまで隣にいて笑い合っていることだって——。でも、それじゃだめなんだ。だってそれは——。
「瞳月の人生を僕が邪魔することになっちゃう。離れたくない気持ちも寂しさもわかる、でも、違くて。それじゃあきっと、瞳月の人生に未練が残る」
僕の言葉を聞き終わる前に、瞳月は「違うよ、それは灰が間違ってる」と呟きながら首を横に振った。
「僕だって、叶うことなら離れたくない。それに僕のいない一年間も僕のことを想い続けてくれていた瞳月となら何十年でも一緒に笑っていられると思ってる」
「それならそれでいいじゃん、私の人生とか、邪魔するとか、そんな卑屈になる必要ないよ」
「違う、卑屈なんかじゃない。瞳月は僕と一緒にいればいるだけ、なにかを失っていくんだよ」
「失ったものなんてない……それでもあるって言い張るなら、灰が亡くなってから私が失ったもの、なにか一つでも言ってみて——」
「去年の夏、始業式が始まってから立ち直るまでの時間。その間の授業内容、友達との時間。これから先の話をするなら——実体のない僕との関係は恋人から先には進めない、夫婦にもなれない、瞳月が僕の恋人でいる間は子どもだって生まれない——」
「それでもいい、それでもいいよ。私は、結婚とか子供とか、そんなこと考えてない。灰とできる限りのことをできるならそれでいい、それがいい」
「それがだめなんだ。僕は十八歳、瞳月は今が十八歳なだけできっと八十歳、いや百歳まで生きられちゃうかもね。長くて、いくらでも幸せな人生にできる。でも瞳月は僕といると幸せの選択肢が少なくなる」
「幸せの選択肢? そんなの要らない、欲張らないよ。一緒にいられればそれだけで幸せ、そのためならなにかを諦めたっていい」
「そんなの、瞳月が本当の意味で幸せになれなくなる——」
「私には、残り時間がある。なにをしたら、誰の隣にいれば幸せになれるか知ってる。それなのにそれを手放して幸せになろうとしないのは人生の無駄遣いだよ——私は大切な恋人を亡ってる、どれだけ命が恋しいかわかってる。だから、そんな命に失礼なことはしたくない」
出かかった言葉が寸前で止まった、と言うよりその揺るがない瞳に止められた。
離れたくない瞳月と、離れなければいけない僕。奥底にある願いは同じなのに、僕が死んでいるという事実に引き裂かれてしまう。もう一度出会えた偶然の運命とは違う、今の僕たちの間にある運命は残酷すぎる。
「ごめん、私はただ、離れたくないだけなんだ——」
僕の言葉を拒み続けて、瞳月らしくない捲し立ての後に聞こえたのは、そんな力のない言葉と声だった。
離れたくないなんてそんなこと、言われなくてもわかってる。
僕だって、できることなら離れたくない。
瞳月が必死に涙を堪えてくれていることも、頭では僕の言葉を受け入れなければいけないとわかっていることも、その一瞬の表情の違いで痛いほど感じとれてしまう。
「僕の話、聴いてほしい」
どれだけ説明したって、心から納得して送り出してもらうなんてことはきっと無理だ。恋人が目の前からいなくなることを引き止めるなんて普通のことだし、僕だって瞳月がいなくなってしまうその場にいたら送り出すことなんてできない。
だから納得も、理解もしなくていい、ただ一度話を聴いてほしい。
最後の最期に言い合った後、しかたなく終わりを迎えるなんて嫌だ。
そんな辛いだけなら、僕がもう一度瞳月の前に現れた意味がない。
「昨日の夜に思い出したんだ。直接的に瞳月のことじゃないんだけど、僕が最後に、意識がなくなる寸前に後悔したこと」
「後悔……もう少し長く生きていたかった、とか、そういうこと……?」
「違うよ」
「お父さんとか、お母さんへのこと?」
「それも違う」
「もっといろんな場所に行って楽しい人生にしたかったとかそういう——」
「ううん、それも、違うよ」
「じゃあ、なに?」
「僕の大切な人に、一緒に生きて一緒に死にたい、って言っちゃったこと」
僕の言葉に、瞳月はなにかを言いかけた。
数ミリ唇が動いて、そのまま止まって。俯いた後、崩れ落ちるようにしゃがんで、少しして立ち上がっても僕の顔を見てくれることはなかった。
「付き合って二年の記念日に、僕が瞳月に言ったこと。瞳月に向けた言葉だって記憶はなくて、ただうっすら、僕が伝えそびれたこととして記憶に残ってて——」
「違うよ、それは、未練なんかじゃない」
「え」
「だってそれは、灰が死んじゃうかもしれないって怖がってた私を想って言ってくれたことだから」
僕がどんな気持ちで、想いで、その言葉を瞳月へ向けたのか、記憶がないのが悔しい。
それは泣いている瞳月からしたら、慰めのように受け取れるのかもしれないけど、きっと僕はそんな綺麗な理由でその言葉を口にしたわけじゃない。安心させたいとか、笑ってほしいとか、そんな理由だったらきっと、もっと違う、こんな身勝手な言葉を選んでいるわけがない。だから——。
「ごめん瞳月。それは、きっと違うんだ」
「違うって、なにが?」
「その言葉はきっと、僕自身を安心させるための、僕自身を守るための言葉だったんだと思う」
「灰はそんな身勝手な人じゃないよ」
「僕には言った当時の記憶がないけど、でもわかる。だって今の僕が、昨日の夜に同じことを思ったから——瞳月が眠った後、離れたくない、できるならこれからも一緒に生きて一緒に死ねたらいいのにって」
「どうしてそんな大事なこと、一人で考えてたの? 起こしてでも言ってくれたらよかったのに——」
「言ったら傷つけるって、わかったから。これからも生きていく瞳月に、一緒に死ねたらいいのになんて言っていいわけがないんだよ」
言い返す言葉が見つからない、瞳月はそんな表情をしている。
それに、僕がこの言葉を未練だと言い切るにはもうひとつ理由がある。
「僕は、生きていた頃、確かに瞳月のことが好きだったんだと思う」
「どうしたの、急に——」
「海岸で声をかけられた時、まだ瞳月がどんな人かもわからなかったけど、単純に、可愛い人だなって思った」
「それは、私も単純に嬉しいよ」
「その時の僕はまだ命が残ってるって思ってた、そんな時に瞳月に出会って、僕は直感で短い人生の最後に関わる人としてこの人はいいかもしれないって思えた。口調とか雰囲気とか、すごく曖昧だけど瞳月がそう思わせてくれた」
つい三日前のことなのに、溢れてしまうくらいの景色が僕の頭に流れていく。
私の名前、知ってる? なんて尋ねながら僕の顔を覗き込む瞳月の表情、強引に交わされた翌日の約束、名前を教えようと砂浜に書いてくれた字、バス停からの傾斜を駆け降りて僕の名前を叫んだ声。
きっとその逆視点の景色が、瞳月の頭には流れている。俯いたまま、表情は見えないけど、今なら気持ちが、少しだけわかる気がする。
「人の死後に興味があるなんて変わってるって思った、けど、小説の聖地になった海は綺麗だったし、最初は戸惑ったけど、あの結婚式場に瞳月と一緒にいけてよかったと思ってる。僕が死んでるって、教えてくれたことも——」
「やめて。こんなことがあったね、って言葉にされたら私は余計に灰から離れたくなくなっちゃう」
瞳月の言葉に、今度は僕が言い返す言葉を無くした。
ただ二人の間に沈黙が生まれる、必要な無言だと思う。それに今の言葉からわかる、瞳月はちゃんと僕が離れていくことへの覚悟を固めている。受け入れたくないことを、受け止めようとしてくれている。そういうところも好きだったんだろうなと実感する。僕の持病の告白を受け入れた時もこうだったのかな、と。
今になって、生きていたことの僕が瞳月を好きになった理由が痛いくらいわかった。
瞳月は、たった三日間隣にいただけの僕でもわかってしまうほど素敵な人だ。
そんな瞳月には、その素敵さに似合う生き方をしてほしい。
塞ぎ込んでしまう気持ちもわかるけど、できるなら一緒に笑える友達を作って高校生活を楽しみ尽くしてほしい。瞳月は一緒にいる人を楽しませる特性があって、何より笑顔が可愛い。大人になって、僕の知らないことをたくさん経験してほしい。お酒の味も、帰りのバスの時間に縛られない開放感も、全て感じてほしい。新しく好きな人を見つけたら、その人と恋人になってほしい。瞳月が幸せに生きてくれるなら、僕は心からそれを幸せと思える、未来の恋人に嫉妬なんてしない——きっと。
そして、いつか寿命を迎えて、いい人生だった、なんて最後まで笑って眠りについてほしい。
「瞳月」
今更、僕が思っていることを改めて伝えるなんてことはしない。
きっと話せば話すだけ別れが惜しくなって、これからを生きていく瞳月を苦しめてしまう。それに、僕にはわかる。瞳月はもう、僕との別れを受け止める準備ができている。
「あの時、瞳月を置いて、先に死んじゃってごめん」
「灰——」
「そして今も、何度も別れを感じさせてごめん」
「ほんとだよ、私、灰のせいで泣いてばっかりになっちゃう」
瞳月の瞳から涙が溢れていく、頬を伝って、左手の甲に落ちる。
拭う素振りはない、まっすぐ僕を見つめたまま言葉を返していく。
最後の瞬間を、一瞬も逃さないと言われているようで妙な緊張感と寂しさが入り混じる。
「だから、僕が死んだから証明できた事実で、そのうちのひとつでも許してほしい」
「死んだから証明できたこと……?」
「僕は、記憶から綺麗に抜き取られてしまうくらい——いや、きっとそれ以上に、瞳月のことを愛してた」
「そんなの、灰が生きてる間にもたくさん伝えてもらったよ。好き、とか、そういう言葉で——」
「それともうひとつ」
「え——」
「記憶もないし、死んじゃってるけど、僕は確かに、また瞳月を好きになったよ」
それが、僕の人生最後の愛の告白だった。
ロマンチックだね、と瞳月は笑って受け取ってくれた。病魔も愛の伝え方も、僕の人生を締めくくるものは全て母譲りのものだった、なんて最期らしいことを思ったりする。
そして最後に、これを言ったらきっと僕は瞳月の前から消えてしまうけど——。
「これから僕と瞳月は隣で生きられない。それはすごく寂しくて悲しいことだけど、僕は瞳月に今を生きてほしいんだ。明日もし瞳月が死んでも、なにひとつ未練が残らないような今を過ごしてほしい」
「そんなこと——灰に言われたら守るしかないじゃん」
「ここまで一緒に生きた分、これからは瞳月の人生を命が尽きるまで生き切ってほしい」
そう告げた瞬間、瞳月から遠のいていくような感覚に包まれた。
僕の身体が誰かに操られているような、意識から引き剥がされてしまうような感覚。
捉えることすら難しい速さで意識と身体が蝕まれていく、これがきっと本当に消える瞬間の感覚なのかもしれない——僕は、最後に渡す言葉を選ぶ。
ありがとう。
好き。
愛してる。
生きて。
どれも違う——瞳月が僕との日々を忘れることはできないだろう、でも、だからこそ、瞳月から僕の存在を断ち切れるような一言を——。
「瞳月」
「灰」
「最後に、聴いて——僕との全てを終わらせてほしい」
「灰——」
瞳月がなにかを言いかけて、やめた。
きっと、もう時間がないことを察したのだと思う。
ただ僕からの言葉を待っている。
ああ、本当に僕は消えてしまうんだ。
これからはその震えた手を握れないどころか、僕は瞳月の視界にすら入れない。
声だって聞こえない。
どれだけ楽しい時間を過ごしても、それ以上に悲しませて、寂しい思いをさせてしまって本当にごめん。でも、もう、僕が隣にいられる時間は終わらせないといけない。
だからこれは、僕との別れを受け入れるための言葉として——。
最期に、最愛の人へ。
瞳月——。
——「サヨナラ」
微かに開いていた目が、大きく、丸く開いて僕に方に向いている。
小さな手には力が入っていて、身体を覆っていた薄いタオルケットの裾をすがりつくように掴んでいる。
安らかな寝顔を、目覚めた時の柔らかな笑顔を、崩してしまったことへの悲しさが積もっていく。崩してしまったのは僕なのに。
二人で迎える初めての朝を、素敵なものにできなくてごめん。そんな身勝手な謝罪が頭を埋め尽くしていく。
でも僕は、この決断を曲げるわけにはいかない。だから——。
「そこでちゃんと、お別れしよう。恋人としてじゃなくて、一人の人間として」
そう、はっきり言い切ることしかできない。
瞳月は拒むように首を横に振りながら慌てて身体を起こした。
僕だって嫌だ。瞳月へ特別な感情を抱いてしまったんだ、お別れなんてしたくない。
寝起きで話すことじゃない、そんなことはわかっているし、申し訳ないとも思ってる。
でも今しかなかったんだ。
このまま一緒に笑い合う時間をでも過ごしてしまったら、少しでも“今が楽しい“と“一緒にいれる時間が幸せだ“と思ってしまったら、僕の決意は揺らいでしまう。そしてまた、消えきれずに終わってしまう。
「灰、なんかおかしいよ。嫌な夢でも見た? それとも——」
「僕の未練について、一晩ずっと考えてたんだ。眠れたなんて嘘ついてごめん、でも瞳月の隣で考えてみてわかったよ。僕が今なにをするべきか、答えがわかった気がしたんだ」
突然のことに瞳月はまだ信じきっていない様子のまま、僕の話を聴いてくれている。
頷きながら、否定しないように、それでも引き止めるような瞳を僕に向ける。
のどかな朝には似合わない緊張感が漂っている。
「どうしてわざわざお墓に行くの? これは私のわがままだけど、灰がいなくなること、実感しちゃって悲しいよ」
「きっとそう実感しないと、僕たちはいつまでも離れられないと思うから——だからお墓で、ちゃんと現実として受け入れたいって思ったんだ」
まだ離れなくていいじゃん、そう瞳月は力のない声で僕へこぼした後、俯いたまま固まってしまった。ちゃんと現実として受け入れたい、なんてあまりにも逃げ場がなさすぎることを言ってしまったことに少し反省する。
「瞳月、ごめ——」
「謝らないで——その代わり、ちょっと待ってね。私、ちゃんと灰が言ってくれたこと受け入れるから。受け入れられないまま行くなんて絶対に嫌だから」
珍しく瞳月の顔に笑顔がない。本心で笑っていないのは当然だけど誤魔化してすら笑わない。その姿に少し安心した。こんな時まで笑顔を張り付けられてしまったら、きっと苦しくて本当の笑顔すら純粋な心で受け取れなくなってしまう。
柱に吊るされている時計が数分遅れて進んでいることに今更気づく。それほど、僕たちは時間も気にせず二人の空間に浸っていた。その代償のように、今は最期までの時間に急かされている。
残りの命を気にして生きていた頃よりもずっと、苦しくて寂しい。
「灰」
落ち着いた声が響く、きっとそういうことだ。
言葉を発さないまま目を合わせる。ここで気の利いた言葉の一つも言えないのは、僕にもまだ怖さや名残惜しさがあるからだ。
「荷物まとめたら行こっか、だからそれまでは楽しい私たちのままでいたい」
そう言う瞳月の顔には緊張も恐怖もない、僕によく見せてくれる心からの笑いだけが浮かんでいた。
楽しいままで。確かに、二人にとって最後の記憶が楽しいものなら互いに後悔なく違う道へ行ける。まとめる荷物も少なく、僕たちは最後までの時間を引き延ばすように過剰に丁寧に布団を畳んだり、何度も忘れ物の確認をしたりした。そして名残惜しく扉を閉めて、受付口のある玄関へ向かった。
料金は先に瞳月が去年二人で集めていたものを支払ってくれていたらしく、チェックアウトの時は宿泊部屋の鍵をフックにかけるだけでいいと昨日説明を受けたのだが——。
「ちょっと待って! これ、渡しておこうと思うの——」
庭で作業をしていた女将から声がかかり引き止められた。日焼け防止のアームカバーをつけたまま駆けてくる様子から相当慌てているのが伝わる。
女将は上がった息を鎮めた後、ポケットから一枚のチケットを取り出し、それを瞳月へ手渡した。
「これ、よかったら来年の夏もまたここへ来てくれたら嬉しいなと思って——私ね、本当は子供がいたの、双子の娘と息子、ちょうど生田さんや東雲さんと同い年くらいのね」
「お子さんが——」
「でも息子は三歳の頃に川の事故、娘は五歳の頃に病気で亡くなちゃった。楽しい思い出のあとにこんな話してごめんなさいね、でも、どうしても瞳月さんの姿を見てると思い出しちゃったの——楽しそうに野菜を収穫する姿とか、縁側で二人でお話ししてる姿とかみてると「ああ、あの子たちももしかしたらこうやって笑ってる未来があったのかな」って、寂しくないのよ、ただ純粋に嬉しくなったの」
話を聞いて、ひらがなで書かれた看板と畑にあった文字のないイラストだけの目印が頭によぎった。ここを“宿泊施設“ではなく“実家“のように思えたのは、単なる演出や雰囲気によるものじゃなくて、女将の母親としての暖かさが詰まっていたからなのかもしれない。
僕の最後の思い出の場所が、ここになって本当によかった。
「生きてるって不思議で、でもそれが終わることってもっと不思議なの。悲しいし、寂しいし、受け入れたくないし——でもね、意味がないことじゃない。こうやって形として遺り続けて、初めて出会う人の生きた時間の思い出になっていくことだってある。だから生田さんも、そして東雲さんも、ちゃんと自分の道を歩んでそしてまたここに帰ってきてくれたら私は嬉しい」
生田さんも、東雲さんも、か。
昨日、ここを訪れた最初の瞳月の言葉をすぐに察して受け取ってくれた理由が、今になって分かった気がした。
瞳月の手が震えている、そして泣かないように必死に顔を上げている。
一枚のチケットを握っている親指の先が白くなっているのが見えた。
「大丈夫、私は二人に「おかえり」って言うためにここで待ってるから」
二人、という言葉に瞳月の手の震えが止まる。
「チケット、一枚——」
「二人は、必ず一緒にきてくれるって思ったから。だから勝手にだけど、一枚だけにしてみたの」
女将はそうお茶目に笑って見せた。そして——。
「引き止めちゃってごめんなさい! ここは田舎だから帰る電車、一本逃したら次に来るまで時間がかかっちゃうわね![#「!」は縦中横] 気をつけていってらっしゃい! 素敵な夏の思い出をありがとう!」
そう言って寂しさなんて一切ない表情で、僕たちを送り出した。
大丈夫よ、楽しんで。と、女将は瞳月の肩に手を置き励ますように力を込めて、そっと手を離した。
きっと僕の姿は視えていないけれど、その言葉は確かに僕たち二人に届けられているように感じた。
来年の僕は、どこから瞳月を見ているのだろう。まず、瞳月のことが見える場所にいられるだろうか。そんな不安を隠しながら、僕も瞳月に笑って見せた。
◇
「この電車、始発じゃないのに誰もいないね」
「本当だね、僕たちだけだ。駅までの道にも人は数えるほどしかいなかったし」
あんなに迷って探した駅から古民家までの道も、あっという間に通り過ぎて僕たちは帰りの電車に揺られている。
なんだか全てが終わりに向かうための手順のように思えて、寂しさが拭いきれない。瞳月の言う通り、最後の瞬間以外は心の底から楽しんでいたいのに。
「灰」
「どうしたの?」
「ううん、やっぱりなんでもない。ただ、灰がここにいるって実感したくて名前呼んじゃっただけ」
誤魔化されてしまった、目なんて合わせられない。
この距離で一緒にいられるのは、あと一時間と少ししかなくて、もう今後二人で電車に乗れることなんてないのに寂しさが僕と瞳月を邪魔してる。幸せなはずな今を見つめきれていない。
あれだけ元気を装える瞳月がそんな顔をしてしまうなら、もう今更なにも考えずに笑いあう会話なんて難しい。それなら、ちょっと深い話でもしてみよう。
突然なんの話? と思わせてしまうくら突拍子もない話題を投げ込んでみよう。
「瞳月」
「ん?」
「小説を書いてみたいって、人生で一度でも思ったことある?」
わかりやすく戸惑った表情が返ってきた。
この質問に深い意味はない。ただ旅が終わった今、父が言っていた“もし瞳月が小説を書いたら“の話を不意に思い出したのだ。
「小説、ずっと読んでばっかりだったからね——それに小説を書けるほどの語彙力も文章力も私にはないだろうし」
「そっか、まぁちょっと敷居高い感じあるよね。わかる」
「灰のお父さんは小説家だもんね、私も本当に最近知ったんだけどさ」
「えっ、ずっと前から知ってたんじゃないの? だってこの間お墓で会ったときにはすでに知ってたじゃん」
「あれはねぇ……私が海岸で灰に会った日、速達でファンレターを送ったの。そしたらちょうどお墓に着く数分前に灰のお父さんからメッセージが届いて、そこで知ったんだ。「二人で一緒にびっくりされると緊張するから、初めから知っていた設定にしてほしい」って言われて——だからあれは、ちょっと演技」
そう言うことだったのか、瞳月の立ち回りが完璧すぎて全く気づかなかった。
納得している僕にすかさず「なかなか自然な演技だったでしょ? どう? 主演女優賞とか受賞しちゃう?」と冗談を切り込む。僕はやっぱり、突然垣間見える瞳月の自信家なところも好きだ。
「でも私、灰のお父さんみたいに遭遇した奇跡を物語にして残したいってこの数日間で思ったよ」
瞳月、それはつまり——。
「いや、小説家になるとかは今のところ予定にないよ? なりかたも、書き方もわからないし——でも、忘れないでいたいんだ。私が忘れることはないだろうけど、私が死んだとき、私と灰が一緒に生きていたことをなかったことにはしたくない。変わらない形で、消えないもので残っていてくれたら嬉しいなって思うから」
瞳月らしい、優しくて綺麗な理由だ。
押し付けるようになってしまいそうで言葉にはできないけれど、僕は純粋に瞳月から見たこの数日間を綴った物語を読んでみたい。
どんな言葉で、表現で、文体で、紡がれていくのか僕の目で見てみたい。
瞳月から見た僕はどう映っているのか、言葉にできなかった心の奥底でなにを思っていたのか、そして最後にはどんな結末を作中の二人に与えるのか、それを物語として受け取ってみたい。
「灰は?」
「え?」
「灰は、小説書きたいなって思ったことある?」
僕から始めた話だけど、考えたこともなかった。
小説は、好きも嫌いもない僕にとって無関心なものの一つだったから。
でも、もし今、僕に原稿用紙が渡されたら、書き出しの四枚くらいはすぐに書けてしまうような気がする。
「考えたこともなかったけど、書きたいヒロイン像だけはパッと思いつくよ。それにすぐ書き起こせるような気がする」
興味深そうに頷いて、瞳月は僕へ続きを急かす。
「華奢で、髪は肩にかかるくらいの艶のある黒髪で、小さな顔にそれぞれのパーツが綺麗に収まっているんだ——とんでもなく綺麗で美人なんだけど、言動と寝顔はとっても可愛らしくてね。よく笑って、明るい子なのに繊細で、嘘が下手で、でもそこも可愛くて。出会って数日の異性を別れが惜しくなるくらい惚れさせちゃう、そんなヒロインを描こうと思ってるんだ」
もし僕が小説を書くとしたらね、と付け加えてみる。
途中から瞳月は僕が語るヒロイン像の正体を察したのか、頬を赤く染めた後、口元を嬉しそうに緩ませた。そういう細かに表情が変わる瞬間も、僕の言葉で描いてみたい。
そうだ、来世の夢は小説家にしよう。それか僕には老後というものがないから、その代わりに死後の趣味として小説を書いてもいいかもしれない。
「ねぇ、勘違いだったらすっごく恥ずかしいんだけど、そのヒロインって——」
「勘違いなんかじゃない、僕が描くヒロインのモデルは瞳月だよ」
いつかの機会に、僕が小説を書くとしたら間違いなくこの数日間を書き起こすだろう。そして父と同じように一つのフィクションとして、最愛の人との記憶を綴って残すんだ。
『ご乗車ありがとうございました——まもなく終点——落とし物、お忘れ物ございませんよう、ご注意ください——』
なんだかすごくロマンチックなことを考えている僕たちを、終点のアナウンスが現実へ引き戻す。瞳月は忘れ物の確認をしながら、僕からのヒロイン宣告に幸せに満ちた顔をしている。口角が上がっているせいで頬が可愛らしく丸くなっている、幸せに満ちた丸い頬——瞳月の顔に二つ満月がある、本人に言ったら怒られてしまいそうだけど。
最後までそんなことを考えながら電車を降りて、旅が始まった駅へ足を着けた。
この駅から少し歩けば、僕の墓に着く。
お別れに、確実に近づいているのがわかる。
◇
山道を辿っている、二人の間の空気は少しだけ重い。
初めてこの道を二人で歩いた時は途方もなく感じていたのに、今はもう、あとどれくらいで着いてしまうかまでわかってしまう。
今はちょうど、父が最後に僕を視たベンチを通り過ぎた。
「もうすぐ着いちゃうね」
「だね、何回もここに来てる私が選び抜いた最高に遠回りな道なのに——どうしてこんなに、早く着いちゃうんだろうねぇ」
だらしなく語尾を伸ばしてくれているのに、全然空気の重さは変わらない。それどころか余計に寂しさへ意識が向いてしまっている。
そっか、何回も来てくれていたんだ。僕が死んで家から出られなくなって、死のうとして、辛かっただろうにそれでも僕のところには来てくれていたのか——そう思うとより、僕はなにも言えなくなってしまう。
「離ればなれになんてなりたくないなぁ、私も隣にお墓建てちゃおっかなぁ……。それでその中に住んで、いつでも会いに行けるようにしちゃおうかな!」
「それ、瞳月が言うと本当にしそうで怖いから冗談でも言わないで?」
「恋人のための行動力がある彼女なんて最高じゃん! まぁ、しないから安心してよ。言ったでしょ? 私、灰が悲しむようなことをしたくないから踏みとどまったって」
安心感のある言葉の後には「心配性だねぇ、私のこと好きすぎるねぇ」と瞳月らしいからかいが添えられた。
景色が開けてきた、陽の光が眩しすぎる。あと少しまっすぐ進んで、そして曲がれば僕が帰るべき場所に着く。
瞳月の足が進むのがやけに遅い、わざとらしく迷うそぶりをしている。そして時々僕の顔色を伺うように「ちょっと待ってね」と、呟いてくる。そして——。
「いやぁ私、お葬式にすら行けない弱虫だからさ。だからちょっと今、お墓に着くの嫌だなって思っちゃってる」
それでいいよ、その方が僕も安心する。足早にたどり着かれてしまったら、なんとも言えない気持ちになってしまうだろうし。
「それに私、お墓についてもきっと時間取らせちゃう。私はなかなか灰を離そうとしないからね」
「いいと思うよ、恋人なんだし」
「そう言ってくれてよかった。でももしそれが鬱陶しくなったら私のこと振り払ってね。灰が私のこと嫌いになる前に。ほら、弱虫だから振り払ったらすぐ落ちちゃいそうだし!」
なかなか上手いことを言ったと思っているのか、寂しくも少し自慢げな表情を僕に見せてくる。瞳月が本当に想像しているような小さくて弱い虫なら、振り払っても気づかれないように服の隙間に引っ付いていそう、なんてくだらないことを考えてみる。
そうならそうでいてほしいなと、名残惜しくなってしまった。
だめだ、やっぱり急ごう。僕の覚悟が揺らいでしまう——。
「ここ、曲がるね。ついちゃうけど、私の中での覚悟は一旦決まったから」
頷いて、言葉を返すこともなく僕は角を曲がる瞳月の一歩後ろについていく。
思い出す。瞳月の恋人の話を他人事として聞いていた時のことと、僕と同じ苗字が刻まれた墓石を目の前にした瞬間の衝撃。
あの時、確かに僕は怖かったし、信じられなかった。だから嘘であってくれと瞳月からのドッキリであることを期待したけど、僕は最初から、瞳月のことを疑ってなんかいなかった。僕には記憶すらなかったけど、それは今思うと恋人だった、愛し合っていた名残なのかもしれない。そんなことを今になって気づく。海岸で出会った瞳月と会話を続けたことも、翌日の口約束を守ったことも、今なら瞳月との全ての偶然を運命と思えてしまう。
「ついちゃったね、早かったなぁ」
僕の墓石の前で、瞳月は立ち尽くしてそう言った。
もともと華奢な背中がより小さく、弱々しく見えた。笑顔に力なんてなくて、口角は下げらないことに必死だった。
なにか、少しでも笑わせられることを言いたい。そんなことを考えている間に瞳月の表情に光が戻った、そして——。
「綺麗にするよ! これから灰が住む場所、まぁそんなに目立った汚れはないけど——気持ち的にも綺麗な方がいいでしょ?」
時間を取らせちゃう、と言っていたのはこのことか。
一泊分にしては大きいと思っていた瞳月の鞄からタオルと折りたたみ式のほうきが取り出された。
「ほら! 最後の共同作業だよ?」
最後か、最期か。
そのどちらにも結びつかないほど眩しい笑顔で、瞳月は僕にタオルを手渡した。
僕の家から少し遠かったことと、なにより僕が母の死を実感したくなかったことから僕自身、瞳月に連れられるまでここを訪れたことはなかった。なんとなく、場所を知っているだけだった。
初めて墓石に触れる、なんだか不思議な感じがした。そして慣れた様子で掃除を進めていく瞳月の姿を見て複雑な気持ちになる。その手に迷いはないけれど、一つ一つの動作は過剰にゆっくりで、時々手を止めたりしている。
瞳月が一人でここを訪れてくれていた時も、こんな感じだったのかな。
「辛くなったらいいからね、僕はそんなに綺麗好きじゃないし」
「知ってる、だって灰の学校の机の中いつも散らかってたもん」
「そんなに登校できてなかったし、いつ行けなくなっても困らないように教科書は持ち帰ってたから散らかってはないはずだけど——それにいくら恋人だったとしても机の中を覗くのはあんまりじゃない?」
「散らかってたんだよ、授業中に二人で回しあってた手紙、ノートの切れ端でね」
青春要素の強いエピソードだ。
でもそれすら、どこか切なく感じてしまう。
恋人と授業中に手紙を回していた、それで机が散らかっている。そんな可愛らしいだけの話なのに、その片方はすでに死んでいて、記憶もない。
サイダーの話だって、屋上で観た瞳月の話だってそうだ。僕たちの記憶にはいつでも切なさが付きまとってくる。瞳月の笑顔や口調が振り払ってくれているはずなのに。 僕が死んでいるだけで、僕たちの楽しかった過去が変わるわけじゃないのに。
「その手紙、今、どこにある?」
「私の部屋の小さい引き出しの一つにしまってあるよ。大切な思い出だもん」
その言葉に、なんだか安心した。
僕との記憶が瞳月にとって触れることすら辛い過去じゃなくて、思い出になってくれていてよかった。
そうして、僕たちの最後の共同作業は終わった。
あとは僕が、帰るべき場所へ帰るだけ——。
「灰、ごめん、やっぱりいっちゃだめ」
もうなにを言われても、僕は最期を受け入れたつもりだった。
そんな僕へ、瞳月の声だけが刺さる。
不思議だ、あれだけ固まっていた覚悟が一瞬にして崩れてしまう気がした。
「未練を晴らせないなら、ずっとここにいればいいのに——灰だって、死にたくないでしょ? いや、消えたくない、か。周りの人から視えなくたって、私は視えるから。私はずっと好きでいるし、実体があってもなくても灰が灰であることに変わりはないでしょ?」
瞳月の言う通り。僕の未練探しには期限なんてない。
だからずっとここにい続けることだってできる、瞳月の隣にだっていられるし、それこそ瞳月の命が尽きるまで隣にいて笑い合っていることだって——。でも、それじゃだめなんだ。だってそれは——。
「瞳月の人生を僕が邪魔することになっちゃう。離れたくない気持ちも寂しさもわかる、でも、違くて。それじゃあきっと、瞳月の人生に未練が残る」
僕の言葉を聞き終わる前に、瞳月は「違うよ、それは灰が間違ってる」と呟きながら首を横に振った。
「僕だって、叶うことなら離れたくない。それに僕のいない一年間も僕のことを想い続けてくれていた瞳月となら何十年でも一緒に笑っていられると思ってる」
「それならそれでいいじゃん、私の人生とか、邪魔するとか、そんな卑屈になる必要ないよ」
「違う、卑屈なんかじゃない。瞳月は僕と一緒にいればいるだけ、なにかを失っていくんだよ」
「失ったものなんてない……それでもあるって言い張るなら、灰が亡くなってから私が失ったもの、なにか一つでも言ってみて——」
「去年の夏、始業式が始まってから立ち直るまでの時間。その間の授業内容、友達との時間。これから先の話をするなら——実体のない僕との関係は恋人から先には進めない、夫婦にもなれない、瞳月が僕の恋人でいる間は子どもだって生まれない——」
「それでもいい、それでもいいよ。私は、結婚とか子供とか、そんなこと考えてない。灰とできる限りのことをできるならそれでいい、それがいい」
「それがだめなんだ。僕は十八歳、瞳月は今が十八歳なだけできっと八十歳、いや百歳まで生きられちゃうかもね。長くて、いくらでも幸せな人生にできる。でも瞳月は僕といると幸せの選択肢が少なくなる」
「幸せの選択肢? そんなの要らない、欲張らないよ。一緒にいられればそれだけで幸せ、そのためならなにかを諦めたっていい」
「そんなの、瞳月が本当の意味で幸せになれなくなる——」
「私には、残り時間がある。なにをしたら、誰の隣にいれば幸せになれるか知ってる。それなのにそれを手放して幸せになろうとしないのは人生の無駄遣いだよ——私は大切な恋人を亡ってる、どれだけ命が恋しいかわかってる。だから、そんな命に失礼なことはしたくない」
出かかった言葉が寸前で止まった、と言うよりその揺るがない瞳に止められた。
離れたくない瞳月と、離れなければいけない僕。奥底にある願いは同じなのに、僕が死んでいるという事実に引き裂かれてしまう。もう一度出会えた偶然の運命とは違う、今の僕たちの間にある運命は残酷すぎる。
「ごめん、私はただ、離れたくないだけなんだ——」
僕の言葉を拒み続けて、瞳月らしくない捲し立ての後に聞こえたのは、そんな力のない言葉と声だった。
離れたくないなんてそんなこと、言われなくてもわかってる。
僕だって、できることなら離れたくない。
瞳月が必死に涙を堪えてくれていることも、頭では僕の言葉を受け入れなければいけないとわかっていることも、その一瞬の表情の違いで痛いほど感じとれてしまう。
「僕の話、聴いてほしい」
どれだけ説明したって、心から納得して送り出してもらうなんてことはきっと無理だ。恋人が目の前からいなくなることを引き止めるなんて普通のことだし、僕だって瞳月がいなくなってしまうその場にいたら送り出すことなんてできない。
だから納得も、理解もしなくていい、ただ一度話を聴いてほしい。
最後の最期に言い合った後、しかたなく終わりを迎えるなんて嫌だ。
そんな辛いだけなら、僕がもう一度瞳月の前に現れた意味がない。
「昨日の夜に思い出したんだ。直接的に瞳月のことじゃないんだけど、僕が最後に、意識がなくなる寸前に後悔したこと」
「後悔……もう少し長く生きていたかった、とか、そういうこと……?」
「違うよ」
「お父さんとか、お母さんへのこと?」
「それも違う」
「もっといろんな場所に行って楽しい人生にしたかったとかそういう——」
「ううん、それも、違うよ」
「じゃあ、なに?」
「僕の大切な人に、一緒に生きて一緒に死にたい、って言っちゃったこと」
僕の言葉に、瞳月はなにかを言いかけた。
数ミリ唇が動いて、そのまま止まって。俯いた後、崩れ落ちるようにしゃがんで、少しして立ち上がっても僕の顔を見てくれることはなかった。
「付き合って二年の記念日に、僕が瞳月に言ったこと。瞳月に向けた言葉だって記憶はなくて、ただうっすら、僕が伝えそびれたこととして記憶に残ってて——」
「違うよ、それは、未練なんかじゃない」
「え」
「だってそれは、灰が死んじゃうかもしれないって怖がってた私を想って言ってくれたことだから」
僕がどんな気持ちで、想いで、その言葉を瞳月へ向けたのか、記憶がないのが悔しい。
それは泣いている瞳月からしたら、慰めのように受け取れるのかもしれないけど、きっと僕はそんな綺麗な理由でその言葉を口にしたわけじゃない。安心させたいとか、笑ってほしいとか、そんな理由だったらきっと、もっと違う、こんな身勝手な言葉を選んでいるわけがない。だから——。
「ごめん瞳月。それは、きっと違うんだ」
「違うって、なにが?」
「その言葉はきっと、僕自身を安心させるための、僕自身を守るための言葉だったんだと思う」
「灰はそんな身勝手な人じゃないよ」
「僕には言った当時の記憶がないけど、でもわかる。だって今の僕が、昨日の夜に同じことを思ったから——瞳月が眠った後、離れたくない、できるならこれからも一緒に生きて一緒に死ねたらいいのにって」
「どうしてそんな大事なこと、一人で考えてたの? 起こしてでも言ってくれたらよかったのに——」
「言ったら傷つけるって、わかったから。これからも生きていく瞳月に、一緒に死ねたらいいのになんて言っていいわけがないんだよ」
言い返す言葉が見つからない、瞳月はそんな表情をしている。
それに、僕がこの言葉を未練だと言い切るにはもうひとつ理由がある。
「僕は、生きていた頃、確かに瞳月のことが好きだったんだと思う」
「どうしたの、急に——」
「海岸で声をかけられた時、まだ瞳月がどんな人かもわからなかったけど、単純に、可愛い人だなって思った」
「それは、私も単純に嬉しいよ」
「その時の僕はまだ命が残ってるって思ってた、そんな時に瞳月に出会って、僕は直感で短い人生の最後に関わる人としてこの人はいいかもしれないって思えた。口調とか雰囲気とか、すごく曖昧だけど瞳月がそう思わせてくれた」
つい三日前のことなのに、溢れてしまうくらいの景色が僕の頭に流れていく。
私の名前、知ってる? なんて尋ねながら僕の顔を覗き込む瞳月の表情、強引に交わされた翌日の約束、名前を教えようと砂浜に書いてくれた字、バス停からの傾斜を駆け降りて僕の名前を叫んだ声。
きっとその逆視点の景色が、瞳月の頭には流れている。俯いたまま、表情は見えないけど、今なら気持ちが、少しだけわかる気がする。
「人の死後に興味があるなんて変わってるって思った、けど、小説の聖地になった海は綺麗だったし、最初は戸惑ったけど、あの結婚式場に瞳月と一緒にいけてよかったと思ってる。僕が死んでるって、教えてくれたことも——」
「やめて。こんなことがあったね、って言葉にされたら私は余計に灰から離れたくなくなっちゃう」
瞳月の言葉に、今度は僕が言い返す言葉を無くした。
ただ二人の間に沈黙が生まれる、必要な無言だと思う。それに今の言葉からわかる、瞳月はちゃんと僕が離れていくことへの覚悟を固めている。受け入れたくないことを、受け止めようとしてくれている。そういうところも好きだったんだろうなと実感する。僕の持病の告白を受け入れた時もこうだったのかな、と。
今になって、生きていたことの僕が瞳月を好きになった理由が痛いくらいわかった。
瞳月は、たった三日間隣にいただけの僕でもわかってしまうほど素敵な人だ。
そんな瞳月には、その素敵さに似合う生き方をしてほしい。
塞ぎ込んでしまう気持ちもわかるけど、できるなら一緒に笑える友達を作って高校生活を楽しみ尽くしてほしい。瞳月は一緒にいる人を楽しませる特性があって、何より笑顔が可愛い。大人になって、僕の知らないことをたくさん経験してほしい。お酒の味も、帰りのバスの時間に縛られない開放感も、全て感じてほしい。新しく好きな人を見つけたら、その人と恋人になってほしい。瞳月が幸せに生きてくれるなら、僕は心からそれを幸せと思える、未来の恋人に嫉妬なんてしない——きっと。
そして、いつか寿命を迎えて、いい人生だった、なんて最後まで笑って眠りについてほしい。
「瞳月」
今更、僕が思っていることを改めて伝えるなんてことはしない。
きっと話せば話すだけ別れが惜しくなって、これからを生きていく瞳月を苦しめてしまう。それに、僕にはわかる。瞳月はもう、僕との別れを受け止める準備ができている。
「あの時、瞳月を置いて、先に死んじゃってごめん」
「灰——」
「そして今も、何度も別れを感じさせてごめん」
「ほんとだよ、私、灰のせいで泣いてばっかりになっちゃう」
瞳月の瞳から涙が溢れていく、頬を伝って、左手の甲に落ちる。
拭う素振りはない、まっすぐ僕を見つめたまま言葉を返していく。
最後の瞬間を、一瞬も逃さないと言われているようで妙な緊張感と寂しさが入り混じる。
「だから、僕が死んだから証明できた事実で、そのうちのひとつでも許してほしい」
「死んだから証明できたこと……?」
「僕は、記憶から綺麗に抜き取られてしまうくらい——いや、きっとそれ以上に、瞳月のことを愛してた」
「そんなの、灰が生きてる間にもたくさん伝えてもらったよ。好き、とか、そういう言葉で——」
「それともうひとつ」
「え——」
「記憶もないし、死んじゃってるけど、僕は確かに、また瞳月を好きになったよ」
それが、僕の人生最後の愛の告白だった。
ロマンチックだね、と瞳月は笑って受け取ってくれた。病魔も愛の伝え方も、僕の人生を締めくくるものは全て母譲りのものだった、なんて最期らしいことを思ったりする。
そして最後に、これを言ったらきっと僕は瞳月の前から消えてしまうけど——。
「これから僕と瞳月は隣で生きられない。それはすごく寂しくて悲しいことだけど、僕は瞳月に今を生きてほしいんだ。明日もし瞳月が死んでも、なにひとつ未練が残らないような今を過ごしてほしい」
「そんなこと——灰に言われたら守るしかないじゃん」
「ここまで一緒に生きた分、これからは瞳月の人生を命が尽きるまで生き切ってほしい」
そう告げた瞬間、瞳月から遠のいていくような感覚に包まれた。
僕の身体が誰かに操られているような、意識から引き剥がされてしまうような感覚。
捉えることすら難しい速さで意識と身体が蝕まれていく、これがきっと本当に消える瞬間の感覚なのかもしれない——僕は、最後に渡す言葉を選ぶ。
ありがとう。
好き。
愛してる。
生きて。
どれも違う——瞳月が僕との日々を忘れることはできないだろう、でも、だからこそ、瞳月から僕の存在を断ち切れるような一言を——。
「瞳月」
「灰」
「最後に、聴いて——僕との全てを終わらせてほしい」
「灰——」
瞳月がなにかを言いかけて、やめた。
きっと、もう時間がないことを察したのだと思う。
ただ僕からの言葉を待っている。
ああ、本当に僕は消えてしまうんだ。
これからはその震えた手を握れないどころか、僕は瞳月の視界にすら入れない。
声だって聞こえない。
どれだけ楽しい時間を過ごしても、それ以上に悲しませて、寂しい思いをさせてしまって本当にごめん。でも、もう、僕が隣にいられる時間は終わらせないといけない。
だからこれは、僕との別れを受け入れるための言葉として——。
最期に、最愛の人へ。
瞳月——。
——「サヨナラ」