いや、さすがに冗談だろ。
 今もこうして、私の隣にいるんだもん。なんて、そういった瞳月さんの視線はまっすぐ僕に向いているけど、でも、その言葉が僕に向けられたものだとは受け入れられない。
 瞳月さん、そんなに切ない表情なんてしなくていいよ。わざと震えた声で嘘をつかなくていい。こうして普通に話している僕が、死んでいるなんてことないんだから。また「ドッキリでした〜! 同じ苗字のお墓の前で真剣に言われたら信じるかなって思ったんだよね〜」ってからかってよ。不謹慎だけど怒らないから、笑えない冗談だよって言いながら笑うから——だから早く、本当のことを教えて。
 冗談だよ、って明かしてよ。
 
「嘘でしょ、ドッキリとかそういうやつでしょ……?」
 
「ドッキリ、ね。そう言えたらいいんだけどね」
 
 そう言われてしまったら、僕はもうなにも言い返せない。
 瞳月さんの表情から切なさが消えた。声も震えていない。
 
「灰くんは、去年の夏に亡くなったんだよ」
 
 気味が悪いほど落ち着いた様子の瞳月さんから、僕は僕自身が死んでいる事実をただまっすぐ打ち明けられた。
 ここで僕が「そんなの嘘でしょ」と言い返せないのは、僕の中に去年の夏から数ヶ月の記憶がないから。意識を失ってからの記憶がない。もちろんまだ信じられてはいないけど、嘘だとつき返せるほど強気にもなれない。
 僕たちが登ってきた山道の横にある石段から墓参客が通りかかった。そして立ち止まり、律儀に僕たちへ会釈をする。なんだ僕のこと見えてるじゃん———。
 
 ——「一人でお墓参りなんてお嬢ちゃん偉いね、熱中症にはお気をつけて」
 
 瞳月さんは愛想のいい会釈を返す、その隣で僕はただ現実に刺されている。一人、か——。瞳月さんから申し訳なさそうな視線が向けられているのを感じる。やめて、その視線がより僕を殺してしまうから——いや、もう死んでるらしいけど、でもそういうことじゃなくて。
 蝉の声なんて聞こえなくなってしまうくらい、頭の中がうるさい。 
 
「どうして僕に、言わなかったの?」
 
「言えなかった、から」
 
 瞳月さんが慎重に言葉を選んでいる、それだけで本当のことなんだろうなと受け入れてしまう。
 その様子を見て「大丈夫だよ」と僕が慰めてしまった。それほど瞳月さんが俯く姿に心が痛くなったから。なにも大丈夫じゃないよ、と返されてしまった。それはそうなんだけど、でも気休め程度にも受け取ってほしかった。なにも大丈夫じゃないことくらい、僕が一番よくわかっているから。
 動かない二人を置いて、時間だけが進んでいく。年季の入ったスピーカーから割れた音で午後二時の時報が鳴った。
 待っていても瞳月さんから口を開く様子はない、それなら僕がこの状況を壊すしかない。どうやら死んでいるらしい僕の話を、聞き出すしかない。
 
「それじゃあ、言えなかった去年の夏のこと、教えて、って言ったら教えてくれる?」
 
「いいよ、私に話せることならね」
 
「瞳月さんは、僕が死ぬ前のどこまでを知ってるの?」
 
「全部、だよ。元気だった時から容態が急変して、青白くなって、冷たくなるまで。全部」
 
 妙に強気で言い放たれた。
 そして「知らないことなんてない」と呟くように添えられた。
 ああ、もしかしてこの人は——そういうことなのかもしれない。いや、もうほぼ確定だけど、一度確認しておこう。
 
「全部知ってるって、それはどうして——」
 
「さっきも言ったでしょ? 私は恋人だったから、灰くんのこと世界の誰より愛してたから」
 
 なんとなく察していたけれど、やっぱりそうか。
 ここに着くまでに辿っていた山道で話された大恋愛の相手は、どうやら僕だったらしい。
 真剣だったけれど他人事に聴いていたから、僕自身の話だと知って思い返すと“世界の誰より愛してた“なんて正直ちょっと荷が重い。まだなにかを信じたわけではないけれど、瞳月さんの言っていることに嘘がないことはわかっている。
 それに、あの一説とも重なる。
 ——『人は死後、最も愛した人の記憶だけが綺麗に抜き取られる』
 実際僕は瞳月さんのことを名前はおろか顔すら覚えていなかったし、あの実体験をもとに描かれた物語に忠実すぎる死後だ。愛していたのだろうな、と頭で理解はできる。
 それなら僕はやっぱり——。
 
「全部教えてほしい、僕が死んだ夏のこと」
 
 俯いて足元へ向いていた瞳月さんの瞳が再びまっすぐ僕へ向く。
 感情はない、もう逃げられないよ、とでも言いたげな瞳。だから僕も、逃げないよ、目を背けることなんてしないよ、と誓うように見つめ返す。
 太陽に照り付けられて確かに暑いはずなのに身体の内側は異様に冷たい、死んでいるからではない、これは単純に怖いから。
 残り短い人生、と覚悟していたものがすでに終わっていたなんて——。
 
「私は、あったままのことを話すよ。信じられなくてもいいから、嘘だっては思わないでほしいの。それだけ、最初に約束してくれる……?」
 
 怯える気持ちを必死に鎮めて全てを明かす、瞳月さんからそんな覚悟を感じた。
 相変わらずその瞳から感情は感じ取れないけれど、こんな状況で心の底から落ち着いていられるわけがない。少し前まで普通に接していた相手に、恋人に「実はもう死んでるの」なんて——きっと怖いし、心細いはず。
 大丈夫だよ、と言うのは今なのかもしれない。恋人だったのなら尚更、安心させて、手の一つでも握ってあげるべきなのだろう。
 でも違う。あれだけ最初から異常な距離感の瞳月さんは思い返せば一度も僕へ触れていない。きっと触れてしまったらなにかが崩れてしまう、それに今の僕には瞳月さんに触れられるのかすらわからない。
 
「約束させてほしい、僕はちゃんと僕自身のことを受け入れる」
 
 よかった。やっと、笑ってくれた。ふふふ、と穏やか僕の答えを受け取ってくれた。
 日差しはここへ着いた数分前より強くなっていて、僕たちを焼き焦がすように照らしている。先ほど通りかかった墓参客が反対側の石段から帰っていくのが見えた。見えている範囲で僕たちは二人きりになる。恋人へ死を教える者と、自らの死を明かされる者、まっすぐに交わる互いの視線に緊張感が高まっていく。
 ないはずの鼓動がなっている。
 
「ちょうど去年の七月にね、灰くんの再入院の話が出たの。病状が悪化して、学校はおろか日常生活すら危うくなっちゃったから」
 
「その部分は少しだけ、僕も記憶にあるよ」
 
 覚えてる、あの夏の苦しさは異常だったから。
 薬を変えても、主治医が家まで来て診察やその場での処置をしてくれても病状は悪化していく毎日で目が覚めるたびに身体のどこかに違和感があった。立つことなんてできなくて、かと言って横になるのも座るのも辛い。
 そんな状態が続く中で僕は初めて“もうすぐ死ぬんだな“と強く予感を抱いた時期だったから、特に記憶に濃い。
 
「それなら覚えてるかもしれないけど、灰くんは、再入院を嫌がったんだよね。灰くんのお父さんや病院の先生がどれだけ説得しても受け入れなかった」
 
 言われてみればそうだった。その時、今まで拒んだことのなかった入院を僕は初めて断った。そしてそんな僕は生まれて初めて父から怒鳴られて、長年診続けてくれていた主治医に呆れたような表情をされた。
 母のこともあって、親戚など周りの大人たちは自ら死ににいくような選択を望んだ僕を“親不孝だ“と非難した。
 じゃあ瞳月さんは——当時、恋人だった瞳月さんは、そんな僕になにを思ってどう接していたのだろう。
 
「瞳月さんは?」
 
「え?」
 
「瞳月さんはそんな僕を見て、なにを思ったの? 入院してほしいとか、身体が危ない状態で隣にいられるのが怖い、とか」
 
「なんで、って正直に思った。だって入院しないなんて一つの治療を放棄するようなものでしょ? 私が灰の立場だったら、きっと少し我慢したとしても入院することを選ぶから——でもね、灰が入院を嫌がった理由を知ってからは、なんとも言えない気持ちになった」
 
「なんとも言えない気持ち?」
 
 一瞬の間があった。それほど言いづらいことなのか、僕は無意識に瞳月さんと合ってしまった目を反射的に逸らして続きを待つ。
 
「どうせ死ぬなら病院なんかにいるより瞳月と一緒に過ごしたい、って。そう言われてから、私なにも言えなくなっちゃったんだよね」
 
 あの時ちゃんと入院を勧めていればよかったのかな、なんて悔やむように呟く瞳月さんに、僕は頼りなく「勧められてたとしても結果は変わらなかったよ」と思いつく限りで一番励ましになりそうな言葉をかけた。こんな言葉で後悔を拭えるなんて思っていないけれど、ただ少しでも軽くなれば、と希望を込めて。
 それが届いたのか、瞳月さんの俯いていた顔が少しずつ上がって、僕たちはまた目を合わせることができた。
 続きを話すね、とその唇が動き出す。
 
「結局入院はしないまま自宅療養が始まって二週目に差し掛かった七月の終わり頃にね、灰くんのお父さんから私に連絡があったんだ」
 
「お父さん、から?」
 
「そう、初めてだった。灰くんの連絡先からの電話に出たら、お父さんの声がしてね。何度か話したことがあったからすぐにわかったけど、正直困惑した」
 
「その電話で、なにを伝えられたの……?」
 
「異様に落ち着いた声だったの「灰が緊急搬送された」って。灰くんの入院期間に何度かお見舞いに行ったことがあったから病院の場所はわかってて——生田さんが辛くなければ来てくれないかって、そう言われた」
 
 僕の意識が遠のいた先でそんなことが起こっていたなんて、当たり前だけど知らなかった。
 瞳月さんと付き合って二年が経った頃、僕の持病のこともあって父には僕たちが付き合っていることを伝えていたらしい。外出中や学校で僕の身体になにかあった時、瞳月さんが理由もわからずに困惑しないように。家で僕になにかが起きてしまった時、すぐに教えられるように。それ自体はいい判断だったけれど、本当なら、そんな必要なかったね、と二人で笑い合いたかった。そう思うとやっぱり寂しい。
 
「それじゃあ、瞳月さんは僕の病室に、最期、来てくれたの?」
 
「それは、叶わなかった——私が次に灰くんに会えたのは、このお墓だったんだ」
 
 瞳月さんの左手が強く握りしめられる、開かれて見えた手のひらには爪が刺さった痕が薄く残っていた。
 話によると、父から連絡を受けた瞳月さんはすぐに僕の病院へ駆けつけてくれたらしい。着いた頃、すでに僕は手術は終えていて目を覚ますかどうか、その狭間にいる状態だったと。
 ただ父と一緒に病室へ入ろうとした時、看護師から保護者以外の面会が許可されず、すぐ近くの廊下にある椅子に座って待っていたのだそう。
 たった一人で、恋人が目を覚ます瞬間を途方もなく待ち続けるなんて、どれだけ心細かっただろう。
 そしてその四時間後、瞳月さんは父から僕が死んだことを告げられたらしい。
 恋人の最期が迫っていることを知っていながら、顔すら見れずに終わってしまうということはきっと、それこそ未練の残ってしまうものだろう。僕がもし、幼いという理由で母の最期を隣で看取れなかったら——想像しただけで、痛いほど瞳月さんの気持ちがわかった気がした。

「私、ずっと待ってたの。日付が変わる少し前、ずっとずっと灰くんとのメッセージのやりとり、最初から見返してた——私が送ったこと全部に丁寧に返信してくれてるのにさ、最後のメッセージだけは既読すらつかないの……なんでって、ずっと言ってた。目の前の扉さえ開ければ灰くんはいるのに、触れれないどころか、姿すら見れない、勝手に中に入っちゃおうかなって思ったけど、やっぱりそんなことできなくて。なんかもう本当に、涙すら出なくてさ——」

 彼女の口から止まらなく言葉が溢れてくる。
 
「時々ね、灰くんのお父さんが私に気を遣って声をかけてくれたの。喉を通らないかもしれないけど気を紛らわすためにも、って飲むタイプのゼリーを買って渡してくれたり、灰の数値が少しだけ正常に近づいてきたよ、って少しでもいい変化があったら教えてくれたりした——。優しくて、その優しさが灰くんの優しさに似ててさ……。ああ、早く、早く灰くんに会いたいって、頭の中がそればっかりだった」
 
 瞳月さんが抱えていた記憶が溢れていく。
 
「灰くんね、搬ばれる前に私にボイスメッセージを残してくれてたんだよ? 覚えてないだろうけど——その日はね、本当なら会って海に行く予定だったの。あの海岸、昨日、私たちが会った海岸。あの海岸、私たちのデートスポットでさ。でも朝に体調が良くないって連絡が来て、延期になった。そしたらお昼頃に“また会おうね“って、その一言だけのボイスメッセージが灰くんから届いて。だから、私は夕方お家にお見舞いに行こうって思って準備してたんだ、そしたらちょうど電話がかかってきて、でも電話の声は——、言わなくても、わかってくれるよね……?」
 
 僕の知らない、二人の間の最後が言葉になって僕に伝う。
 瞳月さんからの「わかってくれるよね」は、言い表せないほど弱々しくて、寂しそうで、悲しみを蘇らせてしまっているようで、なんとも胸が痛んだ。
 そうだよね、こんなこと言えるわけがないよね。
 
「ごめん、感情的になっちゃった。きっとわかりづらかった——」
 
「そんなことない、そんなことないから、だからただ、教えてくれてありがとう」
 
 話し終えた瞳月さんは僕に背を向けていて、表情こそ見えないけれど震えた肩から泣いていることくらいわかるし、聞こえてくる途切れながら上がっていく息から苦しさを抑え込んでくれていることもわかる。
 どんなに器用で丁寧な説明よりも、瞳月さんの言葉は僕から抜き取られた記憶を教えてくれた。。
 瞳月さんが僕の墓石に触れる、本当なら抱きしめられる相手のはずなのに、情けない。でもそれ以上に情けないのは——。
 
「でも、僕、ここまでちゃんと教えてもらったのにやっぱり実感がないよ」
 
 瞳月さんが嘘をついていないなんてことはわかっているし、疑っていない。約束した通りだ。
 ただ、恋人だったことも、好きだったことも、死んだことも、僕にはどこか知らない人の人生の一部を物語として聞いているようにしか思えなかった。
 それほど、現実味のない話だった。
 そもそも、あの物語に書かれていた死後の記憶については本当にあり得ることなのか? 疑ってない、これは本当に、ただ僕が信じられていないだけだ。
 
「こんなこと言いたくないけど、瞳月さんのこと、本当に少しも覚えていないんだ」
 
 ごめんね、ばかりが心に積もっていく。それでも口に出すことができなかった。
 振り向いた瞳月さんの顔を見た時、その言葉だけは言えない、と留まった。
 僕がいくら謝ったところで記憶は戻ってこないし、瞳月さんは僕の「ごめんね」を優しさで許すしかないのだから。
 なにか言葉を続けないと沈黙によって心が抉られていく。瞳月さんの赤く腫れた目が僕に向く、やっぱりそうだよね、なんて笑って言ってくれているけど表情も声も全てが苦しい。
 
「疑ってるわけじゃないんだ、ただ本当に現実味がなくて。僕の話だって思えなくて……」
 
 ——灰はそんなところまで、お母さんとそっくりなんだな。

 背後から聞き馴染みのある声がした。
 静かに穏やかな低い声。朝、目すら合わせずに僕を送り出した声。
 でも、そんなはずがない。僕の居場所だって、朝言わずにいたはずなのに——。
 
「お父さん、どうして——」
 
 振り返った先に父が立っていた、瞳月さんが僕に教えた“あの小説“だけを持って。
 
「生田さんも、暑い中ありがとう。そして連絡までくれて助かったよ」
 
 僕を一瞬見た後、言葉を返さないまま瞳月さんへ軽く頭を下げ父はそんなことを言った。
 そしてゆっくりと近寄って、墓石の前へしゃがむ。慣れた手つきでマッチの火を線香へ灯す。花を供えて、見渡した後に目を瞑り手を合わせる。
 僕にも瞳月さんにも構わず、ただ一人で父は母に向き合っている。
 
「なにから気になる、順番に話をしていこう」
 
 目を開け、立ち上がった父は僕へ淡々と尋ねた。
 どうしてそんなに冷静でいられるのか、一度愛した人を失った人間はそんな余裕すら持ててしまうのか、そんなところから気になってしまう。
 僕が去年の夏に死んだなら、今まで一緒に暮らしていた時間なにを思って過ごしていた? お母さんとそっくりでどういう意味? どうしてここに僕と瞳月さんがいるってわかった?
 頭に浮かんでいく疑問符をまとめきれないまま立ち尽くしていると、父が瞳月さんと意味ありげに目を合わせているのが見えた。
 首を傾げてみる、きっとなにか、話し出してくれると期待してしまったから。
 
「この物語を書いたのは、お父さんなんだよ」
 
 理解が追いつかない、突然すぎる告白だった。
 それなら結婚式場で聞いた夫婦の話は、僕の両親の実話、そういうことになるのか。
 
「生田さん、ここへ来る前に式場には行ってくれたのかな?」
 
「はい。そこで、描かれていた再会の話もしてきたところです」
 
 頷きながら柔らかく感謝を伝えた後、父は僕を見つめた。真意はわからない。
 母が亡くなってから法事や遺品整理で忙しかったこと、まだ僕が幼く世話が大変だったことから父が会社を辞め、家で仕事をするようになったことは知っている。過去に何度かどんな仕事をしているのかと聞いたことはあって、その度に「文章を書く仕事だよ」と返されてはいたけれど小説家だとは思わなかった。
 
「その本、本当にお父さんとお母さんのことなの? だって僕、お母さんが亡くなってから一度もお母さんのこと見てないよ。家に一人取り残されたことだってなかったし、結婚式場に二人で行ってた記憶なんてないよ?」
 
「お母さんが一度戻ってきてくれたのは、亡くなってから一年が経った頃——つまり、灰の病気が見つかった頃なんだ。最初の入院期間、お父さんが家に一人だった時、お母さんは戻ってきてくれたんだよ」
 
 それを聞けば、確かに物語に書かれていたことと辻褄が合う。
 
「お母さんは、お父さんのことと灰のことを忘れた状態だった。まぁちょっとは覚えていたかな、子供がいた気がする、とか、旦那と一緒に行きたいレストランがあったの、とかね。でも本当にそのくらいで、名前も顔も覚えていなかった」
 
 本当に、今の僕と同じだ。
 父の話によると、朝いつも通り目を覚ますと突然隣に母が眠っていたらしい。そして僕は、死んで三ヶ月ほど経った日の昼頃、部屋から本当に微かな物音がして駆けつけてみるとベッドにいた、とのこと。ちょっと雑な気もするけれど、父が言うには本当にそうだったらしい。
 
「お母さんと同じように、平然とした顔で目覚めたんだよ。さすがに困惑したけど、お母さんとのことをすぐに思い出してさ——灰の遺影を隠して、いつも通りに接しようと思ったんだ」
 
 今の僕はただ頷いて、説明される事実を呑み込むことしかできない。
 すぐ横にいる瞳月さんは、なんとも複雑そうな顔をしている。親子の会話を隣で聞くなんてただでさえ居心地が悪いだろうに、その片方が死んでいるなんて、どんな気持ちにさせてしまっているだろう。申し訳ない。
 
「どうして、言ってくれなかったの」
 
「言えなかったんだよ、お父さんにはね」
 
 こっちもそう答えるか、と。
 父は学者でも死後の研究者でもない小説家だけど、どんな数値よりも根拠のある母との実体験を持っている。だからその一例に従って、家族だから灰の実体が視えたのかもしれない。父はそう語った。
 確かに、さっきの通りすがりの墓参者には瞳月さんしか見えていなかったし、父と母は家族だったから視えた、そう言われれば説明がつく。
 でも、それならどうして——。
 
「どうして、瞳月さんには、僕が視えてるの?」
 
 恋人だったとしても、家族ほどの関係ではないだろう。
 最愛の相手だったとしても、それこそそんな物語のようなこと、本当にあるのか。
 
「どうしてだと思う? 私は霊感なんて持ってないし、普通の女子高生だけど、それでも灰くんのことがはっきり視えてるよ」
 
 目の腫れが、少しだけ引いている。
 少しだけ無理矢理な明るい口調で瞳月さんは僕へ問う。
 どうして、わからないよ。自分が死んでいたことすらわからない人間に、そんな難しいことがわかるわけない。
 
 ——「私も灰くんと同じように、死にきれなかったからだよ」
 
 その答えで僕は、理由を尋ねる前より遥かに瞳月さんのことがわからなくなった。