「うわ、暑……」
 
 七月の朝方とは思えない、身体に張り付く嫌な暑さを起きてすぐに感じた。
 遮光カーテンの意味もないくらいベッド横の窓から強い日が差している。瞳月さんからの誘いに乗るかどうかは朝起きてから決めようと消極的に考えていたけど、ちょうど目も覚めたし行ってもいいかな、と思い支度を始める。入退院を繰り返してきた僕にとって異性との外出は人生で初めてのシュチュエーション。とりあえず寝癖を治して、なんとなく二度洗顔をして、服装に迷った結果、無難に制服を選んだ。他に着ていけるような私服がなかった。
 デート前の支度はこんな感じなのかな、と少しだけ緊張感を覚える。
 玄関へ向かう途中、朝食の支度をする父と目があってしまった。昨日のことも含めなにか言われるだろうなと身構えたけど、引き止められるどころか行き先すら尋ねられない。ただ一言だけ。
 
 ——周りをよく見て歩くんだぞ。
 
 調理器具を洗う手を止めないまま、わざとらしく目線を僕へ向けない父から、僕はそう忠告を受けた。
 返事をしない代わりに気づかれない程度に頷いて家を出る。
 このまま道中で死んだらこれが父との最後の会話か——なんて漠然と少し寂しくなった。
 昨晩、記憶を辿りながら倉庫を探ると奥の棚に瞳月さんから読むようにと言われた小説が五冊並べられているのを見つけた。
 よく見てみると、一冊ずつに透明なブックカバーが丁寧に付けられていた。ほこりっぽくて、工具や劣化して穴の空いた毛布などが雑に置かれてた倉庫の中で、その小説だけは異様なほど綺麗に保管されていた。瞳月さんから小説の概要を教えられていたこともあって、僕は父の趣味や思想を一瞬疑ったけれど深く考えずに一冊だけ手に取り部屋へ持ち帰った。
 その一冊が僕の今日の鞄の中身。
 
「それにしても不思議な話だったな」
 
 というより、奇妙な話だった。
 実際手にしてみると、思った以上に厚みがあった。全てを一晩で読み終えるのはなかなか気が滅入りそうで、僕は目次を辿って瞳月さんが開いて見せてくれたページあたりに軽く目を通した。
 死後の記憶について、突然教えられた時は正直あまり信じていなかった。死んだこともない作者が書く死後の話なんて行きすぎた妄想だろう、まぁそういう話もあるのかもしれないけど、なんて適当に聞き流す程度。ただ、読んでいくと瞳月さんの話は思っていたよりはるかに現実的なもののように思えてきた。
 人生最後に死を予習する意味でも、ちょうどいいかな、なんて思えたりもした。
 だから僕は今、立っているだけでも億劫な暑さの中を歩いて海へ向かっている。まだ朝なのに日が高くて、全身に熱がこもっていく。そんな中、背後に違和感を覚えた。人の気配というか、騒がしさの予感というか。確かに聞こえる。
 どこかで聞いたことのあるようなローファーの音。
 
「灰くんおはよう〜!」

 瞳月さんもまた制服を着ていた。昨日は暗くてよく見えなかったけど、やっぱり可愛い。僕が覚えている限りのどのクラスメイトより制服が似合っている。瞳月さんはバス停から走ってきたのか涼しさを取り込もうと襟元をパタパタ扇いでいて、その姿がなんとも僕に刺さった。
 
「瞳月さん、おはよう」
 
「朝から元気がないねぇ……そんなんじゃ太陽に負けちゃうよ?」 
 
 
 そう言うと瞳月さんは駆け出し、十数メートル先から早く追いつくようにと僕を急かす。そんなに元気だと瞳月さんが太陽になっちゃうよ? と言い返してくなる。どうやら今日から夏休みに入ったらしく、そのせいで異様にテンションが高い。少しは歩幅を合わせてほしい。
 でも悪い気はしなかった。田舎町に容姿端麗な女子高生のセーラー服姿はよく映える。暑さも太陽も全てが味方をしているような、そんな眩しさ。
 そんな瞳月さんは突然走る足を止め、その勢いのまま僕の方へ振り向いた。風に揺れて崩れた前髪も気にせず、大きく息を吸い込んで口を開く。
 
「灰くん!」
 
 そうして遠くからでもわかる無邪気な表情で僕の名前を呼んだ。
 僕は頷く代わりに足を止めてみた、そうしたらきっと次の言葉が飛んでくる。
 
「この夏はとにかく私に付き合ってもらうからね!」
 
 付き合ってもらうからね、か。それなら瞳月さんには、僕の人生最後の思い出作りに付き合ってもらおう。なんて、特になにを提案するわけでもないけど、一緒にいれば自然とそうなっていくと思って心の中でそう返してみる。
 よろしくね、の代わりに僕は瞳月さんを目掛けて駆け出した。
 昨日走った時より風が心地いい、僕の中に夏休みの概念なんてほぼないけれど、なんというか僕までその浮かれた雰囲気に取り込まれそうになる。
 瞳月さんのことを僕はまだよく知らないけれど、二人のなにかが通じ合う感覚がこのやり取りには確かにあった。
 
 ◇
 
「昨日教えた小説読んでくれた?」
 
 移動に疲れたのか数分前から歩くペースを落としていた瞳月さんの足がとうとう止まって思いついたように僕にそう尋ねた。
 歩き始めて数十分、草ばかりの景色の隙間から海の青が見え始めた。
 鼻に触れる匂いからも昨日の海岸とはまた違う潮の匂いを感じる。夏の入口のような、草木の雰囲気も相まってそんな言葉が僕の頭によぎる。
 
「全部は読んでないよ。海の場所がどこか確認したのと、瞳月さんが見せてくれた章を軽く読んだくらい」
 
「おお、まさかほんとに読んでくれるとは……正直灰くんが今日ここに来てくれることもちょっと疑ってたんだよね」
 
「僕のことを相当適当な人間だと思ってない?」
  
「だって初対面の異性に勧められた分厚い小説なんて普通読まないよ、少なくとも私なら読まないからね! ってか、なんで読んでくれたの?」
 
 瞳月さんの中に割と一般的な『普通』が存在していることに驚いた。
 あの小説を読んだ理由。僕の残り時間が短かったこと、あの時家を飛び出したこと、海岸にたどり着いたこと、そしてなにより瞳月さんが僕に話しかけたこと。思い返してみれば全部の偶然が重なっただけ。
 ただ『偶然だよ』なんて突き放した答えは、その期待に満ちた顔が許してくれないような気がして必死に言葉を探してみる。
   
「瞳月さんが読んで、って勧めてくれたからかもね」
 
 あえて理由を言葉にするなら、こう言うしかない。
 偶然に従っただけの僕にとって、その偶然を作り出したのは他でもない瞳月さんなのだから。
 
「あっ! そういう思わせぶりなこと簡単に言っちゃうのやめた方がいいよ? 恋愛体質の子だったら勘違いしちゃってもおかしくないからね?」 
 
 そう言いながらも瞳月さんは満更でもない顔でまた歩き始めた。なんだか足が軽いなぁ、なんて数分前の項垂れた様子を振り払うように笑いながら。
 僕の答えは正解だったのかな、と安心する。
 波の音が近くなってきた、漂う空気には少し前より多く湿気が含まれているように感じる。背の高い木に囲まれた山道。不定期に海への方向を矢印で記された看板が建てられていて、僕たちちは示されるまま舗装された一本道を辿っている。
 その一本道もあと数歩で終わる、木々に遮られていた陽が容赦なく差し込んで僕たちを照らす。
 
「すごい……小説に書いてあるままだ」
 
 瞳月さんの言う通り、小説に書いてあるままの景色が広がっている。
 青く染められて広がる空と、遠くまで続いている透明な海に穏やかに揺らぎ続ける白い波が浮かんでいる。海の青と空の青を遮るものはなく、見えている全ての景色で一枚の青のグラデーションが描かれているように見える。小説内で『真昼の星空』と書き表されていた海面には反射している太陽が本当に星屑のように映っていて不思議な気持ちになる。
 
「綺麗……」
 
 そんな単純な言葉に頼ってしまうほど、美しい眺めだった。
 ふと、隣に立っている彼女の瞳に視線を向けた。この景色を瞳月さんの瞳はどう映すのだろうと昨日の月の反射が頭をよぎる。
 
「あっ——」
 
 澄んでいる、綺麗だ。でもそれより僕の意識は瞳月さんの目尻に溜まっている水滴に向いた。
 確かに綺麗だけれど、この景色の美しさだけが涙が溢れる理由にはならないような気がした。
 気になって数秒見つめていると、なんとなく悪いことをしているような気持ちになって視線を海へ戻した。
 僕たちの間に流れる沈黙が波の音によって埋まっていく、人の声も車の騒音もない異様な空間。
 
「灰くん、ちょっと無神経なこと聞いてもいい?」
 
 そうやけに慎重なトーンでそう尋ねられると少し緊張してしまう。
 
「いいよ、答えられることなら」
 
「灰くんは死んだ後、自分の遺骨をどうされたい?」
 
 無神経、と言うより突然すぎた。
 もっと海の綺麗さや太陽の眩しさに浸った会話をするものだと思っていたのに、瞳月さんから出された話題は自らの遺骨への希望について。
 でもよく考えれば僕は瞳月さんの趣味に付き合う、言葉を変えるなら理解者になることが目的であり役目。それならこの唐突さすらも正しいのかもしれない。
 死後についての価値観をすり合わせるための会話であることに間違いはない。
 顔の向きを変えずに瞳月さんの様子を伺う。僕を急かす素振りはなく、静かに目を瞑りながら風を感じている。その閉じられた目元から水滴が消えていることになぜか安心した。
 
「死んだ後の自分に意思があるなんて思えないから、僕は普通にお墓に納められる形でいいかな」
 
 少し考えた後、僕はそんなつまらない答えを出した。
 そっかそっか、と目を瞑ったまま頷かれた後、漂う切なさを誤魔化すような笑顔を添えられた。そして微かに聞こえるかも怪しいほど小さな声で、瞳月さんは意味深な呟きを溢す。
 
 ——それならよかったよ。
 
 なにが「よかった」なのか、遠回りに尋ねてみてもその真意を知ることはできなかった。ただ「なんでもないよ、ただよかったの」と言い切られてしまうだけ。空気を変えようとしたのか瞳月さんは大袈裟に背伸びをして、僕に無邪気に笑って見せた。そして——。
 
「私の笑った顔と海、どっちが綺麗?」
 
 なんて質問までされてしまった。
 
「海と人は比べられないかな」
 
 だから確実に求められていない答えを返した。
 わかりやすく唇を尖らせた後、灰くんらしい答えだ! と器用に笑い飛ばす。
 それにここまでで僕が知った瞳月さんは綺麗、と言うより可愛い、の方が似合う。
 僕たちはそのまま砂浜を歩くことにした。空が青いせいか、海が澄んでいるせいか、ここの砂浜は異常なほどに白く見えて鮮やかに色づいた貝殻がよく目立つ。瞳月さんはその一つずつをしゃがみながら拾い集めて、それを手のひらに乗せるたびに僕に見せくてれた。
 これは「赤いから赤ちゃんね!」なんて安直すぎる名前をいくつかつけていたけれど、両手をその貝殻たちが埋めた頃、瞳月さんはそのほとんどの名前をみごとに忘れていた。容姿がいいから、とか久しぶりに話す異性だから、とかではなく単純に可愛らしい人だなと、僕はそんなくだらない言動すら憎めずに一緒に笑ってしまっていた。
 
「瞳月さん、海には入らないの?」
 
 拾った貝殻を砂浜に並べている姿を見て疑問に思った。
 せっかく海に来たのに、頑なに足すら水につけようとしない。
 顔を上げた瞳月さんはニヤッとして立ち上がり、上目遣いというよりは少しからかうように僕を見つめた。そして。

「灰くん、本当に軽くしか読んでないんだね?」

 なんて昨日と重なる挑発的な口調で告げられた。
 海には入らないの? の答えに全くと言っていいほどなっていない。
 
「まぁいいよ、私がこの海に入らない理由……というより入れない理由を教えてあげよう」
 
 手についた砂を払い、瞳月さんは少し得意げに言ってみせた。
 入れない理由、と聞いても僕には全く見当がつかない。少なくとも昨日読んだところにはそんなことなにも書いていなかった。
 数秒間遠くを見つめてゆっくり目を瞑る。真意はわからないけれど、なにかを噛み締めるように深く一度頷いて目を開けると同時に僕を見つめた。
 
「ここはね、散骨が行われてる海なんだよ」
 
 聞き馴染みのない言葉だ。
 
「散骨って、遺骨を撒く……」
 
「そうそう、灰くんが知ってる散骨のイメージで合ってるよ。海自体は序盤に登場して、後半に一つの死後の行方として散骨するシーンが描かれてるんだけど……昨日の今日じゃそこまでちゃんと読めてないよね」
 
 瞳月さんの言う通り、この海に関して僕はただ目的地を知るために辿った目次と景色についての描写しか読んでいない。ここがどんな海か、どうして死後の物語に海が登場するのかなんて考えてすらいなかった。
 浅はかだったなと、少しだけ反省する。
 なにも知らずに口から出た「綺麗」という感想が不謹慎だったのかもしれないと不安になりながら、助けを求めるように彼女に視線を向ける。なにに対して助けを求めているのかはわからない。ただ、なんとなく安心できるような気がした。
 
「怖くなった? 散骨って言葉、聞き慣れないでしょ?」
 
「え、どうして——」
 
「顔に書いてある、って言うのは冗談で。私も気持ちだけならわかるから、静かで異様なほど綺麗な空間。あまりにも現実感がないというかさ、ちょっと怖くなるのもわかる」
 
 安心、とまではいかなかったけれどその言葉で少しだけ僕は海へ視線を戻せるようになった。
 改めてその海を見つめると感じたことのない不思議な感覚に陥った。
 青い、綺麗。それは間違いない、でも違う。
 海の色彩の濃淡はそれぞれの生きた時間が織り合わされているように見えて、穏やかに波打つ海面は「確かに生きていたんだ」と訴えかける声のように思えた。もしも僕が今死んで、この海に遺骨を撒かれたら——なにを思って、生きている人間になにを主張するのだろう。なんてことも頭をよぎる。
 
「だからこの波の音は命の音なんだよ? 悲しくなる必要も寂しく思う必要もない、ここに居続けてくれる。それがわかる海だって、あの小説は私に教えてくれた」
 
 命の音。それが瞳月さんの言葉なのか、小説からの受け売りなのかわからないけれど素敵な考え方だなと浸ってしまう。こういう死後もいいなと思った。
 
「やっぱり綺麗だね、この海」
 
 そんな僕の呟きに「深いですねぇ」なんて軽い相槌を打たれてしまった。
 その後にすかさず「でもわかるよ、綺麗だよね」と切なげに返してくれた。
 それから少しの間、僕たちは言葉を交わすことも視線を合わせることもせずにただ波の音を聴いて風に吹かれた。
 吸い寄せられるような感覚になって、それでも無礼にならないように僕は海水が押し寄せて色が変わっている砂浜の際まで足を進めた。このまま足先の少しでも触れてしまったら、本当に海へ溶けてなくなってしまいそう。そんな感覚に襲われる。

 ——灰くん
 
 瞳月さんの声が響いた。
 昨日、初めて会った時と同じ感覚。
 海に吸い寄せられていく意識が瞳月さんの声に奪われた。と言うより今は、その声に引き戻してもらった。
 
「どうしたの、瞳月さん」
 
「あっいや、そのまま海にいっちゃいそうだったから……まぁ、飛び込みたい! って言うなら止めないけど、せめて私の前ではやめて! 余計な責任負いたくないから!」
 
 冗談だよ、と笑いながら瞳月さんは僕を手招いた。
 なにかを話したげな様子で、小さく左右に揺れながら僕を待っている。
 
「小説、読んでくれたんだもんね。私が昨日話したこと少しは理解してくれた?」
 
 自信のない様子で僕にそう尋ねた。
 もしかしたら過去、誰かにあの小説を否定されたことがあるのかもしれない。人と感性がズレてるから、なんてことも言っていたしここは一応でも理解者である僕が一度瞳月さんの感性へ寄り添う必要がありそうだ。
 
「死後の記憶の行方、ちょっとだけだけど理屈がわかった。もっとファンタジックな話を想像してたけど、思ったより現実的だった」
 
「そうだね、死後の話だとしても人間の話だってことは変わらないから」
 
 本当に、その言葉の通りだ。
 もっと魔法だとか天国だとか、そういう非現実的な話を期待していた僕にとって死後の世界はよくも悪くも人間らしかった。
 
「生きていた時間を全うしなかった罰として、最愛の人の記憶を抜き取られるの。あくまであの小説に書かれてるお話だけどね」
 
 ちょうど昨日の僕が読んだ部分だ。
 この世には稀《まれ》に生きている意識を保ったまま命を使い果たし、自身の死を自覚できていない例があるらしい。その場合「今世を生ききれなかった」とみなされ、半端な気持ちで生きてしまったために未練が残ってしまうと考えられているらしい。未練を晴らすまで存在し続ける代わりに、その罰として最愛の人との記憶を抜き取られる。未練を晴らす代償として、意思に関係なく記憶を差し出さなければいけない。この小説での理屈はどうやらそういうものらしい。
 
「瞳月さんはどうする? もし今、本当は死んでいたとして……その、最愛の人の記憶だけを失った状態だったとしたら」
 
「きっともう一度好きになるよ、記憶がなくなっても死んじゃってたとしてもね」
 
 考える間もなく、それが当然とでも言うように瞳月さんは答えた。
 他の選択肢なんてあるかな? と僕に尋ねながら、ないよね、と自己完結するまでがセット。
 
「灰くんだったらどうする?」
 
 きっと瞳月さんよりはるかに僕の方が死に近い場所にいる。
 仮に今この場で僕が死んだとして、どれだけの未練が残っているだろう。
 母のお墓参りに行けなかったこと、本当は普通に高校生活を送ってみたかったこと、家を出る時父に冷たい態度をとったこと。小さなことで言うなら、恋人が欲しかったとか、ジャンキーなものをなにも気にせず食べてみたいとか、遊園地に行って身体を気にせずアトラクションに乗ってみたいとか。パッと思い浮かぶだけでもいくつかある。
 最愛の人、と呼べる人こそ思いつかないけれどもし僕の中から誰かの記憶が抜き取られたら——。
 
「気づけないと思う。それこそ本当にただ生きてるみたいな、きっとそういう感覚」
 
 そっか、と瞳月さんはまた僕のつまらない答えを受け入れてくれた。
 せっかく家を出られる生活になった、僕も一つずつこの世への未練を消していこう。
 海は相変わらず穏やかで時間の流れを感じさせない、堤防にあるサビのついた時計を見るとすでに二時間が経過していた。
 偶然にも同じタイミングで時計を見ていた瞳月さんは思い立ったように「いい場所だったね! 付き合ってくれてありがと!」と僕へ笑って言った。
 
「こちらこそありがとう、それじゃあ今日は解散?」
 
「そんなはずないじゃーん、まだまだこれからだよ! 次の場所、ここからまた少し歩くからちゃんとついてきてね?」
 
 ◇
 
 涼しげな森の中を四十分ほど歩いて辿り着いた開けた場所。先ほどの海が見える空気の澄んだそこにはこれまた人の気配のない真っ白な建物があって、西洋の城のような優雅で美しい雰囲気が漂っている。近づき難いような綺麗さが漂っていて、神聖な空気がそこにはあった。
 
「ここは、なに?」
 
「ウェディングチャペル! わかりやすく言うなら、結婚式場」
 
 雰囲気からなんとなく察していたけれど驚いた。出会ったばかりの異性と結婚式場を訪れる。異性と二人きりでの外出すら初めての僕にとってイレギュラーすぎる。それに僕たちは高校生、なにがおかしいの? とでも言うような口調で「結婚式場」と答えてしまう瞳月さんにも謎が深まる、いろいろと確認したいことが多すぎる。
 
「どうして、結婚式場に……?」
 
「灰くん、本当にちょっとしか読んでないね? ここは結構感動的な、いわゆるあの小説の『聖地』なんだけどなぁ」
 
 僕の問いに答えることもなく、本日数回目のからかうような視線を向けられる。
 緊張する素振りもなく敷地内へ踏み込み僕を手招く、受付の女性へ名前を告げるとなんの問題もなく中へ通された。
 そして僕は開かれた扉の内側の美しさに息を呑む。
 
「ね、綺麗でしょ?」
 
 頷くことしかできない、それほど綺麗な空間だった。
 遮るものがなにもない。目の前に広がる空と海の青が同化して美しい青に包まれているような感覚になる。先ほどの海とはまた違う美しさに呑み込まれるような感覚。目を閉じると微かに潮風の匂いがして、波の音が耳を触れた。
 窓から降り注ぐ陽が、優しくバージンロードを照らしている。
 
「本当に——すごく綺麗だよ」
 
 結婚なんて何年先、いや、きっと僕はその年齢まで生きられないけれどそういう夢を誰かと一緒に見られる人生もいいなと思ってしまう。
 それこそ最愛の人と、こんなにも美しい場所で永遠を誓い合う。綺麗だ。
 
「結婚かぁ、私もいつかできるのかな」
 
「きっと素敵な人が見つかるさ、瞳月さんは綺麗だし。あっ、変な意味で受け取らないでね」
 
「いや、そういうことじゃないんだよね」
 
「え?」
 
 妙に真剣なトーンで言うものだから、僕の冗談が少し申し訳なくなる。
 
「私、この歳にして大恋愛しちゃってるからさ」
 
 気になる、でも同時に触れていい話かと躊躇う。
 そもそも大恋愛なんて言葉、なかなか使うものじゃない。それにそれほど好きな人がいるのなら結婚なんて時間が解決してくれるような気さえする。

「その人と結婚する未来は、ないの?」
 
「うーん灰くん、なかなか残酷なことを聞くねぇ……でもそうだね、ない」
 
「振られたとか、既婚者だった、とか?」
 
 さすがに自覚している、今の僕からの質問はデリカシーのかけらもない。
 
「手の届かない場所にいるんだよね、だから結ばれる未来はないの。でも私はまだその人のことが大好きだから、他の人を好きになれるなんて考えられない——やっぱり私は結婚できない!」
 
 やけに吹っ切れた口調がきっと本心ではないことくらいわかる。
 手の届かない人、本当のことはわからないけれど瞳月さんのことだから芸能人に恋愛感情を抱いている、なんて夢を見ているようなことも可能性として捨てきれない。
 ただ、これ以上踏み込むのは良くないような気がして流れるまま話を終わらせた。

「灰くんは? 結婚願望とかある?」
 
「ないかな、それほど好きになれる人すら僕はまだ出会えてないからね」
 
 灰くんはまだ恋を知らないね、なんて瞳月さんはわざとらしく口元に手を添えて笑ってみせた。
 僕が結婚願望を持たない、のではなく持病を理由に持てずにいる、のだと知ったら瞳月さんはどんな反応をするだろう。まぁ言うつもりはないけれど。
 しばらくすると瞳月さんはなにか思いついたように「あっ」と声を出し、目を輝かせて僕を見つめた。
 
「灰くん、本当に結婚願望ない? 好きな人とかも本当にいない?」
 
「え、本当にいないけど……そんなに疑わしい?」
 
「それならいっか! いや、一つお願いしたいことがあってね」
 
 そう言うと瞳月さんは参列者が座るであろう席の一つに腰掛けた。
 右側の窓際、一番後ろの端の席。
 そして僕を新郎が立つ場所へ行くよう促した。
 ヴァージンロードの際を控えめに辿って、一段のぼる。距離のできた瞳月さんの方を向くと心底満足そうな表情をしていた。
 
「これは、一体なにがしたいの?」
 
「灰くんが立ってる場所は小説内で作者さんが立っていた場所、私が座ってるこの席は亡くなった奥さんがここを訪れて最初に座っていた席。今ね、あの物語の名場面を再現してるの」
 
 亡くなった奥さんがここを訪れて最初に座っていた、という状況に理解が追いつかない。え? と首を傾げてみたけれど瞳月さんからは、ん? なんて間抜けた表情しか返ってこなかった。なにかおかしいこと言った? と、その瞳が訴えかけてくる。
 
「ああ、言ってなかったっけ。あの小説、フィクションって分類されてるけど本当は作者さんの実話をもとに書かれた物語なんだよね」
 
 なんて言われても僕の頭の中は混乱するばかりだった。
 ちゃんと読んでいない僕のせいもあるだろうけど、あまりに急展開すぎる。

「仕方ない、私が丁寧に教えてあげよう!」
 
 そう言って席を立ち、僕へ近づく。
 静かな式場内に響くローファーの音が余計に緊張感を積もらせる。ちゃんと話すからよく聴いて理解してね? という忠告の後、話は始まった。
 
「まずこの小説の作者さんは奥さんを病気で亡くしてるの」
 
「そう、なんだ」
 
「そして亡くなって一年を迎えた夏の朝、前触れもなく奥さんが作者さんの目の前に姿を現したんだって」
 
 現実味のない話だけど、頷くことしかできない。
 混乱しすぎて質問すらまともに出てこないのだ。
 
「奥さんは作者さんのことを忘れていたんだけど、その理由として確信的なことを教えてくれたの」
 
「確信的なこと……?」
 
 見当もつかない、それに僕はまだその状況をうまく想像できていない。
 それでも続きが気になってしかたなかった。初めて、僕から急かすように一言だけ「教えて」と呟いた。
 
 ——「死んだ後って、愛していた人の記憶を失っちゃうんだって」って言ったの。
 
 瞳月さんから告げられた答えに、点と点が繋がったような感覚になる。
 現実にそんなことがあり得るのかと疑ってしまうより先に、この世で最もロマンチックな愛の告白だなという感動が溢れてきた。
 そしてその奥さんは未練があって死にきれなかったと、語ったらしい。
 
「それで、どうして結婚式場に? 結婚式くらい生前に挙げていても不思議じゃないのに——」
 
「本当はね、生きている間にここで愛を誓っているはずだった。でも、結婚式の前日に奥さんの容態が悪くなっちゃって緊急入院することになったらしくてね。その入院までの処置が早かったおかげで生きる時間を少しだけ延ばすことができたけど、二人の夢の一つだった結婚式は、叶わずに過ぎていっちゃったらしいんだよね」
 
 話を聴いて、父と母の姿が僕の頭に浮かんだ。
 仲がよく喧嘩をしているところなんて見たことがない、父と母はそんな夫婦だった。 父と出会う前から母は持病を抱えていて、そういえば二人も結婚式を挙げていなかった。まだ愛なんて言葉すら曖昧な幼い僕から見てもわかるほど愛し合っていたのに。そんな二人がこんなにも綺麗な場所で永遠を言葉にできていたら、父が母のウェディングドレス姿を目にしたら、祝福の中でキスをしたら——。想像するだけでわかる、この世界に存在する言葉では語りきれないほど幸せなんだろうなと。だからこの物語の作者もきっと——。
 
「世界で一番幸せな結婚式になっただろうね」
 
 幸せなんて言葉じゃ足りないよ、と伏目がちに瞳月さんは言った。
 僕たちはそこから深くなにかを語ることもせず、沈黙と頭に映る想像を噛み締めていく。
 受付付近に飾られていたウェディングドレスを思い出す。胸元にあしらわれた上品な刺繍や華やかに広がっていくスカート、レースには透明感が宿っていて、着せられている表情すらないマネキンすら美しく見えた。
 それを最愛の人が着たら——。この世の誰より愛おしくて、可愛らしくて、一生をかけて隣にいたいと思える人だきたら、それはもう、言葉なんて形には収まりきれないほど大切な瞬間になるだろうな、と。
 僕には叶わない夢だなと寂しくなりながら、目の前にいる瞳月さんにはそんな美しい姿で素敵な相手の隣を歩いてほしいなんて漠然と願った。もちろん、口には出さない。
 
「灰くん」
 
「なに?」
 
「最後にもう一箇所だけ、付き合ってほしい場所があるんだけどいいかな」
 
 ◇
 
 瞳月さんの様子がおかしい。
 思い返せば「付き合ってほしい場所があるんだけどいいかな」なんて確認の意味を込めた誘い方をされたあたりから違和感がある。
 結婚式場を出て一時間ほど、僕たちはまた新たな山道を辿っている。
 
「瞳月さん疲れたりしてない? 休憩とか、挟まなくて大丈夫?」
 
「あっ——平気平気、ほら! 私すっごい元気だから!」
 
 嘘が下手すぎる、あからさまな空元気だ。
 確かに疲れている素振りはない。歩くペースだって変わらないし、顔色が悪いわけでもない。ただなんというか怯えているような、そんな空気感を感じる。
 最後にもう一箇所と誘われた時、正直「まだあるのか」と思ってしまった。その気持ちが伝わってしまったのだろうか。いや、これは僕の考え過ぎな気がする。
 
「ねぇ、灰くん」
 
「ん?」

「出会って間もない私の趣味に付き合わされるなんて面倒に感じるかもしれないけど、必要なことだから許してほしい。だから、今から私がする話もちゃんと聴いてほしいの」
 
 顔を見せないように僕より少しだけ前を歩いて、そう言った。
 不登校生だった頃の話か、それとはまた違う学校生活での話か、いくつか候補を浮かべてみた後、聴かせてよ、と返してみる。瞳月さんの足が止まった。
 深呼吸すると同時に木々が一斉に揺らめくほどの風が僕たちを包んだ。
 風が止んで瞳月さんから告げられた言葉は僕が予想していたよりも重く受け止めるべきことだった。
 
 ——「去年の夏にね、大切な人を失ったんだ」
 
 反応に困った、なにを返しても正解なんてないような気がした。
 
「失ったって——」
 
「ごめん、ちゃんと言う。亡くなったの、死んじゃった」
 
 そんな隠していた言葉を自ら剥ぐ気遣いなんてしなくていいのに。
 瞳月さんは震えた声を打ち消すように不器用な口角のあげ方をする、胸が痛い。 
 
「その人は、瞳月さんの恋人?」
 
「そう、私がこの世界の誰よりも愛していた恋人。今も、愛してることに変わりはないんだけどね」
 
「高校生が『世界の誰より愛していた』なんて大袈裟な気もするけど——」
 
「そんな大袈裟な言葉を並べられちゃうくらい、大切だったんだよ」
 
 これが話していた『大恋愛』か、と頭の中で結びつく。
 瞳月さんの表情がわかりやすく無くなっていく。寂しさも悲しさも切なさもない、本当に消えてしまいそうなそういう表情。僕が相槌を打ってしまうだけで、瞳月さんの中のなにかを崩してしまうのではないかと思ってしまうほど繊細な空気を纏っている。
 山の空気よりも冷たくて、時々木々の隙間から僕たちを差す陽よりも鋭い。
 
「不器用だけど優しくて、温かい人……というより柔らかい人なの。ほら、私ってこんな性格してるでしょ? それを全部受け入れて笑ってくれる、でも頼りになるの」
 
 不器用、優しい、温かい、柔らかい。人を褒めるときによく用いられる言葉なはずなのに、瞳月さんの口から溢れるその言葉たちには特別な想いが込められていることがわかる。本当に好きだったんだな、と。

「好きだったんだね、心の底から」
 
「一緒にいるだけで幸せになれるような人だった。なにも特別なことなんてしなくても、本当に一緒にいるだけで。それにね、すっごいかっこいいの! 顔がいいの! 私、別に容姿で人を選ぶタイプじゃないのに本当に綺麗な顔立ちの人だった」
 
 表情が少し和んで安心した。最後の理由はなんだかすごく単純だったけれど、それでいいと思った。
 去年の夏、まだあまり日も経っていない。傷も癒えていないだろうにどうしてこんな話をしてくれるのか不思議に思う。 
 
「話してて辛くなったら、話すのやめていいからね」
 
「ありがとう。でも最初にも言った通り、この話は必要なことなんだ」
 
 今の僕にはきっと話を聞き出すこと以上に止めることのほうが難しそうだ。
 それにこれも理解者になるために必要と言われたら、僕に拒むなんて選択肢はない。
 
「遺伝性の疾患を患っている人でね。しばらく安定してた容態が急変して、そのまま亡くなっちゃった」
 
 そう呟くように教えられた。僕と同年代の同性に同じ病を患っている人がいたなんて偶然だなと思ってしまう。もしかしたら入院生活中にすれ違っていた可能性もあるなと病院の廊下の風景を思い出してみたけれど当然ながら思い出すことも意味もない。
 
「その人がね、付き合って二年の記念日に病気のことを打ち明けてくれたの。その時は大好きな人を失っちゃうって、怖くて泣いちゃったんだ」
 
 母親の持病を父親から告げられた日の僕と同じだ。
 明確な数字なんて見えない寿命に本人以上に怯えてしまう感覚、痛いほどわかる。
 もし明日、目を覚まさなかったら。電話が繋がらなかった時、もしかしたら倒れているんじゃないかと不安に襲われたり、僕が代わりに死ねたらと思ってしまったり。
 想いあって結ばれた恋人が相手なら尚更辛いだろう。
 
「泣いてる私に向かって、彼は言ってくれたんだ」
 
 言葉は返さない。ただ“ちゃんと聴いてるよ“とわかるように瞳月さんを見つめながら、続きを待つ。
 
「“僕だって置いていきたくない、失った悲しさを背負わせたくない。できることなら生きるところまで一緒に生きて、一緒に死にたい“って」
 
 言い切った瞬間に騒がしい風が吹く。
 瞳月さんは顔にかかった髪を払わずにそのまま顔を伏せた。
 一緒に生きて、一緒に死にたい、か。それを自分よりはるかに残り時間の短い人間に告げられてしまったら僕はどうなってしまうだろう。
 きっと一緒に死ぬどころか、相手より先に死ぬことを選んでしまう。
 だから今は俯いているけど、それでも瞳月さんは——。
 
「そんな言葉を遺されても、生き続けるなんて強いね」
 
 慰めにも励ましにもならない、一歩間違えれば失礼で、傷を抉ってしまう。
 でも顔を上げてほしかった。瞳月さんのことはやっぱりまだよくわからないけど、俯いている姿が似合わないことは笑顔を見てきたこの時間で知ってしまったから。
 
「そうならいいね、強かったらいいのに。私は案外、生きているというか死にきれないだけなのかもしれないよ」
 
「少なくとも僕には、そう見えるから」
 
「そっか、それなら少しだけ生きてる今の私に自信が持てるね」
 
 あんなに明るくて笑うのに、不思議な人だ。
 生きているというか死にきれないだけ、なんて僕の中にあるここまでで作られた瞳月さん像とは結びつかないセリフだ。
 でも影がある方が人間らしい、深くは触れずに今度はただ頷いた。
 そして僕にはもう一つ気になっていることがある。
 
「それで、今はどこに向かってるの?」
 
 不自然なほどに景色が変わらない山道。
 看板も出ていないし、ただ最低限整備された砂利道を歩き続けている。
 
「お墓だよ、私の恋人が本来いるべき場所」
 
 返ってきた答えは不自然で、違和感が詰め込まれたものだった。
 本来いるべき場所、それなら今、その恋人はどこに——。
 
「その人、きっとまだちゃんとそのお墓に辿り着けてないと思うんだよね」
 
 柔らかく笑う瞳月さんに聞きたいことが渋滞している。
 山道が切り開かれている、教えられた通りそこは墓地だ。
 迷路のような細い道を瞳月さんは一瞬の迷う素振りもなく進んで、そして立ち止まった。
 ここだよ、と告げられた墓跡には——。
 
 —— 東雲家

 いや、さすがに。でもこんな笑えない冗談を瞳月さんが言うはずがない。
 そうだよ、僕と苗字が被っただけ。
 東雲、なんて名字に僕はまだ出会ったことがないけれど、それだってただの偶然だ。
 苗字が同じ、同年代の、同性の、同じ病気を患った。僕と瞳月さんが出会ったように偶然が重なっただけ、それがただ行き過ぎただけ。
 生きていれば信じられない偶然の一つや二つ、あるだろう。
 
 父から言われた。
 ——『知らないからそんな身勝手なことを言えるんだよ』
 亡くなった作者の奥さんの言葉。
 ——『死んだ後って、愛していた人の記憶を失っちゃうんだって』
 瞳月さんが打ち明けてくれた。
 ——『去年の夏にね、大切な人を失ったんだ』 
 そして去年の夏、僕は容態が急変して意識を失って——目が覚めたのは冬の初め頃。
 
 嫌な辻褄の合い方をしている、そんなはずがないのに。
 だって僕は今もこうして言葉を交わして、歩いているのに。
 ねぇ瞳月さん、教えてよ。僕は、ちゃんと生きて——。
 
 
「だって今もこうして、私の隣にいるんだもん」
 
 
 彼女の言葉で全ての希望が打ち消された。
 どうやら僕は——。
 
 ——去年の夏、死んでしまったらしい。